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8-天才は常に飽きている

「合コンだぁ?」

「そうっす! 主任が来れなくなったんで、1人足りないんですよう! 代わりに是非……お願いします。この通り!」

 一樹(かずき)は更衣室のロッカーの扉を閉じ、拝むように手を合わせる後輩を見下ろした。

 柔道経験者特有の潰れた耳、自分と同じ洒落っ気のないスポーツ刈り、それに不釣り合いな有名ブランドのロゴが入った高いTシャツ……。

 一樹は溜息を洩らした。

 昔からつるんでいた仲間も、若い時はよくクラブだ合コンだと口にした。しかし何度連れていかれても、まるで充実感を覚えたことがなかった。共通点のない他人同士で安い酒を飲み交わす。誰も本音を語らない、あの不自然な空間。酒が回ってきてやっと気分が良くなったころに、女に二の腕を掴まれ、長い睫毛の下から連絡先を聞かれる。不思議なことにそういう女は決まって同じ匂い、同じ容姿をしている。自分が知らないだけで、こういう女を量産する工場がどこかにあって、全員同じプログラムを搭載されているのではないかとすら思っている。いや、冗談はさておき実際すごいよな。あれだけ本来の自分を押し殺して“愛される女”を体現できるんだから。少しくらい、あいつにその根性分けてやってくれよ。

「先輩……決まった人がいるんでしたっけ……?」

 無意識に思い描いていた人物像を、慌ててかき消した。

「大丈夫ですよ! 加賀さんなんて新婚ですから!」

 後輩は食い下がる。そういうことじゃなくてだな。いや、何が大丈夫なんだ?

「構わねぇけどよ……」

 断る理由は特にない。まぁ若い奴らと飯食うのも大事だよな。大事ってなんだ?




「ソラ、今のシュートタイミングいいよ! それ忘れないで!」

「はい!」

 一華は平日の日中、都内私立高校のラクロス部の外部コーチとして働いている。

 亮介がコーチを勤める大学チームの、付属校だ。マンションや商業施設に囲まれた閉塞的なグラウンドで、こんがり肌の焼けた女の子たちが走り回っている。

「一華さん、あの、えっと……」

「ん、ソラ。あ、さっきの聞こえなかった?」

「いや。大丈夫です。あのシュートはいっぱい練習します! それで、あの、えっと……サイン下さい!」

「サイン⁉」

「はい、このゼッケンに……私、一華さんにずっと憧れてて! 最後の年にラクロス教えて貰えて本当に嬉しかったです! 来週から大会が始まるんで、お守りっていうか……」

 ソラは頬を赤らめて目を伏せた。

「サインで強くなんの? 変わってんなぁ」

 一華は差し出された布にでかでかと自分の名前を書き、ソラに渡した。ソラは顔を綻ばせ、それを抱きしめた。

「ありがとうございます! 週末の試合、お姉ちゃんと見に行きます!」

「お姉ちゃん? ラクロスやってんだっけ?」

「はい! 椿森学園の選手なので、NEOかカメリアルズのどっちかと全日本大会であたりますよ」

 一華は驚いて目を丸くした。

「今日迎えにきてくれるって……あ、お姉ちゃん!」

 ソラが手を振る方へ顔を向けると、ソラと生き写しのような女の子がこちらに向かってきていた。

「え……双子?」

 一華はソラとソラの姉の顔を交互に見た。

「……大学4年生です」

 ソラの姉は2人の傍まで来ると、粘り気のある視線を一華に寄越した。

「いつもソラがお世話になってます。姉のテラです」

 2人並ぶとさらに、切れ長の目元、肌の色、髪質まで瓜二つであるのがわかった。

「いーえ」

 一華がへらりと笑うと、テラは探るような目つきになった。

「海外チームにいたことがあるって本当ですか」

「うん? あるよ。5年くらい」

 一華の回答にソラが目を輝かせた。

「かっこいいです! 私、大学は絶対一華さんと同じ天王大にいって、社会人になったらNEOに入って、海外から声がかかるプレイヤーになりたいです!」

「ソラ。あんたは椿森の推薦枠があるでしょ」

 テラは、未来に想いを馳せる妹を黙らせた。そして一華を冷ややかな目で見上げた。

「……前々から思ってたんですけど、社会人って大学生と戦って恥ずかしくないんですか?」

「なんで?」

「だって子供相手に大人がむきになって、暇なの? って感じ。仕事とか、結婚とかしてればいいのに」

「仕事もしてるし、結婚してる人もいるよ? 人によるけどね」

 一華はラクロス仲間を頭に浮かべてカラカラと笑った。

 テラは眉間の皺をより一層きつくした。

「わ、私たちは今年で最後なんですよ! 日本一とるためだけに毎日やってきた! 社会人はまた来年も同じメンバーでできるじゃないですか! 戦う舞台が違うと思いませんか⁉」

 突然声を荒げたテラを、一華は驚いて見下ろした。一華の澄んだ瞳を見て、テラははっと息を飲んだ。

「……すみません」

 一華が、視線を落としたテラの顎を優しく持ち上げた。

「誰にも、同じ明日なんて来ない。みんなその時を生きてる」

 一華の深い瞳に絡められ、テラは息を詰まらせた。耳元で言われたわけでもないのに、掠れた声が耳孔にこだました。

「は、あ……」

「一華ちゃん、お疲れ様」

 気の抜けた声がして、一華はテラから手を離した。埃っぽい土グラウンドにそぐわない上等なスーツ姿で、亮介がひらひらと手を振っていた。

「あ、亮介」

「「お疲れ様です」」

 姉妹がぺこりと頭を垂れる。

「中本姉妹もお揃いで。首尾はどう? ミーティングがてら、食事でもいく?」

 ポケットに手を突っ込んだまま、眉を寄せて首を傾けた。

「いいね! はらへり~! じゃーね、みんな。しっかりストレッチするんだよ。うわ亮介の車、へらべったくて煎餅みたいだね」

 一華は腹をさすりながら亮介の後を追った。

 テラは呼吸を整えようと胸を押さえた。一華の低声が耳に残って離れない。鼓動は異常な速さで脈打ち、こめかみからは汗が滲んだ。動揺と高揚を一度に覚え、名のない感情に頭は混乱した。深く息を吸い込みながら、忌々し気に一華の背中を睨んだ。



「「かんぱーい」」

 合コンの相手は看護師グループだった。警察官と消防士の合コンの相手は大体、看護師か保育士だ。男女比率の需要と供給がマッチするんだろう。

 一樹は最初の自己紹介をしてからは振られた話に応えるだけで、あとは若者たちが楽しんでいる様子を眺めながら、ビールを流し込んでいた。

 場が温まるにつれて、目の前に座っている女性が熱い視線を送ってくることに気付かざるを得なかった。真美、と名乗っていたか……背中を反らして机に肘をついている。緩んだ布の間から……一樹は大きく溜息を洩らした。居たたまれなくなって、便所に行こうと席を立った。

「一樹さぁ~ん」

 座敷の襖をあけて靴を探していると、後ろから衝撃を受け姿勢を崩した。振り向くと、真美が一樹の腰に抱きつき胸を押し付けていた。

「おいおい……。飲みすぎだって……」

 一樹は舌打ちをし、真美を引きはがそうと向き直った。


 その時、隣の個室のふすまが開いた。出てきた人物を見て、一樹は目を見開いた。

「え」

 隣の一角から出てきたのは、一華だった。

「……ん? あ、一樹」

 一華は一樹に気が付き、指さした。そして一樹の腰にしがみついている真美に目をやった。

「あ、いや、これは……」

 一樹は1人で、わたわたと視線を泳がせた。なんで後ろめたい気持ちになってるんだ? 合コンなんて、付き合いの内だろ。いや、そりゃなんか、この状況は、

「一華ちゃん、上着忘れてるよ」

 一華の後ろから、見知らぬ男が姿を表した。一樹の心臓は音を立てて跳ね上がり、両脇から引っ張られるような痛みを伴って、そのまま硬直した。

 上等なスーツを身に纏った、容姿端麗な男。垂れた目尻や、額の脇からはらりと落ちた髪の束が、大人の余裕と色気を醸し出している。

 一樹は男の姿を凝視した。そして制御の効かない不全なロボットのように、乾いた唇を動かした。

「誰……だよ……」

 男は一華の肩越しに、一樹と一樹にひっついている真美を見た。

「一華ちゃん、友達?」

「友達? あ……うん。友達……」

 一華は首を傾げながら応えた。男は一樹を一瞥し、ふ、と笑った。

「もう遅い。さ、外は冷えるよ」

 男は一華の肩に上着をかけ、店の出口に向かった。

「え、今何時? あれ、亮介、いつの間にお金払った?」

 一華も男の後に続いて店を出た。

 残された一樹は、言いようのない敗北感に襲われた。目を見開き、忘れていた呼吸をして、思わず咳き込んだ。突如胃から嘔気が湧き上がり、真美を振り払い洗面所へ走った。



 無機質な白い便器にしがみつき、声を抑えることもなく、全てを吐き出した。生理的な涙が目尻に溜まる。

 やがて吐き出せるものがなくなると嘔気は収まり、空っぽの肉体だけが取り残された。

 何も考えることができなかった。虚ろな吐息が、便器に溜まった水を波打たせた。


 しばらく動けずにそうしていた。いや実際は一瞬だったのかもしれない。

 熱電の通った温かい便器に掴まって自分の息の音を聞いてると、妙に安心感を覚えた。ここが、この世で安心できる唯一の場所はではないかとさえ思えた。

 すると背後に人の気配を感じ、振り向いた。

 真美が個室の扉を開けて、こちら見下ろしていた。真美は個室に踏み入り、後ろ手で鍵を閉めた。

「は⁉ おい!」

 突然安寧を壊された怒りと、辛うじて残された羞恥心に支えられ、目の縁を拭いながら立ち上がった。

 真美は、一樹に歩み寄った。一樹は得体の知れない恐怖に慄いて退き、便器に背をついた。

「おい。やめろ」

 真美は一樹の足の間に座り込み、内腿の付け根をまさぐった。

「満たされたいでしょう?」

 一樹は、信じられない気持ちで真美の後頭部を見下ろした。

 身体が一気に熱くなる。こんな時まで、身体は欲望の言いなりなのか……。

 一樹は情けなさと、喪失感と、気怠さで意識が混沌とした。両腕を額に充てて天井を見上げると、滲む視界の中で、仄暗い電球が揺れているのが見えた。

 もう、どうとでもなれ……。

「あの子だと思って」

 朦朧とする意識の中で、真美の甘ったるい声がこだました。その言葉が形を成すと、さっと身体の熱が引いた。

 両手で真美の手首を掴み、自分の脚の間から引きはがした。

「あいつはこんなことしねーよ」

 自分でも驚くくらいの、この状況にふさわしくない、力強い声がでた。

「お前と一緒にするな。人間の格が違う」

 真美の顔に、カッと赤みがさした。

「ひどい」

「お前だけには言われたくねぇな」

 一樹は溜息をついた。

「憧れでしょ? そういうものは、手に入らないわよ」

 男子便所の狭い個室の中で、いい年した男女が睨み合っている。どんな状況だ? 一樹は、自分の体がゆっくりと正常な体温を取り戻すのを感じた。

「あいつは、誰のものにもならねーよ。そういう女だ」

「男といたじゃない」

「どうでもいいんだよ。そんなことは」

 そう言えば、そろそろ社会人クラブの決勝戦があるはずだ。伶歌と戦うってことだよな。なんとか、都合つけて見に行きてぇな。

 真美は一樹の目の色に生気が戻ったのを見て、立ち上がった。

「ふん。つまんない」

 個室の鍵を開け、花柄のスカートを翻して出て行った。

 しばらくすると、後輩が個室を覗きに来てけらけらと笑った。

「え~先輩、家ではトイレの扉閉めない派なんすねぇ~」


 店の外に出ると、後輩が何やら大声で指揮をとっていた。2次会はカラオケに向かうようだ。

 一樹は一行の一番後ろを歩き、徐々に距離をとった。一行が見えなくなったあたりで足の向きを変え、駅へ向かった。一樹の自宅はこの繁華街からバスで数駅の下町にある、ごく普通のマンションだ。高校を卒業してすぐに、親元から逃げるように家を出た。

 父親は検事で、世間体を重んじる厳格な男だった。友達を選べ、名門の学校に入れ、いい職につけ、器量の良い嫁を貰えと、エリート街道を進み続けた男らしく、わかりやすい干渉してきた。それに反発して反社会行動を取った年頃もあったが、本当の自分を見て欲しい、ある種の自己承認欲求の表れだったと、今では思う。

 結局名門大学へ進学し警察官という職を選んでしまったあたり、本当の意味では逃げきれていない。男にとって父親の存在は、いつまでたっても意識せざるを得ないものなのだ。キャリア組でなく、ノンキャリア組として市民と街の安全に身を捧げる道を選択したことが、せめてもの抵抗だ。せめてもの、自分らしさだ。

 深夜近くにも関わらず、駅前は急ぎ足で行き交う人々で溢れていた。

 停車していたいつものバスに乗り込むと、目の前の座席に座っていた人物と目が合った。

「む?」

「お」

 見知った顔だった。子供のように小柄な、一華のチームメイト。二階堂翠だ。

 こいつと一華は、高校大学と一緒にラクロスをやっていた仲のはずだ。楽しそうに話す、一華の姿が脳裏に蘇る。

「……酒と女の匂いがする」

「えっ」

 翠から出し抜けに発せられた言葉に、頬をひきつらせた。

 普通は仕事帰りか、とか、家はこの辺なのか、とか、挨拶なんて色々あるだろ。ほら、な? 量産型の女とは何もかもが違う。

「……あ~。振り切って逃げてきた」

 一樹は翠の隣の席に腰を下ろした。

 まぁ、嘘じゃない。

 実情は、ずっと手が出せずにいる女をぽっとでたイケメンに取られてトイレで泣いてたら出会って3時間の痴女に襲われそうになってなんとか振り切って逃げてきた。だけどな。んなこと、言えないんだよ。しょうもだいだろ、男って。

「ずっと手が出せずにいる女をぽっとでたイケメンに取られてトイレで泣いてたら出会って3時間の痴女に襲われそうになってなんとか振り切って逃げてきた。そんな俺を笑いたければ笑え、みたいな顔してる」

 一樹は顎を垂らして、翠の顔をまじまじと見た。薄い眉、短い睫毛、鋭い黄色の目、人に媚びない、愛想のない声色。あぁ、一華の友達だな……なんて、思ってしまう。

「笑ってあげようか」

 翠は無表情で一樹を見上げた。一樹が何も返せずにいると、ふっと口元を緩めて前を向いた。

「まぁ、安心しなよ。一華だよ?」

 想い人を特定された恥かしさがどうでもよくなるくらいには、思考が混沌としていた。

 あんな金持ちそうな優男に言い寄られて、何もないなんてことあるのか? あいつが簡単に絆されたりしないのはわかってるけどな。でもちょっとした興味とか、その場の雰囲気とか、色々あるだろ? それにほら結婚とか、考える歳だろ? それをなんで、『一華だから』で片づけられるんだ?

 あぁ。俺が一番古い仲のはずなのに、俺にはわからないことだらけだ。

「なぁ、お前らは所謂レズビアンなのか?」

「レズビアン?」

 だってそうだろ? もうそれしか考えつかねーよ。それなら、全ての合点がいくし、むしろ安心する。いや、もう、そうであってくれ。

 翠は言葉の意味が分からないとでも言うように、目線を寄越した。

「同性愛者」

 この言い換えが合っているのかもわからない。

「……愛に同性も異性もないでしょ。そんなカテゴリーする必要ある? ……恋のことを言ってる?」

 翠の言わんとすることがわからず、逡巡した。日々仕事に邁進している間に、世の恋愛事情は変わってしまったらしい。まぁ、元々よくわかっていないのだが。もう限界だ。恋愛模試落第生に、問題の答えを教えてくれ。

「君は一華を愛しているでしょ。そして同時に恋もしている。だからもう、何が何だかわからない。恋っていうのは、相手に幻想を期待するものだからね。愛とはまるで真逆だよ」

 一樹は顔を上げた。目の前にいる目つきの悪い女が、救世主(メシア)に見えた。説明のつかないこの気持ちを、あっさり代弁くれるとは。

「一華が女に恋をする人間なのかは聞いてみないとわからない。私の場合は、ただ男性が全体的に嫌いってだけ」

「なんでだ?」

 反射的に聞き返してしまった。しまった。なにか、心に傷を抱えているのかもしれな……

「愛と恋の区別もつかずにさらには性欲、尊敬、世間体までも全部一緒くたにしか考えられない、そういう脳の構造に魅力を感じない」

 翠はケロリとした様子で言葉の刃をかざした。

「……傷つくぜ……」

「傷つきやすいところも嫌い。そんな俺を受け入れてくれる優しい女を求めてるところも嫌い」

 絶妙に心当たりがあり、口を噤んだ。

「一華に気持ちを打ち明けたことある?」

 もう、何も敵わない気がした。いっそのこと全て正直にさらけ出して、ひと思いにぶった切って欲しい。

「20年前に一度」

 自我すら確立していない幼心に抱いた感情を、恋心と言っていいものかわからない。ただ一華に初めて会ったときから、その姿を目で追うようになった。唐揚げが好き、緑色が好き、バスケットボールが好き、一華のことも好き。7歳の少年の、拙い自己表現の一環だった。それでも確かに、好きだと口にした。

「……そうやって手に入らない女を永久に別名保存できるメルヘンなところも嫌い。それ、崇高で一途な気持ちと思ってるかもしれないけど、ただの行き過ぎた所有欲だから」

「わかってるよ。俺だってなくしたいんだよ。こんな気持ちは」

 一樹は息を吐き、窓の外の街並みを目で追った。

「まぁ感情っていうのは意志に左右されないから。それがなくなったら前進するかもね。で、なんて言われた?」

「『この世界の私は忙しいんだ』」

 今でも忘れられない、一華の乾いた声。幼かった一樹には、その言葉を理解することも表情から感情を読み取ることもできなかった。そして大人になった今でも、わからないままだ。

 翠は少し目を丸くした。

「……あっはは! よかったね、来世では考えてくれるかもね」

 心底楽しそうに笑った。翠の笑った顔を見るのは初めてだった。

「もしくは前世で一緒だったか」

 一樹はつられて自虐的に笑った。バスが停車し、翠は立ち上がった。

「くく、前向きでいいね」

「……ああ。誰と何してたっていいさ。あいつが楽しいならそれで。嫉妬はするけどな」

「その調子だ青年。見直した。君らしく生きなよ」

 翠は軽快な足取りでバスのステップを降りていった。

「どーも」

 一樹の言葉は誰もいないバスの中で虚しく響いた。しかし殊の外、心は軽くなっていた。




 深雪は自宅のキッチンで腰を屈め、コンロの火力を調整していた。

 独身に皺寄せが来ていた会社の働き方改革も見直され、残業時間は大分減った。今日なんかは在宅ワークを決め込み、家から一歩も出ていない。たまにはそんな日があってもいい。

 ガチャ、キィー

 廊下の奥から、聞き慣れた解錠音が聞こえた。ノブを回してから扉が開くまでが異常に速い。まるで扉の方が自ら主を迎え入れているようだ。これは、一華の音だ。

「たっだいまぁ~いい匂い~」

 トタトタという足音が、背後で止まった。

「お帰り。今日は部活? もうすぐできるよ」

「うん。今日もみんな可愛かったよぉ。何つくってんの?」

「内緒。手洗いなさいよ。うちの会社でも風邪流行ってるから。部活の子たちにうつしたらいけないでしょ」

 一回の台詞に会話を何個も詰め込んで、一つも溢さず投げ合う。我ながら高度なコミュニケーション能力だと思う。翠なんかにこれをすると、一つずつ話せと怒られる。そういうことじゃないってのに。

 深雪は味噌汁に入れるネギをサクサクと切った。

 一華は家事をしない。というより、ペースも基準もあまりに合わないので上手く分担ができない。結局、自分のやり方を曲げられない深雪が、全てを請け負うようになった。とは言っても、一華に(清華のカードで)あらゆる有能な家電を買ってもらったため、料理以外に大して骨を折る仕事はない。

 そして深雪自身、人の世話を焼くというのは存外性に合っている。一華の鍛え抜かれた肉体とその細胞ひとつひとつが、自分の用意した食物から成り立っていると思うと、誇らしい気分にすらなってくる。そもそも1人であれば自分のために料理を作ったりしない。毎日外食で済ませていた頃が懐かしい。食べるものも、寝る時間も、一華に合わせてすっかり健康的なサラリーウーマンだ。

 ゴマ油が弾ける音がして、慌てて熱コンロの温度を下げた。

 今日の夕飯は一華の好きな冷凍ギョーザ。最近の冷凍食品は味も栄養価も申し分ない。いや、食品会社のプロがつくっているのだからそんな言い方も失礼か。仕事だ趣味だと自分の時間に明け暮れる大人の、頼れる味方だ。

「世のお母さんたちもさ、これに頼って時間の自分を大切にするべきよ。よっ食卓の友! 文明天晴!」

 深雪はおたまを振り回しながら、鼻歌まじりで調味料入れに手を伸ばす。ラー油を切らしていることに気が付いた。最近では冷蔵庫が勝手に在庫不足を知らせてくれるようになったので、常温の食品管理をすっかり怠っていた。

「一華、悪いけどラー油買ってきてくれない? 切らしちゃって……」

 リビングを覗くが、一華の姿が見当たらない。

「一華……?」

 家具が(ひし)めく部屋を見渡して、ベランダに続く窓が開いているのが目に入った。

 風にはためく亜麻色のカーテンの奥に、遠くの一点を見つめる一華がいた。一華は家を空けることが多いが、家にいるときは大抵寝るか食べるか、教え子の練習ビデオを見るか、こうしてベランダで静かに外を見ている。

(あれ……? この景色、前にもどこかで……)

 都会の夜に浮かび上がる一華の後ろ姿に、なんとも言い難い既視感を覚えた。

 深雪も部屋の縁に立って、空と街の境目に目をやる。日の落ちた仄暗い空と、都市計画に失敗したとしか思えない乱雑な街並みが見えるだけだった。一華の目には、何が映っているんだろう。

 答えを求めて一華を見ると、その精悍な横顔に、違和感を感じた。

 瞳孔は開き、身動ぎひとつしない。呼吸もしていないように見える。周りの空気が一華の身体を求めるかのように、ざわざわと絡みつく。カーテンを揺らしているはずの夜風が、一華の周りには吹いていない。

 深雪は突如不安感に襲われ、肌足でベランダに飛び出した。一華の手首を掴み、力を込めて引き寄せる。

「何してるの?」

 一華は明らかにはっとした様子で、深雪を見下ろした。いつもは否応なしに深雪を捕らえてくる瞳が、焦点を定めるように僅かに彷徨った。

「何って? ちょっと考え事してた」

 一華はいつものとぼけたような顔で、考え事などと似つかわしくない言葉を口にした。

「……ご飯にしよう。一華の好きなギョーザよ」

「えっほんと! 冷凍のやつ⁉」

 一華は嬉しそうに声をあげ、跳ぶように部屋に入っていった。

 深雪は一華が見つめていた方向に目をやった。

 オフィス街の灯りが、まるで闇夜と交わることを拒んでいるように煌々と脈打っている。


 何が、空と街を隔てているのか。あそこには、何があるのか。何が、私と世界を隔てているのか。私はどこに、向かえばいいのか。世界は、理解できないことで溢れている。気を抜けば簡単に、暗闇に置いて行かれる。

 この焦燥にも似た感覚を、深雪は前にも一度味わっていた。



    *


――文明には、1600年の盛栄周期が存在しています。

 大学時代に翠に勧められて受講した人類学の講義は、6、7年経った今でもよく覚えている。

――先の800年と後の800年では、文明創造力や社会の在り方に大きな差が生まれます。前半の800年では国家の統一など文明の準備が、後半の800年では芸術や学術の開花が見られます。実は、西暦2000年でこの周期の内の前半の800年が終わりました。

 白髪頭の小柄な教授が、見た目からは想像できないほどの声量ではきはきと話す。一番後ろの席でぼんやりと傾聴していた深雪の耳にも、その声色がはっきりと残っている。

――そしてその800年の内、最初の100年間は文明の転換期であり、大動乱となります。若いみなさんはもう感じ取っているように、そう、私たちが生きるこの現代が、まさに時代の転換期なのです。

 教授は目を爛々と見開いて、学生に浪漫を説いた。それを聞いた深雪も漏れなく心躍る気分を味わったが、同時に諦念を覚えた。人間の寿命は100年。転換期に生まれ落ちた自分たちは、変わりゆく時代の狭間でもがくだけもがいて、成熟する文明を享受することなく死んでいく。それではまるで世紀末の犠牲者ではないか。

――発展的、階層的な意識が優位であった時代が終わり、新世紀が幕を開けます。

 そこまで話し、教授は皺だらけの顔をさらに皺だらけにして、不自然に生え揃った歯を見せてにんまり笑った。そこからは縄文時代における転換期の話題に移り、勉強熱心な学生の心を攫った。

 深雪はちらと横を見た。いつもなら教科書に涎を垂らし熟睡している一華が、その日は机に肘をつき窓の外に目をやっていた。やはり講義は聞いていなかったが、風に吹かれながら窓の外の歪な街並みを望む一華の姿は、世紀末の犠牲者というにはあまりにも気高く雄健なものに感じられた。

 世界が変わると教授は言う。まるで現実味を帯びないその言葉は、頭の中で像を形成することなく弾けて消える。

 一華だけが肌で感じ取り、風を読んで進み、何もかも受け入れて、繰り返される歴史の夜明けを待っているのだ。私はこの後ろ姿を見失わないように、必死にもがいていかなければならない。


    *



「ねぇ深雪! どうした? いっぱい焼いたんだね! 翠たちも呼んで、ギョーザパーティーにしようよ。それとも持っていく? 突撃隣のギョーザマン」

 一華は暖かい部屋の中で、1人呵呵と笑っている。

 深雪は不吉に揺れる暗い空を見上げた。街明かりに負けまいと、闇夜に飲み込まれまいと、星々が燦然と輝いている。

「呼ぶなら、ラー油買ってきてもらって」

 冷たい空気を喉一杯に吸い込み、思考をかき消すようにカーテンを閉めた。




 全日本クラブ決勝戦は、都内の陸上競技場内で行われる。

 一樹は試合開始時間よりも大分早く、会場に到着していた。スタジアムに続く遊歩道をゆっくりと歩き、樹木の葉の色の移ろいを眺める。金木犀の甘い香りが鼻孔をくすぐり、意味もなく気恥かしさを覚える。

 スタジアムに近づくと、その入口の影に人が蹲っているのが見えた。

 一樹は慌てて駆け寄り、状態を確認しようと顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか? 救急車呼びますか? ……ん?」

 壁に寄りかかり膝をついてたのは、幼馴染の伶歌だった。顔にびっしょり汗をかき、糸のように細い髪を額に貼りつかせていた。

 大人になってからは疎遠ぎみで、こんなに近くで伶歌の顔を見るのは久しぶりだ。

「……一樹……?」

 伶歌は一樹の声を聞いて、僅かに顔を上げた。伶歌の肌は昔と変わらず青白く透き通り、儚さすら感じられた。眼光は鋭く、艶やかな黒い瞳がこちらを見据えている。

「一樹……。見ない間に……随分男らしくなったね」

 一樹は伶歌の瞳から目を逸らすことができなかった。言い知れぬ違和感に襲われ、額に脂汗が滲んだ。

「なっ、何言って……? どうかしたのか? 具合悪いのか……?」

 伶歌が顔を背けた。伶歌の薄い唇は少しの間震え、それを振り払うようにきつく結ばれ、そしてまた緩んだ。

「大丈夫。一華には言わないで」

「安静にしろって。今日の試合、出るつもりか? そんな、無理することないだろ。一華は帰ってきた。お前も復帰した。来年も再来年も、これからはずっと一緒にラクロスできるんだか」

「明日が来るなんて、誰にもわからない」

 一樹が並べた御託を、伶歌が強い口調で遮る。

「……なんだよ……。心配してやってるってのに」

 一樹が不平を漏らすと伶歌は顔を上げ、憐れむような目を向けた。

「そんなんだから、いつまでも一華のことがわからないんだよ」

「ど、どういうことだよ」

 不意に急所をつかれ、狼狽えた。そして因果関係がわからず、思考は停止した。

「一樹。“自分がどうするか”。この世はそれだけなんだよ」

 いつの間にか、立場は逆転していた。苦しそうに蹲っていたはずの幼馴染に、この世の真理なんてものを説かれる。いつもこうだ。幼少期はずっと同じ環境で過ごしてきたはずなのに、お前らはいつの間に悟りを開いたんだ?

「相手が何を考えているかなんて、考えなくていい。当たらないのだから。予想した答えを期待しているから、心配してやってるなんて言い出す」

 一樹は黙って伶歌の託宣を聞き入れた。

 何をするのにも、まず周りの人間がどう思うか考える癖がある。思っていた反応と違って、気に病むことも多々ある。そうして雁字搦めになって、自分のやりたかったことがわからなくなる。そしてそれが通常運転。でも、大体の人がそうじゃないのか? だから自分は、多くの人に共感できる。人に共感できることは、苦しくもあるが、同時に安らぎでもある。

「……俺は怖いんだよ。お前らみたいに強くない」

 珍しく、思った事を口にした。

 すると伶歌は少し目を見開き、眉を寄せて不器用に笑った。

「そんな強面で。ふっ。なんか、治ったみたい。さてと、試合楽しみだな。じゃあね。一華にもそれくらい、素直になりなよ」

 伶歌はさっと立ち上がった。一つに束ねた長い髪を翻し、試合会場へ向かって去っていく。

 置いてけぼりにされた一樹は、しばらく目を瞬かせて立ち尽くしていた。



『さぁ! 始まりました! 全日本ラクロスクラブリーグ決勝戦! 右側赤色のユニフォームは11回連続優勝を飾る絶対王者CAMELLIALS! 対するは今期結成、常識外れの新生チームNEO THUNDERS! ブロック戦ではNEOが敗北を喫していますが、この半年のチームとしての互いの成長が見える試合になりますね! ところで今日は天王大学女子ラクロス部ヘッドコーチの富山さんに解説をお願いします!』

『お願いします』

 アナウンスの山岸の紹介に、低くくぐもった声が応えた。その声色聞いて、一華、翠、深雪が顔を見合わせた。

「「トヤマン⁉」」

 富山は天王大学社会学部の助教授であり、ラクロス部の顧問を担っている。3人の大学時代の恩師である。本人にラクロス経験はなく、部員を影で支える父親的存在だ。

「トヤマン、何してんだ……?」

 一華が怪訝な顔で首を捻った。一華達の知る限りでは、今までこうした表舞台から声がかかるようなことは一度もなかった。猫背で細身の、黒ぶち眼鏡をかけたその風貌から、誰しもが裏方の存在だと容認していたのだ。

「今年は久々に学生決勝に進出したのよ。だから、名が挙がって、でも結局椿森学園には勝てなくて先週シーズンが終わったから」

「……暇なんだ」

 翠は深雪の説明に、合点がいったように頷いた。


 両チームメンバーが、向かい合って整列した。翠は向かいの列の端から恥まで視線を飛ばし、眉間の皺をより一層深くした。

 カメリアルズのスターティングメンバーの中に、伶歌の姿がなかった。

「伶歌がいないじゃない」

 隣にいた深雪も困惑げに呟いた。カメリアルズのベンチ目を走らせると、列の一番奥にジャージを羽織った伶歌がすまして立っているのが見えた。

「まさか伶歌を温存してくるとは……一華、ドローはどうす、る……」

 翠は一華の表情を見上げ言葉を飲んだ。


 伶歌の代わりにドローセットについたのは、アリアナだった。

「伶歌は?」

 ドロー位置につきながら、一華がつっけんどんに聞いた。アリアナは尖った頬骨の奥から一華を見下ろした。

「……まだ出ない」

 分厚い上唇をうねらせ短い言葉で返した。

 一華はクロスを強く握った。

 ピッ

 2人の力が相殺され、ボールはスリップして2人の丁度真ん中に浮いた。一華が先に反応し、身体を引き戻してボールをクロスに収める。すると図ったように、アリアナのクロスが振り下ろされた。

「っ」

 一華はクロスを取り落とし、転がったボールをアリアナが腕だけで引き寄せる。

 アリアナはボールを拾うと、誰もいない空間へ速球を投げた。示し合わせたように、紅がボール到達スペースへ回り込む。

 すかさず志麻が、紅にプレッシャーをかけようと追う。

「志麻! 戻って! 罠だ!」

 翠が叫ぶ。

 紅と志麻がいなくなったことで空いた中央のスペースにアリアナが飛び込み、紅から戻されたボールを持ってゴールまで縦断する。

 NEO守備陣の誰もボールマンに触れることができずに、ボールはゴールラインを割った。

『決まりました! アリアナ選手、試合開始早々進撃のシュート!』

『速いですね~』

 1点目が決まったことを言っているのか、シュートのスピードか走るスピードか、富山はいまいち要領を得ない返しをした。

NEOの守備陣はすぐに集まり、問題点を共有した。

「アリアナがドローでも、基本的には伶歌想定と同じ。小さく守って速攻を凌ごう」


 次のドローでは、一華はやや体勢を屈めてさらに力を込めたが、またしてもボールは2人のほぼ中間に力なく浮いた。一華の方が反応の速さで上回るが、ボールの収まった一華のクロスを、アリアナが的確に狙って叩き落とす。

「一華ちゃんが不利だ……」

 フィールドを3分割(リストレイニング)する線(ライン)の際に構え、叶恵が呟いた。

「どんな動作をしたらボールがどこに飛ぶか、ボールをキャッチした後のクロス捌きまで徹底的に分析されてる……」


 連続で攻撃権を得たカメリアルズの攻撃陣は、ぬるぬるとした動きで陣営を作った。

 翠は配置につく攻撃陣を目で追った。

「叶恵! これなに⁉」

 翠が叶恵の背中に問う。叶恵が振り返らずに叫び返す。

「おそらく、2-2-2!」

 翠は叶恵の返答を聞き改めてフィールドを見回した。頭の中で、カメリアルズの分析ビデオの映像と照らし合わせる。ゴールの裏に2人、ゴールの前に2人、11m半円上に2人。同じポジションの2人はタッグを組んで動く。ゴールの前にいるのは、紅とアリアナ。身長は両者とも165㎝を超える。明らかにこの戦術の得点者(フィニッシャー)だ。

「ち、いやらしいな」

 翠は舌打ちをした。ゴール前での密集地帯では特に、体格差が生まれるマッチアップは守備側に不利だ。翠は戦力にならない。

(NEOでゴール前の攻防が得意なのは、志麻1人。体躯の良い一華を置くしか……)

「翠ちゃん、私が中を見る」

 叶恵の申し出に、翠は耳を疑った。叶恵が肉弾戦の猛者たちを相手に……考えている暇はない。

「……よし。叶恵と志麻が中につく! 深雪降りてきて! 私と深雪が裏につく! 一華と碧依はそのまま上にいて!」

「オッケー!」

 NEOの守備陣は、カメリアルズの陣形に合わせてマッチアップを組み直した。

「何したって無駄ですよぉ。うちの不落の戦略(タクティス)なんですから」

 ゴールネットの向こう側で、伊代がボールを弄んで冷笑(せせらわら)った。

「ミスして先輩に怒られないように、せいぜい頑張れ」

 翠も負けじと、冷ややかに微笑んだ。

「は~? 伊代がミスなんてするわけないんですけど」

(相性悪いよな~この2人)

 物怖じしない2人の言い合いに挟まれ、潤は顔をひきつらせた。

 その間志麻と叶恵は、何度もポジションを入れ替える紅とアリアナに、錯乱させられていた。紅とアリアナが交差する度に場所を入れ替えるか、そのままのマッチアップを維持するか、瞬時にコミュニケーションを取らなければならない。一瞬でも気を抜けば、クロスが自由になり、ゴール裏の2人からパスが飛んでくる。パスが通ってしまえば、あとはゴール押し込まれるだけだ。

「……ッ、しつこい……」

「どっちが……!」


 紅とアリアナがボールを受けようとダマから飛び出し、その度に志麻と叶恵が身体を呈してパスコースを塞ぐ。4人は身体を押し合い、肩をぶつけ合い、激しい攻防を繰り返した。

『なんと長いポジションの取り合いでしょう! 裏の2人、というか伊代選手は、常にシュート前のパス(フィード)を狙ってはいるものの、中々ボールを離しませんね』

 アナウンス山岸が、動かない展開にスパイスを加えた。

『ゴール前2人が、確実にシュートが狙えるような完璧な面取りをするまで、ボールを投げ込むつもりがないんでしょう』

『サ、サディスティックですね……! 通常はボールを1人で長く持っていることはストレスだと思いますが……鋼の心を持つ女……飯野伊代!』

『これはゴール前の4人は、体力削られますねぇ』

 解説の富山はのんびりと返した。

『あっ』

 山岸は実況そっちのけで声を上げた。

 伊代がコンパクトな動きで鋭いパスを投げた。ボールは、翠と潤が伸ばしたクロスの間をすり抜け、誰もいない空間に浮き上がる。紅がそのボールに手を伸ばし、ぎりぎりのところでクロスに収めた。志麻も手を伸ばすが、アリアナの身体に阻まれ届かない。

「く……」

「んっとに情け容赦のないパスを出すわ……」

「先輩を信じての愛情パスですよぉ」

 紅は肩からクロスを振り下ろし、ボールをネットに叩きつけた。

『ゴール! 長い攻防でしたが最後はカメリアルズ十八番(おはこ)! 伊代選手から紅選手への黄金(ゴールデン)ライン! 豪快なシュートを見せてくれました!』

 ピピ――!

「タイムアウト! NEO THUNDERS!」

 審判がフィールドに向けて号令をかけた。

『NEO、ボールに触れることなく序盤から2失点! たまらずタイムアウトを申請します!』

NEOのメンバーはばらばらとベンチエリアに集まった。守備陣の表情は硬い。

「ドロー、一華さんの獲得率、2分の2で100%。そのあと狙いすましたようにアリアナにチェックで奪われています。流れを持っていかれる前に策を打ちましょう」

 ダオがバインダーを抱え、ボールペンをカチカチと鳴らした。

「ドロワーを変えよう。こっちは伶歌ちゃんの分析データしかないのに、アリアナには一華ちゃんの手の内が全てばれてる。対一華ちゃんの練習も相当積んできてる」

 叶恵がすかさず提案した。

「でも、うちにはドロワーは一華しか……」

 深雪は言いかけはっとした。

「確かに一華より、データは少ないわね」

 一同の視線が碧依に集まる。碧依は皆の視線を受け止め、顎を引いた。

「ま、一華さんの穴を埋められるのは碧依しかいないってことですね」

 意気揚々とクロスを担ぎ、ドローサークルへ向かう。

 叶恵はポジションにつき、冴えない表情の翠を見た。ドローを変えたところで、守備の時間帯がなくなるわけではない。守備の活路はまだ見出せていない。

「翠ちゃん、もう一度私にやらせて。さっきの対峙でわかった。中の2人の動きは3パターン。形のある戦術は、最も予想がしやすいから、次は奪えると思う」

 翠は顔を上げて叶恵を見た。傍にいた志麻も加わる。

「叶恵、そのパターン私にも教えて。次は止めよう」

「わかった。そっちは頼む。発射台は私が潰す」

 翠がクロスの柄を突き出した。潤も走り寄り、自分のクロスを突き出す。

「ボールの位置は私が伝えます。皆さんマークマンに集中してください」

 4人はクロスの柄をぶつけ、カァンと金属音を鳴り響かせた。


『おぉ、碧依選手です! NEO、ドロワーを一華選手から碧依選手に変えてきました。前のゴースト戦から、碧依選手はドロワーとしても才能の片鱗をのぞかせてくれました。剛力アリアナ選手にどう太刀打ちするのか!』

 山岸は嬉々としてドロワーの交代を告げた。明らかに声音が変わった山岸に驚き、富山がくすくすと笑った。

『山岸さん、碧依推し、ですか。イケメンですからね』

 情報源(ソース)は学生であろう若者言語を用いて、山岸を揶揄った。

『はい! あ、すみません! 碧依選手は無名大学から代表候補まで成り上がった、弱小校の星なんです! 下部リーグの学生みなさんにとっては憧れの的なんですよ!』

 山岸が慌てて説明を付け加えた。

 一華に代わりドロー位置についた碧依を、アリアナが首を曲げて見下ろした。捉えた獲物を吟味する捕食者の如く、碧依の肉体の線を脚の先まで舐めるように観察する。

「弱そう」

 碧依は蛇に睨まれた蛙のように固まっていたが、アリアナの言葉で途端に頭に血が上った。

「はぁ~?」

 碧依は眉間に皺を集めて、突き上げるようにアリアナを睨み返した。


 ピッ

 ホイッスルが鳴ると同時に、アリアナは力任せにクロスを引っ張った。

「ぐっ」

 ボールは碧依のクロスごと攫われ、カメリアルズの攻撃側へ空を切って飛んだ。あまりのスピードに深雪の反応は遅れ、深雪のマークマンのMFがボールをゲットした。

『あーっと! またしてもカメリアルズボール! NEO、苦しい展開が続きます』

「伶歌さんの手を煩わせる必要もなさそうですねぇ」

 再び伊代がゴール裏でボールを受け、クロスの中でボールを転がした。

「無駄口叩いてると舌噛むよ」

 翠が突如ギアを上げ、ゴールの真裏で停滞していた伊代に圧をかけた。

「!」

 伊代は突然の猛攻に驚きつつも取り乱すことなく翠から距離を取り、目の端でパートナーの様子を窺う。ゴール裏のもう1人のAT(アタック)は、深雪に執拗にマークされ動きを止められていた。

「も~、何がっつりシャットされてんのぉ? こういうときにボール逃すためにいるんでしょ? 使えないなぁ」

 伊代は翠のアプローチから巧みにクロスを逃しながら、ゴール前に視線を飛ばした。紅とアリアナが互いの位置を入れ替え、敵の体力を奪いながらシュートチャンスを狙っている。

(A3、A1……なら次はA2でしょ……⁉ ……ほらね!)

 伊代は翠から身体を離し、ゴールポスト真横を通してアリアナの左手に浮き上がるショートパスを、

「!」

 伊代はパスを投げ辞め、クロスを狙って前のめりになっている翠の身体を預け、一歩の加速で抜き去った。そのままゴール脇で止まり、一度シュートフェイクをいれ、180度真横から内側のポストギリギリにシュートを決めた。

『ゴール! 伊代選手の得点です! 普段はシューターのアシストに徹するイメージが強いですが……シュートの技術も高い! カメリアルズ3連続得点! NEO成す術がありません!』

『上手いですねぇ。翠選手のプレッシャーから逃れて、乱れることなくあんな鋭角にシュートを打てるなんて……しかもご丁寧にフェイクつきですよ。肝っ玉も含めて、テクニシャンとしては最高レベルじゃないですか』

 ハイタッチをしに集まるメンバーに愛想を振り巻きながら、アナウンスを聞いた伊代は口を尖らせた。

「女は度胸と愛嬌なんですよぉ。それより……」

 伊代はゴール前に目をやり、小会議をするNEOの守備陣を見た。

 すると叶恵と目が合った。アリアナにパスを出そうとした時、パスにクロスが届くぎりぎりの距離に、確かに叶恵がいた。

(……パスを読まれた……? 名無しのあんなやつに……まさかね)


 1Q(クォーター)終了のホイッスルが鳴った。

『CAMELLIALS圧倒的! これは予想しない展開です!』

『そうですか?』

『えぇ⁉ 富山さん、これを予想していたと言うんですか⁉ さすが、無敵の椿森学園を一点差まで追い詰めた天王大学のコーチ! まだ伶歌選手も出てきていないのに、こんなに点差が開くなんて、私は思いもよりませんでしたよ!』

『伶歌選手が出ていないからこそ、ということもありますよ。数字通りの実力を100%出せるかどうかは、シチュエーションひとつで変わるものです』

『ふっ深い! つまりどういうことですか? カメリアルズは伶歌選手がいない方が、点を取れるということですか?』

『違います』

『えぇ⁉』

『NEO側に、明らかに気もそぞろな選手がいるのがわかりませんか?』


 1Q(クォーター)が終わると、一華は鬼の形相で相手ベンチに迫り、フィールドから怒鳴った。

「伶歌、どういうつもりだよ⁉ さっさとそこからでてこいよ!」

 カメリアルズの控え選手たちはベンチエリアから、畏れと嫌悪の混ざった視線を一華に浴びせた。

 一華には、伶歌以外何も見えていなかった。一華が毛を逆立てて伶歌の真正面に立つと、2人の間の空気が震えた。

 伶歌は眉一つ動かさず、一華と同じ眼力を返した。

「私とやりたければ、引きずり出してみなさいよ」

 一華の額に青筋が浮き出た。

 2人の只ならぬ雰囲気に、会場は動きを止めた。観客席、アナウンス席、オフィシャル席、会場の全ての目線が一華と伶歌に注がれていた。

「あの子何やってんの」

 観客席にいる清華が、腰を浮かしてカメリアルズ側のベンチに目を凝らした。

 審判員が動き出してもおかしくはない。スポーツマンアンスポーツマンライクらしからぬ行為(コンタクト)は、反則の対象となる。


「馬鹿。やめなさい一華。何嗾(けしか)けてんのよ」

 慌てて止めにきた深雪が、いつもの調子で一華の腕を引いた。

 一華は深雪の顔を見ると、全身から炸裂させていた怒りの矛を収めた。すぅっと一呼吸し、口角を上げた。

「ふん。そっちがその気なら、後悔させてやるよ」

 一華は戦慄するカメリアルズのメンバーから離れ、気遣わし気に見守るチームメイトの元へ戻っていった。

『何やら不穏な空気が流れましたが、仕切り直して2Q(クォーター)目スタートです! NEOが挽回して底力を見せてくれるのか! それともカメリアルズがエース温存のまま圧倒的強さで逃げ切るか!』


 碧依は再びドローポジションについた。アリアナは首を曲げて二回り小さい碧依を覗き込んだ。

「またキミ?」

 碧依はアリアナを無視し、ぶつぶつと独り言ちながらドローの体勢を取った。

「……思い出した。これ伶歌さんのコピーなんだった。そもそもこんな怪獣に力で勝てるわけないっての。うん?」

 碧依は、アリアナの存在にたった今気が付いたかのように、顔を上げた。

 ピッ

 碧依はボールの上部を擦るようにクロスを動かした。ボールは碧依の前方、少し距離のある場所まで飛んだ。

「ちぇ、まだこの程度かぁ」

 碧依はそのまま動かず、ボールを追おうとするアリアナの壁になった。

「ま、これくらいで十分ですよね」

 碧依が言い終わらないうちに、ボールは地面に着くと同時に掻っ攫われた。

「一華さん」

 一華はクロスにボールを収めると、身体を軸に遠心力を一杯に使って反転し、群衆からクロスを逃した。そのまま地面を蹴り、直後に加速、あっと言う間にゴール前まで切り込んだ。

 1Q(クォーター)ぶりのDF展開に加え余りの加速の速さに誰も反応が追い付かず、一華は完全フリー状態でゴーリーと対峙した。

「!」

 カメリアルズのゴーリー・董は息を飲んだ。一瞬にして目の前に現れた一華の、クロスの位置を確認したときにはもう、風が首の脇を切り裂いた。生唾を飲み込んで、しばらくしてからシュートコールが聞こえた。


『は、速い! なんですか今のは! ドローを取った瞬間も、その後の切り返しも、ゴールまでのランも……見たことのないスピードでした!』

 山岸は興奮のあまり、得点のカウントを忘れてまくしたてた。

『……球技を行う選手の足の速さは、単純な100m走のタイムでは語れません。ボールの読み、切り替えの反応、ステップを踏んで敵を避けながら進めるか、試合の終盤でも加速できるか……色々な要素が複雑に絡み合って、“足が速い”という概念になります』

 富山は、かつての教え子を眺めて惚れ惚れとした。

『一華選手の直線での単純な速さは決して超人のそれではありません。しかし、“ボールがくる場所に移動する”と言う点で、彼女の嗅覚に敵うものはいない。5m間での加速度が異常なのですよ。ラクロス界最速の選手との対決が楽しみですねぇ』

 富山はカメリアルズのベンチの一番奥に目を移して、息をついた。


 アリアナの目つきが変わった。怒気を含んだヘーゼル色の虹彩が、碧依の澄んだ瞳を捕らえる。

「何した?」

「教えない」

 碧依は舌を突き出し、いそいそとドローの構えを取った。


 今度のドローも、碧依の前方へ弧を描いた。

 浮き上がったボールが地面に着くより前に、一華のクロスがボールを掴む。

「は、はや……」

 一華のマークマンはせめて自由にさせまいと、一華の身体にアプローチをかけた。一華は重力に逆らってボールを引き寄せ、クロスをマークマンの頭の上を通して抜き去り、地面を蹴った。



「碧依ちゃん、アリアナの怪力を完全に逆手に取ってるのよね。なんて器用なの……」

 観客席の清華が、顎に手を置き唸った。

「どういうことだ?」

 ラクロス未経験者の一樹は、清華を仰いで説明を求めた。

「ドローっていうのは、要するにクロスの面を使ってボールにどう力を加えるかの駆け引きなのよ。一華はアリアナと同等の力で、同じ向きに力を加えて相殺させる。だから真上に上がる。癖を徹敵的に分析されてるから、先にボールを触れても落下地点で襲われるけどね。碧依ちゃんは、笛が鳴った瞬間にクロスの角度を変えてるだけ。そうするとアリアナの怪力は逃げて、クロスごと持っていかれることはない。余力で押し切られる前に少しクロスを返せば、ボールを弾かせることができるのよ。相手の力の強さと向きにその都度合わせなきゃいけないから、ものすごく高度な技術だけどね」

「……あ~、海溝型地震みたいなもんか?」

 一樹の独特な比喩表現を聞いて、清華はふは、と息を漏らした。

「話が早いわ。スポーツは物理なのよ。ラクロスは道具もルールも複雑で要素が多い分、細かいところまで突き詰められれば、色んな可能性が見えてくる。絶対的な強さなんて存在しないのよ」

「あぁ。それなら俺にもわかる。面白いよな。何もかも忘れて夢中になれる」

 清華は一樹の台詞に、言葉以上の意味が含まれていように感じたが、何も言わずにフィールドに目を戻した。

「それより、一華よ……」

「一華がなんだ?」


 一華はゴール右45度エリアで、再びボールを受けた。目の前に立ったDFはアリアナだ。一華はアリアナを一瞥すると、ステップを踏まずに肩をねじ込んだ。アリアナは力任せに一華の身体を押し返す。アリアナのクロスの位置がずれ、一華の首の付け根に入る。

 審判がフラッグを上げて、アリアナの反則に対するジャッジを流す。

 一華はアリアナにプレッシャーをかけられたまま速度を上げ、押さえつけられながらもクロスを振った。アリアナは最後の悪あがきに一華を腕で突き飛ばし、自分の体重に耐えきれずに一華を巻き込んでフィールドに雪崩れ込んだ。

 放たれたボールはゴールに近づくにつれ速度を増し、ゴーリー・董の顔の横に重く突き刺さった。

 アナウンス席は呻き声を上げた。

『ゴ~ル! 痺れる~! NEO、2点目も一華選手! 今、DFを抜かないまま打ちませんでしたか⁉』

『DFのアリアナ選手のポジショニングは、しっかり壁になってましたからねぇ。ちゃんと守れてるのに肩だけであんないいコースに撃ち抜かれるなんて、守備側は悔しいでしょうね。私だったらプライドがズタズタですよ……さすがの董選手も全く反応できてませんでしたね』


「一華⁉ 大丈夫か⁉」

 環が駆け寄り膝を付き、アリアナの下敷きになっていた一華を起こそうとした。

「……」

 一華はぬっと腕を伸ばした。環の肩に手を置き、何も言わず、不自然なほど軽やかに立ち上がった。

「一華……?」

 残された環は怪訝な顔をした。

 その様子を見ていた深雪が不安げに、傍らの翠に尋ねた。

「ねぇ翠。一華、なんか変じゃない? どうなってんの?」

 超人というものは往々にして凡人の理解の範疇を超えていく。

 どんなに同じ時間を過ごしても、夢を分かち合っても、一華にしか跨げない塀がある。そして躊躇いもなく振り返りもせず、その塀の向こうへ行ってしまう。行く先には孤独が手招きしていると解っていながら……。

「……過集中状態(ゾーン)……」

 翠が呟いた。

過集中状態(ゾーン)……?」

「極度に集中していて、外的刺激や感情が消えて、感覚が研ぎ澄まされる意識状態のこと。深雪も一度くらいは経験したことがあるでしょ。自分以外のものがゆっくり見えたり、音が聞こえなくなったりしたこと」

「……階段から足を滑らせた時くらいね。一華はあれを意識的に……? そんなことあり得るの?」

「わからない。普通はできない」

 理解者でありたいと願っても、能力の差が否応なく互いを隔てていく。本当は1人にしたくない。隣に並んで歩きたい。肩の荷を降ろして、少しずつ皆に分けて欲しい。

 吸い寄せられるようにドローポジションに向かう一華の背中を、2人は複雑な想いで見つめた。


 ドローポジションにつこうとしていた碧依は、腕を掴まれ振り向いた。

「……? 一華さん……?」

 目が合わない。一華は真っすぐ前を向き、何かを見据えている。

 碧依は腕から伝わるひやりとした感覚から、畏れに似た何かを覚えた。本能的に距離を取り、ドローサークルラインまで下がった。


 アリアナは殺気立った一華を見るや否や、警戒心を露わにした。カメリアルズの守備側の選手に指示を飛ばす。


 ドローは2人の真上に突き上がった。

 一華がクロスを片手で持ち、抗力を受け速度を失ったボールを、クロスに収める。

「反応速度があがった……? なんで……?」

 限界のない一華の能力に、碧依は高揚した。地面を蹴り方向転換し、クロスを掲げる。

「一華さん! パスだして!」

 一華は碧依を視野の端で捉え、碧依の走るその先に速球を投げ込んだ。

「くぅ~速い! ジャスト! 気持ちいい!」

 碧依はボールを掴み、走る速度を落とすことなくゴールへ向かった。フィールドを一度に視野に入れ、頭の中で俯瞰したイメージを作り出す。味方の位置、敵の位置、ゴールの位置……。

 環がDFの一瞬の隙をついてゴール前に面を取るのを見て、すかさずボールをいれた。瞬時にDFが環に集まるのと同時に、すれ違い様にまたトスで浮いたボールを受けた。ポップチェンジだ。

 ゴール前でフリーになった碧依はバウンドシュートを放った。

「!」

 ボールはゴーリー・董の脚の甲に阻まれた。跳ね返ったボールを千尋が辛うじてキャッチし、体勢を崩しながら環へ預けた。環は体をDFに預けたまま、碧依が打った逆サイド側の上隅へ打ち込んだ。

 ボールは董のメルメットに当たり鈍い音を立てて跳ね上った。

「なっ」

『また止めたぁ! ドローからの速攻(ドローアタック)を華麗に繋いだNEO! それを上回る反応で2度の連続セーブ!』

『2度目のポジショニングの取り直しの速さには驚きましたね。ゴールは横幅180㎝ほどありますが、端から端まで一瞬で移動を……』

『え⁉』

 司会・山岸が解説・富山の説明を打ち消す。

 ゴールサークル間際に力なく浮いたボールに、一華が手を伸ばしていた。

『なんであそこに一華選手が⁉』

 董のヘルメットに弾かれた意思のないボールは、ゆっくりと落下を始めた。一華はボールを触ると、もう一度ボールを浮かせた。ボールは董の頭上を越え、ゴールラインの向こうへ落ちていった。


『ゴ、ゴール……3対3の同点です……。なんか、お洒落ですね……。パワー系選手だとばかり思っていましたが……あんな繊細なプレーもできるんですね……惚れ惚れしてしまいますね……』

『天才は、常に飽きている……世界にも、自分にも』

『え?』

 山岸は、愁傷に呟く富山を窺った。

『いえ、一流の選手だからこそ、現状の自分に満足せずに成長していくものですよ』

 富山は悲し気に瞼を伏せ、そう付け足した。


 メンバーとハイタッチを交わして1人になったあと、一華が顔を歪めたのを、翠は見逃さなかった。

(……過集中状態(ゾーン)。あれはものすごく集中しているだけで、ただの麻薬。筋力が増したり、技術が上っているわけじゃない。むしろ視野は狭くなり、痛みや疲れという身体の危険信号にも鈍くなる……)

 翠は薄い眉を寄せ、険しい顔で一華の横顔を見つめた。



 ドローは再び高く上った。

 しかし一華の反応は遅れ、アリアナがあっさりボールを獲得した。

「えっ⁉」

 一華が取ると思い込んでいた碧依と深雪は、慌てて守備サイドへ走った。


 カメリアルズの攻撃陣は外、中、外と巧みにパスを回し、守備を錯乱させた。

「今度は何!?」

 伊代が右0度付近でボールを受けた瞬間、大きく弧を描くようにドライブした。

 翠が伊代の腰を抑え、壁となり食らいつく。

「一華さん、フォロー!」

 潤に指示され、一華も伊代に寄る。その瞬間、一華がマークしていたアリアナに、伊代が鋭いパスを投げ入れる。

「あ……」

 一華も翠も伊代に全体重をかけていて、別方向にスピードを上げたアリアナに取り残された。

 アリアナはスピードを落とさぬままゴールに直進し、ランニングシュートを放った。

『ゴール! 4対3! 前半最後はカメリアルズ、伊代選手とアリアナ選手のすれ違いのズレを使った2on2で鮮やかに得点です。相手の勝ち越しを許しません!』



「一華」

 ハーフタイムが終わり、フィールドに戻ろうとする一華を、翠が引き留めた。

「長時間、過集中状態(ゾーン)に入り続けるのは身体にかかる負荷が高い。体力の消耗も激しいはず。もう少し押さえて」

 一華は翠を一瞥すると、髪を撫であげた。

「……ん~。入ろうと思わなくても入っちゃうって言うか……まだ抜け出そうと思えば抜け出せるし……自分でわかってるから大丈夫だよ」

 一華は気のない返事をしたが、翠は憮然とした態度を崩さなかった。腕を組み、一華の前から退こうとしない。

「……膝見せて」

 翠の言葉に、一同の視線が一華に集まった。

 一華はそっぽを向いて、アイガードの位置を直している。

「志麻」

 翠の声に反応した志麻が、一華をベンチに押さえつけた。

「ぐぇッ……この馬鹿力!」

「なんとでも」

 志麻は一華の抵抗をものともせずに、右膝を持ち上げた。

「あっ」

 一華は片目を歪めた。翠が一華の右膝を覗き込む。

「……なんでこうなる前に言わないの」

「大丈夫だって。翠。ラクロスしたい」

 一華は駄々をこねる子供のように、上目遣いで懇願した。

「伶歌と。でしょ。いい加減にして」

 翠はばっさりと切り捨てた。

「一華、NEOはあんた1人のチームじゃない。勝つために、最適な方法をとる」

 翠の剣幕に、一華はぐっと顎を引いた。

「足手まといだって言いたいの?」

「そうだよ。自分の脚の状態にも気づけないようなプレイヤー、アスリートとして失格。足手まとい」

「ちょっと翠、そうじゃないでしょ」

 深雪が呆れ顔で翠の肩を引いた。

「今無理されて、最終Q(クォーター)に一華がいないなんて話になんないのよ。今のうちに回復して、後から追い上げる方が私達らしいでしょ?」

 深雪が一華を諭す。

「そうですね。Q(クォーター)ごとに切り取って見れば、NEOの戦歴6試合中、勝った5試合の最終(クォーター)の勝率は100%なので、私たちらしいというのは的を得ています」

 ダオがタブレット上の数値を指先で叩いた。

「だからなんでダオはそう無粋なことを言うのよ」

「深雪さんがふわっとしたことばかり言うから?」

「そ、そういう方が盛り上がるでしょ? もう、いいから、早くユニフォーム着なさいよ」

 深雪はダオのケツを叩いた。

 一華は息をついた。

「あ~もう。みんな勝手なんだから」

 憑き物が落ちたように柔和な面持ちで、ベンチに膝を立てた。

「あんたには負けるわよ」

 深雪を始め、メンバーは苦笑いを浮かべた。

「私がいくまで、頼んだよ」

 一華は悠々と構え、仲間を送り出した。

「任せな、キャプテン」

 メンバーはベンチに一華を残して、フィールドに足を踏み入れた。


『ん⁉ これは……前試合でデビューを飾ったグエン・ダオ選手の投入! なんとエース一華選手、一時離脱! 燃料切れでしょうか⁉』

『体力だけは馬鹿みたいにある選手ですから、それはないでしょうね。持ち怪我があったと記憶してますので……調整するのかもしれませんね。2Q(クォーター)目にかなり無理していましたから』

 一華の離脱理由を、富山は鋭く指摘した。


 一華がいなければ、ドローの取り合いは混戦だ。

 アリアナが碧依をつき飛ばし、碧依の目前に落ちたボールを掻っ攫おうとする。碧依は身を呈してそれを防ぎ、叶恵がボールに到達するのを待つ。叶恵がボールを拾ったときには碧依の堤防は決壊し、アリアナが猛攻をかける。深雪がすかさずアリアナの行く手を防ぎ、叶恵を逃す。

「光さん受けて!」

 ドローに参加しない選手は、ドローに参加した選手がボールを獲得して初めてラインを跨ぐことが許される。

 碧依の声に反応し、光がゴールに背を向けて叶恵のパスを受けにいく。光はゴール脇にボールを投げ、そこへ環が飛び込む。NEO攻撃陣の十八番速攻パターンの一つだ。

「そんなの、何度も分析して身体に染み込むまで対応練習したよ」

 カメリアルズのDFが環の腰を抑え、ゴール横0度から踏み込ませまいとした。

 環はDFを押し返し、不敵に口角を上げた。

「現状維持は衰退って言葉、知ってる?」

 環は逆側のゴール脇へ相手を見ずにパス(ノールックパス)をした。

 逆のゴール脇のスペースにはダオがいた。ダオはボールを受けると、目の前のDFに肩をぶつけ、DFごとゴールに押し込むように進んだ。

(こいつ人数合わせじゃないの……⁉)

 カメリアルズのDFは、予想しない攻撃パターンに動揺した。せめてゴール前までは進ませまいと腕に力を込めた。

 するとダオは突然身を引いた。DFは前のめりによろめき、ダオを腕で押すようにぶつかった。クロスを狙って後ろから手を伸ばしていたアリアナは、急に後ろに下がったダオとの距離を見誤り、ダオの後頭部にクロスを直撃させた。

 ピ――!ピピ―!

 聞き慣れないリズムのホイッスルが鳴った。

 静まり返る会場で1人走り出す審判員に、会場の視線が集まった。審判員は懐から黄色いカードを取り出し、オフィシャル席に掲げた。

「カメリアルズ背番号99、相手選手に危険を加える行為があったため、イエローカードを提示します」

 女子ラクロスでは、頭部付近へクロスや腕を近押し付ける等、相手に危険を及ぼす行為は重いペナルティの対象となる。

「Fuck!」

『イエローカード! カメリアルズ・アリアナ選手にイエローカードが出ました! イエローカードが提示された選手は、2分間の退場が命じられます! よってカメリアルズは2分間1人少ない状態で試合を行うことになります』

 さらにゴール前11mライン内でのファールは、フリーシュートの対象となる。

 選手たちはシューターの邪魔になりやすい位置、その邪魔を防ぐ位置を模索しながらポジションにつく。

 ゴーリー・董はフリーシュートのスタートラインにつく、ダオの一挙手一投足を目で追った。ダオは日本代表チームの専属分析スタッフであり、代表チームのゴーリーである董とは顔見知り以上の存在だ。

(ダオさん……前回の試合は一華さんの代わりに出ていたけど、完全に復帰したのか……? 確か学生時代に怪我してスタッフになったはず。なら……)

 董は左右に視線を飛ばした。

(左横の環さんはマークされていて、パスは通らない。となれば右横フリーの光へのパスで決まりだな)



    *


「もっと理論的に説明してください」

「だからぁ、こう、ぐっといってドンだよ! 難しいこと考えなくていいんだよ」

 身振り手振りと擬音語を繰り返す一華を、ダオは険しい表情で見上げる。

 急遽試合に出場することになった日以来、一華の暇を見てはシュートの極意を教わっていた。選手でもないのに、使いどころがあるかもわからないのに、あの日打ったシュートの感覚を、忘れることができなかった。

「まぁとにかくやってみなって。ほら支えてあげるから」

 一華はダオの腰を抑えながら、クロスを後方にひっぱった。

 ダオは解せない表情のまま、シュートフォームとった。頭で理屈を整理してからでないと、行動に移せない質なのだ。

「いくよ。せーの!」

 一華に腰と脚を抑えられ、さらに腕と肩を無理やり回された。

「あ……」

 ボールはクロスを離れ、速度を落とさず勢いよくフェンスを揺らした。

 強く固定された下半身のおかげで、腕に込められた力を逃すことなくクロスに伝えることができた。

(すごい……)

 ダオは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。

 脚が地面を掴む感触、最初は弛緩していた筋が一気にひっぱられる痛み、肩甲骨の可動域が異常に広がる感覚、クロスから離れる瞬間まで、ボールを完璧にコントロールしている全能感。自分の力では決して見ることのできない、一華の世界を垣間見た。 

そしてその途方のない力の差に、図らずも切なさを覚えた。この世界で、或いはこの世界を目指して、みんなは戦っているのだろうか。

 怪我さえしなければ、もっと近くで同じ世界を見ることができただろうか。怪我さえしなければ、隣に立って気持ちを分かち合えただろうか。怪我さえしなければ……。

「こういう感じ。でも、角度とかクロスの向きとか、自分で一番いい方法を探すといいよ」

 ダオは一華の黒い瞳を見た。天才の世界に限らず、他人の見ている世界を完全に理解することはできない。それでもラクロスという手段があれば、限りなく近い世界を見ることができる。

「長いこと色々試して私はこれが一番私らしくて好きだったけど、強けりゃいいってもんじゃない。要はゴーリーの奥のネットを揺らせば、何だっていいんだから」

 どんなに能力に秀でた者でも、一朝一夕にその力を手にいれたわけではない。もしそんな魔法が存在していたとしても、手に入れただけでは意味がないのだ。圧倒的努力と徹底した自己管理。人の評価に左右されない本物の自信は、そうやってつくられる。

「速く走れなくても、むしろフリーシュートのプロになるかもね。ダオ、肩しっかりしてるし。……聞いてる?」

 ダオは思考の海から這い出た。

「少しわかったような気もします。自分の特徴と照らし合わせて、一番合うフォームを探してみます」

「かったいなぁ」

 一華は頭に手を回し笑った。


    *



 ダオは呼吸を整えた。クロスを地面すれすれまで落とし、体勢を下げた。

 その様子を見た董は、反射的に身構えた。

(え……まさか……)

 ピッ

 ホイッスルと同時にダオは片足に重心を乗せ、ゴルフのスイングのようにクロスを振った。ボールはスピードに乗って浮き上がり、弧を描いてゴーリー左手3番のコースに突き刺さった。

「………」

 董は、初めて受けるアンダースローシュートの球の軌道に、反応することができなかった。

『ゴール!! これは、一華選手の伝家の宝刀、スタンディングシュート! しかも下から! 力強い! フリーシュートを決めたのは代表分析スタッフ、また2級審判員資格を持つNEOの秘密兵器、グエン・ダオ選手です!』

『ダオ選手は学生時代に脚の怪我で戦線離脱しましたが、まぁ確かに走れなくてもスタンディングシュートが打てるなら、フリーシュートで点は稼げますね。ラクロスというスポーツの、守備に対するペナルティーの多さを逆手にとった戦い方ですね』

『これで4対4! 新進チームNEO、絶対王者カメリアルズに必死に食らいつきます!』

『これは一華選手の強烈なシュートでNEOに追い風が吹いてきましたね』


「ダオ、すごい! 最近練習してたやつでしょ⁉ ものにしたのね」

 メンバーがダオに群がり背中を叩いた。

「いやいやいや……」

――こんな、プレッシャーで足のすくむような世界に、ずっと居続けてるあなたたちの方がずっと……

 そう言いかけ、ベンチにいる一華の姿が目に入った。一華は太陽のような笑みを浮かべ、親指を立てて見せた。

「……まぁね!」

 ダオは歯を剥き出して笑い、腰回りに纏わりつく千尋と光の肩をぎゅっと抱いた。


「あ……。アリアナが退場してるってことは、次のドロー……」

 碧依がカメリアルズのベンチに目をやった。

 伶歌が羽織っていたジャージを脱ぎ、グローブをはめていた。絹のように艶やかな長い髪が、風に煽られて舞い上がる。

「……きた」

 フィールドにいるメンバーは気を引き締めた。

「やっとおでましか……」

 一華は目をぎらつかせ、口角を吊り上げた。

『来ましたー! ここで、満を持してフィールドに降り立ちます! 絶対王者カメリアルズ不動のエース・神谷伶歌! エリート揃いのカメリアルズの中でもその才能は群を抜いています!』

『カメリアルズにとってはまさかの展開ですからね。温存なんてしていられないでしょう。当然の采配です』

 山岸も富山も焦らされた分の興奮を、隠しもせずに盛り上がった。会場の期待も高まる。


 ドローポジションにつく伶歌の前に、碧依はわかりやすく委縮した。一切の無駄なく洗練された身体、冷たく射るような目、全身で感じる絶対的な力の差に、碧依の脳は警報を鳴らした。

――敗ける……。

 滝のような汗が首回りにまとわりついた。鳴り響く警告を打ち消すように首を振った。

(落ち着け……。いくら天才鬼才と言っても同じ人間。何も敵わないなんてことはないはず……)

 ピッ

 ボールは伶歌の目の前に留まり、目にも止まらぬ速さで捕らえられた。

 伶歌はボールを掴むか掴まないかのうちに地面を蹴り、碧依を置き去りにした。

「っ」

 碧依はボールを見失い、取られたことに気付いたときには、伶歌の後ろ姿は数メートル先まで離れていた。

「か、解除!」

 潤が守備陣に号令をかけた。守備陣は自分のマークマンから離れ、ゴール前まで下がる。対伶歌用の想定練習は散々積んできた。ドローからの速攻(ドローアタック)を受けることは想定内だ。

「想定されてることも想定内ですぅ」

「あ……!」

 叶恵の守備スペースにいた伊代が、ゴール前に飛び込む。叶恵はやむなく陣形を崩し、伊代の背中を抑えに行く。伊代は走ってくる伶歌からパスを受けすぐに振り返り、元いた場所へボールを回す。

「え……⁉」

 誰もいないはずのスペースには、紅が回り込んでいた。すかさず志麻がプレッシャーをかけにいく。その志麻を背中に、伶歌が走り込む。

 紅が弾丸パスを投げ込み、伶歌は耽美なフォームで潤の膝の横へボールを流し入れた。

『ゴール! なんと美しいフォーメーション! そしてシュートモーション! これで5対4! カメリアルズ、1人足りない状態(マンダウン)であることをものともしません!』

1人足りない状態(マンダウン)の時は意外と、自分たちは1人多いから点を取れないと変だという妙な精神状態に蝕まれて、人数が多い側が不利になったりするんですよね。強者たちの戦いになればなるほど、数字だけでは勝敗を語れなくなるのが面白いところですね』

 NEOの守備陣は苦虫を嚙み潰したような顔で、伶歌の後ろ姿を見た。

「くそ……速い……」

「上手いね」

「せっかく追いついたのに……」

 潤はボールを拾い上げて唇を噛んだ。

(今日、一度もセーブできてない。目が追いついてない……)


 伶歌はドローポジションにつき、切れ長の目の端で碧依の姿を捕らえた。

 碧依はその目を見て縮み上がった。

 碧依のドロースタイルは、伶歌のそれのコピーだ。数いる実力派のドロワーのスタイルの中から、最も筋力が必要なさそうな伶歌のやり方を真似た。何か言われるかと身構えた。

「……一華とやりたいのだけど」

 危うく聞き逃しそうなほど細い声が、伶歌の口から漏れた。

 初めて耳にする伶歌の声。見えない誰かに話しかけているような儚さに、危うく惹きつけられる。その、線のように細い言葉を拾い上げ、ゆっくりと咀嚼する。

(この人が、一華さんが、あんな状態になってでもやり合いたいと願う人。この、幽霊みたいな人が……?)

 嫉妬か、怒りか、ふつふつと激情が込み上げてきた。

「あなたが中々出てきてくれないから、引っ張りだすために無理したんでしょ!」

 既にどこか遠くを見ていた伶歌は、突如感情を露わにした碧依に驚き再び見下ろした。そして元々細い眼を、さらに細くして頬を緩めた。

「なっ何笑って……」

 予期しない反応に碧依は混乱した。感情の導線をまるで理解できない。


 ピッ

 碧依は、自分のクロスを伶歌のクロスに押し付ける時間を長くし、リズムを崩した。ボールをフィールドに落として速攻を防ぐための、せめてもの画策だ。

 ボールは伶歌の顔横、碧依にも手の届く範囲に浮いた。2人同時に手を伸ばし、どちらのクロスにも収まらずフィールドに転がった。

 そのボールを拾ったのは、アリアナだった。既にイエローカードの効力は切れ、アリアナはフィールドに戻ってきていた。


 カメリアルズの攻撃陣は、互いに示し合わせ陣形を組んだ。

「……またか。志麻! 叶恵!」

「ばれててもやりますよぅ~。まだ対策打ててないでしょ?」

 カメリアルズの配置を見て毒づく翠を、伊代が嘲笑った。1Q(クォーター)目で得点を稼いだ2-2-2のフォーメーションだ。

 ゴール前に陣取る紅とアリアナに対し、志麻と叶恵がマークをきつくした。紅とアリアナがゴールに向かって飛び込むたびに、志麻と叶恵が身体を呈してシュートエリアから押し出す。

 今度は最初から、翠が伊代に対してプレッシャーをかけた。伊代は翠からクロスを逃しながら、ゴール前の攻防を窺う。

「ふ~ん。穴みっけ」

 伊代はボールを持ちながら、ゴール裏から表へ移動した。そしてゴール前の2人ではなく、その奥のMF・菖蒲に大きなパスを投げた。

 菖蒲はボールを受けるとゴールに切り込んだ。一華の代わりにDFに参戦している千尋が抜かれそうになり、隣の碧依がずれてフォローする。その一瞬の碧依の動きをみて、菖蒲は伶歌にパスを回した。

 菖蒲は、伶歌をべったりマークしていた碧依をおびき寄せるための囮だった。

「菖蒲さん、囮役だけは上手~!」

 伊代が屈託なく笑った。

「しまった、フォロー!」

「えっ」

 碧依が叫ぶが、志麻と叶恵はゴール前の攻防にかかりきりでボールの位置を把握していなかった。

 突然切り込んできた伶歌に反応できず、対峙した志麻は一瞬動きを止めた。伶歌は先程と同じフォームで構え、志麻に合わせて動きを止めた。

 ピ――

 審判員が両手の掌を交差させ、反則のシグナルを示した。

「NEO背番号4、フリースペース(フリ)トゥゴールの侵害(スぺ)です。カメリアルズ背番号0の、フリーシュートから始めます」

 シュートフォームをとっている選手の前に位置取ることは、守備側選手の危険行為とみなされる。そのままシュートを打ってしまえば無効だが、打ち止めればボールマンはフリーシュートの権限を与えられる。

 伶歌はひた、と冷たい視線を潤に浴びせ、長い髪を翻してフリーシュートの位置へ向かう。

 潤は目を閉じた。

――鍛え抜かれた身体。洗練された技。チームの絶対的エース。12回目の優勝をかけた決勝戦。大丈夫。そういう人が勝負所で繰り出す技は決まってる。抱えるものが多いほど、成功体験の多い方法を身体が選ぶ。考えるな。ボールだけ見ろ。ボールだけ……

 ピッ

 伶歌が地面を蹴った。初速はそう速くない。

――動くな。我慢、我慢……

 伶が先程と同じフォームで、クロスを振り切る。1得点目と同じコースを、ボールが走る。

 潤は素早く反応し、膝を落とす。

 しかしわずかに芯には間に合わない。ボールは潤のゴーリークロスのフレームにあたり、ゴールサークルライン上に上がる。

 伶歌がもう一度、ボールをクロスに収めようと手を伸ばす。

 潤も反応し、伶歌のクロスに被せるようにクロスを伸ばした。ゴーリークロスはプレイヤークロスよりも長く、大きい。そしてその分重い。潤の筋力で支えきれなくなったゴーリークロスは空中でバランスを失い、伶歌の肩に落ちた。

 ピ――!ピピ―!


 選手たちが動きを止めた。

「NEO背番号10、相手選手に危険を加える行為とみなし、イエローカードを提示します」

 会場はどよめいた。ゴーリーに対してイエローカードが提示されることは珍しい。

「なっ。故意じゃないでしょ!」

「碧依黙って」

 憤慨する碧依を翠が制す。審判員に対する暴言もまた、ペナルティの対象となる。

「でも、うちにはゴーリーは潤しかいないわよ……どうなるの?」

 深雪が審判員の指示を仰ぐ。

「では別の選手が防具をつけてゴールサークルに入って下さい。但し人数を合わせるため、今交代エリアに一番近い選手が代わりに退場してください」

 選手たちは審判員の目線を追って、一斉にベンチに隣接する交代エリアの方をみた。守備に関わらない攻撃陣のうち、交代エリアの近くにいたのは、ダオだ。

『NEO、絶体絶命のピンチ! なんて面白い試合でしょう! ゴーリーのイエローカードって私初めてみましたよ富山さん』

『潤選手はリバウンドも処理する癖がついているんですね。反応がいい故のファールですが、クロスがコントロールできていなかったので適切なジャッジでしょう』

『NEOは誰を2分間のゴーリーに仕立て上げるんでしょうね』


 ゴーリーの交代には2分間の猶予が与えられる。

「潤、いいセーブだったよ。さて面白いことになったな。どうしよっか」

 不貞腐れながら防具を外す潤の頭に手を置き、一華がのほほんとメンバーに問うた。

「一華、そろそろ試合戻りたいわよね」

 深雪が真顔で、一華に問い返した。

「えっ」

「まだ回復してないよね。4Q(ヨンク)からは走り回っていいから」

 志麻も、一華に真面目臭い顔を向けた。

「おいおいおい」

「言っても、2分。2分間、シュートを打たせなければいい。大丈夫、絶対守るから」

 翠は腕を組んだまま、大きく頷いた。

「本気~?」

「腹決めろ。女だろ」

 顔を歪める一華の肩に手を置き、環が親指を立てた。


「きゃははは。え~先輩がゴーリーやるんですかぁ? シュート受けたことあるんですかぁ? 危ないですよぉ?」

 伊代が、ゴーリー防具を付けた一華をみて噴き出した。一華は脚を止めて仁王立ちした。

「あるわけないだろ? でも一本も打たせないから信じて立ってろって言うんだもん」

 一華が溜息混じりに言った言葉に、伊代は眉を動かした。

「はぁ? 一本も打たせない……? 2-2-2は伶歌さんが揃って初めて機能するものですよぉ。こっちは今から本気だすのにそんなの」

「お前、よく喋るね」

 顔に笑顔を貼りつかせた伊代を残して、一華は伶歌の後ろについた。

 ファールを犯したゴーリーの代わりに出場するゴーリーが、シューターの4m後方にいる状態から試合が再開される。ゴールの前には誰もいない。

「お手柔らかに」

 一華が、潤のゴーリークロスを肩で弾ませた。

「無理な話」

 伶は頬を緩ませ、ホイッスルと共にボールを無人のゴールに投げ入れた。

『これで、6対4! カメリアルズ、つき放します! それにしても、まさかポイントゲッターの一華選手をゴーリーにするとは……逆転の発想的なものでしょうか?』

『う~ん。それこそ先程も言ったように、数字では語り切れない部分なのかもしれませんね。ゴールというより、一華選手を守ろうとすることが、チームにとって士気の上がることなのだとしたら……今はとにかく、2分間攻撃を凌ぐことが優先ですから……』


『4Q(クォーター)目は一華選手がゴーリーの、1人少ない状態(マンダウン)から始まります!』

山岸が最終クォーターの開始を知らせた。最初のドローはダウンボールとなり、伶歌が獲得した。

「……」

 伶歌はゆっくりと、攻撃サイドへボールを運んだ。

『これは……NEO、ドローを完全に捨てて速攻での失点を防ぐことに徹しましたね』

 NEOは守備に入る5人を予め配置し、伶歌を待ち構えていた。

「頼むぞ……」

 形だけのドローを上げた環が、5角形の陣形を作る守備陣を見つめた。


 カメリアルズの攻撃陣は、様子を窺うようにボールを回した。

『カメリアルズ、時間を使って攻めるようですね』

『はい、2点リードしていますし、時間はいくらでもありますからね。イエローカードの効果が終わって人数が同数(イーブン)になっても、守備中はタイムアウトをとれないですから……。NEOはどこかでボールを奪わないと、ゴーリーが交代できない状況です』


 NEOは、ゴール前のエリアを5等分し1人ひとりがその場所を守る、ゾーンディフェンスを敷いた。紅やアリアナがゴール前に入り込み、その度にNEOの守備陣は運動量を上げ、ボールが入らないように圧力をかける。カメリアルズは際どいパスを投げ込んでは戻しを執拗に繰り返し、NEOの体力と精神力を削る。

人数が多い(マンアップ)時間、ラスト30秒ー!」

 カメリアルズのベンチが叫んだ。

 伊代が、ゴール前に飛び込む紅に低い弾道のパスを通した。紅は屈んでそれをキャッチし、遅れて寄ってくる守備の隙間からゴールを見た。

 ヘルメットを被った一華と、アイシールド越しに目が合った。一華は防具を付けて立っているだけだ。まるで構えが成ってない。セーブの仕方など、知るわけがない。でも……



    *


「一華さん、もし、万が一シュートを打たれそうになった場合ですけど」

 潤が一華の身体に防具を装着しながら、顔を上げた。

「……やっぱり打たれる?」

「万が一です。一華さんがゴーリーに入ってるってことは、少なからず相手にも緊張を与えます。だって決めて当然。止められたら恥です。でも一華さんだと、なんだか止めてきそうな気がする。そこに迷いが生じます。」

「はは~ん。なるほど。よし、みんな聞いて」

 一華はいたずらを仕掛ける子供のように、顎を摩った。


    *



(……今ここで、無理に打たなくていいか……)

 紅は、クロスを振り下ろす前に打ち止めた。

 瞬間、一華が叫んだ。

「ダブル!」

 目の前に志麻が立ちふさがり、紅は驚いて後ろに下がる。その紅のクロスを、深雪が叩いた。

「ミスリード……! 一瞬だけ隙を与えて、ボールを誘導した……」

 伶歌がすぐに、ボールを拾う体勢に入った。

「あんたたちのプライドの高さを利用させてもらったわ」

 ボールはゴール前に転がり、NEOもカメリアルズも、近くにいた選手は全員ボールに群がった。誰かのクロスに入っては落とされ、入っては落とされ、ボールは長いこと浮き沈みを繰り返した。

――ファールが起きたら終わる……!

 長い混戦状態に、翠は危機感を覚えた。

 ゴール前では、ファールのハードルが下がる。そして守備陣が普段以上に力むエリアだ。ここでファールが起きれば、一華にフリーシュートを打たれることになる。それは防がなければ……

「外に流して!」

 混戦に参加していたNEOの守備陣は、瞬時に翠の指示の意味を理解した。志麻は足元のボールを掬うことを辞め、横から突いてゴール脇へ転がした。ボールは人だかりから外れた。叶恵が、動くボールの先へ回り込み、拾い上げた。

「よしっ攻守交替(ターンオーバー)!」

1人少ない状態(マンダウン)ラスト15秒! 逃げて!」

 “反省席”に座る潤とダオが、フィールドへ檄を飛ばした。慣れないゴーリークロスを持った一華は戦力にならない。実質8人で、ボールを奪え返しにくる10人の猛攻から逃げきらなければならない。

 叶恵からパスを受けた翠は、攻撃サイドを見た。走り込む碧依にパスを出そうとし、背中に悪寒が走り直前で投げ辞めた。碧依のすぐ真後ろに、猛禽類のように狙いを定める伶歌がいた。

 その一瞬の迷いで、伊代が翠に追いついた。

「うっ」

「DFの人ってクロスワークが覚束ないからDFなんでしょ? いつまで逃げられますかねぇ」

 伊代から必死にクロスを逃しているうちに、サイドラインに追い詰められた。サイドラインを踏めば、相手ボールだ。更にもう1人、翠に対してプレッシャーをかけにくる。

「……ATのお粗末なDFに奪われるほどじゃない」

 翠はクロスを身体から離し、ボールを地面に叩きつけた。

 ボールは敵の間を抜け、中央付近に浮いた。叶恵が走り込み、紅に追いかけられながらキャッチする。攻めとは逆方向に走り抜け、ゴール脇の志麻に託す。志麻は標的を自分に変えた紅をかわしながら、目の前の深雪にパスを出す。

「3、2、1! よし、1人足りない状態(マンダウン)解除! 一華さん戻ってきて!」

「忙しいな~!」

 一華はダオに呼ばれて、防具を揺らしながらベンチに駆け戻った。

「ここからが本領発揮だよ」

 ダオは潤の背中を叩いた。潤は一華から返されたヘルメットを被り、パチッとバンドを留めた。肩を回してゴールサークルへ向かう。一華もアイガードを装着し、フィールドへ脚を踏み入れた。

「よ~っし! 戻ったよみんなぁ!」

1人足りない状態(マンダウン)が解除されたようです! ようやく一華選手がフィールドに戻りました!』

 山岸は興奮し、ボールの動きよりも一華にフォーカスを当てた。

「一華、ステイ!」

「え~っ⁉」

「なッ」

 一華と、一華をマークしようと近づいたアリアナと、ついでに山岸は、志麻の指示に驚愕した。

 ラクロスのオフサイドルールでは、4人が守備側に残らなければならない。アリアナは首を回し、一華の代わりに攻撃サイドに入っているフリーマンを探す。

 攻撃サイドにボールを運んだ深雪は、既にゴール裏にいた環にボールを託していた。

「環さん!」

 ゴール前に飛び込む碧依に、環がボールを投げる。伶歌が碧依の動きを止める。しかしボールは碧依の頭上を越えていく。

「⁉ 囮か」

 伶歌はボールの軌道を追った。

 ボールの落下点に、翠がいた。アリアナが気付いて追いかけたときには、シュートチャンスエリアに到達した。

 翠の走るコースを横から塞ごうとする伶歌を、碧依が妨げる。

「翠さんいっけぇぇ!」

 董はブロック戦の序盤、翠が今と同じように守備の走り上がり(バックアタック)を行った雨の日の試合を思い出した。

(大丈夫。この人のシュートは付け刃だか、ら……)

 翠は速度を緩めずクロスを振り上げた。

 クロスが身体に隠れ、董の位置から見えなくなった。そのまま全体重をかけて、クロスが降り下ろされる。

 董は翠の動作を見て反射的に腰を落とすが、クロスは身体より遅れて現れ、クロスから離れたボールはゆるゆるとゴーリー右手1番に収まった。

『ゴ、ゴーール! 決めたのは守備の最終ライン・二階堂翠選手! 1人少ない状態(マンダウン)解除のどさくさに紛れてDFの走り上がり(バックアタック)! これで6対5です! 残り時間はあと10分!』

『劇的に再登場した絶対的エース・一華選手をあえて無視するとは……まさに相手の裏をかく戦法……NEOというチームの成長が末恐ろしいですね』

 メンバーは駆け足で翠の周りに集まり、頭を撫でた。

「翠さん! ナイス!」

「ちょっといつの間にあんなシュート覚えたのよ~!」

「痛い。それよりほら」

 メンバーは翠の視線を追った。一華が不敵な面構えを携えて歩いてくる。

「私たちのオーサマが戻ってきたんだから」

「あいつ、なんであんなに楽しそうなのよ……」

 一華が大きく両手を広げると、メンバーはきついほどに肩を寄せ、円陣を組んだ。

「っしゃ! あと2点! 絶対ひっくり返すぞ!」

「「おぉ!!」」


 NEOのメンバーは各々のポジションに散らばった。

 フィールドの真ん中に残った一華に、ゆっくりと歩みよる影があった。

「待ちくたびれたよ」

 一華はクロスを担いだ。

「あんたがぐずぐずしてたんでしょ」

 伶歌が長い髪を左右に引っ張り、結び目を上げた。

 互いの眼を合わせると、瞳は共鳴するように揺らめいた。惹きつけ合うように、クロスを合わせる。


 ピッ

 ドローは2人の頭上に上がった。一華が手を伸ばしボールを収めるが、伶歌が狙いすましたようにそれを叩き落とす。

 2人の足もとに転がったボールを掬おうと、アリアナが駆け寄る。

「邪魔するなっての!」

 碧依が真横から全身をぶつけ、アリアナの進行を妨害する。

「ハァ⁉」

 2人は揉み合いになり、ボールへ手が届かない。

 一華がボールに片手を伸ばし、クロスの角度を器用に変えてボールを吸い寄せる。一気にクロスを差し込み、遠心力を加えて網のポケットへ落とし込む。

 バランスを保つために両手でクロスを持った瞬間、伶歌が一華のクロスを柔らかく叩いた。その反動で浮いたボールを、そのままクロスに収める。

「うわっ」

 伶歌は一華を流し見て加速し、その場を駆け抜けた。

『エース同士の激しい奪い合い! 最後は伶歌選手がグラウンドボールを奪取しました!』

 NEO守備陣は身構えた。いつも通り正規のメンバーだ。もう言い訳はできない。

 カメリアルズの攻撃陣は丁寧にボールを回し、得点のチャンスを窺った。

『当然ですがカメリアルズは時間を使ってますね! 試合終了まで10分ありますから』

『ええ。逆にNEOはボールを奪わなければ勝ち目はありません。もうタイムアウトも2回使ってしまいましたから、どこかで何か仕掛けてくるはずですけど……』

 カメリアルズの攻撃陣はまたしても、2-2-2の陣営ととった。

「しつこいってよく言われない?」

 翠が伊代との距離を詰めた。

「伊代の可愛さがわかる男としか遊ばないんで~」

 伊代は翠のプレッシャーを搔い潜り、ゴール前の動きを盗み見た。

(A3、A2……A1!)

「これでとどめを指して!」

 伊代は翠に迫られた状態のまま、誰もいない空間へパスを投げ入れた。そこに飛び込んだのはアリアナ。ではなく、叶恵だった。

「はっ?」

 伊代は目を見開いた。

 叶恵はボールを奪取し、落とさないように大事に抱え、ゴール前の攻防から飛び出した。

攻守交替(ターンオーバー)!」

 伶歌が即座に反応した。髪を翻して振り返り、カメリアルズの守備陣に危機を伝えた。と同時に自らの頭を抑え、顔を歪ませた。


「叶恵さん、もらいます!」

 叶恵は視野に入った光にパスを繋げた。

「あっ!」

 パスは途中で阻まれた。

 伶歌が音もなく近づき、片手でクロスを持ってパスカット(インター)した。ボールの重さを利用してクロスを惹きつけ、懐に収めた。

 その瞬間は会場の誰もが動きを止め、フィールドの上で1人舞う伶歌に目を奪われていた。


 伶歌の開ききった瞳孔を見て、叶恵は身の縮む思いがした。伊代のパスを叶恵が奪うことなど予測できるはずがない。伶歌は奪われたのを確認してから、このパスコースまで移動したのだ。試合時間丸々かけて一つの攻守交替(ターンオーバー)を起こした叶恵の渾身の1プレーを、いとも容易く握り潰す。生まれ持った反射神経と運動能力の差を前に、愕然とした。努力を積み重ねたからこそわかる、その絶望的な差に。

攻守交替(ターンオーバー)!」

 叶恵の真横で、一華が地響きのような声を上げた。

 叶恵も、同じように足が止まっていたNEOのメンバーも、一華の声で目を覚まし、全神経を集中させた。

『NEO、簡単に奪い返され、またしてもカメリアルズボール! 激しい攻防! 目まぐるしく攻守交替(ターンオーバー)が続きます』


 カメリアルズの攻撃陣が当然ゆっくりと、ボールをゴール裏まで運ぶ。

 裏から顔を出したATにボールが入った途端に、翠がギアを上げた。

「早く出して!」

 伊代が仲間を急き立てた。翠に詰められたATは慌てて伊代にパスを出す。

 そのボールに潤がクロスを伸ばす。クロスの先が僅かに当たり、軌道がずれる。伊代が瞬時に体勢を落としてボールを掬い上げる。

「あっぶなぁ」

 このゴール裏でのいざこざを合図とするように、NEOの守備は瞬く間に陣形を変えた。

 体勢を立て直す伊代に対して志麻が、逆側からは潤がそのままプレッシャーをかけにいく。

「う……」

 防具をつけた潤に背中抑えられ、上背のある志麻に目の前に立たれ、エンドライン際で伊代は往生した。

 叶恵と翠に、試合の終盤とは思えない運動量で受け手を潰され、パスの選択肢はない。クロスを叩かれボールがフィールドを出れば、攻撃権が変わる。

 伊代は志麻の懐でクロスを持ち替え、後ろに飛びながら志麻の足の甲にボールを当てた。ボールは跳ね返りフィールドから出た。

「カメリアルズボール! 周りは4m以上離れて」

 審判員が声を張り上げた。最後にボールに触れたのは志麻と判断された。

「ち……器用だな」

「どうも~」

 伊代の機転によりNEOがかけた圧力は解除され、プレッシャーのないプレッシャーのない(クリアな)状態から試合は開催される。伊代はゴール裏から20m程離れた場所に山なりのパスを上げ、ボールを逃した。

 ボールを受けたのは伶歌。伶歌の十八番の1on1のスタート位置、左サイド45度エリア。対峙するのは一華だ。

「勝負しないの?」

 一華が言った。

 伶歌は一華の瞳を見た。純粋に勝負を楽しむ、飾り気のない黒い瞳。

 伶歌は一華との間合いを見計らった。丁度クロス一本分。伶歌が最も得意とするステップが、確実に成功する間合い。

――罠……。

 誘導されていることを、頭では理解していた。

「随分余裕だね」

 伶歌が左脚を大きく踏み込み全体重を乗せると、一華はポジショニングをずらし捉えようとした。その一瞬で、伶歌は一華と逆方向に振り切った。伶歌は一華との間に肩を入れて抜き去ろうとするが、一華は伶歌の進行方向に左脚をねじ込ませ、さらに腕とクロスで伶歌の肩を抑えて抵抗する。

『止めた!』

『いや……』

 伶歌は一度身体を反転させ、その反動を使ってその場で跳び、背筋と肩をしならせクロスをまっすぐ降り下ろした。

 ボールは伶歌からは見えないはずの位置、潤の右膝横に向けて走った。


 しかしボールがラインを割る前に、ゴーリークロスが行く手を阻んだ。潤が膝をつきクロスのヘッドを下に構え、完璧にボールを抑え込んだ。

 一華はにやりと口角を上げた。

『止めたー! NEO城山潤選手、本日初めてのキャッチセーブ! 相手エースのシュートを見事に芯で捉えました!』

『反応速かったですね』

 潤はフィールドの奥に視線を走らせ、セーブの体勢から流れるようにボールを捌き、叶恵の走り込む空間へ寸分の狂いもなく落とした。

――キャッチセーブしたときは、ここに投げますから。叶恵さんはシュート打たれると思った瞬間に走っててください。

 この1本のパスのためだけに何度も投げこみ、走り込み、距離感を身体に染み込ませてきた。

 1人で伶歌に打ち勝つことはできない。1人でできないことは、みんなとやればいい。

 叶恵は何も考えずに、身体の動くままに軌道の先に回り込んだ。柔らかくボールを受け、続いて反応してきた碧依に丁寧に託す。

 叶恵からボールを受けた碧依は加速するが、アリアナが追い付き後ろからクロスを伸ばす。

「碧依ちゃん! 後ろ来てる!」

 叶恵の警告に碧依はクロスを前に移動させ、あわやボールを奪われずに済んだ。アリアナは碧依に追いつきクロスを追いかけ続けた。

「うちが日本一獲らなきゃいけないんだ」

「知らないよっ! うちだって結果残して、日本一よりもっと先に行くんだから!」

 険しい形相で迫りくるアリアナを後ずさってかわし、隙をついてゴールへ進んだ。

「碧依! まだ1分あるから! ちゃんと狙って!」

 環が碧依を呼び止めるが、届かない。アリアナから逃れたその体勢のまま、クロスを倒して鋭い横投げ(サイドロー)のシュートを放った。

 ボールは董の左肘の外に向かって空を切った。董の反応は僅かに遅れた。瞬時に身体をスライドさせることを辞め、クロスだけを動かした。ボールは直径3cm程のクロスの柄に当たり、跳ね返った。

『あぁっ! 董選手も弾きました! 両チームゴーリーがすごい! お互いにシュートがはいりません! そしてリターンが速い! またしても攻守交替(ターンオーバー)!』

 試合終了時間が迫る中、激しいシュートの打ち合いに会場は盛り上りをみせる。

 董はすぐに足元に落ちたボールを拾い上げ、既に切り替えフィールド中央に走り込んでいる伶歌に向かって、弾丸パスを投げた。

 試合時間は残り50秒を切った。



    *


「えぇ⁉」

 一華の提案を聞いて、メンバーは驚愕した。

 深雪が決めたシュートの後、NEOはドローセットまでの30秒の間に、額を付き合わせて話し合いをしていた。

「ほ、本気ですか……?」

「そんな戦術、聞いたことない。前代未聞ですよ……」

「ふは。そうだよ。誰もやったことないから、わくわくするんでしょ?」

 大胆不敵に笑う一華の顔を、メンバーは気恐ろしげに見上げた。


    *



「ALL BLUE!」

 一華の号令で潤が走り出した。

 ゴーリーの突然のダッシュに、会場がどよめいた。

『これは⁉ なんということでしょう! NEOゴーリーの潤選手、ゴールを放棄しフィールド中央へ走ります! もちろんゴールはがら空きです! ボールを投げればシュートが入ってしまう……ん⁉』

 ボールを持った伶歌は、深雪と碧依に囲まれクロスを逃すのに精一杯で、ゴールが空いていることに気が付いていない。例え気が付いていても、ゴールに向かって投げる余裕はないほどに、プレッシャーを受けている。

 その間に潤はフィールドを3分割(リストレイニング)する線(ライン)を超え、変わりに千尋が守備サイドに入った。

『ゴーリーアウト……』

 富山が眼鏡を押し上げた。

『ラクロスはルール上、フィールドを3分割(リストレイニング)する線(ライン)を超えてはならない人数が決まっています。つまり、そのうちの1人がゴーリーであることにペナルティはない……!』

『なるほど! ゴーリーは普段能動的に動き回る練習はしていませんから、リスクを冒してでも走れるプレイヤーが守備に入った方が、人数も増えて、奪える確率が上がるという判断ですね! 試合時間50秒を切って、ゴールは無人! まさに背水の陣! なんて型破りの戦術! 皆さん見てください! 通常、MF3人、DF3人、ゴーリー1人の計7人で守備を行うところ、NEO側リストレイニングラインの内側にいるのは、ATの千尋選手! プレイヤー7人でボールを追いかけ回しています!』

 伶歌は2人に追い回され、クロスを逃しながらパスの相手を探した。しかしNEOの守備が1人多い状態である。パス先は完全にシャットアウトされ、走って逃げる他ない。

「伶歌さん! ゴール空いてます!」

「ばか! ボール離さなくていい!」

 伶歌に指示を出す伊代を、紅が制す。

「伶歌さんボール逃して」

 アリアナが伶歌との距離を詰め、視野内にクロスを差し出す。

「!」

 伶歌はアリアナにパスを出そうとし、寸でのところで投げ辞めた。アリアナの影に見えた翠の眼光から、鬼気迫るものを察知したのだ。



    *


――伶歌がボールを持ったときにALL BLUEを発動する。

――え~! 何もあんな上手い人をターゲットにしなくても!

――逆だよ。上手いからこそ、上手くプレッシャーをかわされる。つまりファールが起こらない。突っ込むだけのやつに逃げられたら、ファール取られて時間をとられる。

――なるほど……

――そしてパスを出すよりも自分で持っていたほうが安全だと気がつく

――それじゃあ奪えないだろ。

――奪えるよ。エースってのは、常にくだらない使命に捉われてるんだよ。


    *



 伶歌はフリーのアリアナを無視し、さらに中央へ走った。

 するとアリアナの影にいたはずの翠が、腕を伸ばし伶歌のクロスを引っ掻いた。クロスは安定感を失い、ボールが揺れた。伶歌は慌てて体勢を持ち直すが、その隙に碧依が追いつき、クロスを持つ腕に圧をかけた。

「くそッ……」

 ふと視野の端に、無人のゴールが見えた。ダブルチームのプレッシャーから逃げ惑ううちに、いつの間にかゴール前まで来ていた。ゴール前にゴーリーはいない。

 伶歌は合点がいった。通りでボールの受け手がないはずだ。相手が1人多かったのだ。代わりに、ゴーリーはいない。だったら、いつも通りシュートを決めればいいだけだ。

 大事なところでシュートを決めるのが、エースの仕事だ。

 伶歌は無人のゴールにボールを放った。

 ボールは緩い弧を描き、ゴールに吸い寄せられた。

「!!」

 ボールはゴールサークルに到達する直前、何かにぶつかった。

 一華がゴール脇から腕を伸ばし、さらにクロスを投げてボールに当てたのだ。

「一華っ……!」

 ボールの軌道は逸れ、ゴールポストのギリギリ外を通ってエンドラインへ走った。一華はグラウンドにスライディングしながら叫んだ。

「チェイス!!」

 翠が既にゴール裏に回り込んでいた。一華のクロスに当たり威力が落ちたボールは、エンドラインに届く前に翠のクロスに収まった。

『NEO、ボールを奪いました! 残り時間は10秒! ゴールまで約100m! 間に合うか⁉』

「志麻ァ!」

 翠は数歩先にいる志麻にボールを投げた。志麻はボールを受け、肩を大きく引き雄叫びを上げ、フィールド中央に大砲を打った。ボールは周りの空気を巻き込み、フィールドを飛んだ。

 潤が大きなゴーリークロスに易々と剛速球を収め、勢いを殺してフィールドに転がした。

『なんと! ゴーリーの潤選手を攻撃に使う斬新さ!』

 潤が転がしたボールを、碧依が攫う。

 3on3の速攻だ。

(来る……誰で来る……?)

 カメリアルズのゴーリー・董が構える。眼球だけを動かしてフィールドを確認した。

(このまま、碧依のランニングシュートが一番シンプル。そう見せかけてゴール脇の環がボールを受けて切り込んでくるのが次鋒。他の選択肢はありえない)

 碧依の動きを目で追い、コマ送りのように分解し細部まで見定めた。


 碧依は背中にクロスを回し、背後にボールを浮かせた。

 碧依の後ろから飛び上がった一華が、ボールを抑えてクロスを振りかぶる。

「なん……で……」

 直前まで反対側のゴール前に突っ伏していたはずの一華の登場に、董は思わず動きを止めた。

 一華はワンステップで体勢を整え、腰から肩そしてクロスをしならせボールを放った。ボールは鋭角に落下し、ゴーリーの右足、7番のコースに走った。

 鈍い金属音と共に、ボールは跳ね返った。

 ボールがゴールポストの外側に当たって跳ね返ったのか、内側に当たったのか、誰にも判断がつかなかった。ボールは誰の目にも止まることなく所在なげに宙に浮いていた。

 誰もがボールを見失い、思考を麻痺させている中、深雪が一華の脇をするりと抜けてきた。大して力を込めずにクロスを降り、董の顔の真横にシュートを投げ入れた。

「は……、な……」

 董は動くことができなかった。会場は息を飲んだ。

 一華だけがクロスを投げ捨て、両手を上げた。

 ピ――ッピ!

 高らかにシュートコールが鳴り響いた。会場からは、声援と拍手が沸き起こった。

「深雪……なんであんたが……」

 伶歌は驚きと困惑の表情で深雪を見た。どこまでも平凡で凡庸で、警戒するに足らない存在。伶歌の中で深雪は、取り立てて特徴のない鈍足の選手でしかなかった。

 深雪は落としたクロスを拾い上げた。

「こっちだって必死に、あんたたちの後ろ追いかけてるのよ」


 ピッピッピ――

 3コールのホイッスル。試合終了の合図だ。

『ゴ、ゴール!! 一華選手のパワーシュートのリバウンドをゴールに押し込んだのはNEOのバランサー・日下部深雪選手! そしてここで試合終了のホイッスルが鳴り響きます!』

 会場がざわめいた。フィールドにいるメンバーも顔を見合わせる。

「ど、同点……」

「……ということは……」

「サドンデス……!」


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