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6-口にすると途端に胡散臭くなる言葉。革命、運命、真実の愛



「奪うDF(ディフェンス)……?」

 日曜の練習を終え、NEOのメンバーたちは次の試合の戦い方について話し合っていた。都内のカラオケルームをミーティングスペースとして活用している。カラオケ用の液晶画面に試合の映像を写すことができ、大勢での利用が可能。どこにでもあり、格安だ。

「そう。今後、こないだのクロスハーツみたいに、ロースコアの展開に持ち込んでくるチームが出てくるかもしれない。そうなったときに能動的にボールを奪う手段がないと状況を打開できない」

 翠が腕を組み、意見を述べた。

 ルール上、ボール保持時間が制限されていないため、攻撃側はボールを失わない限り攻め続けることができる。交代メンバーのいないNEOにとっては、守備時間が長くなることは致命的だ。

「一理あるね。よし、NEOのボールの奪い方についてブレインストーミングしよう」

 一華が立ち上がって大きなホワイトボードを移動させた。

「ブレ……なんですかそれ?」

「光はおバカちゃんだなー! いいからみんな、付箋持ってきて!」


「まずは“ボールを奪う”。このキーワードで思いつくこと全部、ひとつずつ付箋に書いて!」

 一華はペンと付箋をテーブルの上に転がした。

「ちょっと一華~。説明が足りないわよ」

 頭上に疑問符を浮かばせたメンバーを見て、深雪が咎めた。

「書いたらどんどんホワイトボードに貼って~」


『相手のパスミス』

『ダブル』

『インター』

『チェイス』

『ゴーリーセーブ』

『攻撃の起点』

『体力が必要』

『コミュニケーションが必須』

『リスクがある』

『短時間の勝負』

『ボールマンにプレッシャー』

『ゾーンディフェンス』

『裏に追い込む』

攻撃値の低い選手(逆キーマン)を追い詰める』

『わざと打たせる』


 一華はホワイトボードに貼られた付箋を見て何度も頷いた。

「ふむふむ。じゃあこれを、同じもの同士はまとめて整理しよう。グループ分けしたら、そのグループに名前も付けて」

 『概念』、『手段』、『懸念点』のグループ分けられた。

「じゃあこの中で、このチームの特徴を考えたときに、現実的でないもの、ふさわしくないものはよけて。理由も込みで」

「ボールマンにプレッシャーをかけ続けるのは、人数も少ないし、体力的に厳しいんじゃないかな……?」

 志麻がホワイトボードに近づき、該当する付箋を外した。

「ゾーンディフェンスは固く守るためにやるもので、能動的に奪うのには向いてない。でもうちのチームの特徴的には合ってる。それぞれが専門的な特技を持っていた方が上手くいくから、別の戦術として持っていてもいいかもしれない」

 翠が高い位置にある付箋を指さし志麻に外させ、グループから離れたところに貼った。

「攻撃値の低い選手(逆キーマン)を追い詰めるっていっていうのは、不両立関係だと思うよ。ボールが回ってこないから逆キーマンなのであって、そこを狙い目にしていたら奪える頻度が下がると思う。戦術としての成功率が低いよ」

 叶恵が人差し指で眼鏡を押し上げた。

「白熱してるね……」

「光なら、わざと打たせるのはなんかむかつく。って思うだけかも」

 攻撃陣が守備陣の偏執的な会話について行けずに聞き手に回った。

「守備陣、理論派が多いから……」

 守備に加わるはずの深雪も気圧された。

「じゃあこの残った中で、一番わくわくするものはどれ⁉」

 一華の眼が光彩を放った。褐色の肌に色艶すら浮かばせている。

 守備陣は一華の表情を見て逡巡した。

「やっぱダブルだろ⁉」

 一華の気勢につられるように、環が目を輝かせて言った。

 一同顔をひきつらせ、翠が手を伸ばして環の頬をつまんだ。

「環、軽はずみな発言は控えて。自分が守備に入らないからって」

 ダブルというのは、ボールマンに対して2人のDFがつくことだ。ボールマンに向かっていく2人はもちろんのこと、それ以外の4人が守る範囲が膨大となり、かなりの運動量を要する。

「でもまぁ、辛いけど、一番早く奪えるのは間違いないわね……。ハイリスク・ハイリターンってやつね」

 深雪が中立の立場を保った。

「じゃあ、ゴーリーもダブルに参加するのは?」

「……は?」

「えっ」

 一華の爆弾発言に、潤が驚いて声を上げた。

「でも……やってやれないことはない……?」

「確かに。そもそもゴーリーを含めれば守備の方が人数多いんだから」

「……場所による。あと、タイミング。ここは?」

 守備陣が早速立ち上がってホワイトボードに顔をつき合わせた。翠が図にペンを入れる。

「面白いじゃん! どう潤!」

 一華が潤の意見を仰いだ。

「え~無茶な先輩たちだな~」

 潤は、溜息をついた。自分を置いてダブル談義に花を咲かす守備陣と、満面の笑みを浮かべる一華を交互に見て、大きく息を吸う。

「ったく! 先輩たち! ゴーリー抜きでなに話進めてんすか! 主役は自分すよ!」

 守備陣の話し合いの中に割り込んでいった。

「これ……ブレインストーミングやる意味あった……?」

「固いな~深雪。そういう固い頭を柔らかくするための作業でしょ?」

 意見をぶつけ合い騒ぐ守備陣を見て、一華が笑った。

「自分たちで考えた感って大事ですよね」

 メンバーが出した意見やホワイトボードに書かれた文字を、ダオがノートに書き移す。

「……ダオってたまに無粋なこと言うわよね……。まぁ、人に指示された戦術より、自分で考えた戦術の方が楽しいのは確かね」




「日下部、昼休憩行けよ」

「あ……はい」

 深雪は肩をほぐしながら掛け時計をみた。

 週のど真ん中。今日は午後に商談の予定。それまでにこの書類の作成は済ませたい。取引先は家の方向だし商談が終わったらそのまま直帰しよう……。でもさすがにエネルギー足りないな。炭水化物取らないと、環に怒られちゃう。

 深雪はひとつ伸びをして、財布を持って席を立った。

 オフィスを出て、新鮮な空気を吸い込む。空を見上げると厚い雲が太陽を遮り、気づかないうちにやや肌寒い気候となっていた。カフェでパスタでも食べようと通りに向かう。すると後ろから、小走りで誰かが近づいてきた。

「深雪さ~ん」

 深雪は声の主を見てぎょっとした。深雪と翠の前所属チーム、サンベアーズの主将・愛奈だった。

「愛奈……? どうして……」

 深雪は、あからさまに落ち着かない様子で愛奈を見た。サンベアーズを辞めた日以来、いやそれ以前から、深雪はどことなく愛奈のことを避けていた。

「向こうの通りにうちの店舗があるんですよ~。そう言えばこの辺のオフィス、深雪さんのとこの会社だったなって思って。そしたらやっぱり会えた! 運命ですね!」

 深雪は言い知れない物恐ろしさを覚えたが、深く考えるのはやめた。

「仕事が一区切りついたんですけど、そろそろお腹空いたな~って」

 彼女の意図する方へ誘導的されているのはわかっていても、それを理由もなく無下にする勇気がなかった。

「あ……そっか。お昼行く?」

「え、いいですね~! 深雪さんが誘ってくれるなんて嬉しい~。行きましょう! わーい。久しぶりですね」


 2人は個人経営の小さな喫茶店に入った。サンベアーズを辞めると愛奈に告げた時の喫茶店に、雰囲気が似ていた。

 あの日のことを思い出し、深雪はのっけから気が滅入った。

「私、オムライスにします。深雪さんは?」

「カルボナーラにするわ」

「いいですね~! 一口ください!」

「え? うん。いいけど……」

 深雪はそばにあったお絞りで手の汗を拭いた。

「新しいチーム、どうですか? もうすぐうちと試合ですね~」

 愛奈は顔の前で指を絡ませ、張り付いたような笑顔で深雪を覗き込んだ。

「楽しいよ」

 なるべく力を込めて言った。弱さを見せれば付け込まれる。

「試合見ましたよ~。深雪さん、1on1上手くなりましたよね~。びっくりしちゃった。さすが先輩って、見惚れちゃった」

「ん~。ありがとう……」

 深雪は幾分居心地が悪くなった。褒められることにあまり慣れていなかった。どんな反応を見せてよいのかわからない。

「どれくらい練習したんですか? 結構大変だったんじゃないですか? 身に付けるの」

「どうかな……。そんなことないよ。あれくらい……」

「NEOってそういう話、しないんですか?」

 深雪はNEOの練習や練習前後の風景を思い浮かべた。話すのはもっと具体的なステップの、足の向きとか、位置とか、重心をどうするとか……。

「……うーん。しないかな。自分がどれだけ努力したとか、そういうのを言う人たちじゃないから……」

「でも褒められたら嬉しくないですか? また褒められたいって、頑張る気力になりませんか? 必要とされたいって」

「……」

「うちでは最近定期的に『褒め合う会』っていうのやってるんですよ。お互いのいいところを具体的に褒める会です。すごく、満たされた気分になるんですよ~。みんないい顔してて。愛に溢れたチームなんです」

 深雪は頭痛がした。

 確かに褒められて悪い気はしないが……。褒められたいと思ったことはなかった。深雪にとってのラクロスは、自己実現のための手段ではない。新しいステップも、守り方も、シュートもただ純粋に、ラクロスが好きで、研究していった結果身に着けたものだ。それは、誰かに認められるための選択ではなかった。

「まぁ、一華さんは強い人ですもんね。人に頼って、必要なんだって言ったり、求めたりする人じゃないですよね。でもそれって寂しくないですか? 愛が足りないっていうか」

 深雪は押し黙った。一華の精悍な後ろ姿を思い浮かべた。力になりたいと思っていながら、一華本人に、「必要だ」と明言されたことはない。一度も、必要とされたことは……。

「お待たせ致しました。オムライスとカルボナーラで御座います」

 ウェイターが料理を持ってきて、2人の前に並べた。




 翠は、職場である都内私立高校の保健室の窓のブラインドに指をかけた。

 昼下がりから降り出した強い雨で、室内の床や壁には湿っている。外の部活動は中止。運動部は教室でトレーニングに励んでいる。

 あと1時間ほどで下校時間というところで、保健室のドアのノックする音が聞こえた。

「失礼しまーす。二階堂先生、突き指した~。氷ください~」

 バレー部の女子部員が入ってきた。翠は溜息をつきながら、生徒に処置を施した。

「念のため病院には行くこと」

「はーい。ねぇ、先生って誕生日いつ?」

 女子生徒が首を傾げて尋ねた。翠は「なんで?」と生徒に顔を向けた。

「もうすぐ、付き合って初めての彼氏の誕生日なんだ~! 何したら喜ぶかってずっと考えてて! 何かいいかな? やっぱり手作りだよね! 私もう彼のこと大好きで、彼のためなら死ねるっていうか」

「そう。死ぬ前に保険に入りなさいよ。私の誕生日は、2月30日」

「そうなんだ~! ……って、2月に30日なんてないよ!」

「よく気づいたね。早く部活に戻りなさい」

 翠は生徒を保健室の外に追い出した。

「先生のけち! 失礼しました~」

 部屋を出るときは律儀に頭を下げて、生徒は体育館へ戻っていった。

「翠先生、生徒と仲良しなのね~」

 閉められたカーテンの内側から、気怠そうな声がした。翠はカーテンの隙間から、保健室のベッドに仰向けになる人物を覗き込んだ。

「深雪。さぼり? そこは学生がさぼるところ」

 深雪はオフィス仕様の仕事着のままベッドの上に大の字になっていた。深雪は人材関係の会社の営業部に務めている。この学校も顧客のひとつで、今日は代理店の代わりに商談にきていた。

「さぼりじゃないわ。低気圧のせいで頭が痛いの……」

「……気圧と人間の頭痛に医学的関係性は証明されてない。ホルモン分泌の波だと思うよ。それか眼精疲労」


 深雪は目頭に力を入れた。定期的に、頭にずきずきと刺すような痛みがある。そういうときは決まって雨の日だ。と、思っていた。翠に論破されて、さらに痛みが増したような気がする。

「一華は? 今家にいるの?」

 翠が片手を白衣のポケットにいれ、もう片方の手で湯を沸かしながら聞いてくる。

 一華は時々、行先を告げずにいなくなる。亮介に雇われて平日は大学のラクロス部のコーチをすることになったと言っていたが、今日は雨だ。練習はないだろう。しかし朝から姿が見えなかった。いや、夜も帰ってなかったのか……?

 残業で深夜近くに帰宅した深雪は、昨夜はシャワーも浴びずに寝床に雪崩れ込んだ。一華の存在を確認する余裕はなかった。

 深雪は保健室の味気ない天井をぼんやり見ながら、昼に愛奈に言われたことを思い出した。黒ずんだカビを見つめながら、独り言のように呟いた。

「私って必要とされてる?」

 1人で生きていける人間。迷わず歩く、強い灯。そんな一華にとって、私はなんなんだろう。ちっぽけで弱い私は、何をしてあげられるんだろう。

「…………一華に?」

 翠はインスタントコーヒーの粉を掬った。

「急に情緒不安定な小娘みたいなこと言うのやめてよ」

 翠は電気ポットからマグカップに湯を注いだ。取り付く島もない翠の態度に、深雪は息を漏らした。翠が続ける。

「一華は、何かを必要となんかしない。深雪も、一華を必要としているわけじゃないでしょ?」

「……」

 深雪は翠の言わんとすることがわからず、黙って天井のしみを追った。体調の悪い日に翠と口論しようとするなんて、愚の骨頂だ。それなのに、まとまらないままの思考が、口を突いて出る。

「なんでもかんでもそうやって理論武装しないでよ。翠には感情ってものが欠けてるわ。愛がない」

 今度は翠が黙った。口に持っていったコーヒーに、息を吹きかけるだけ吹きかけて机に戻した。

 深雪は腕を額に充てた。感情論(ヒステリー)で翠を黙らせたことに、少し満足している自分が嫌になった。

「ないものはない。それが私」

 翠はそう言って目を伏せて、もう一度カップを持ち上げた。

 この人もまた、強い。自分が生きる、その場所から、動かない。何も押し付けない。

 私は人に、必要とされたい気持ちを押し付ける。居場所をつくってもらおうとする。自分でつくる、自信がないから……。ここまで自分を理解していて、なんで折り合いをつけられないのだろう。弱い……。自分の足で、立てない……。ほら、すぐに泣く……。

「どう思われるかじゃなくて、どう思うかで考えなよ」

 思うことを考える……。なんて難しいことを言うの。翠が紡ぐ言葉は、飾りのない、偽りのない、ともすれば優しさのないものだ。でもそれは私のことを想って、私が強く自分の力で生きられるように、わざと余計なものをはぎ取った裸の言葉だ。誤解のしようのない、ただの言葉。自分を守らない言葉はダイレクトに、相手の心に届く。もしかしたら、これはこれで優しさと言うのかもしれない。

 そう思っても、ささくれ立った心は簡単には通常運転に戻らない。

「……翠には私の気持ちなんてわかんないよ」

 そう吐き捨ててベッドから起き上がった。入ってきたときと同じように、大きな出窓から外に出た。雨はまだ上がらない。よかった。泣いているのがばれなくて済む。



 翠は丸椅子に座り目を瞑って、営業車に戻っていく深雪の足音を聞いていた。深雪の震える声に、気付かないふりをした。両手でマグカップを持って、湯気を散らすように長い溜息をつく。


 翠は自宅に帰るなり仕事用のバッグを部屋の隅に放った。環状線の駅から15分ほど歩いたところにある、6畳一間のワンルームマンション。収納スペースの多い部屋を借りている。

 部屋には装飾品や鑑賞物がなく、家具もない。なにもない部屋。あるのは3人掛けの大きくて黒いソファだけ。テレビもない。時計もない。潔癖症? いや。床も水回りも、ここ1、2週間は掃除をしていない。洗うのが嫌であまり使っていない。洗うのが嫌で、ソファもカーテンも汚れが目立たないたない黒を選ぶほどのものぐさだ。

 どさっとソファに腰を下ろす。

 高級品志向? いや。このソファは量販店での購入。1万円を切っていたと思う。壊れたら、捨てる。汚れたら、捨てる。どうせ捨てるから、なるべく持ち物を増やしたくない。

 目を瞑り、ソファにもたれかかり、深雪が放った言葉を反芻した。

――私の気持ちなんてわかんないよ

 感情がない。鉄仮面。冷徹……。そういったレッテルに、傷ついたことがないと言えば嘘になる。しかし否定もできなかった。感情を乗せて会話をすれば、行きつく先は混沌だ。何も解決しない。そう思っている。しかし全ての会話が、解決を目指しているわけでもないことも理解していた。感情を吐き出しそれを受け止めるだけのコミュニケーションの存在は、受容している。わかってはいても、「そうだね。大変だね」と相槌を打つだけの優しさを、持ち合わせていなかった。

――私の気持ちなんてわかんないよ

 わからない。わからないよ。あたりまえだよ。

 人の気持ちはわからないものだというのが、翠の持論だった。わかってもらおうとすることも、わかっているつもりになることも、危険を孕むものだと考えていた。人の価値感や背景はそれぞれであり、選択肢の多様性は無限だ。お互いが頭の中に描くものには必ずズレが生じ、そして変わってゆく。

 そうだとしたら、深雪が傷つくことになっても涙で枕を濡らすことになっても、私の与り知るところではない。もうだめだと思ったときに、いつでも頼れる存在でいることくらいしか、私にできることはない。結局のところ、私と私以外は別の人間なのだ。

 深く重い息をついた。

 反動をつけてソファから起き上がり、クローゼットを開けた。奥行のあるクローゼットには、服とカバンと、その他日用品、布団もいれてある。

 小柄な翠は、クローゼットの奥や高いところにおいてあるものに手が届かない。台の上に立ち手を伸ばし、さらに無理な姿勢を強いられる。それが面倒で、よく使うものは手前に置いてある。よってクローゼット内部は雑然たるものだ。書物やら何やら、今にも崩れ落ちてきそうなほど積みあがっている。だが扉を閉めれば、中はどんなに散らかっていても気にならない。

 無性に、何か捨てたかった。

 ストレスを感じたり、感じなくても、定期的に物を捨てなければ気が済まない。ミニマリストというより、極度の断捨離依存症であった。いらないものは捨てて生活にメリハリを、という類のものではない。捨てるものを探してまで、捨てる。ときには日常的に使っているものも、いらないと思い込み捨ててしまう。捨てて後悔しないのが、不思議なところなのだが。

(もうすぐ秋だ。夏物の服は……いらない。来年また買おう)

 キッチンから45Lのごみ袋を持ってきた。大きすぎず、小さすぎず、使いやすい。断捨離依存症の必需品である。引き出しから夏服を鷲掴みにし、全てごみ袋にいれた。お気に入りのTシャツも、今年着なかったワンピースも、誰かの結婚式の余興でつかった二度と着ない衣装も……夢中でごみ袋に放り込んだ。空になった2つの引き出しをみて気分爽快だった。

 ピンポーン

 部屋のインターホンが鳴り、翠はびくっと動きを止めた。今夜来客の予定はない。(部屋の壁にかけていた時計は去年捨ててしまったので)カバンにいれっぱなしだったスマートフォンで時刻を確認した。

 深夜0時を回っていた。

 部屋のインターホンは、モニターのついていないタイプ。誰が訪れたのか確認ができない。このご時世、何があるかわからない。小柄な深雪の後ろ姿をみて、学生か何かと間違えて後をつけられていたのかもしれない。翠は居留守を決め込んだ。もし本当にストーカーだったら部屋の明かりを確認しているだろうし無意味だが、しばらく動かず、息を潜めていた。

 持っていたスマートフォンが震えた。翠は再び驚き、画面をみた。電話だ。

 画面には“一華”と表示されていた。翠は気が抜けてソファに戻った。手の甲を額に当て、ソファに寝転がる。スマートフォンをスピーカー状態にし、胸に置いた。

「何? 一華」

 一華の名前を見て安心している自分がいた。依存行為の後はすっきりとした爽快感と共に、罪悪感にも襲われる。一華のおかげで気が紛れた。きっと深雪のことだろう。

「翠ー。終電逃した~。いれて~」

「は?」

 インターホンのことをすっかり忘れていた。玄関ホールにいるのは、酔っ払いの一華だ。


「ばか」

「ごめん、翠」

 頬を紅潮させ、だらしなく目尻を下げた一華が部屋に入ってきた。

「一華酒くさい」

 翠は腕を組み、鼻にしわを寄せた。

「私もう寝るから、シャワー浴びて」

 深雪ならタオルだのシャンプーだの色々と甲斐甲斐しく世話するだろうが、あいにく柄じゃない。

「うん。ありがとう」

 翠は一華の顔を見上げた。垂れた目尻をさらに垂らして笑っている。

 青春時代をずっと共に過ごしてきた友。どんな人間が相手でも、ありのままを受け入れることができる、大きな人。ただ強く、まっすぐ歩くだけで、道端の石ころに命を授け、枯れた草木を芽吹かせる。誰しもの特別で、誰しもの心に生きる人。あらゆる人間の人生のターニングポイントに、この人がいる。いや、この人が出てくることで、道ができる。今日もどこかで、誰かの道標だったのだろうか。

「これどうしたの? クリーニング出すの?」

 一華は夏服が雑に放り込まれたごみ袋を見ながら、Tシャツを脱ぎ始めた。

「え? あ……うん。クリーニング」

 咄嗟に嘘をついた。無駄な心配はかけたくない。不幸自慢はするのもされるのも好まない。一華用のかけ布団を一枚ソファに置いてから、自分用の布団を敷いた。

 くぐもったシャワーの音が聞こえてくる。布団にもぐり、丸まって眠りについた。

 その日はよく眠れた。夢も見ずに、なんだか温かい気持ちで。


「で……て、ん?」

 目覚めると見慣れた顔が目の前にあった。気持ち良さそうに寝息を立てている。

「わっ」

 驚いて思わず退いて、壁に頭をぶつけた。ベッド派であったら床に落ちていただろう。

「つぅ……」

 起きる気配のない一華に呆れて、ゆっくり布団から這い出た。例え翠が床に落ちても、気づかず眠っていたに違いない。

 出勤にはまだ早いが、今日は朝一でやりたいことがあった。

 ごみ袋をひっくり返し、昨晩にがむしゃらに放り込んだ夏服を取り出す。昨日までまるで汚物のように思えた自分の夏服が、一華の一言で息を吹き返した。まだ、来年も着れる。クローゼットからアイロンを出して、白シャツにあて始めた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、優しい眼差しで自分を鑑賞している一華と目が合った。

「……一華……なんで私の布団で寝てたの」

「昨日、肌寒くて。ちょうどいい湯たんぽがあったから」

 一華の鍛え上げられた上腕と、女性にしては広い肩幅を見た。起きたときには身体は触れていなかったが、寝るときは……よく覚えていない。ただ温かくて安らかな夢を見ていた気がする。寝る前までは、最悪の気分だったはずなのに……。

「翠、コンセント抜けてるよ」

「……」

 翠は四つん這いでバタバタと壁までいった。コンセントをさしてアイロンかけを再開する。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み始めた。

「翠、私と深雪と一緒に暮らす?」

 翠は手を止めた。顔を上げて、訝しげに一華を見る。翠と一華の間には、埃に反射した朝日が細かく煌めいている。

 ほら、こんな部屋の埃までもが、一華を際立たせようとする。そんな考え方に自分でも可笑しくなって、ふ、と息を漏らした。

「暮らさない。この部屋よくみて。誰かと一緒に住める性質(たち)じゃない」

 翠は、ソファ以外何もない無機質な部屋を見渡した。

「大事なものとずっと一緒にいられない。苦しくなる」

「私のことずっと大事にしてくれてる。それに、アイロンかけてる」

 渾身の力を込めて閉じた心のシャッターを、秒単位でこじ開けられた。このゴリラは無敵の楽天思考に加えて、物事の確信をつく野生の本能を兼ね備えている。

 翠は、捨てるはずだった夏服に目をやった。

 一華には全てを見透かされている。昨夜ストレスで依存行為に走ったことも、その後激しい罪悪感で苦しむことも。そして、それが人と関わることで緩和されることも。敵わない。

「四六時中一緒にいなければ平気なの。大事だから、捨てたくないから、このままでいて」

 対抗は諦めて、甘えることにした。大事だから距離をおきたい。我ながら理解されようのない自分らしさだとは自覚していた。

「じゃあ、隣の部屋は? 同じ部屋で暮らす必要ないから」

 翠は、一華と深雪との寮生活のようなものを想像した。それは少し面白そう。気心が知れた仲だし、深夜のインターホンに怯えなくて済むし、自分の荒んだ生活を遠方から心配させることがなくなるのはありがたい。自分も案外楽天的だ。

「……考えとく」

 翠は立ち上がろうとした。が、一華に腕を引っ張られて体勢を崩し、片膝を立てて座る一華の隣に尻もちをついた。一華の強い視線とぶつかる。

「きついの?」

 一華の黒い瞳に捕らえられ、息を飲んだ。この瞳からは誰も逃げられない。

「……き、きついよ。仕事にラクロス。組織に2つも所属してるってだけで本当にぎりぎり。でも楽しい。好きでやってる。大丈夫」

 人と精神的に近い関係になることが怖い。心休まる温かな関係を築くことを、無意識に避けている。特定の“親友”がいないのも“恋人”をつくれないのも昔は悩んだものだけど、大人になるにつれて、一華と一緒にいるうちに、これが自分の性質だと受け入れられるようになった。関係性に名前をつけなければ、大丈夫。

 人といると自分の知らない世界に行ける。人の窓から見る世界を美しいと思えたのは、ラクロスに出会えてからだ。

 一華にラクロスに誘われた高校時代を思い出した。人生に光が差す感覚。あれからずっと、自分の人生は楽しい。

「苦しいときは来なくていいからね」

 一華は目を離さない。

 練習の予定、ミーティングの予定、試合の予定……先の予定が決まっていることに圧迫感を覚える。チームのルール、ゲームのルール、社会のルール、束縛感に苛まれ、何もかも投げ出してどこかへ行きたいときもある。それでも、ラクロスを捨てて、仲間たちから離れてまで、それを実行しようとは思わない。

「わかってる。でもラクロスはしたい。楽しさが苦しさを凌駕するから」

 そう言うと、翠の腕を掴んでいた大きな手が離れた。そしてまた、目尻を下げて笑った。

「そ。じゃ、そろそろ帰ろっかな」

 一華は体をしならせ伸びをした。

 翠は一華の横顔を見上げた。つい寸刻前まで鋭い眼光を放っていた目は眠そうに垂れ、頬もだらしなく緩んでいる。

 この顔を守りたいと思った。やりたいことをやって欲しいし、行きたいところに行って欲しい。そしてそれを本人に伝えることは、永遠にないと思えた。



 まだ暑さの残る9月の半ば、試合会場の外のスペースでNEOは準備運動を始めていた。

「今日これから暑くなるんで、水分塩分しっかりとってくださいよ~」

 ダオが塩分補給タブレットをメンバーに配って歩いた。

 スパイクの靴紐を結ぶ深雪の隣に、翠が座る。

「愛の定義がわかった」

 翠の言葉に、深雪は顔を上げた。

「……ふぅん。教えて」

 翠はまっすぐ前を見ていた。NEOメンバーたちが、各々にストレッチをしている。

「相手に何かを求めることでも、相手に何か施しをすることでもない。ただ相手を、見守ること。相手がどんな選択をしても、その存在を許容する。その人がその人らしく生きられるように」

「その人が、その人らしく……」

 深雪は翠を見降ろした。

「つまり深雪は一華を愛してるし、一華も深雪を愛してる。……私もね」

 翠は最後の一言を言う時に、帽子のつばを引いた。

 深雪は翠の言葉に目を瞬かせた。

「見返りの保証がないものだから怖くなる。でも一華を見て。あの人は出会った全ての人を愛せる」

 翠は帽子のつばの影から、千尋と光とじゃれ合う一華を見た。

「相手より先に、相手を信じてる。ああやって、人を愛することを、恐れずにいよう」

 翠はまるで自分に言い聞かせるように言った。

 深雪も、笑い合うメンバー1人1人の顔を見た。

「……うん……」




「ただ今よりNEO(ネオ) THUNDERS(サンダース) vs SUN(サン) BEARS(ベアーズ)の試合を始めます。礼!」

 NEOにとってはブロック最終戦。勝てば全国大会出場、負ければブロック戦敗退の試合が始まった。

 潤が向かいの列の選手を見て、驚きの声を上げた。

「⁉ 萌絵……!」

「お久しぶりです」

 萌絵と呼ばれた若い選手は顎をつきだし眉を下げ、曖昧に笑った。

「あれ、椿森の後輩です。サンベアーズに入ってたのか……」

 潤が深雪に耳打ちした。

「天王大の後輩もいるみたい」

 深雪が列の一番端にいる選手に目線を送った。だいぶ歳が離れていて面識はないが、名前と顔が一致するくらいには有名選手だ。

「前の試合には出てなかったね。新人を青田刈りしたのか」

 志麻が忌々し気に呟いた。

 守備陣やゴーリーにとって“初見の相手”というのは厄介だ。守備は基本的には攻撃の後に動く。走るコースも、シュートコースも、体験したことのある選手相手とそうでない選手相手では、守備側の動きも変わってくる。


 一華がドローポジションにつくと、肩回りのしっかりした選手が一華の前に立った。

「一華先輩、初めまして。リカっていいます。よろしくお願いします」

 顔の全てのパーツが大きいその選手は、活力を漲らせて挨拶をした。ドロワーは、天王大の後輩のようだ。

「よろしく!」

 一華はにかっと笑ってセットポジションについた。


 ピッ

 一華はドローを上に上げる体勢をとっていたが、ボールはあまり高く上がらなかった。一華は反応が遅れ、リカが先にボールに触り、そのまま獲得した。

 サンベアーズボールで試合がスタートした。


 リカがボールを持ち、攻撃サイドへ走った。

 サンベアーズの攻撃の中心は愛奈だ。必然的に愛奈にボールは集まる。と、NEOの守備陣は踏んでいた。

 翠は、愛奈にパスが入った瞬間にはボールに飛びつける距離にいたが、ボールは入らない。リカは愛奈を無視し、そのままゴールへ直進した。愛奈との距離を縮めていた翠は、リカのコースに入ることができなかった。

 それに気づいた志麻が、自分のマークマンを捨ててリカにプレッシャーをかけにいくが、リカはさらに加速し志麻に触られる前にクロスを振った。シュートは潤の股下を抜き、ゴールラインを割った。

 ピ――ッピ


「……! 速い!」

「いい縦抜きだね」

 NEOの守備陣はリカの走ったルートを確認し、素直に感心した。ゴール前に小さく集合し、手早く作戦会議を始める。開始早々、警戒していたキーマンではない選手に先制点を決められ、想定を改める必要があった。

「どうする?」

 翠が腕を組んで守備陣に意見を求める。

「……もう少しこのまま様子見ていいですか」

 潤が、仲間とハイタッチをするリカの後ろ姿を見ながら、現状維持を要求した。


 ドローは再びリカのクロスに収まった。

「ちっ」

 一華はすぐに守備に回った。

「あのドロワー誰?」

 偵察に来ていたカメリアルズの伶歌が呟いた。

 前の時間に試合を終えたカメリアルズはブロック戦全勝を収め、この時点で関東の1位のチームとなった。この試合に勝った方が、関東2位となる。1位と2位チームだけが、全国大会へと進むことができる。

「代表候補の子。天王大よ。後輩じゃない。知らないの?」

 代表選手である紅が答えた。紅は、リカとは代表練習で何度か顔を合わせていた。

「言われてみればドローのフォーム、伶歌さんと同じですね」

 董がリカを目で追った。

「天王のドローって、確かに代々押しのテクニック系ですよね。一華さんは全然違うけど……」

 リカのドローのフォームは右手を使った押しドロー。ボールを上から擦るように弾き、浮いたボールを反応の速さで捕まえる。手段は伶歌と同じだが、リカには力もあった。伶歌はテクニックを駆使する前にクロスごと一華に持っていかれるが、リカは一華と同等の力でそれを相殺していた。

 リカは、先程と左右対称のコースをめがけて切り込んだ。

 すぐにリカの走るコースに志麻が立ちふさがる。今度はリカの正面を捉え、立ち往生させることに成功した。志麻がリカのフォローに寄った分、翠が志麻のマークマンに寄り、翠が見ていた愛奈が空いた。

 リカは愛奈の空いたクロスにパスを出した。

 愛奈は無駄のない動きでパスを受け、少しの腕を後ろに引く動作(テイクバック)でゴールのわずかな隙間を狙ってシュートを打った。

 潤は動かない。

 シュートは枠を外れエンドラインを割った。そのボールを追いかけ、翠とサンベアーズのAT・まどかが走る。

 チェイスはまどかが獲得した。

「まどか……。相変わらず愛奈の腰巾着」

 翠が息を切らし、悔し気に減らず口を叩いた。

「……翠こそ、深雪と一緒に元の鞘に収まっただけじゃない」

 まどかが翠を睨みつけて応戦した。

「私たちは新しいチームを創ってる」

「うちだってそうよ。どこよりも応援される、愛されるチームをつくってる」

「……あほらし」

 翠はまどかの返しを聞いて、自分からふった喧嘩をひっこめた。



「……」

 観客席にいる董が、潤を見て唇を噛んだ。

(あんな近くで打たれて、少しも動かなかった……)

 シューターの動きにつられなかったということは、フォームをとった瞬間、ゴールの枠を外れることを見抜いた証だ。それがフェイクだった場合でも、動かなければ次の動作に反応できる。

 “反応系”ゴーリーである潤と董は、反応が速すぎる故にゴールサークル間際でのフェイクに騙されやすいのが弱点だ。しかしあそこまで我慢できれば、その弱点はシューターにとっては有耶無耶なものとなる。



「すみません。もう大丈夫です」

 潤は翠、志麻、叶恵に声をかけた。

「あの、萌絵って子はいいの? まだ打ってないけど」

 アイシールド越しの潤の眼を、志麻が覗き込んだ。

「あの子は後輩なんで。全部覚えてます」

 潤にとっての初見の相手は、リカと愛奈だけであった。シューターは自分の体勢がいいときは、最も得意とするシュートを打つものだ。そして最も得意なシュートの中に全ての癖が織り込まれている。ここまでの時間は、それを体感するための犠牲だった。

「じゃあ、反撃といきますか」

「翠ちゃん、悪い顔……」

 猟奇的に笑う翠を見て、叶恵が怯えた声を出した。


 NEOが一度目のタイムアウトを申請し、両チームベンチに集合した。

「リカ、いいシュートだったよ! やっぱりリカは縦抜きの1on1が本当に得意だよね!」

「ドローも一華相手に落とさないで取ってるの、すごいよ!」

 サンベアーズの面々はリカのプレーを褒めちぎった。

「あ、ありがとうございます!」


「一華、ドローの相性悪いの?」

 ドローはジャンケンのようなものだ。全てに勝る手段はない。しかし相性が悪くとも、今のNEOに換わりのドロワーはいない。一華が工夫を施すしかない。

「ん~。力は互角なんだよね。スキル勝負にされて、そこで負けてる。自分の目の前に浮くように飛ばしてくる。あと、すこし笛より早く動いてるかな……」

「審判に言いますか?」

 ダオが口を挟んだ。

「いや、ドローはこの際取られてもいい」

 メンバー全員の視線が翠に集まった。

「一華、獲られてもリカに爆走させないように押さえて。次の守備から、“奪う守備”にする」

 翠の隣にいた志麻が続いた。

「なるほど。オールコート攻撃はNEOの武器だし、ドローとってからより、守備側で奪ってからの方が使えるスペースが広くなるわね」

 深雪が、合点がいったように頷いた。

 攻める広さが広いほど、守備が守らなければならないスペースが増える。ボールを大きく左右に動かして、守備陣の身体の向きや顔の向きを変えることがオールコート攻撃の鍵だ。

 そしてそれが、NEOの攻撃陣の十八番の攻撃パターンだ。

「そういうことです。ドローを獲るよりも、獲られてから奪う方が、実質得点率は上がります」

 潤がヘルメットを被り直して言った。

「ふはは。肝が据わってんな~。守備陣」

 一華が空を仰いで笑った。

「おっけー。じゃあ次から、うちの攻める守り。見せつけてやろう」

 ドローは再びリカが獲得した。一華はすぐに体勢を変え、リカにプレッシャーをかけた。リカはボールを取り落としそうになり、自分の後ろにいたMF(ミッドフィルダー)にバックパスを投げた。

 そのMFに今度は深雪がプレッシャーをかけ、ボールの位置をNEOの自陣の方へ押し込む。そして環、千尋、光のAT陣が回りのサンベアーズの選手をマークすることで、ボールは必然的にサンベアーズのゴーリーに渡った。

「セット!」

 一華がフィールド中央で叫んだ。

 一華の掛け声とともに、NEOのメンバーはフィールドに一定の距離をとって広がり布陣した。

「なに……サンベアーズ、ボーラーがどんどんサイドに流されていく……」

 先刻までカメリアルズと試合をしていたクロスハーツのメンバーが、観客席に集まった。

「……これは全面ゾーン(ゾーンライド)……! このコート全面にゾーンディフェンスを敷いてるのよ」

 清華がフィールド全体を見渡した。

全面ゾーン(ゾーンライド)⁉ 試合人数が12人対12人だった頃は流行ってたけど……。今は10人対10人よ? 10人でこの広さのコートをゾーンで守ったら、1人の守備範囲が膨大にならない?」

 クロスハーツの蛍が布陣の様子を観察しようと、柵から身を乗り出した。

「確かに……。1人の運動量がばかにならない。特に守備陣……。どうするの、一華……」

 清華も蛍に並んだ。


 ボールを持ったサンベアーズ最後尾のDFは、NEOの守備から見てフィールドの右側へ走った。そこを走るしか手がなかった。なぜならパスの届く範囲の選手にはきつくマークが貼られ、後ろから相手選手が1人追いかけてくるからだ。ボールを失わないためには、ボールを持って走る他ない。

 しかし、普段ボールを触らないポジションの守備選手は、ボールを長く持つことに焦りを募らせた。すぐにボールを手放し、自分の陣地へ戻りたかった。もうすぐ敵側ゴール付近までたどり着いてしまう。シュートを打つわけには行かない。早く攻撃陣にボールを渡さなければ。ボールを攻撃陣に届けることが、守備陣の仕事なのだから……。

 サンベアーズの守備選手は後ろから誰かに追いかけられながら、敵側ゴール裏まで来てしまった。前に愛奈やまどかが見えるが、NEOの守備陣が視野にちらつきパスを出すのは怖い。しかし立ち止まるわけにもいかない。敵選手がすぐ後ろまで……。

 相手との距離を測ろうと後ろを向こうとした瞬間、横から影が迫ってくるのを感じた。慌てて体勢を戻すと、目の前にNEOのゴーリーがいた。


 潤がゴールサークルから出て、ボールマンの走るコースを完全に塞いだ。


「ゴーリーがボールマンプレッシャー⁉ ゴーリーがダブルの片棒を担ぐなんてきいたことないわ。リスキーすぎる!」

 清華が驚きの声を上げた。ゴーリー以外はセーブのためにゴーリーサークルに入ることは許されない。ゴーリーが守備に参加するということは、その時間、ゴールを守るものは何もないということだ。

「さすが一華ちゃんの創るチーム……。型破りだね」

 蛍が感嘆した。

 走るコースを塞ぐ潤、後ろから追いついた翠、そしてエンドラインの3方向を阻まれたボールマンは、身動きがとれなくなり足を止めた。立ち止まったボールマンのクロスを、翠が弾くように叩き、ボールをフィールドの外へ出した。

 クロスを叩いた拍子にフィールド外に出たボールは、叩いた選手のボールになる。

「ナイス!」

 潤と翠は互いのクロスの(シャフト)をぶつけて喜びを分かち合った。

 この試合、初のNEOの攻撃が始まる。

 翠はフィールドを見渡した。NEOの全面ゾーン(ゾーンライド)でボーラーを追い詰めたおかげで、プレイヤーはほぼ全員フィールド右側に寄っていた。

(あんた以外は、ね!)

 翠は試合開始の合図が鳴った瞬間、左側45度にいる叶恵にロングパスを出した。叶恵は山なりに落ちてくるボールの落下点に入り込み、ボールを受けた。

 叶恵は潤がボーマンにプレッシャーをかけた後、翠がボールを叩いた直後に自分の守備範囲を捨て、左サイドへ走り込んでいた。攻撃権がNEOに渡ることを予測し、誰にも気付かれずに攻撃の準備に切り替えていたのだ。

「叶恵!」

 一華がフィールド中央で呼んだ。叶恵がボールをとった瞬間、視野に入りやすい絶妙の位置に回り込む。

 一華に合わせて千尋と光が同時にバラバラの方向から浮き上がった。

「どっち……」

 サンベアーズの守備陣は迷いながらも、千尋と光のマークを外さなかった。

「どっちも捨てて! 下がって!」

 サンベアーズのゴーリーが叫んだ。千尋と光がいなくなったことで空いた真ん中のスペースに、環が走り込んだ。一瞬出遅れた守備の1人が、環を追いかけた。

 環の走り込む先に、一華がパスを落とし込む。その軌道を見て、サンベアーズのゴーリーがゴールサークルから飛び出し、ボールに手を伸ばした。

 環は、ゴーリーと守備に縦に挟まれる形になる。ボールはゴーリーと環のちょうど中間あたりに落下してくる。

 ゴーリーがキャッチすればあえなく攻守交替(ターンオーバー)。環がキャッチすれば、無人のゴールに得点できる。

「絶妙な落下位置……でもあんな体勢でキャッチできるの……?」

 観客席の紅が訝しんだ。環は全力で走りながら、前からくるゴーリーにぶつからないように後ろから飛んでくるボールをキャッチすることになる。

「ほんとにうちのキャプテン、パス要求厳しいんだよな……。私はそんな器用じゃないっての。ま、ここは後輩に花を持たせますか」

 環は180度向きを変え、追いかけてくる守備選手の壁になった。

 ゴーリーが環の頭上を越えてくるボールに手を伸ばす。すると環が立ち止まり、わずかにあいた隙間に横から誰かが入り込み、ボールの軌道を捻じ曲げ強引に掴みとった。

「え⁉」

 その場で片足をついて反転し、その遠心力でゴーリーの脇を抜き去る。

 碧依が、無人のゴールにボールを転がした。

 ピ――ッピ

 1対1の同点だ。


「このおいしいところどり!」

 環が碧依の頭を撫でた。攻撃選手が碧依の周りに集まり、ハイタッチをした。

 守備陣は少し離れたところで、肩を組んでお互いを賞賛していた。

「地味……っ! でもこの得点は私たちの功績!」


 ドローは再びサンベアーズが獲得し、今度はNEOから見てフィールド左側を使って攻めた。

「なんでサンベアーズ、同じことを繰り返すの……?」

 観客席の蛍が不審がった。

「きっと、わかってても、奪われないようにすると、あのスペースに追い込まれるんだわ」

 清華が推測した。そして合点がいったように手を叩いた。

「そうか、NEOは全面で奪いたくて全面ゾーン(ゾーンライド)を敷いてるわけじゃないのよ。あのスペースに、ボールマンを誘い込むのが狙いよ。ボールを奪ったとき、最もフィールドを広く使って攻めるために……」

 今まさにサンベアーズのボールマンが差し掛かった、ゴール裏のスペースを指して言った。

 今度はNEOのプレッシャーにより乱れたパスを、ゴーリーの潤がパスカット(インター)した。潤はゴーリーサークルから5m以上離れ、ボールに飛びつく。

「守備の最後の要を、攻撃のために利用したのね。大胆……」

 蛍は、潤のアグレッシブなプレーを見て息を飲んだ。クロスハーツと戦った時の潤のプレースタイルとは大違いだ。

「守備陣の脚力があってこその攻撃的スタイルね。攻撃には一華に碧依、環もいる。一度ボールが渡ってしまえば、攻撃力は爆発的に高い。うちみたいに攻撃を捨ててお堅く守る以外、今のNEOの攻撃を止める手はないわ……」


「……ッ」

 潤は奪い取ったボールを持って、体勢を崩しながらもどうにかライン際でこらえていた。ボールを持ちながらラインを超えてしまえば、相手ボールになる。

「潤ちゃん! 離して!」

 後ろから叶恵の声がした。

「ぬあぁ!」

 潤は叶恵の位置を確認せずに、余力を振り絞ってボールを背後へ放った。倒れ込む体の推力と重力に逆らったボールは、力なく宙に浮いた。

 ボールはラインを割っていた。しかしボールが空中でラインの外に出ていても、保持者がラインから出ていなければラインアウトにはならない。

 落下するボールが地面に着地する直前で、叶恵がクロスを差し出した。膝をついた体勢でクロスを引き、ボールをフィールド内に戻す。

 ボールを取り戻そうと、パスを出したサンベアーズの選手が迫った。

「叶恵!」

 今度は志麻が叶恵を呼んだ。叶恵は敵からクロスを守りながらフィールド内にボールを転がし、それを志麻が掬い取って駆け抜ける。

「志麻ぁ!」

「わかってるよ! 一華ぁぁ!!」

 40m以上離れたフィールド中央付近で呼ぶ一華に応え、志麻が大砲のようなロングパスを投下した。志麻のパスは距離が延びるにつれ速度が増し、一華のクロスの中で摩擦を起こして収まった。

「は~! 強烈!」

 腕と肩に伝う衝撃に耐え、一華が歯を見せて笑った。

「あとは任せて! DF陣!」

 志麻のロングパスに頭上を抜かれたサンベアーズのMFは、急いで守備へ戻る。一華は追いかけてくるDFを嘲るように置き去りにした。

 サンベアーズのDF陣はボールを持つ一華への警戒心を高め、一華に枚数をかけた。

 一華はそれを見て、ゴール脇の千尋にボールを預ける。千尋は、一華がボールを持って走った同じライン上にいた深雪にボールを戻す。

「え~なんで! もったいなぁ~い! そんなところに戻したら攻撃スピードが下がっちゃう!」

 カメリアルズの伊代がこぼす。先に偵察にきていたメンバーと合流していた。


 ボールを受けた深雪は、さらに真横の碧依にボールを回す。完全に、速攻のチャンスは失われた。

 さらに碧依の真横から、フリー状態の翠が飛び出した。

「⁉」

 碧依からボールを受けた翠は、ゴールに向って独走した。

「なんで⁉ DFでしょ⁉」

 ラクロスではフィールドを3分割(リストレイニング)する線(ライン)を超えてはならない人数が決まっている。通常、DFの3人とゴーリーはラインを超えない。

「見て!」

 カメリアルズのメンバーは、紅が指す先を見た。

 深雪がフィールドを3分割(リストレイニング)する線(ライン)の外側ぎりぎりに立っていた。MFの深雪が攻撃に加わっていない代わりに、DFの翠が攻撃に参戦したのだ。定められているのは人数だけで、誰が残る、残らないという人物の規定はない。

「オフサイド・トリック……」

 伶歌が呟いた。

 深雪をマークしていたDFが、急いで翠を追いかけた。

「志麻のロングパスで焦って戻って、誰が誰につくか(チェックアップ)の確認ができたことに満足して油断する隙をついて……。しかもサンベアーズの頭の中からDFの存在が消えた後にもう一度DFを使う……」

 紅の言葉で、カメリアルズの面々は「あとは任せて」と言い残して攻撃サイドに入った一華を思い出した。

「でも、打たないんじゃないですかぁ?」

 伊代が応じた。

 翠は守備の選手だ。シュートの練習量や経験値は少ない。前回のカメリアルズ戦でも、董に易々とセーブされていた。

 翠はゴールに向かって、特に工夫なく突っ込んだ。

 ピ――

 審判が反則のホイッスルを吹いた。

 ラクロスには、シュートを打とうとする選手の前に身体をいれてはけないというルールがある。ゴール裏にいる環をマークしていたDFがそれを侵したとして、翠の真後ろ4mに移動させられた。

 ゴールから描かれた半円内でファールが起きた場合、対象者にフリーシュートの権限が与えられる。

「……」

 サンベアーズのゴーリーは逡巡した。去年まで翠と共にゴールを守っていたが、試合はおろか練習でも翠がシュートを打っているところを見たことがなかった。

 環についていたDFがファールを侵したことで、環がゴール脇でフリー状態だった。環はクロスを構え翠からのパスを待っている。

 環の0度からのシュート決定率は高い。現実主義者の翠がとる選択は明らかに、自分で打つフリをして、環へのパスだ。

 ピッ

 翠はスタートダッシュを切った。クロスを担ぎ、シュート体勢に入る。

 ゴーリーはギリギリまで粘った。翠は、ゴールまであと3mというところに差し掛かったとき、環の方を見て肩を引いた。

「もらった!」

 ゴーリーは一歩前に出て、パスコースにクロスを差し出した。

 しかし翠はボールを離さなかった。

「ッ!」

 ゴーリーが自らずれたことで空いたスペースに、ボールを放り込んだ。

 ピ――ッピ

 翠の今シーズン、否、ラクロス歴の中で初めての得点だった。

「相手の裏をかくなら、“人の成長”も計算にいれないと」

 羞恥に耐えるゴーリーに、翠はいたずらっぽく笑った。


「今日のNEOすごいね! どんどん奇策打ってくる……。こんな仕込みのあるチームだったっけ?」 

 蛍が驚嘆した。

「ここにきて攻撃力が爆発的に上がってるのよ。新チームならではの成長曲線ね……。個人プレーと2on2だけで勝ち抜いたリーグ初頭とは大違いだわ……。全国大会に向けての準備は整ってきてる。え、あれ何⁉」

 清華が身を乗り出した。

 NEOの攻撃陣がお互いに向き合って一か所に固まっていた。すると突然、全員が一斉にクロスを掲げながらゴールに直進した。

殺人蜂(キラーホーネット)! アメフトの攻撃戦術だよ!!」

 弟がアメフト経験者である蛍が叫んだ。攻撃陣が集まり、誰がボールを持っているかわからない状態で解散する。守備は当然混乱し、動きが鈍る。

「……だ、誰が……?」

 サンベアーズの守備陣は、ボールマンを見定めようと足を止めて目を凝らした。しかし全員がクロスを隠し近づいてくる。

 すると環が突如スピードを上げ、ゴールへ向かってきた。DF陣は反射的に環のコースを塞ごうと、ポジショニングを取り直す。

「残念はずれ」

 環が片目を瞑って、歯を見せて笑った。

「環は囮だよ! ボールは一華が持ってる!」

 ATのまどかが叫んだ。サンベアーズのATの位置からは、誰がボールを持っているか丸見えだ。

 環の前に集まっていたDF陣は、一華を探した。環の後ろから飛び出した影が、DF陣の間を細かいステップで翻弄した。DF陣は壁になって固まり、ボールマンの進路を妨害した。

「⁉」

 DF陣の目の前にいたのは、一華ではなく碧依だった。

「はずれです」

 碧依が舌を出した。


 一華は、環と碧依とは逆サイドにいた。DF陣がそれに気が付いた時には、一華はすでにシュートフォームに入っていた。

 ゴール裏にATがいないため、ゴール前にもそれをマークしているDFがいない。ゴールの前を守るのは、ゴーリーのみだ。

 一華はクロスを振りかぶった。右脚、腰を捻って左脚、もう一度右脚を前に出し、それを軸に腰、肩、腕へと力を連鎖させていく。最後にクロスを地面に垂直に立て手首を返した。

「っ!」

 ゴーリーの反応が遅れた。ボールはゴーリークロスのさらに上を通り、ゴールポストぎりぎりに収まった。

 一華は長く息を吐き、力を抜いた。


「伸びた……」

 カメリアルズの董が呟いた。

「伸びたぁ……? 前よりスピード遅くないですかぁ?」

「相対的なスピードは遅いけど、速度が落ちない。落下もしない。目の前で急に速くなるように見える。そういうシュートにジャストミートするのは、ゴーリーにとっては難しいんだよ。肩の力だけで速い球打たれるよりね」

 董が伊代に噛みついた。

 カメリアルズは超攻撃型のチームだ。DFに機動力のある選手はいない。これまで董のセーブ力だけで失点をカバーしてきた。アリアナが身体の大きさで一華を押さえるくらいしか、あのシュートを止める方法がない。もしアリアナが間に合わなかったとき、董はフリーで全力の一華と対峙することになる。その確率は高い。

 董は言い知れぬ恐怖に生唾を飲み込んだ。浅く息をついて、額の脂汗を不拭った。

 NEOはもう、リーグ序盤に戦った、若くて荒い新チームではない。10年連続の王者だろうと負ける可能性はある。そもそも勝って当たり前の試合などない。負けられないと自分で勝手に思い込み、雁字搦めになっているだけなのだ。

「負ける覚悟……」

「え……?」

 隣にいた伶歌が突然呟き、董は顔を上げた。

「負ける可能性を受け入れて、やっと全ての覚悟ができたと言える」

 後ろから湿った風が吹き、伶歌の長い髪を攫った。



「ボール持つのなんか目立ちたがり屋の一華に決まってるじゃない! バカベアーズ!」

 清華が悪態をついた。

「こら。碧依ちゃんと環ちゃんのプレー見せつけられたあとじゃ、迷って当然だよ。翠ちゃんも決めたし、一華ちゃん1人に絞る勇気ないでしょ……」

「だからこそ持っていくのがあの子なのよ~! わかってないわ!」

 清華は憤慨して頭を抱えた。


 3対1、NEOリードで前半を終えた。

 ハーフタイムは10分。各チームベンチに集まり後半の戦い方を話し合う。

「どうしましょう……」

 サンベアーズのベンチでは、リカが不安そうな表情で漠然と方向性を仰いだ。

「大丈夫! リカには縦抜き1on1がある! リカの1on1は誰にも負けないよ! 信じて!」

 愛奈はにっこり笑ってリカの頭を撫でた。

「すみません、私も全然ボール触れてなくて……」

 潤の大学の後輩である萌絵がおずおずと言った。

「いいんだよ。萌絵の得意なサイドからの攻め、行けるときに仕掛けていいよ!」

 愛奈が萌絵の肩を叩いた。


「体力はどんな感じ?」

 一華が主に守備陣に尋ねた。ゾーンディフェンスをオールコートに敷いているNEOは、DF陣の体力の消耗が激しい。

 ゾーンディフェンスはボールを中心に形を変える。ボールから一番遠いポジションが、必然的に一番長い距離を移動することになる。

「1km走のタイムが一番遅いのは叶恵さんです。体力は目に見えない指標なので、叶恵さんに合わせるべきかと」

 ダオがデータファイルを見ながら、事実と意見を述べた。NEOのメンバーの視線は叶恵に集まった。

「よし。叶恵、どう?」

 一華が単刀直入に聞いた。10分間のタイムアウト中に、遠慮や気遣いをしている暇はない。

 叶恵がこのチームで最も好きなところだった。体力がないことも、足が遅いことも、背が低いことも、それぞれの特徴だ。負い目に感じる必要はない。

「結構足に来てる。4(ヨンク)も奪うDFをするつもりなら、3Q(サンク)はこっちの温存のために固く守った方がいいと思う」

「シュートパターンは見切ってるんで、ある程度のプレッシャーかけてくれれば、打たせていいですよ。追いかけなくてもマイボールにできます」

 潤が付け加えた。

「わかった。守備は固く守って打たせる。攻撃は特に変えなくていいね。4Q(ヨンク)に守備の緩急だけ戻して、一気にとどめを刺そう」

「よっしゃ」

 一華の指揮にメンバーが応えた。アイガードを装着し直し、後半開始の準備を整えた。


 ドローは相変わらずリカが獲得したが、一華は、今度はリカからすぐに距離をとった。

 リカはボールを保持したまま、攻撃サイドへ入る。助走をつけて深雪を抜きにかかった。リカの1on1は片足ステップで1回フェイクをするだけの単純なものだが、そのスピードが速い。


 深雪はリカと対峙した瞬間、間合いを取った。

 相手を抜くときには適切な間合いというものが存在する。それが短くても長くても、上手く相手を抜き去ることはできない。深雪は一度リカに抜かれたときに、リカの得意な間合いを図っていた。その間合いにならないように、距離を取り続けた。リーグ前に行った合宿から練習している、バックペダルだ。


 リカは、必要な間合いに踏み込めずに顔を顰めた。

――リカの1on1が、うちのチームには必要だよ――

 主将の愛奈の言葉が頭をよぎった。

――縦抜きのシュート、上手だよね!

 サンベアーズのメンバーがいつも褒めてくれる。正直、それに承認欲求を満たされ入団を決めた。リカにとっては勝つことよりも、楽しむことよりも、実力を誰かに認められることが嬉しかった。何とかして自分の1on1で得点をとらなければ――その思考が頭を占めた。

 リカは間合いを詰められないまま、ステップを踏んだ。

 深雪はリカをほぼ正面で捉え、スピードを相殺した。

 リカは肩を一杯に伸ばし、深雪に抑えられながらも腕を振る。

 ボールは1点目と同じ、潤の股下に叩きつけられた。しかしゴーリーの大きなクロスがそのボールの上に被さり、跳ね上がるのを阻止した。

「……っ」

「そう何度も、同じ手を食らわないよ」

 潤がアイシールドの奥から、リカを見上げた。そのままそのボールを拾いあげ、既に走りだしているMFに投げる。

 環が碧依からパスを受け、ゴール前で待機していた千尋と光に託す。2人は細かいパスを繰り替えし、光が角度のないところからのショットを決めた。

 攻撃陣が光の周りに集まって肩を叩く。

 4対1でNEOの3点リードだ。


「……なんであのリカって子、同じプレーばっかりするんですかね?」

 守備サイドに残っている翠に、潤が尋ねた。

「……呪いだよ。人は褒められれば、褒められるための選択をするようになる。自分の意思を持つことを忘れて……。だから褒められて育った人間は、窮地に追い込まれたときに、自ら現状を打開する術を持たない」

 リカの背中に手を回す愛奈を見て、翠は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「ある種の支配か……褒めてる方も気持ちよくなっていきますしね。相手より上にいる証拠だから……」

「人を救うことで自分が満たされる。メサイアコンプレックス。あれを愛と言わない……」

「なんか、怒ってます?」

 潤は、静かに怒気を帯びる翠の瞳を覗き込んだ。

「どんな形でも人の自由を奪う行為は許せない。でも……、きっとあの子もまた、何かの犠牲者」

 翠の見つめる先には、口元だけを釣り上げて不自然に笑う愛奈の姿があった。一つ溜息をついて、翠は自分の定位置に向かった。

「翠さんって、人生何週目なんだろ……」

 翠の華奢な背中を目で追いながら、潤は苦笑いを浮かべた。


 リカがドローポジションに戻ると、一華がクロスを肩に担ぎ待っていた。ドローの体勢を取ろうともせずに、リカの顔を見て笑った。

「楽しんでる?」

 リカは一華の黒い瞳を見上げた。目を逸らそうにも、一華の瞳の強さがそれを許さない。喉元に何かがつかえ、息苦しさに顔を歪めた。

「リカ!」

 背後から大きな声がし、同時に一華が力を解いた。

 リカがはっとし振り向くと、萌絵が心配そうな表情を向けていた。

「リカ、飛ばしていいよ。後ろは任せて」

 萌絵はそう言って、拳を掲げて見せた。リカは思わず強く頷いた。喉のつかえがとれ、身体が軽くなった。

 向き直ると、一華は既にクロスを構えていた。


 ボールは今までと違う、リカの背後数メートルの地点に落ちた。

 萌絵がいち早く反応し、ボールが飛び上がる前にクロスに収める。それを見たリカは地面を蹴り、攻撃サイドへ回り込んだ。

 リカはボールを持たずにゴール前に入り込み、急に向きを変えて萌絵に向き合った。

「なに……? ゴール前のプレーもするの……?」

 志麻が異変に気付き、咄嗟にリカの背中にプレッシャーをかける。

 萌絵がリカの胸元に鋭いパスを通し、手首でその威力を吸収したリカは、一歩で志麻の脇をすり抜ける。志麻の影から出た瞬間、肩をしならせた。

 ボールはクロスの先端からゆっくりゴールに向かった。そのまま潤のヘルメットの真上を通り、ネットを揺らした。

 サンベアーズが点差を詰め、スコアは4対2となった。


「タイムアウト」

 サンベアーズの主将、愛奈が審判にタイムアウトの申請をした。

 メンバーはタイムアウトの目的が分からず、パラパラとベンチに集まってきた。リカもベンチに戻りドリンクボトルに手を伸ばしたとき、不自然な近さに人の気配を感じ、顔を上げた。

 目の前には愛奈が立っていた。リカは愛奈の冷たい目元を見て、戦慄した。

「リカ、なんでいつもと違うプレーしたの?」

 まるで地鳴りのように、愛奈の声がリカの腹に響いた。他のメンバーも、びくりと振り向いた。

「チームが最高の状態でプレーできるように、みんな少しずつ我慢してるんだよ。自分だけ好きなプレーするの、勝手だと思わない?」

 愛奈は眉を吊り上げて言葉のボルテージを上げた。

「私の指示通り動けないなら、この試合は出ないでほしい。私はみんなの実力と活かし所を計算に入れて戦略練ってるんだよ。少しは私の苦労も汲んでよ」

 愛奈は零れ落ちそうになるほど目玉をひん剥いて、リカに詰め寄った。


 晩夏の太陽がじりじりと照りつくグラウンドで、リカは額に冷や汗をかいていた。

 ラクロスで、試合で活躍することは、リカにとって生きることそのものだった。このチームは自分の居場所だ。みんなが私のことを必要としてくれている。失うのは怖い。

 愛奈のことは尊敬している。誰もが憧れる、カリスマ実力派キャプテン。優しく、人を愛し、目標へ導く……。自分を認めて、活躍する場をつくってくれた……。でも……。

「あ、私はっ……、後悔してません……」

 リカは詰め寄る愛奈にそう応えた。

 唇が震えた。こんなに暑いのに、寒気が止まらない。膝に力が入らない。

 でも、本心だった。

 萌絵が出したパスの呼吸が聞こえた。自分が持つクロスの軌道が見えた。ボールを追いかけるように勝手に身体が動いた。久々に、ラクロスが楽しいと思った。


「じゃあドロー、萌絵にチェンジね」

 愛奈はにっこり笑ってそう言い渡し、フィールドへ向かった。



 タイムアウトが終わり、ドローのセットポジションをとる一華の前に、萌絵が立った。

「あれ? あの子はどうした?」

 一華に問われ、萌絵はサンベアーズのベンチに顔を向けた。

 ベンチエリアの奥の椅子には、頭にタオルを被せたリカがうなだれて座っている。

「一華さん、このチーム、なんか変ですよね……?」

 萌絵はドローセットしながら、クロス越しに一華を見上げた。一華のその眼は黒く、周囲の色を吸収して揺らめいていた。引き寄せられるように前のめりになって、言葉が口を突いて出た。

「私全然楽しくない。何も自由じゃない。もう辞めたい」

 話したこともない他チームの先輩に、失礼だと思いながらも、吐き出さずにはいられなかった。

「自分がチームを変えるんだよ。創ってもらってる側なんて、どこに行っても同じだよ。一度挑戦してみて、無理だったら逃げてきなよ」

 ピッ

 一華はドローを高く上げた。ボールが太陽に重なる。黒い塊が放物線の頂点に達したとき、一華のクロスがそれを掴みとった。

 萌絵はボールを持って遠ざかる一華の背中を目で追い、茫然と立ち尽くした。薄い生地の青いユニフォームがはためき、背番号1に光が当たり、照り返す。

「自分が、変える……」



 一華が守備を軽々と抜き去りワンステップでロングシュートを放つ。ボールは轟音を響かせネットに突き刺さる。

 この追加点を最後に、ブロック最終戦は5対3で終了した。

「全国大会進出決定―!」

「っしゃー!」

 NEOのメンバーは円陣を組み、互いの肩を抱き合った。

「叶恵、次の試合日程みんなに説明して!」

 叶恵が眼鏡を押し上げ、どこからともなく液晶タブレットを持ち出した。

 メンバーが叶恵の周りに集まり、タブレットを覗き込む。液晶画面にはトーナメント図と、4つのチームロゴが映し出されていた。

「これで、全国大会に出場する4チームが決定したよ。まず関東1位、CAMELLIALS(カメリアルズ)

 椿の花の形を模した紅色基調のロゴマークが拡大され、トーナメント表の一番左に収まった。

「対するは、東海1位LEGODIUS(レゴディウス)。環ちゃんの古巣だね」

 オレンジ色の帽子を被った、少年のシルエットのロゴマークが拡大され、カメリアルズの隣の枠へ収まった。

「へぇ、勝ち上がってんだ!」

 一華が嬉しそうな声を上げた。

 隣で環が、誇らしそうな顔をした。

「この試合が来週の土曜日にあるから、練習の後に偵察に行こう。そして関東2位NEO(ネオ) THUNDERS(サンダース)

 雲から雷が覗いている青いロゴが拡大された。雲にはにこちゃんマークが描かれている。一華がマサツくんと名付けたマスコットキャラクターだ。マサツくんはトーナメント表の一番右に収まった。

「そして関西1位、GHOST(ゴースト) FLY(フライ)

 黒い、幽霊のようなキャラクターが拡大された。

GHOST(ゴースト) FLY(フライ)?」

 一華が復唱した。

「関西の不動の王者よ。ゴースト以外のチームが全国大会に出てきたこと、一度もないと思うわ」

 深雪が一華に説明した。

「その通り。クラブ全国大会発足以来20数年間、関西の王座にはゴーストが君臨してる」

「他に強いチームがいないだけでは?」

 ダオが無粋な口を挟んだ。

「それはなんとも言えないよ。近年では新しいチームもちらほらできて戦力が分散されているみたいだけど……。過去に3度、全国優勝を果たしたこともある。メンバーは変わってると思うけど、実力派であることには変わりないよ」

「ゴーストフライか……。結構、強引なプレーをするイメージがあるな。それでも指揮が執れてる。なんかこう、軍隊のような……」

 志麻が過去の記憶を探るように、視線を右上に走らせた。

「そうだね。こっちでいうLITTLE(リトル) CREWS(クルーズ)のような1on1を中心とした攻めだね。私たちよりもっと歳上の、年配の選手が要になってるから、統率力はあるかもしれない。ヒエラルキーがはっきりしているというか……」

「学生みたいっすね」

 潤が吐き捨てた。

 潤が卒業した椿森学園は上下関係の厳しい伝統校であった。1年早く生まれただけでまるで王様、いや神様にでもなったように振舞う先輩たち。後輩を蔑むその態度を思い出すと、今でも腸が煮えくり返る。

 鼻に皺を寄せる潤を、隣で碧依が不思議そうに見上げた。

 碧依の出身校である国立大のラクロス部は、部員全員が試合に出るようなチームだった。当然先輩後輩の概念もなく、潤が憤る意味がわからなかった。

「そういうチームは、頭を潰すに限るね」

 一華が不敵に笑い、指を鳴らした。

「あんたの一番嫌いそうなチームよね」

 深雪が呆れて溜息をついた。


 NEOのメンバーが更衣室へ向かう途中、愛奈とまどかにすれ違った。

 サンベアーズは愛奈が主将に任命されてから今年初めて、全国大会の切符を逃した。

「私たちはゲームに勝って、試合に負けたんです」

 すれ違い様に、愛奈が明るく言った。

「……どういうこと?」

 集団の一番後ろにいた深雪が立ち止まった。

「私たちは、この試合で大きな成長を得ました。勝つためにチーム一丸になる大切さ。ただ勝つだけでは気づけなかった。大きく一歩前進っ」

 愛奈は小さく拳をつくり、顔の前に持ってきた。

「……はぁ」

 深雪は呆けて、整えた髪を翻して去る愛奈の背中を見つめた。

「……負けに不思議の負けなし……」

 突然、傍らに翠が現れた。

「わっ。翠。なんて?」

「今は亡き野球監督の言葉。負けには負ける理由があるってこと。自分の弱さを認められる日が来るまで、あの子はずっとあのまま。お腹空いた。ご飯いこう」

 翠に腕を引かれ、深雪は歩き出した。


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