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7-すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる

 

 まだ太陽が強く照りつく残暑の中、全日本ラクロスクラブ選手権が始まった。

 一戦目のカードは関東1位、11年連続クラブ王者、実力者揃いの攻撃型チームCAMELLIALS(カメリアルズ) vs久々の全国大会出場、東海地区の古参LEGODIUS(レゴディウス)

「12対5……」

 結果は12対5。東海地区を勝ち抜いた古参チームは、関東最強の前に無惨に破れ去った。


「何よ……。夏前と全然違うじゃない……」

 土曜の練習を終え、この反対側トーナメントの試合の偵察に来ていたNEOのメンバーは、カメリアルズのその圧倒的実力に息を飲んだ。カメリアルズはその攻撃力をさらに洗練させ、夏前のリーグの初頭から更なる成長を遂げていた。

 明日の試合に勝利すれば、NEOはもう一度この最強チームと戦うことになる。日本一の称号を手にするためには、このチームに打ち勝たなければならない。

 (たまき)はフェンスを強く握った。レゴディウスは環の元いたチームである。フェンスの向こうの、かつて心を許し合った仲間たちを見て、喉元に込み上げるものがあった。うなだれ膝をつき、涙を流す姿を、奥歯を噛んで見つめた。



 互いのチームに挨拶を終えた後、レゴディウスのメンバーは観客席の前に整列し、挨拶をした。

 レゴディウスの古株であるなつみは、フェンス越しに見守るかつての同期、環の姿に気が付いた。

「環……」

「……っ。環さん!」

 レゴディウスのメンバーたちも環の存在に気付き、顔を輝かせ環の元へ集まった。笑いながら元後輩たちと会話を交わす環。その優しい視線が、ふとこちらに注がれる。大きな瞳がなつみを捉える。

「なつみ……」

「ごめん環……。本当は勝って、環と戦いたかった」

「……ここまで来てくれて、嬉しいよ」

 環は目尻を下げて笑った。その柔らかい笑顔を見て、なつみは懐かしさを覚えた。不安なとき、苦しいとき、その笑顔に何度も救われた。楽しいときも嬉しいときも、自分の隣にはその笑顔があった。そしてそれが今は自分のものではないことに、いや、昔から誰のものでもなかったことに、改めて気付かされた。

「……っ」

 なつみは、レゴディウスのメンバーを巻き込んでフェンスに飛びついた。

「くっそ~。がんばってきたのに~。あいつら強すぎ~」

 なつみはフェンスに額を押し当てた。何もこぼれてこないように、瞼もぎゅっと瞑った。

「はは。東京の洗礼を受けたな。私がみんなの仇を討ってくるよ」

 環は太い眉を凛々しく上げ、古巣のメンバーたちを見渡した。

「環~、そろそろ行くわよ~」

 少し離れたところから、NEOの誰かが呼びかけた。

 NEOは今日中に、大阪へ出発する。全国大会のもう一枚の対戦カードは明日、大阪会場にて切られる。

「もう行くよ」

 環はフェンスから離れた。

 なつみはもう一度、環の顔を見上げた。

 環は自分の知らない、高みの世界へ踏み出そうとしている。できることなら笑って、送り出してあげたい。

「……環、楽しい?」

 声が震えないように、なるべく短い言葉で聞いた。

 わかりきったことなのに、言葉にして欲しかった。もし万が一、思っている返事じゃなかったら、強引にでも連れて帰りたかった。少しだけそれを期待していた自分に、気付かないふりをした。

「うん。楽しい!」

 無垢な子供のように笑い、環は今の仲間たちのもとへ走っていった。



「大阪~っ!」

 新幹線の新大阪駅に着くなり、一華(いちか)が両手を上げた。駅構内の売店を覗き込み、夕飯を漁る。

「一華、ナマモノはだめだ。揚げ物もだめ。明日試合ってわかってるのか?」

 環が一華の首根っこを捕まえて諫めた。

「え~⁉ あ、翠、なにそれ!」

 豚まんを咥えている翠のところへ、飛んで行った。

 千尋(ちひろ)(ひかる)は、路上に佇む食い倒れ人形と写真を撮っている。

「みんな、ご飯を食べたら宿で明日の試合のミーティングするからね! 時間までに集まってよ!」

 各々勝手に散らばるメンバーに、深雪(みゆき)が怒号を飛ばした。



『お待たせ致しました! 只今より全日本クラブ選手権大会を始めます!』

 大会会場にアナウンスが鳴り響いた。会場にはラクロス関係者、その家族、地元のスポーツファンが試合を観戦しようと集まっていた。ラクロスを知らない外部の観客のために、全国大会ではルール説明を交えながらの実況アナウンスが流れる。

『メインスタンド向かって右の黒いユニフォーム! 皆様お馴染み浪速不動の王者、圧倒的実力を誇る関西1位 GHOST(ゴースト) FLY(フライ)!』

 どっと歓声が上がり、拍手が沸き起こった。

『対しますは、結成わずか1年足らずで猛者揃いの関東大会を突破した超新星! 青い稲妻! 関東2位NEO(ネオ) THUNDERS(サンダース)!』

 健闘を期待する拍手がパラパラと聞こえた。NEOにとってはこの試合、完全アウェー戦となる。

『本日実況を務めますは私、山岸と申します。そしてお相手をして下さるのがなんと!』

 メインスクリーンに映し出された人物をみて、会場が大いにざわついた。

『元Jリーグ所属、プロサッカー選手! 中本健吾選手です!』

『よろしくお願いしま~す!』

 中本は特徴的なアフロヘアーを揺らしながら、会場観客席に手を振った。観客達は口々に何かを叫びながら、アナウンス席に両手を振り返した。

『中本選手は2人の娘さんが現役のラクロス選手だということで、その娘さん達が所属する大学の部活の外部コーチをされています! 今日は中本選手に教えを乞いながら試合実況を進めていきたいと思います!』

 有名選手の予期せぬ登場に、会場のボルテージは最高潮に達した。


「中本~? 誰だそれ」

 選手たちは準備運動を終え、整列した。一華がスクリーンを見上げながら首を傾げた。

「知らん」

 (すい)はクロスの紐を引っ張って、メッシュの張りを微調整した。隣にいた深雪は、2人の会話を聞いて顔をひきつらせた。

 プロサッカー選手がラクロス界に介入しコーチ業を務めていることは、界隈では有名な話だった。日本代表内でも中心選手であった中本の存在すら知らないのは、この会場においておそらくこの2人だけだろう。


 叶恵(かなえ)が人で埋め尽くされた会場をぐるりと見渡した。それを横目で見た()()が、肘で小突いた。

「緊張してる? 見ない方がいいよ」

「……うん……」

 叶恵はこれほどの人間に注目されながら試合をするのは初めてだった。お互いの声が会場の雑音に飲み込まれる感覚、コートの広さがわからなくなる感覚、やけに喉に唾が溜まる感覚……。どれも初めての体験だ。

「あ~! 緊張するすぎる~!」

 叶恵の横で、千尋が自分の頬をつねった。

「千尋、珍しく緊張してる感じ? 背中叩いてあげるよ!」

 光はそう言うや否や、力いっぱい千尋の背中を平手打ちした。

「はぁ⁉ 痛いわ!」

 千尋は光に反撃し、2人で揉み合っていた。

「NEOって新しいチームやんな。初めて聞いたわ。今年も黄色い服きた女子たちが来ると思てた」

 向かいに並んでいた大柄な選手が口を開いた。明るい色の短髪を撫でながら、顎を突き上げNEOのメンバーを見降ろした。例年全国大会に出場していたサンベアーズは、毎年この舞台でゴーストフライに敗れている。

「カメリアルズ倒して日本一獲るのはうちやけどな」

 短髪の選手は腰を曲げ、目の前にいた叶恵に不敵に笑いかけた。

朱里(しゅり)。ちょっかい出すのやめ」

 髪をオールバックに上げた、顎の尖った年増の選手が窘めた。

「は~い万利阿(まりあ)サマ。で、市川一華ってのはあれやんな? パンフレットに書いてあった意気込みには笑ったわ。“私たちは日本一の先にいく”ってな! どこやそれ」

 朱里と呼ばれた選手は、列の一番奥にいる一華に視線を飛ばし大口を開けて笑った。

「ま、骨はありそうやな。良い身体しとる。カメリアルズ戦前にいい練習になる」

 一華の引き締まった体躯を、足先から頭まで不躾に見た。

「あんたなんか一華の足元にも及ばないよ」

 志麻が棘のある声で朱里の視線を遮った。腕を組んで、朱里を下から睨みつける。

「あぁん?」

 朱里は首を鳴らして志麻を見下ろした。志麻の上背は176㎝程あるが、朱里の方がさらに大きい。おそらく女子ラクロス界最長だろう。NEOの中では体格としては唯一、志麻だけが対抗できうる。

 火花が散らす2人に視線を送りながら、審判員が声を張り上げた。

「これよりGHOST(ゴースト) FLY(フライ) vs NEO(ネオ) THUNDERS(サンダース)の試合を始めます。フェアプレーを心がけて下さい。礼!」


「志麻ちゃん、どうしたの?」

 足早に移動する志麻を、叶恵は驚いて追いかけた。普段穏やかな志麻が、人に荒々しい感情をぶつけるのは珍しい。

「別に。ただ、」

 志麻は足を止めて振り返った。視線は叶恵を超えて、薄ら笑いを浮かべる朱里へ注がれた。

「仲間の夢を笑われて、黙っていられる程大人じゃないんだよ」

 目頭に力を込め、静かな怒りに燃えた。


『いよいよドロー開始です! ドロワーを紹介しましょう。ゴースト、オーストラリアプロ入り経験のある、日本が誇る人間国宝! 聖万利阿選手! 対するNEOはアメリカ仕込みのマグナムシューター市川一華選手! 互いにチームを牽引するキャプテンです! 中本さん、両チームとも豪華なラインナップですね!』

『そうですね~! 本場で鍛えたプレー、存分に発揮してほしいですね!』

 アナウンス席が盛り上がる。

「アメリカ仕込みって……、どこでやってはったん?」

 ドローポジションに付きながら、万利阿が尋ねた。

「BRAVE」

 一華がボールから目を逸らさずに答えた。ドロー開始の笛と共に、一華はボールを攫った。ボールは高く上り太陽と重なる。目が眩んだ万利阿は一瞬動きが遅れた。

『まずドローを獲得したのはNEO、一華選手!』

 一華は弧の頂点でボールを掴み、着地と同時にゴールへ疾走した。

 立ちはだかる相手を必要最低限の動きでいなし、最短距離でゴール前11m線状に到達した。

 最後の守備選手の頭の上からクロスを通し、そのままシュートフォームへ入る。右膝を下げ、左脚、右脚、腰、肩、腕をしならせクロスを立てたまま大きく振り下ろす。

 ゴーリーがボールの軌道にクロスを合わせるが間に合わない。剛速球が音をたて、ネットに突き刺さる。

 一華が勢いよく拳を振り上げ、NEOのメンバーが一華の周りに集まって肩を叩いた。一華はメンバーたちに向き直り、顔を綻ばせた。

『は、あ……ゴール!! 一華選手、1人ドローからの速攻(ドローアタック)! これは強い!』

『シンプルでいいですね~! これが元来理想のラクロスですね! サッカー選手が言うのもなんですけど!』

 アナウンス席が楽しそうにジョークを飛ばす。

「はえぇ! これが関東のクラブチームか……!」

 会場席も、開始早々見えた豪快なスタンディングシュートに色めき立った。


 シュートの勢いで取り落としたクロスを拾う一華を、朱里が見下ろしていた。

 その異様な空気と開ききった瞳孔を見た深雪の身体に、警戒音が鳴り響く。言いようのない恐怖を感じ、深雪は朱里の視線を遮った。

「ちょっと」

 自分の前に割り込んだ深雪に一瞥をくれ、朱里はドローポジションへ戻った。

(………)

 深雪は暫し、朱里を目で追った。動悸は激しさを増し、じっとりとした汗が首元に滲む。深雪は首に手を回し、この胸のざわめきがいつものように杞憂に終わることを祈った。

 すると一華が深雪の傍に立って囁いた。

「深雪も気になる……? あの人達の睫毛……。瞼に人口の睫毛つけるの流行ってんの?」

 深雪は一華を見上げて脱力した。



 2度目のドローは2人の間に浮き上った。万利阿がそれを弾いて地面に転がし、自分で拾い上げる。

『万利阿選手がクロスの持ち方を変えましたね!』

『ドローは力、クロスの角度、速さ……。いろんな要素の組み合わせなんです。ジャンケンのようなもので、絶対に勝てるドローはない。その時々の読み合いなんですよ!』

 実況の山岸と解説の中本がドローの一般論を繰り広げるうちに、万利阿はボールを持って攻撃サイドへ入った。

「43L!」

 万利阿が暗号のようなものを叫ぶと、ゴーストのメンバーがそれを復唱する。

 朱里はゴールの裏でボールを受け取ると、クリース際からゴール前へ入り込もうと地面を蹴った。

 朱里をマークしていた志麻がその巨体を正面から受け止め、脚を踏ん張った。歯を食いしばり、腕に圧し掛かる体重に耐える。

『これは! クラブチームで、いや、おそらく女子ラクロス界で1、2を争う重量級選手同士の戦い! 純粋な身体と身体のぶつかり合いですね! 面白い!』

 アナウンスの山岸が興奮して身を乗り出した。

『ゴーストは朱里選手がポイントゲッターですから、あれを押さえられる選手が守備にいるのは大きいですね』

 女子ラクロスの守備は相手を腕で押すことも、倒すことも禁止されている。そしてクロスを横倒して行く手を阻むことも、相手の顔の近くにあるクロスを叩くことも禁止されている。守備選手はあらゆる制限を犯すことなく、相手の動きを止めなければならない。

「ファールやん! 審判!」

 朱里が声を荒げた。

「どこがっ……!」

 力の均衡を保ちながら、志麻が呻いた。

「朱里! まだやって!」

 万利阿が朱里を怒鳴りつけた

「っ」

 朱里は志麻に押し付けていた身体を離し、ゴールの真裏まで身を引いた。志麻は前に倒れかけたが、その勢いを使ってそのまま朱里を追いかけた。

「朱里、今や!」

 万利阿が号令をかけると、朱里はゴールの反対側のサークル際へ方向転換した。

「な⁉」

 そこには翠と、翠のマークマンがいた。朱里は2人が見えていないかのように猛進した。

「ぐっ」

 衝突ぎりぎりのところを通りぬけようとする朱里を、翠が身体で押し返す。その隙に志麻が追いつき朱里にプレッシャーをかけるが、朱里はものともせずにクロスを振りかぶった。

「なぁ知っとる? ラクロスは、攻撃側に圧倒的有利なスポーツやって」

「!」

 朱里は志麻も、翠も、仲間さえも巻き添えに、雪崩れ込みながらシュートを打った。3人は衝撃に耐えられず地面に倒れた。

 ボールは、ゴーリー右手上の角に収まった。1対1の同点となる。


「大丈夫?」

 叶恵が駆け寄り、倒れた2の背中を支えて起こした。

「……叶恵、今、イエローフラッグ上がってた?」

 翠が叶恵の肩を借り立ち上がる。

「うん。上がってた」

 イエローフラッグは守備側の反則が起きた場合に、試合を続行した方が攻撃側に有利だと判断された場合に審判が掲げるものだ。審判は、翠か志麻に落ち度があるとみなした。

「ちっ。これだけ派手にやられてもこっちのファール……。あの肉弾戦車……。ボールが入らないようにシャットするか」

 翠が切れた唇を舐め、滲む血を拭った。

「……いや、私にやらせて。真っ向勝負で抑えたい。翠はマークマンが変わらないようにだけ注意してて」

 翠は驚いて志麻を見上げた。志麻の眼は闘志に燃えていた。穏やかな性分の志麻が、珍しく我儘を口にした。

 教科書通りに考えるなら、守備は個人戦にこだわればこだわるほど失点のリスクは高まる。しかしこの破壊的なワンマンチームに限っては、どこかであの野獣に勝たなければチームに勝ち目はない。守備陣だけが、それを肌で感じていた。

「……怪我しないでよ」

 翠もまた珍しく、意味のない言葉を返した。


 3度目のドローも万利阿に軍配が上がった。

 万利阿は自ら攻撃サイドにボールを持っていき、戦術名を叫ぼうとした。その時、背中に悪寒が走った。

「っ!」

 振り返ると、一華が万利阿のクロスに手を伸ばしていた。万利阿は咄嗟にクロスを逃し、傍にいた朱里にボールを託す。

(驚いた……。あの体勢から間に合うか普通。やっぱり危険やわあの子……)

 既に体勢を変えボールを追う一華の横顔を見て、万利阿は眉を寄せた。

「K35!」

 万利阿は、右サイドへ移った朱里へ向けて号令を発した。

 朱里はそれを聞くや否やゴールへ向けて突進した。それを志麻が軸を正対させて迎え打つ。烈しくぶつかり合い、お互い壁を押すように脚腰に力を入れる。

『またしても重量系対決! 拮抗しています! この勝敗が、試合の勝敗の鍵となりそうですね!』

(……? なんで誰も来ぉへんの?)

 朱里は視線を泳がせた。ゴーストの攻撃陣の誰かが朱里のマークマンに身体で邪魔をする(ピックをかける)ことで、この攻撃は始まる。

 朱里は志麻の肩越しからゴーストの攻撃陣に目をやった。全員、NEOの守備陣に抑えられ、身動きが取れなくなっていた。

「仲間は誰も来ないよ」

 朱里の目と鼻の先で、志麻が低く唸った。

「私とあんたの一騎打ちだよ」

 朱里は鼻に皺を寄せた。無理矢理身体で志麻を押しのけようとするが、びくともしない。ステップを加え重心をずらすも、並行移動でしつこく正面に入ってくる。

(ぐっ……堅い……)

 朱里は志麻の圧力から逃げようと、片足を軸に反転した。

「今回は私の勝ちだね」

 志麻が一歩踏み込み、クロスを伸ばす。朱里の背中からはみ出すクロスの端をピンポイントに叩き、ボールを落とした。素早く腰を沈め、ボールを拾いあげる。

「志麻、ナイス!」

 NEOの守備陣が歓喜した。

 志麻は既に走り出していた叶恵にパスを出し、その場にしゃがみ込む。

(……痛って~)

 受けた衝撃が全身を襲う。直接交わった部分は痺れ、赤く腫れあがっていた。

(こんなの……他のみんなに食らわせたくない……)


 叶恵は攻撃サイドに運んだボールを、一華に託した。一華がボールを受けると同時に逆側にいた深雪が掃けてスペースを空けた。そのスペースに一華が切り込む。

「一華だ!! 寄せろ!」

 ゴーストの守備陣が一華のドライブに集中した。一華は急停止し、集まってきた守備陣の背中、ゴール前にボールを放り込む。

「うっ」

 守備陣は脚を止め、ボールを追って首を動かした。

 そこへ背番号7が飛び込み、視界を遮った。

 碧依(あおい)は横っ飛びのままボールにクロスを合わせ、滞空している間にコースを見定めた。

『ゴーール! きたー! NEO2点目は背番号7、七瀬碧依選手! こちらも海外留学経験のある実力者! 関東では学生たちの間で圧倒的人気を誇る女子ラクロス界のタレント的存在! なんといっても顔がいい!』

 アナウンス山岸が歓喜の声を上げた。

『山岸さん、顔は置いといて下さい! 今のシュート見ましたか⁉』

『はい、この目でしかと! まるでバレーボールのネット際のアタックみたいでしたね。ボールがクロスに吸いつくように留まって、そのあとのコース打ち分けも大胆、鮮やか! あんな、ゴーリーが構えているところに打てます? 打てません!』

『急に早口! 解説者を置いていくのやめてくださいよ! でも確かに素晴らしい! ゴーリーが反応できない速さでピンポイントにクロスとヘルメットの間を突き抜けましたね』

「ふ~ん。市川一華の他にもラクロスできるやつおるんやな」

 朱里がクロスを担ぎ、冷ややかに碧依を見据えた。



 ピッ

 4度目のドローは、一華の背中側へ弧を描いて飛んだ。

 碧依が笛と同時に飛び出し、ボールを捕らえた。身を屈め、襲いかかる朱里を避けてからボールを一華へ返す。

『おぉっ! 一華選手、今度のドローは仲間に獲らせる方向性ですね!』

『ドロワーじゃなくても周りの選手が取れるなら、ドロー戦術は何倍にも強化されますよ! 自分で獲れない時は仲間に取ってもらえばいいんですから』


「そう何度も喰らわん」

 一華に追いついた朱里が、一華のクロス目掛けて手を伸ばす。一華は寸前で身体を翻しそれをかわし、背中越しに碧依へパスした。

「緩い」

 ゴール前に無防備に浮いたボールを捕えようと、ゴーストのゴーリーが前に出る。

 しかしゴーリーがパスカット(インター)するより先に、碧依がボールに飛びつく。キャッチした体勢のまま、腕の力だけを使ってゴール脇に控えていた環へトスした。

『一華選手を止めれば、碧依選手。碧依選手を止めれば環選手……。NEOの攻撃パターン、かなり多様性がありますね。新参のチームとは思えない……』

『ええ。個人のパスワークやスピードがそれに拍車をかけているのは確かですが、ボールを持っていない選手(ノンボールキャリア)の動きが他チームとの大きな差でしょうね。彼女たちが守りにくい動きをすることで、一華選手や碧依選手に余計な守備が寄らないようにしているんですよ。ゴールまでのコースもきれいにあけることになって、』

『あ~っと!』

 解説者・中本の説明を司会者・山岸が遮った。環がゴーリーのいないゴールへボールを押し込んだと思えたが、間一髪ゴーリークロスがシュートコースを拒んだ。

寿(ことぶき)選手、間に合った! パスカット(インター)をし損ねてポジショニングをずらされてもなおしぶとい好セーブ! すごい! ゴーストの寿選手はカメリアルズの董選手と肩を並べる、日本代表ゴーリーです。中本さんは代表の特別コーチもされていたと思いますが、寿選手をどう見てますか?』

『董選手は左利き、寿選手は右利きで代表内でのバランスもとれてますよね。完全反応系の小回りのきく董選手と違い、寿選手は身体の大きさも活かして、少ない動きで広範囲を守れるゴーリーです。代表では2枚目なので、リリーフと言いますか、しっかり気持ちをつくって試合の途中からでも力を発揮できる選手っていう印象はありますね』

『おお! 寿選手、大きくクリアパスを投げました! NEO、あっと言う間にフィールド中央まで戻されました!』

 寿が出した山なりのロングパスの落下地点に、万利阿が走り込んだ。

「朱里」

 ボールを受けにきた朱里に目配せし、ボールを回す。朱里は殺気を剥き出しにして口の端を上げた。

 万利阿が、朱里をマークしていた志麻の真横に立つ。それを合図に、朱里がゴールに向かって仕掛けた。

「⁉」

 志麻は万利阿にぶつかり、行く手を阻まれた。必然的に、万利阿をマークしていた一華が、代わりに朱里をマークすることになる。

 「志麻、チェンジするよ! ………ッ⁉」

 万利阿の影から姿を現した朱里は既にゴールを見ていた。

 朱里は目の前に一華がいるにも関わらず、クロスを振った。

「!」



    *


 時を同じくして都内の河川敷グラウンドでは、カメリアルズが次週のNEO戦に向けて練習を行っていた。大阪で行われてるNEO THUNDERSとGHOST FLYの試合は、控え選手とマネージャーに分析用ビデオを撮りに行ってもらっている。出場予定選手は都内で細かい想定練習を行う。

「伶歌、一華はアリアナが止めるとして、7番の七瀬碧依は伶歌についてもらうことになるから。得意パターンしっかり把握しておいてよ」

「わかってる」

 一度戦ったチーム同士、主力選手の目途はついている。前回戦った試合からどれだけ成長を遂げているかは実践してみなければわからないが、試合の中で分析し、ゲームをコントロールしていくのは、カメリアルズの十八番の戦い方だ。

「あとはゴーリーね。前回は復帰したてで全然目が慣れてなかったけど、大分反応が速いタイプだから。単調に打たないように気を付けて。構えは董のコピーだから、私たちは慣れてて楽だけどね」

「……だとすると、向こうのATメンバーのシュートも入りやすい。点取り合戦になる」

「ゴーリー対決ってやつね」

 伶歌と話をしながら、紅がサイドローのシュートを放った。ボールはゴールを逸れ、隣のグラウンドの方まで飛んでいく。

「ちょっと2人とも、シュート外したら取りにいって下さいよ~! 今日はマネージャーもボール拾いもいないんですからね! 伊代は拾いに行くのいやですよ!」

 伊代が伶歌と紅に注意した。

「私とってくるよ」

 伶歌はフィールドの外まで飛んでいったシュートボールを拾いに向かった。

 隣のグラウンドでは男子ラクロスのクラブチーム・PIRATES(パイレーツ)が練習を行っていた。パイレーツもカメリアルズと同じように、全日本クラブ選手権決勝の出場が決まっている。そこには亮介と、伶歌の夫である裕也が在籍している。

 カメリアルズのボールはパイレーツが使っているフィールドの方まで転がっていた。伶歌はパイレーツのゴールの裏の方まで足を延ばし、落ちているボールに記入されているチーム名を確認しながらボールを集めた。時折カメリアルズのものでもパイレーツのものでもないチームのボールも混ざっていて、なんとなく笑ってしまう。ある程度集め終わったかと辺りを見渡したとき、誰かが叫んだ。

「危ない!」

 叫び声に驚いて振り返ると、同時にこめかみに衝撃が走った。

 ヘルメットを被ったパイレーツの男子プレイヤーが走り寄ってくる。その姿がぐにゃりと曲がり、視界が途切れた。


    *



 朱里が振ったクロスが一華のこめかみをえぐった。アイガードは衝撃で外れ飛ばされた。

 一同が息を飲む。

 一華の上体がゆっくり沈み、膝が地面についた。

「一華!」

 一番近くにいた深雪が青ざめて駆け寄り、屈み込んだ。他のNEOのメンバーもクロスを放り出し集まった。

「オフィシャルタイムアウト! 大丈夫ですか?」

 審判員が試合を止め、一華の状態を確認した。

「あ……。大丈夫……」

 一華が頭を押さえながら応えた。

「どいて」

 翠が深雪と審判員を押しのけ、頭を押さえたままの一華の手を引きはがした。こめかみの皮膚が切れ、血が出ていた。鮮血が顔の輪郭をなぞるように滴る。

「止血をします」

 他の部員から一華を隠すように、翠が立ち上がった。

「……わかりました。2分間のリカバリータイムをとります。血がユニフォームにつかないように気を付けて下さい」

 審判員が事務的に言い渡し、他審判への報告のためオフィシャルベンチへ向かった。流血が続いている間は試合に出ることはできない。さらに、血痕がついているユニフォームは使用することができない。



 一華をベンチの椅子に座らせ、翠が応急処置を施した。

「で、どうする?」

 志麻がメンバーに、特に年長者に問いかけた。話し合う時間は限られている。

「一華の出血が完全に止まるまでは、9人でやるしかないだろ」

 環の言葉に一同押し黙った。NEOの選手は10人だけだ。1人足りない状態(マンダウン)で戦う他手がない。苦しい展開になる。

「碧依、ドローできます。一華さんが戻るまでドローやります」

 碧依が前に出た。

「碧依、なんでもできるんだね……」

 碧依の申し出に志麻が感心した。

 処置を終えた翠が腰を上げた。

「だめ。一華は、今日はもう試合に出さない」

「翠。なんで勝手に……」

 頭に包帯を巻いた一華が不満を呈した。

「頭部の怪我だよ。このまま続けたらどんな後遺症が残るかわからない」

 翠が一華をぎろりと睨んだ。翠の形相に、さすがの一華も口をつぐんだ。

「どんなにラクロスが好きだって、命より大切なものなんてない。一華が何を言ったって私は、むぐ」

「わかったわかった。出ないから、そんな顔しないで。碧依、ドローお願い」

 一華が座ったまま、翠の口を塞いだ。

「じゃあ、後半、意地でも9人で守るしかないな」

 環が首を鳴らした。

「いや、その必要はないよ」

 一華が不敵な笑みを浮かべた。

「忘れてる? もう1人いるでしょ?」

 一同は一華の目線の先に目をやった。集団の一番奥に、不安げに分析シートを抱えるダオの姿があった。

「は、え? わ、私ですか……?」


「あ、9人じゃないですね。あれ誰ですか?」

「さぁ……初戦にはいなかったと思うけど。ちゃんとビデオに撮っておこう」

 カメリアルズの控え選手とマネージャーが、NEOの試合の偵察に来ていた。観客席からフィールドを見渡し、ダオの登場に首を傾げる。


「無茶言うよなぁ」

 自分のポジションにつきながら、志麻がぼやいた。

「ダオも選手登録しろって、前々から一華に言われてた。なんでだろうと思ってたけど……」

 近くにいた翠が応えた。


――ダオはずっとリストレに残っていればいい。

 ラクロスではフィールド上に引かれているフィールドを3分割する(リストレイニングライン)を越えてはならない人数が定められている。スタッフのダオを常に超えない側に固定すれば、ハーフコートでは正規のプレイヤーでプレーすることができる。


――ただし、速攻で攻められたら常にピンチだから。くれぐれも“良くない奪われ方”はしないでよ。

「……って言われたそばから!」

 試合再開早々、光が打ったシュートは簡単にゴーリーにセーブされ、大きいクリアパスが帰ってきた。守備の要である翠と志麻は身構えた。ダオはどうすることもできずに狼狽えた。

 碧依が素早く反応したが間に合わない。ダオが守備に参加しない分、翠と志麻の2人で速攻を凌がなければならない。3回ほどの長いパスでゴール前まで繋がれ、最後はボールマンがフリーの状態で、シュートを決められた。

「……っ」

 2対2。途端に点差の貯金がなくなった。翠が目を怒らせ光に詰め寄る。

「光! リードしてるんだから、無理な状態で打たなくていいんだよ! 今は点をとることよりもボールを保持することが大事! 頭を使えこの単細胞!」

「すみません~! つい」

 光がべそをかいた。

「翠、言葉を選べよ。あたるなって」

 環が翠の腕を引いて、光から離れさせた。

「痛いな。環がちゃんとコントロールしないからあんな簡単に奪われるんだよ! 状況理解してる?」

 環の腕を振りほどいて今度は環に怒りをぶつけた。

 追い上げられる心理状態は守備陣の精神を蝕んでゆく。守備として状況を打開できる方法が現状ないことも、フラストレーションとなる。

「はぁ⁉ 守備こそ簡単に運ばれすぎだろ! 少しは時間稼げよ!」

「ちょっと2人とも落ち着いて」

 志麻が呆れたように制するが、2人はいがみ合ったままだ。後輩たちは気遣わし気な表情を浮かべている。叶恵はちらりと一華をみた。一華はベンチの椅子に腰かけたまま、様子を眺めている。

(うぅ……一華ちゃんがフィールドにいるときはこうはならないのに……2人とも沸点低いんだから……)

 一華の不在が少なからず、メンバーの不安と焦りを増長させていた。

 すると、(じゅん)がヘルメットを外して前へ出た。

「……プレッシャーがなかったとはいえ、簡単なシュートでした。止められなくてすみません」

 一同の視線が潤に集まった。

「でも、あんな簡単に奪われたら例え同数だとしても守備陣にとってはきついです。攻撃陣、今は我慢のときだと思ってください」


 潤は、熱くなった空気がすっと冷めるのを感じた。最後の方は声が震えているのが自分でもわかった。

 学生時代は、先輩に意見することなど到底許されないことだった。そんな恐ろしいことはしようとも思わなかった。でも今は、ただ思ったことを伝えたかった。生まれた歳なんてどうでもいい。仲間に言葉を届けたい。

 一華がいない今、この場を統制できるのは自分だ。ゴーリーは定点で、誰よりも落ち着いて試合を見ている。本来なら守備の司令塔、ゲームの司令塔はゴーリーが担うべきだ。何も間違ったことは言ってない……よな……?

 潤は恐る恐る顔を上げ、静かになった仲間たちを見た。


「……もう打たせないから、次は決めて」

「任せとけ」

 翠と環はそう言い交わし、背を向けてそれぞれのポジションに戻っていった。

 潤は大きく息を吐いた。

 労わるように背中を叩かれ見上げると、志麻が優しく微笑んでいた。何かが込み上げてきて、急いでヘルメットを被り直した。


 ピィ――

 オフィシャル席から、ホイッスルが鳴った。

「タイムアウト、NEO THUNDERS!」

 NEO側のタイムアウト申請だった。メンバーがベンチに駆け戻る。

 試合中チームが申請できるタイムアウトは2回。戦術の共有以外にも、悪い流れを断ち切るためにも使われる。

「一華、ナイス判断」

「……いや? 私じゃないよ」

「すみません勝手に。私がとりました」

 メンバーは驚いて声の主に目を向けた。

 ダオが注視を浴びてたじろいだ。が、意を決したように主張した。

「私、守備はできないけど、AT(アタック)なら、できると思います。大学のときはプレイヤーだったんです。ポジション変えてもらえますか? そしたら、速攻で点とられることなくなりますよね?」

 メンバーは顔を見合わせた。


「NEO、また陣形変えてきたね」

「あの初出場の背番号11番……注意してみてたけど、本当に何もしてないですよ。人数合わせじゃないですか?」

 カメリアルズの控え選手とマネージャーが、観客席から試合を観察していた。

「そうね……。でもあの顔どこかで見たことあるような気が……」


「ドローセット」

 審判員に促され、碧依が肩の力を抜き、ドローの体勢をとった。

 一華に代わってドローセットについた碧依の顔を、万利阿が覗き込んだ。

「色黒のおねーさん大丈夫やった? ドロー勝負、もっと楽しみたかったなぁ。申し訳ないなぁ、うちのお馬鹿さんがなぁ」

 万利阿は慇懃無礼な笑みを浮かべながら、碧依のクロスに自分のクロスを合わせた。

 碧依は眉間に皺をよせ、万利阿を睨み上げた。

「碧依で十分だと思います」

「……見かけによらず可愛いないなぁ。……可愛いない子は、嫌いや……!」

 ピッ

 ボールは万利阿の正面に浮き、万利阿がそれを掴もうとして取り損ね、地面に叩きつけた。


 ピピピッ

「再ドロー」

 ドロー時のボールは、両チームのドロー選手の頭より上に上がらなければ、再度行われる。


 ピッ

 碧依はホイッスルとほぼ同時にクロスに力をこめ、ボールの表面をこするように動かした。ボールは、今度は2人の間に浮いた。碧依はクロスを動かした勢いのまま、そのボールを掴み取った。

 

 ピピピッ

「再ドロー」

 ボールが高く上がらなければ、際限なくドローが繰り返される。


(すごい……)

 繰り返されるドローに、叶恵は釘付けになった。

 普段ドローサークルに配置されるのは反射神経の良い碧依と、一華のドローを見慣れている深雪だ。碧依が一華の代わりにドローを上げることにより、碧依の元いたポジションをDFMF(ディフェンシブミッドフィルダー)の叶恵が代替することになる。

 叶恵はこのチームでドローに関わるのは初めてだった。

 ドローサークルライン際に立つと、普段とは違うドロワーとの距離に戸惑った。脚の踏み込み、肩の力み、クロスの傾き……2人のドロワーの一挙手一投足までよく見える。

 審判がボールをドロワーのクロスの間に挟む。そのボールの所在なげさまでもが、ここからだと感じ取れる。ボールは今、誰の物でもない。


 碧依のドローは、おそらくカメリアルズ・伶歌のドローの見様見真似だ。1回目のドローで叶恵はそれに気が付いていた。

 1回目に思うところに飛ばなかったことを学習して、2回目はクロスを返す角度を変えていた。それに応えるように、ボールは碧依のクロスに収まった。

(碧依ちゃん、ボールと話してるみたい……)

 先輩の背中に隠れてただ好きなようにプレーをしていた若手が、圧倒的エースの不在で無理矢理成長する。試合の中でしかありえない、極限の局面での成長。予測ができない、計算で導けないラクロス。

 叶恵は高揚していた。ラクロスをしながら、ラクロスを面白いと思ったのは初めてだ。

 誰よりも試合を見てきて、面白いスポーツだってことはわかってた。でもやってて面白いと思えるなんて。いや、違う。いままでこんな風に、真剣勝負に加わったことがないから。みんなについていくことに必死だったから。知らなかったんだ。


 ピッ

 ドローボールはついに、碧依の頭上へ上がった。

 碧依が素早くボールをクロスに収めた瞬間、万利阿がクロスを伸ばし、強く叩き落と(チェック)した。

 ボールは碧依のクロスから離れ、フィールドに落ちた。碧依と、叶恵と、叶恵のマークマンのちょうど中間に転がる。

(間に合わない――)

 叶恵の鈍足では到底、一番最初にボールを拾うことはできない。いくら環に熱血トレーニングを指南してもらっても、何年も鍛錬を積み重ねてきた人間の瞬発力に敵うわけがない。

――そんなことないよって言ってほしい?

 翠の言葉が蘇った。あの人は、事実しか言わない。

 できることを精一杯やって、結果が伴わなくても、笑う人なんてここにはいない。

(だったら……)

 叶恵はボールから目を逸らし、右足を真横に出した。重心を傾け、隣の選手の前に体を押し込む。

 相手選手は叶恵に進行を妨げられて、初速が遅れた。その一瞬の差分で、碧依のクロスが先にボールに触れる。

(あ……。くる)

 ドローを取り損ねた相手のドロワーが、碧依のクロスを再び叩こうと手を伸ばした。

 その瞬間に、叶恵は重心をずらした。碧依のクロスからこぼれたボールを、叶恵が拾う。体幹がぶれて転びそうになるのになんとか堪えながら、ボールをキープした。

「⁉」

 碧依や深雪ですら、驚いて一瞬動きを止めた。

 誰もが、予想していなかった叶恵の活躍に驚くなかで、環だけが含み笑いをしていた。



    *


 リーグ前に行った合宿で、環は叶恵に相談を持ち掛けられていた。

「環ちゃん。私のトレーニングメニューなんだけど……」

「ああ。叶恵は今年からラクロス復帰したんだったな。少しきつすぎるか」

 メンバーには環が作成したトレーニングメニューが渡されており、それぞれ平日にこつこつノルマをこなしている。その内容はそれぞれの既存の能力、ポジション、仕事の忙しさを考慮して細かく設定されている。

 叶恵は首を振った。

「もっと、早く筋力がつくメニューに変えて欲しい。平日の時間ならいくらでも捻出できる」

「……。気持ちはわかるけど、最初から飛ばし過ぎるともたな……」

 環は叶恵の目をみて押し黙った。

「はぁ。生き急ぐやつばっかりだな。人のこと言えないけどさ」

「最高の今を生きたい、じゃない……?」

 叶恵が精一杯の強がりで言った。環も、叶恵も、一華のいたずらっぽい横顔を思い浮かべていた。いかにも、一華が言いそうな言葉だった。過去でもない、未来でもない、ただ今を、全力で生きたい……。

「……あとで新しいやつ持っていくから」

「ありがとう」


 叶恵の武器は“予測”だ。今はその“予測”に対応する力がない。頭でわかっていても、身体がついていかない。必要なのは、全身の動きを支える下半身の筋力アップ。

 環は叶恵のためにトレーニングメニューを作り直した。

 バーベルスクワット、レッグプレス、レッグカール……。まずはマシンを使って筋力の肥大から。そして徐々に実践的な筋肉の使い方の訓練。

 下半身の筋力がつけば、ボールの突然の方向転換にも対応できる。相手に横から身体をぶつけられても、芯がぶれることはない。行きたいと思ったところに、行ける。

 このトレーニングの成果がでたとき、叶恵はフィールドにいる誰よりも先にボールに触ることができる――


    *



「叶恵、ナイス! 前出して!」

 辛うじて敵の猛攻から逃げた叶恵の、顔を上げた先に環がいた。

「環ちゃん……!」

 もつれる脚を懸命に動かしながら、クロスを振りかぶった。

「早く!」

 叶恵の後ろから朱里が襲い掛かる。その風圧か、はたまた実際にクロスが当たったのか、叶恵が投げたボールは軌道を大きく逸れサイドラインを割った。

「そう簡単に失ってたまるか……! ここで決めないと守備陣にかっこがつかないんだよ!」

 環はサイドラインを超えてボールにクロスを伸ばした。空中でボールを引っかけ、身をよじる。そのままオフィシャルベンチの長机に、音を立てて雪崩れ込んだ。

 フィールド内に蘇ったボールを、碧依が拾い上げて息吹かせる。完全ノーマーク状態でゴール前にいたダオに、鋭いパスを投げた。

「ダオ!! 打て!!」

 倒れた机に埋もれながら、環が叫んだ。

 ダオは洗練されていない不格好なシュートフォームで、ゴーリーの膝の横にボールを押し込んだ。4年はまともにプレーをしていなかったが、シュートの打ち方は身体が覚えていた。


『ゴーール! 決まった! 同点の拮抗を破ったのはNEO! 伏兵グエン・ダオ選手! このリーグ、いえ、社会人になって初のリーグ出場で初シュートを決めました! 名前からして、ベトナム出身でしょうか? 中本さん、あの選手について何か知ってますか?』

『彼女は日本代表チームでも分析スタッフとして活動してくれている人物です! まさか選手としても活躍しているとは……恥ずかしながら知りませんでした』

『それにしてもさっきの喧嘩をみて、すっかり次は環選手が決めるものとばかり思ってましたが……まさかフェイクの喧嘩じゃないですよね……?』

『だとしたら相当な女優ですね!』

 アナウンス席が面白おかしく談笑する。


 環が机から身体を起こすと、翠が顰め面で手を差し伸べていた。環は顔を逸らしながら、翠の手を取る。


 ピピ――

 NEOメンバーの歓喜ムードに水を差すように、ホイッスルが鳴り響いた。

『……おっと……。これはなんでしょう』

 会場は、ゴール前に集まり不穏な空気を漂わせる審判員らに注目した。審判員の1人が、ダオが使用していたクロスを掲げて叫んだ。

「ただ今の得点、クロスの違法(イリーガルクロス)により、ノーゴール!」

「なっ」

 会場に響いた審判を聞き、NEOのメンバーは顔をひきつらせた。

「ぜ、全バック!!」

 ダオの元に駆け寄ろうとしていた翠が、フィールド中央でメンバー達に向かって号令をかけた。メンバーは慌てて守備陣営へ戻る。

『なんということでしょう! クロスチェックに引っかかりました! ラクロスの試合では毎得点、シュートを打った選手のクロスが、ルールに則ったクロスかどうかの確認が入ります』

『女子用クロスは、紐の網部分の深さが厳密に定められています。使っているうちにいつの間にか深くなっていたりするので……、事あるごとに微調整しなければならないんですが……』

 イリーガルと判断されたクロスはそのQ(クォーター)間、審判員に没収される。返却されるまでは別のクロスを使用しなければならないため、選手達は2本以上のクロスを常に使える状態(・・・・・)にして持ち歩いている。

「えーっ! こないだ買い替えて志麻に編んでもらったばっかりなのに! やっぱドローやると伸びやすくなるなぁ」

 一華がベンチで落胆する。ダオが使っていたクロスは、一華のセカンドクロスだった。ドロワーはクロスの背面にボールを挟んで押し合うため、そのクロスの紐は傷みやすく、通常よりも頻繁に手入れをする必要がある。

 ダオはメンバーの誰かのセカンドクロスをベンチから拾い上げ、フィールドへ駆け戻った。

『ダオ選手、審判員資格を持っていながら痛恨のミスですね! 相手ボールです。それもフィールド中央から開始される、かなり不利な状態になります!』

「あっ思い出した! あの子、よく試合の審判吹いてる子だよ! うちの試合もよく吹いてるよ!」

 試合の偵察をしていたカメリアルズの控え選手が、アナウンスを聞いて合点がいったように手を叩いた。


 ダオが攻撃側に残ることで、NEOはATメンバーが1人、守備を担うことになる。

 ATメンバーの中で最も早く守備サイドに戻った千尋が、守備に参戦した。


 ピッ

 NEOの守備陣の陣形が整う前に、試合は再開された。ボールマンには深雪が付いたが、隙をつかれて引きずられるように押し込まれた。

「千尋! フォロー!」

 千尋は翠の指示に従い深雪のフォローへ向かうが、ポジショニングがずれ、深雪にぶつかりむしろ邪魔になった。ほぼノンプレッシャーとなったボールマンはゴールへ直進した。

(まずい……!)

 翠がなんとかボールマンの前に身体をねじ込み、勢いを止めた。ボールマンがスピードを緩めると、ホイッスルが鳴った。

「タイムアウト、GHOST FLY」

 ゴースト側のタイムアウト申請だった。フィールド内ではキャプテンか、ボールを持った選手がタイムアウトを申請できる。今回はキャプテン・万利阿からの申請だ。翠は万利阿の横顔を盗み見た。

(……? まぁいい、助かった……)

 NEOのメンバーは息を切らしてベンチへ足を向けた。

 試合は、残り10分を切った。

「す、すみません。私……。フォローのタイミングがいまいち掴めてなくて……」

 千尋が深雪に追いつき、申し訳なさそうに溢した。

「うん? うん……」

 深雪はどこか上の空で返事をした。翠が横から口を挟んだ。

「あの肉弾戦車以外は、油断さえしなければ周りで抑えられる。必要以上に謝らなくていい。後輩に謝らせるなんて、守備の美学(ポリシー)に反する」

「……あ、……はいっ」

 千尋は気を引き締めるように返事をし、メンバーが集まる場所へ向かった。


「深雪」

 翠は深雪の顔を窺った。目が合わない。

「深雪」

「あ、うん」

 一華が怪我をしてから、明らかに集中が切れている。何も考えずに戦って勝てるほど、今回の相手はヤワじゃない。

 翠は目を窄める。両手を伸ばして、深雪の頬を両側から思いっきり叩いた。

「わぁっ」

 深雪は足を止めた。音と痛みに驚いて視線を下げた。

 翠が、深雪の頬を両手で挟んだまま下から凄む。

「このチームは一華が創ったチームだけど、一華のものじゃない。もうあいつ1人に背負わせないって決めたよね」

 翠の薄く黄みがかった瞳が、深雪を問い詰める。


 深雪は短く息を吸い込んだ。

 学生時代、伶歌がチームから去った時。涙を流して立ち尽くす一華にしがみついて、己の非力さを悔んだあの日。一華が抱えているものを知った日。一華の弱さを知った日。

 護りたい。救いたい。力になりたい――

 深雪は、自分の顔に押し付けられた小さな掌をゆっくり剥がした。

「……ありがと」


 遅れて輪に加わった深雪の顔を見て、一華はふっと笑みを溢した。

「さぁ残り10分。何する?」

 腕を組む一華の背中から、ざぁと強い風が吹き抜けた。一華の短い黒髪が、風に合わせて逆立つ。

 一華の一言で、メンバーの心の中に渦巻いていた焦燥は色を帯び、高揚へと姿を変えた。



「叶恵さん、さっき、なんでボールが転がる方向がわかったんです?」

 守備サイドに戻りながら、碧依が飛び跳ねながら叶恵に尋ねた。

「え……いや、碧依ちゃんのクロスの向きで予測しただけだよ。用意ドンで競争しても敵わないし。先回りして拾おうと思って」

 叶恵が控え目に答えた。

 普段ドローサークル周りを担う碧依は、それが簡単ではないことを理解していた。

「叶恵さんすごいですね……。覚醒しましたね」

 碧依は目を輝かせた。

「えっ? そうかな。碧依ちゃんがドロー、どんどん上手くなっていくのみて、テンションあがったっていうか……。緊張するのを忘れてたのはあるかも……」

「えっ、碧依のおかげってことですか……。ま、まぁ、貸しときますよ……」

 碧依が満更でもない顔で横を向いた。

「……誰かの才能に充てられて、思い込んでるだけの限界を超えていく。それが凡人の楽しみ方」

 2人の後ろで翠が呟いた。

 少し離れたところで、深雪が一心にクロスの紐を結び直している。

「自分で気が付いてないところが、玉に瑕……」

 深雪に目をやりながら、翠は息をついた。


「……!」

 タイムアウト明け、ゴーストの攻撃陣がとった配置を見て、翠と志麻は目を見合わせた。

 ゴール裏に常に位置取りしていた朱里が、ゴールから距離を取って万利阿の隣に移動している。前半に一華が怪我をしたときに取った、強引に守備選手を変える戦術だ。

「またそのピック&ロールか……」

「しかも一華の件でトラウマになってる深雪を狙って……性格悪い」

 翠は舌打ちをした。朱里がゴールから離れMFの配置に上がることで、深雪の守備範囲に近づく。

「まぁ、思い通りにはさせない……!」

 翠は手を伸ばし、朱里に向かって出されたパスをパスカット(インター)した。しかしボールはクロスに収まらず、クロスのフレームに当たってフィールドに落ちた。

 そのダウンボールに千尋がいち早く反応し、ボールを掬うために身を屈めた。同時に、朱里も動いた。

 それを見た深雪は、背筋が凍った。

 このままいけば数秒後、千尋と朱里の正面衝突はまぬがれない。超重量級の朱里の前では、千尋の小さな身体は耐えられない。

(どうすれば……)

 2人よりも先にボールをとれば、いや間に合わない。朱里のやつ、ハナから千尋にぶつかるつもりで……。

(守らなきゃ……)

 深雪は真横から、朱里に身体をぶつけた。突然の横からの攻撃に朱里は身体をぐらつかせる。深雪はその脇から手を伸ばし、クロスで引っ掻くようにボールを動かした。

 ボールは丁度朱里の進行方向とは真逆、千尋の進行方向上に転がった。

 朱里は片足で踏ん張り切り返すが、体勢をそのままに速度を上げた千尋の方が速い。千尋がボールを救い、既に走り出していた碧依に投げる。

「ふは。シブイね~深雪」

 ベンチに胡坐をかいて座る一華が、空を仰いで笑った。


 NEOに攻撃権が渡った。

 攻撃陣はゴール際30度付近に散らばり陣形を取った。

(なんやこの配置……)

 ゴーストの守備陣はNEOの攻撃陣の動きに警戒を示した。

 ゴール右脇から光がドライブをしかけ、ゴールの裏の環へパス、そこからゴール左脇の千尋へボールを回した。今度は千尋からドライブ、環を経由し光へ回す。3人は何度もその動きを繰り返した。

(何を企んでる……?)

 ゴーストのゴーリー・寿が訝しんだ。千尋か光のどちらかがゴールへ向かって仕掛けてくることにより、何度もポジショニングを取り直すことになる。

「っおい! ええ加減に……!」

 3人は野次を無視して同じ動きを続ける。

「……っすかしてんな。好きなようにはさせへん」

 寿はしびれを切らし、ポジショニングをずらした。光からゴール裏にいる環へのパスをパスカット(インター)しようと前へ出る。

 それを目の端で捉えた光はパスを出しやめ、反転しもう一度ゴールへ向かって仕掛けた。

「!」

 寿のポジショニングがずれ、光からはシュート可能なコースが見えた。

 光の動きに危機を覚えた環のボールマンが、環から離れて光のもとへ寄る。

「阿保、つられるな!」

 寿が叫ぶ。

「あっ」

 完全フリー状態となった環がゴールサークルの裏を周り、反対側へと移動した。光から環へのパスがゴールサークルをつっきった。

 今度は千尋の対面が反応し、環を抑え込んだ。

「ごちそーさま」

 環は不敵に笑い、ゴール前へボールを落とし込んだ。

 落ちてくるボールを、千尋が受け止めた。軽やかにゴールへ投げ入れようとし、寸前で動きを止めた。

「ッ」

 寿は既にポジションを取り直し、千尋に正対していた。千尋はその威圧に絡み取られた。

「千尋迷うな!」

「……ッ」

 千尋は寿の持つクロスの反対側、一番スペースの空いている場所へシュートを打った。

 ボールはいとも簡単に寿のクロスに収まった。クロスを素早く左右に振る動作は、寿の最も得意なプレーだった。

「ざ~んねん。これでおしまい」

 寿はゴーストの攻撃サイドへ向かってボールを投げようとした。

 そのとき、寿の視野が陰った。寿は突如現れた影に驚き、腰を引く。


 環がゴール脇から寿の前へ移動し、体が引きちぎれそうなほどに身体を伸ばしていた。

 ちょうどその環の正面に、ベンチに腰掛ける一華の姿が見えた。一華は眉間に皺を寄せ、険しい表情を浮かべている。

(なんだよ一華、私たちだけじゃ不安か……? 確かに一華のいないフィールドは華がないよな。あんたが私をここに引きずり込んでくれた代わりに、今度は私が、紐括りつけてでも高みに連れてってやるから。そこでゆっくり待ってなよ……)

 ボールは環のクロスのフレームにあたり、フィールドに落ちた。

 ゴーストの守備陣は既に攻撃側に走り出している。NEOの攻撃陣も、守りの体勢に入っていた。落ちたボールの周りには誰もいない。はずだった。

 しかし、ボールは地面に着きもう一度跳ね上がった瞬間、クロスに攫われた。

 深雪が身体を倒し片足で踏ん張りながら、クロスでボールを掴んでいた。環がボールに手を伸ばしたときには既に、クロスに当たることを予測して準備していたのだ。

 体勢を崩しながらボールを獲得した深雪を見て、環は誇らしげに口角を上げた。

「さっすが仕事人。いい仕事すんね」

「そっちこそ。やってくれると思ってたわ」

 深雪はそのままクロスを引き上げ、アンダースローでシュートを放った。


『ゴ、ゴール……! 3対2! 試合終了間際、追加点が出ましたNEO! 代表ゴーリー寿選手のミス……いえボールが当たったのは奇跡……ですよね……? なんで深雪選手はあんなに速くボールのところに……』

 アナウンス山岸が不思議そうに首を傾げて中本の意見を仰いだ。

『……奇跡は、諦めない人のところにしかやってきませんから……』

『環選手が諦めないことを、信じていた……? 結成初年でこのチーム力、痺れますね……!』

 山岸が感嘆した。

(……花形選手じゃない、影の選手の機動力……。エース不在でこの底力……。怖いチームが勝ち上がってきたな……)

 中本は、シュートの反動でグラウンドに這いつくばる深雪を感心して見つめた。


「……入った……」

 深雪は四つん這いになり茫然としていた。

「……はぁ、うぇっ」

 背中に鈍痛が走り、呻き声をあげて身体をよじると、翠が顔を埋めてしがみついていた。

「翠……」

 翠の頭に手を伸ばそうとすると、翠は出し抜けに立ち上がった。

「深雪さぁん!」

 代わりに千尋と光が深雪の頭を撫でまわした。

「痛い痛い痛い」

「大丈夫か?」

 環が深雪の手を引いて立ち上がらせた。

「深雪~! いいね、深雪らしいよ!」

 一華がベンチから叫んだ。

「よし。みんな、後は全力で逃げ切るだけだ!」

 環がメンバ―を見回し、士気を上げた。


 ラスト1分、ドローは碧依の目の前に浮いた。碧依は流れるようにボールを抑え込み、クロスに収める。

「っし!」

 一華が拳を握った。この試合最後のドローは、碧依が完璧にコントロールした。

 同時に深雪、叶恵が碧依の視野内に走り込む。クロスを叩き落とそうと迫りくるゴーストのMFを軽やかにかわし、深雪にボールを捌いた。

 ゴーストのMFはなりふり構わず深雪に襲い掛かる。深雪は身を引き、後ろに構える翠へボールを回す。

「くそっ。時間潰してくるで! DF陣追いかけまわしてミス誘うんや! パス出し際を狙い!」

 ラスト30秒。万利阿がゴーストのメンバーに指示を出す。

 翠はボールを持って自陣のゴールへ向かって走った。それをゴーストの攻撃陣が追いかける。翠は攻撃陣に追い詰められそうになってもスピード緩めず、パスフォームも取らない。

「⁉ あいつ試合終了までボール持って逃げるつもりなんか⁉ そうはさせへん!」

 朱里は翠の正面に先回りし通行を妨げた。翠は立ち止まり、朱里を見合上げた。朱里が歯を剥き出しにして、翠の持つクロスに手を伸ばす。翠は鼻を鳴らした。

「自分で言ったのに忘れた? ラクロスは、攻撃側が圧倒的有利なスポーツだって」

「⁉」

 朱里の身体が揺れる。志麻が朱里と翠の間に身体を入れ、背中で朱里を阻んでいた。それでも朱里は唸り声をあげなから、志麻に覆い被さるようにして翠を捕えようとする。

 ラスト10秒。

 ぽすっ

 翠はボールを自陣のゴールサークル内に投げ入れた。ボールはゴールネットの裏側にあたり、地面に転がった。潤がそれをゆっくりと拾い上げる。

「っ……!」

 朱里は動きを止めた。

 ゴールサークル内で、ゴーリーがボールを所持し続けて良い制限時間は10秒。これで、必然的にNEOの勝利が確定した。

「悪いけど、こっちも色々と譲れないんだよ」

 志麻がアイガードを外し、額にへばりつく髪をかき上げた。

 試合終了のホイッスルが鳴り響く。朱里はその場に膝をついた。


『決勝進出はNEO(ネオ) THUNDERS(サンダース)! 主力選手を欠いてなお、踏ん張りを見せました。次戦は一週間後、東京会場にて無敵の絶対王者CAMELLIALS(カメリアルズ)とクラブ日本一をかけた戦いを繰り広げます!』

『最後はNEOの作戦勝ちですね。ラクロスはボールがクロスから離れる瞬間がない分、ボールを離さない選手からそれを奪うのは相当訓練しなければ困難です。攻撃重視のゴーストに、奪う戦術がないと踏んでの選択でしょうね』

 アナウンス席は試合を振り返り、考察論議に花を咲かせた。

『ん~なるほど。賢いですね。でもやはり、いちラクロスファンとしては激しい攻防が繰り広げられる試合が見たいですねぇ』

『そうですね。本場アメリカでは90秒以内にシュートを打たなければ攻撃権を失うという、“90秒クロック”というルールがあるんですよ。それが日本にも導入されれば、“キープ”という考え方はなくなると思います。まぁ、今回のNEOにとってはエース・一華選手がいない状態での、現時点での最善の策でしたね』

『日本ラクロスはまだまだ発展の余地があるスポーツですね! しかしNEO、一時はどうなることかと思いましたが……しっかり形になっていましたね』

『ドロー、攻撃の起点、そして司令塔の役割……全てをみんなで少しずつカバーし合っていました。むしろ一華選手が抜けることで自分がやらなきゃという意思が芽生えたんでしょうね』

『仲間の成長ですね! それは一華選手にとって嬉しいことでしょうね。1人でなんでもやるのは苦しいですから』

『……そうですね……。それがラクロスの楽しいところですよね。きっと』

 中本は、ベンチに集まり抱き合うNEOのメンバーたちを眺めた。

(カメリアルズと戦うことばかり考えていたが……これは案外わからないな)



「くそっ。こんなぽっと出の新参チームなんかに……。また一年やり直しやん……。何年……。何年かかる……。なんでこんなに、遠い……」

 唇を噛む朱里の頭を、万利阿が軽く叩いた。

「万利阿さん……」

――今年いっぱいで引退を考えてる。今年こそ絶対に日本一獲るで

 朱里はシーズン前に万利阿が言った言葉を思い返した。

「いやや、万利阿さん……」

 朱里が縋りつくと、万利阿は優しく笑った。

「まだ日本一獲れてないのに、辞めれんよ」

 朱里はしゃくり声を止めた。

「新チームの分析が足りなかっただけやん。来年しっかり準備して、NEOも、カメリアルズも、全部倒して日本一獲ろうな」

 そう言うと踵を返し、朱里から離れた。

「はい……うぅ……」

 朱里は顔をくしゃくしゃにして涙を流した。

「……こんなん、いつまでも辞めれんなぁ……」

 大きな体で子供のように泣きじゃくる朱里を肩越しに振り返り、万利阿は呆れたように笑った。



 メンバーの肩を抱き喜びを分かち合っていた一華は、ふと視線を感じ振り向いた。

 カメリアルズの控え選手とマネージャーが、NEOの試合後の様子をデオカメラに収めていた。一華の目線に気がつくと、おくびにも出さずにカメラから顔を上げた。

「いよいよ大本命ね」

 隣にいた深雪が睨みを利かせた。カメリアルズの偵察部隊は、紺色のジャージを翻して立ち去った。

「はっ」

 深雪が何かを思い出し、NEOメンバーに向き直った。

「みんな、帰りの新幹線の券買った⁉ 明日仕事よ! さっさと着替えて東京に帰るわよ!」

「うわっ終電何時でしたっけ⁉ 有給取ればよかった」

 深雪に急かされ、メンバー達はわたわたと更衣室に向かった。一華も小走りで群れを追う。

「え~、たこ焼き食べないの⁉ どわ⁉」

 急に足を掬われ、素っ頓狂な声を上げた。志麻が両手で一華を抱き上げていた。

「志麻、何! 降ろして!」

 心許なさから、一華は志麻の腕の中で暴れた。

「お願いだから今日は安静にして。……一華、軽いね」

「えぇ? 毎日トレーニングしてやっと70㎏まで増やしたところなんだけど⁉ くそ~落ち込む」

 顔を覆う一華を面白いでも見るように見下ろし、志麻はゆっくりと更衣室に向かった。


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