4-誰のために勝ちたいのか
これはラクロスという“趣味”にあけくれる妙齢女性たちの、青春の続き――
平日の正午過ぎ。東京にも桜前線が訪れ、穏やかな風が吹き始めた。学校は春休みなのだろうか、若者たちが出店にたむろして騒いでいる。
まだ少し肌寒い街の中、薄いパーカーを羽織った一華が歩いていた。
「そろそろ仕事でも探すかな~」
澄んだ空気を吸い込んで、伸びをした。カラリと晴れた青空が広がる。
『いや、そうじゃなくてね。それは学生の君たちが決めるべきだと思うよ。うん。大丈夫だよ。違和感があったらちゃんと指摘するから……。はい……はい、お疲れ様』
大きな交差点のある広場の石段に、男が寄りかかっていた。ストライプ模様のスーツに身を包み、ジャケットは肩にかけている。男が通話を切ると、すぐにまた電話がかかってきた。
『もしもし。……会合を今夜に変更? わかった。時間の調整しておいてくれ。少ししたら会社に戻る』
男は通話を切り、薄く息を吐いた。
「「あ」」
顔を上げると、正面に一華が立っていた。氷の入った涼しげなドリンクを持っている。プラスチックの容器に日光が当たり、手元が七色に光る。
「一華ちゃん」
思いもよらない人物の登場に、声が上ずった。
「メッシュの……えっと……亮平」
「亮介って言います。何してるの?」
立ち上がりながら、平静さを装ってへらりと笑う。
「……散歩と……就活?」
一華が首を傾けながら空返事をする。
「……ランチでもどう? 奢るけど」
亮介は交差点に止まっているレトロなロコバスを親指で示した。
「うまっ!」
一華と亮介は木陰のベンチに並び、サンドイッチを頬張った。ベーコンやチーズ、レタスが焼けたパンに挟まり香ばしい。
「ありがとう。気前いいんだね。仕事はいいの?」
一華が屈託なく亮介を見上げる。ベンチに落ちる木漏れ日が一華の睫毛に絡まり煌めく。
「今休憩とってたところ。仕事は見つかった?」
「ん~。ピンとくるものがないな~。まだニートでいいかな」
一華はリスのように頬を膨らませてサンドイッチを食べ続けた。
「ラクロスに集中できていいね」
親指についたトマトソースを舐めとる一華を、亮介が横目で見た。
2人の間を温い風が吹き抜ける。雑木の葉がさらさらと揺れる。
「……一華ちゃん、うちで仕事する?」
「ん?」
一華は亮介に顔を向けた。お互いの口の周りにへばりつくトマトソースをみて、2人で噴き出した。
「ユニフォームが届きましたー!」
「かわいい~!」
「志麻さんと私と光でデザイン考えたんですよ!」
グラウンド脇に、練習を終えたメンバー達が集まっていた。
「チーム名NEO THUNDERSのロゴと、それぞれの名前と背番号入りです!」
千尋が新品のユニフォームを各メンバーに渡した。メンバーは受け取るやいなや包みを破って中身を取り出した。上は首襟のついた半袖シャツ、下は短いタイトスカート。ゴーリーのユニフォームだけは、スカートでなくパンツ仕様だ。
「こらみんな。ゴミはここにいれてよ」
志麻が空段ボールを集団の真ん中に置いた。
「NEOは新しいって意味か……。なんで、THUNDERSなんですか?」
早速試着し終わった潤が、鮮やかな青色のユニフォームにプリントされたロゴを指して尋ねた。胸の部分には雲と雷のイラストが描かれている。雲にはキャラクターのような顔が付いている。
「ラクロス界で良い摩擦を起こして雷鳴を轟かすって意味。この雲の名前はマサツくん! うちチームのマスコットキャラクターね!」
一華が満面の笑みで答えた。
「……雷が鳴ったら試合は中止だけどね……」
叶恵がおずおずと口を挟んだ。
雨でも嵐でも続行されるラクロスの試合は、唯一、雷が鳴ると中止される。金属の棒を振り回す競技の特性上、競技者の、雷に対する警戒心は強い。
「でもかっこいいからいいでしょ⁉」
一華が叶恵の肩に手を回した。
「まぁアホくささも含めて私たちらしいんじゃない?」
深雪がTシャツを掲げて呆れ顔で呟いた。
「甘い深雪。一華はいつでも本気」
翠が深雪の傍らで呟いた。
「マサツくんに乗って世界進出するんだよ! いざ、ラクロスから世界へ!」
背番号1番のユニフォームを着た一華が、空を指さした。メンバーが全員空を仰ぐ。
チームカラーと同じ、海のように深い群青の空が広がっていた。
「そ、の、ま、え、に!!」
環がずいと、一華の前に顔を出した。
「私たちに今、足りないものは何だ⁉」
環が呆けるメンバーを見渡す。一同は顔を見合わせた。
「お金?」
「ホームグラウンド」
「映える必殺技!」
「マネージャーじゃない?」
「ホームページなら作りますよ」
口々に意見を述べた。
「ちがうだろ! うちはたった10人しかいないんだよ⁉ 全員出場! 私たちに必要なのは……」
環は切り株のようなものに足をかけた。
「基礎体力!!」
メンバーは環の主張を聞いて顔をひきつらせた。
「まさか……」
「20代後半のほっておくと衰え行く身体に必要なのはラクロスの練習と同量のトレーニング! ラクロスは体が物を言うスポーツだろ⁉ チームに必要なフィジカルとそれぞれに必要なフィジカル強化のメニューを考えてきた! 1年分!」
「誰よ、環の熱血に火をつけたのは……」
「一華」
「ふはは」
「碧依トレーニング嫌い……。まだ23だし……」
碧依が顔を背けた。
「自分は頑張ります。今、肺が腐ってるんで。取り戻さないと」
潤がこぼす。喫煙による心肺機能の低下を危惧している。
「む? じゃあ碧依もやる」
碧依が張り合った。
「よ~しそれじゃ、来週の3連休は合宿でもするか!」
NEOのメンバーは各々乗用車や交通機関を駆使して、首都圏近郊のグラウンドに集まった。辺りには平屋の建物があるだけだ。澄み渡る空が視界いっぱいに広がる。
普段都会の狭い空の下で過ごすメンバー達は、開放感に浮かれた。
「空気が気持ちいい~」
「叶恵さん、よくこんないい合宿所確保できましたね~!」
千尋はいそいそと準備を始めた。
「コネは多いから……。合宿所っていうか、ただのグラウンドがついてる宿だから、ご飯も自分たちで用意しなきゃいけないけど……」
「いーのいーの! みんなで作って同じ皿の飯を食おう! 夜が楽しみだね!」
遠慮がちに話す叶恵の背中を、一華がばしばし叩く。
「一華は作らなくていいよ。片付けの方が大変そうだよ」
大工さながらにゴールのポールを2本担いで、志麻が笑いながら脇を通り過ぎる。
「皿に移してどうするのよ。釜ね! ほらゴール運ぶの手伝いなさいよ」
深雪に渡されたゴールを数本抱えて、一華は2人の後を追いかけた。
メンバー達は手際よくグラウンドにラクロス用のラインをひき、練習環境を整えた。
「よし、今日はポジション別に特化した練習! 攻撃陣はこの合宿で1日100本シュート! 守備陣はステップ練! 対人は明日ね!」
「「お~!」」
一華の号令で、基礎中心の地味な少人数合宿が始まった。
攻撃陣とゴーリーの潤はゴール前に集まった。
「抜くシュート?」
「そ、抜くシュートと引っ掛けるシュート」
同じ方向に首を傾げる千尋と光に合わせて、一華も首を傾ける。
「2人は、ゴーリーに対して左右に打ち分けるとき、どうやって打ってる?」
一華に問われ、千尋と光は顔を見合わせた。
「どうって……どうって……右の時はこう」
千尋が右肩を真っすぐ降り下ろした。
「左の時はこう」
光が右肩を斜めに降り下ろした。
「ゴーリーから見てどう?」
一華はゴール前に構える潤に顔を向けた。
「あざ~っす。って、思いますね」
「だって」
一華は笑って、眉間に皺を寄せる千尋と光を見下ろした。
「手首を使うんだよ。右手で右に打ちたければ、クロスをこの辺で止めてボールを離す。これが抜くシュート」
一華はヘッドを傾けたままクロスを振り、顔の前の辺りで止めた。
「え?」
「左に打ちたければ、もう少しクロスを引っ張って、クロスの先までボールを持ってきてから離す。これが引っ掛けるシュート」
先程よりも僅かにクロスをずらして止める。
「は?」
「これで、同じフォームで、左右のコースを打ち分けることができる。これの打ち分けができるようになるまで、特訓!」
一華はクロスを担いでにっこり笑って歯を見せた。
「ふーん。面白そうだな。潤、がんがん行くよ!」
環がボールを拾い上げてシュートフォームを取った。
「え、全然理解できてない! 難しすぎる~! でも楽しそう~」
「なんとかなる気がする! とにかくやってみよ! 今日で獲得するぞ~」
千尋と光も環に続いた。
「説明雑だし……攻撃陣、感覚派だな……」
潤は苦笑いをしてクロスを握り直した。
守備陣は、ゴールから少し離れたところに小さなコーンを並べて、ステップの反復練習を繰り返した。
左右前後の移動の切り替え、斜めに走る動作、止まる動作。守備に必要なのは、フットワーク。その圧倒的練習量が、全ての動作の礎となり、自信となって敵を穿つ。攻撃陣が楽しく華やかにシュートの練習をしている影で、守備陣がどれだけ集中して地味な鍛錬をできるかが、勝てるチームと勝てないチームを分ける。
「は~! さすがに応えるな!」
志麻が腰に両手を当てた。膝に手を付き肩で息をする叶恵を、横目で見る。
「ちょっとレスト入れよう。疲れた状態でやってもしょうがない」
翠が額の汗を拭った。
「ねぇ翠。パックペダルの練習もした方がいいんじゃない?」
「何それ知らない。教えて」
ラクロスは発展途上のスポーツである。技術や戦術が界隈に浸透していないことはざらにある。
守備陣は休憩がてら、深雪の周りに集まった。
「私も友達に教えてもらったんだけどね。ラクロスの守備って、ボールマンに対峙するとき、相手に接触してプレッシャーかけるのが基本じゃない?」
深雪は志麻をボールマンに見立てて距離を詰めた。
「でもこの、相手とゼロ距離になろうとする動き自体が結構リスクが高くて、距離を縮める瞬間に抜かれることが多い」
「攻撃側は相手が動いた瞬間を狙ってるからね。誘われてしまう時があるよね」
やっと息を整えて、叶恵が講義に参加した。
「そうなのよ。だから、」
深雪は志麻との間にクロスを伸ばして、距離を取った。
「この、クロス一本分くらいの“攻撃側優位の間合い”を避けることが大切なんじゃないかって。必ずしも詰める必要はなくて、時には後ろに下がることも頭に入れた方がいいって」
守備陣は各々思い当たるところがあるのか、頷いた。
「なるほど。間合いの管理」
翠も顎に手を置き、納得しかけた。
「でもそれ、どこかでプレッシャーをかけないと、シュートを打たれる」
鋭く指摘する。
「シュートが打たれる前に、間合いを取り直さないといけないね」
「でも、相手にロングシューターがいなければ問題ないよ」
守備陣は口々に懸念や解決策を展開した。問題にぶつかっては立ち止まり、新しいものを創っていく。
「守備陣、いつまでおしゃべりしてるんだ? それ終ったらトレーニング始めるよ」
フィールドの奥から、環が咎めるような声をかけた。
「トレーニング!? 今こっちがどれだけ足動かしてたと思ってんの?」
深雪が驚愕して叫んだ。
「環、いつかシメる……」
翠がじとりとフィールドの向こうに目をやった。
「無駄だよ2人とも。この話の続きは夜にしよう」
志麻は笑って守備陣の背中を押した。
NEOのメンバーはグラウンドの外まで足を延ばしてトレーニングに励んだ。
「3、2、1……ダッシュ!」
環の合図で10秒間のダッシュと30秒間のジョグを繰り返す。インターバル走だ。先頭を颯爽と走る一華を、皆必死に追いかける。
ダッシュとジョグを10回ずつ繰り返したところで、1セットが終了した。一同はグラウンドから離れ、山道の麓まで到達していた。
「はぁ、はぁ……あ……一華、あれ……」
深雪は息切らしながら、坂の上を指さした。
深雪の傍にいたメンバーが顔を上げると、数名の影が走って坂を下りてきていた。互いの距離数メートルのところまできて、やっと顔がはっきり見えた。よく知った顔、クラブ絶対王者・カメリアルズのメンバー達だった。
「いち……」
伶歌が足を止め、坂の少し上から一華を見下ろした。一つに束ねた長い髪が風になびく。
「伶」
伶歌の放つ気を一華が真正面から受け止める。
「一華じゃない……。こんなところで何してるのよ」
伶歌の後ろを走っていた紅が顔をだした。
この一帯の避暑地は合宿所が多い。カメリアルズがNEOと同じように合宿をしていてもおかしくはない。
伊代、董も追いついてきてNEOの面々を物珍しそうに見下ろした。
「私たち、新しくチームつくったんだ。次のシーズンから戦うことになるから。よろしく」
一華が腕を組んでカメリアルズのメンバーを見上げた。西日が褐色の肌を照らす。
「え~? 新チーム? きゃはは。お姉様たち頑張りすぎ。小物ばっか集めて何しようって言うんですか~?」
伊代が口元を押さえて笑った。
翠が眼光鋭く睨みつけた。
「一華……。どうしてそんな面倒なことするの? うちに入れば、あんたならすぐに活躍できるのに」
紅が額に皺を寄せて尋ねた。
「一華。行こう」
深雪が一華の腕を引いて、坂道を引き返させようとした。
一華は動かず、カメリアルズのメンバー達を見据えた。
「私たちは、世界で一番楽しくラクロスする。本気でね!」
一華に強い風が吹きつけ、短い髪を逆立てた。深雪の腕を掴んで引っ張り、坂道を登り始めた。
それを見た翠が、何も言わず一華と深雪の後を追う。それにつられるように、他のメンバーたちも黙って坂を登る。カメリアルズのメンバーと目を合わせることなく、脇をすり抜けた。
全員が坂を登り終わったところで、一華が肩越しに振り向いた。
「あ、そうだ。今年の日本一は私たちが獲るから」
何かのついでのように言い渡し、地平線に滲み始めた太陽に向かって、残りの坂を走り上がった。
叶恵が布団に寝転んで、小さく唸りながらタブレットを覗き込む。癖のある長めの髪を前髪ごとヘアバンドで抑え、さらに翌朝のうねりと広がりを防ぐために後ろでも束ねている。
「洗濯待って~」と言って誰かが廊下をドタバタと走る音がする。メンバーの泊まる宿は、古い和室を今風にリメイクした旅行宿泊客用のものだ。食事と入浴を終え、今は入眠までの自由時間である。
「浮かない顔してるね。明日は4on3の速攻の練習もするってよ」
翠が部屋に入ってきて、隣の布団に仰向けに寝転ぶ。風呂上りだというのに、血色の悪さは変わらない。
叶恵は自前のタブレットで、この合宿での練習動画を見ていた。スタッフがいないため定点動画だが、画面をタップすれば、拡大して自分のプレーを確認することができる。
3on3や4on4のゴール前の練習動画。ボールマンに対する対峙の弱さ、守備の連動の遅れ、覚束ないパスキャッチ……自分のプレーが原因でミスが起き、それを周りのメンバーが回収する。
情けなさと申し訳なさが胸につかえる。
「叶恵の武器ってなんなの?」
仰向けになったままの翠が叶恵に問う。
叶恵は頭から布団を被った。
武器……? そんなものない。
――小物ばかり集めて……
伊代の台詞が頭から離れない。
すぐに、自分のことを言われたと思った。怯える心を、みんなの大きな影に隠してやり過ごした。虎の威を借る狐とはよく言ったものだ。
ラクロスが好きで、どの試合も、誰よりも近くで見てきた。誰よりも、多くの試合を見てきた。もう一度ラクロスがしたくて、ここにいる。でも、クラブチームは学生時代に名を馳せた強者たちが蔓延る世界だ。自分にはやはり、到底立つ資格がない。
「どう考えても、私が足を引っ張ってる……」
「……そんなことないよって言ってほしい?」
翠の抑揚のない声が胸を突き刺す。
偽らない優しさというものを、このチームに入って知った。畏れられることを、嫌われることを、恐れない。そういう人間の言葉は、重く、鋭く、痛い。そして、腐った膿をかき出していく。
――私たちは世界で一番楽しくラクロスする
まっすぐ言い返した一華。瞼の裏に、その凛とした姿が浮かぶ。
――私もラクロスしたい!
そう言ったのは自分だ。あの日一華が、みんなと同じ舞台に立つ勇気をれた。
何か、ないのだろうか。自分にできることは。一華のために、みんなのために、いや、自分のために。何ができる?
叶恵ははっと閃いた。
布団から飛び出し、枕元のリュックに手をつっこみノートを取り出した。今まで見てきた試合の所感、分析、データの数々。
(そうだ。私には、これがある)
どんなに運動能力が高くても、相手は人間。所詮はスポーツ。ルールを逸脱することはない。青臭い少年漫画じゃないんだから、試合中に急成長する選手なんてそういない。フィールドにいる全員が、努力の積み重ねを披露しているにすぎない。それなら……。
叶恵は立ち上がり、廊下に飛び出した。
翠は仰向けのまま叶恵の背中を見送り、「電気消してよ」と独り言ちて布団に潜った。
1泊2日の短い合宿は、メンバーそれぞれが目標と課題を再確認し、己のプレースタイルを見直す契機となって幕を閉じた。
深雪は仕事を早めに切り上げ、オフィス街を通りぬける。
職場から地下鉄を乗り継いで数駅離れたところに、ラクロス協会の事務所がある。味気ないビルに挟まれた、小さな窓がついているだけの4階建ての建物。錆びたドアの取っ手に手をかけ扉を引くと、かび臭い作業場に迎え入れられる。入口からすぐのところの階段を見上げると、薄明かりの漏れる上階から役員たちの話し声が聞こえてくる。
深雪は息をついた。この施設の鬱屈とした空気が、昔から苦手だった。
上階へ上がると、叶恵がいた。
「深雪ちゃん、お疲れ様。今会長呼んでくるね」
叶恵はクラブリーグ大会を運営する執行部員の1人だ。奥の部屋から自分よりも若干年配の女性役員を連れてきた。
「初めまして。クラブ連盟の会長を務める者です。どうぞお座りください」
会長は深雪に目もくれずに形だけの挨拶をし、応接席に座った。
「日下部と申します。よろしくお願いします」
深雪は翠と叶恵と供に作成した書類を会長に提出した。新しくチームを創設するために必要なものだ。
「練習日は毎週土日のみ、練習場所は都内の河川敷と大学グラウンド……。ユニフォーム発注済、チームカラーは青……」
会長は書類に目を通しながら、深雪に対して尋問を始めた。
「チームを継続していく見通しはありますか?」
「はい」
「あなたは、マネージャーですか?」
「……? いえ。選手です」
「そうですか。それならいいです」
会長は指先で書類をめくった。
「……なぜですか?」
深雪は相手の表情を捉えようとしたが、会長は書類に目を落としたままだった。
「面倒な手続きをマネージャーに任せてラクロスができればそれでいいと思ってるチームって多いんですよ。ひどいと思いませんか?」
「……?」
深雪は懐疑心を抱いたが、話を深堀りする気分にならなかった。
その発言こそマネージャーという立場を軽んじている何よりの言質となるが、本人は気が付いていない。役職に関わらず事務仕事の得意な者が手掛ければよい。そもそも面倒だと思うのなら運営側がこの作業自体、簡略化すれば良いのだ。
深雪は思うところを心に秘めて、会長の次の言葉を待った。
「新しいチームを作りたいって言って、計画倒れになることって多いんですよ。勢いだけでチームを作るって言われても困るんですよね」
「……私たちは、勢いだけのチームではありません。いずれはラクロス界を引っ張る存在なると思います」
見栄でも強がりでもなく、チームの一員としての真の想いだった。そこに一端の疑いもなかった。
「私たちも大変なんですよ。仕事もやって、このクラブ連盟の運営もして。これ全部ボランティアなんです。新しいチームができると、正直仕事が増えることになるんですよ。こっちも一生懸命やって、それでやっぱり人数揃いませんでした、じゃ、やってらんないんですよね」
噛み合わない談論に、深雪は辟易した。
社会人クラブチームが増えることは、競技の活発化や競技人口の増加を助長しラクロス界の発展に繋がる。客観的に考えれば、クラブ連盟の会長がチーム新設を渋る道理がない。
しかしこれは何だろう。出る杭は打たれる、とはまた違う。調子に乗って勢いづいている若者に制裁を加えたい心理もあるだろうが、それよりも、これは……。
共感の強制――
この人は、自分がこんなにも大変な思いをしているということを誰かに共感してほしい。簡単だ。「それは大変ですね」と一言言って同調してあげればいい。女のコミュニケーションの基本。それでこの場は丸く済む。
「そうですか」
色のない声で、それだけ言った。
ここで同調すれば、楽だ。相手は満たされる。でももう、自分を削って別の価値に寄り添ったりしない。
眉一つ動かさない深雪を目の端で捉え、会長は話題を戻した。
「なぜ既存のチームではだめなのですか?」
深雪の脳裏に、一華の後ろ姿が浮かんだ。「収まるような器じゃないんです」と言いかけて、やめた。逆なでするようなことを言っても仕方がない。喧嘩をふっかけにきたわけじゃない。
「……ラクロス界を変える、新しい文化を創っていくのに、一から泥臭く始めたいんです」
会長と初めて目が合った。曇った眼に一瞬だけ光の筋が見えた気がした。
クラブ連盟会長との面談が終わり、協会事務所を後にした。夜はすっかり更け、闇が街の喧騒を包んでいた。
「深雪ちゃん、どうだった?」
後ろから、叶恵が追いついた。大会運営の作業に一区切りつけてきたらしい。
「……一華や翠がいなくてよかったわ。いたら騒動になって、新チームの申請どころじゃなかった」
「ふふ。性質的に合いそうにないもんね」
叶恵は眉を寄せて笑った。
「叶恵は毎日仕事の後にここで活動してるの?」
「大会近くなると忙しくなるね。でも楽しいよ。私にとってはここがラクロスに一番近い場所だったから。今ではもう、渦中に入り込んじゃったけどね」
叶恵は可笑しそうに笑った。
「仕事みたいなものでしょ? 金だせよって思わないの?」
深雪はわざといやらしい言葉を選んだ。
「うん。下の子も入ってきてるし、そういう体制に変えていかなきゃなって思ってる。今は選手としてプレーに集中したいから、少しずつだけどね」
叶恵はビルの間の狭い夜空を見上げた。
深雪がつられて顔を上げた。
「あの感じだと、時間かかりそうね」
白く大きな満月が、2人を見下ろしていた。
「大きくて明るい道標を見つけたし、背中を押してくれる人もいるし。これくらい、大したことないよ」
「集合~! 今年のリーグの対戦表がでたよ~!」
一華が一枚の用紙をひらひらと掲げながら河川敷を下りてきた。
「どれどれ……」
一同が対戦表を覗き込む。関東大会は、6チームの総当たり戦により順位を決定する。
「私たちNEO THUNDERSの記念すべき最初の対戦相手は……」
「SEA DRAGONS」
「え⁉ シードラゴンズ……って、どんなチーム?」
一華の無知さにメンバーたちはうなだれた。碧依と潤も一華と同じように首を傾げていた。
「ま、まぁ仕方ないよ。一華ちゃんはアメリカにいたんだから、日本のクラブ事情を知るわけないし……。碧依ちゃんも潤ちゃんも初出場なんだから」
叶恵は手の甲でメガネをずり上げた。
「SEA DRAGONSは創部23年のクラブチーム最古参の歴史あるチームだよ。チームカラーは紫。ラクロス経験歴の長いベテラン揃い。平均年齢も高い。特筆すべきは背番号35番を中心としたセットプレーかな。あとはゴーリーが特徴的で、セーブの瞬間に前に出て打つコースを塞ぐタイプ。対策なしに挑めばゴーリーにはまって得点が伸びないなんて事態は十分あり得るよ。NEOの攻撃陣のボール攻撃力を考えれば、シュートチャンスは多いと思う。勝負のカギはそのシュート率だね。数打ちゃいいってもんじゃない」
叶恵が敵チームの特徴を一息で説明した。
「……さすがラクロスオタク……」
千尋が感心して呟いた。
叶恵の頭の中には、ここ数年の1部リーグ所属チームの特徴が刷り込まれていた。
「……つまり……。私の出番ってこと?」
「違う。話聞いてなかったでしょ」
深雪が丸めた用紙で一華の頭を叩いた。
「パワーよりテクニック。スピードより時間差。つまり、私の独壇場よ」
深雪が胸を張った。
「深雪さんのフェイクはワンパターンだからなぁ。碧依の方がスキル高いですよ。碧依、クラブデビュー戦、輝いてみせます!」
「私の東京デビュー戦! 私にボール集めてよ!」
テクニックに自信のある者たちがやんややんやと自己主張した。
「……とりあえず、叶恵、35番のプレーの特徴教えてよ。私がベタでつくよ。翠は自由に動かした方がいいでしょ」
前のめりな攻撃陣を尻目に、志麻が冷静な申し出をした。
「それは無理だよ。なぜなら、35番は――」
――ドロワーだからね
「はは。そりゃベタでつくのは無理だわ」
志麻は試合前にドローの確認をするSEA DRAGONS 35番の姿を見やった。
「必然的にドロワー同士、一華がマッチアップすることになるわね」
深雪が志麻の横に並び溜息をついた。
“ベタでマッチアップする”というのは、ボールを追わずにその人物だけをしつこく追いかける守り方だ。1人の絶対的なエースがゲームをコントロールするチームに対して用いる守備戦術である。そのエースが攻撃専門のポジションであれば守備専門の者がその役を担うが、SEA DRAGONSのエースは自チームの守備にも入るMF。試合の間中マッチアップを固定するのは難しい。
「え~。私そんな必殺仕事人みたいなことできない」
一華が顎に手を添えた。
「わかってるわよ。私がやるわ。ドローのあとに上手く入れ替わりましょ。いいからキャプテン、円陣の声かけしてよ」
NEOのメンバー達が一華の周りに集まった。真新しい群青色のユニフォームがはためく。
「よ~し! みんな、チーム結成初戦、思いっきり暴れよう!」
『1、2、3NEO!』
カラリと晴れた青空の下、関東ラクロスクラブリーグ大会、全15試合のブロック予選が幕を開けた。第一幕はクラブリーグ初参戦の超新星NEO THUNDERSvs関東クラブリーグ最古参SEA DRAGONS。
ドロワーは互いのエース、一華と背番号35番・鵜沢果歩だ。
一華が腕を伸ばしながらドローの位置についた。
「新チームのドローの人、でかくない?」
「ね! 足長いし筋肉ムキムキだしかっこいい!」
会場はラクロスファンと他チームのラクロッサーで賑わっていた。今年加入の新参チームはどんなもんかと期待に胸を膨らませている。
「あなた有名人なのね。チームの若い子たちが怖がってた。1人だけ強いのって辛いよね。お互い頑張りましょう」
鵜沢果歩が一華に慇懃無礼な挨拶をした。
「そうなの? なんで?」
牽制されていることに気付かずに、飄々とグローブを装着した。
「なんでって」
果歩は会話を続けようとしてやめた。
一華の纏う空気が変わった。
ピッ
ドローが高く真上に上がった。
一華がボールを追いかけるように、長い腕を伸ばした。果歩が反応できずにいるうちに、一華のクロスがボールを掴んだ。
「⁉」
「高っ」
「あ、思い出した! あの人前シーズンにサンベアーズの試合にちょっと出てた人だ!」
「そうなの? なんて人?」
ドローのインパクトに会場がざわつく。
ドローが上がった瞬間には、深雪と碧依はすでに攻撃サイドへ走り出していた。一華がボールを出しやすい位置に深雪が広がり、空いたスペースに碧依がまっすぐ走り込んだ。
碧依はフィールド中央でボールを受け、そのまま直進した。すぐにドラゴンズの守備陣が碧依のコースを塞ぐ。碧依は体勢を変えずにボールを自らの後ろに放った。
「バックパス……! 試合で使う人始めたみた。上手い……。誰?」
「あれ、代表候補の子じゃない? オーストラリア行ってた子。七瀬碧依! 新チーム入ったんだ!」
宙で威力を失ったボールを、碧依の後ろを追いかけていた一華が獲る。碧依は集まってきた守備陣を抑え込む。
「一発目、ぶちかましてください、一華さんっ」
「了解~!」
一華は大きくステップを踏み、碧依の脇まできたところで体をしならせた。
「え⁉」
ゴールから10m以上離れたところから放たれたシュートは、ゴールに近づくにつれて加速し、ゴールの枠ギリギリに心地よい音を立てて収まった。
クラブリーグ初戦、最初の得点はNEOの背番号1番、市川一華によるスタンディングパワーシュートとなった。
「はぁ~⁉ なにあれ! 鳥肌!」
「あんな遠くから届くの⁉」
会場は強烈な先制シュートに色めき立った。
「一華さん、さす、痛ッッ」
「イチさんしょっぱなから飛ばしすぎ!」
「イチさん~! ナイシュー!!」
千尋と光が碧依ごと、一華に飛びついた。
「あはは! すごいでしょ~? 次は頼むよみんな!」
一華が3人を抱きしめて豪快に笑った。
千尋と光がポジションに戻ると、碧依が一華の胸から慌てて離れた。
「碧依、ナイスパス!」
一華はハイタッチの代わりに碧依のクロスに自分のクロスをあて、高い金属音を鳴らした。
碧依は誇らしげに息を吸い込んだ。
2度目のドローも同じように高く上がり、一華のクロスに収まった。
シードラゴンズの果歩はクロスごとボールを叩き落とそうとするが、一華の握力は強くびくともしない。
「ドロー、高い……あんなふうにドローを自キャッチし続けられれば無敵じゃん……」
会場は新チームの華々しいデビューに高揚した。
今度は深雪に対してボールが入らないようにプレッシャーがかけられていた。一華は自ら混雑を突破し、先程とほぼ同じ位置からスタンディングシュートを打った。
「げ」
シードラゴンズのゴーリーが一歩足を前にだし、コースにクロスをいれて容易くセーブした。
「ん~、やると思った……」
「さすがに2回連続で効かないでしょ。ゴーリーは前に出るって言われてるのに」
「ゴーリーなめすぎです」
「アホ」
守備陣が遠くから白い目で一華を見る。
しかしシュートの威力が強く、ゴーリーはボールを取りこぼした。ボールはサークルの外に落ちる。
それを光が拾い、ゴーリーの足元に叩きつけた。
ゴーリーは急いで膝をつき体でボールを押さえたが、ボールはそこになかった。顔をあげると、光が対角にふんわりとパスを投げ、千尋がそれを叩き落とした。
「イチさんの信頼には応えなくっちゃね~」
2得点目は光と千尋の合わせ技で簡単に決まった。2人は拳を合わせた。
「ん。指示通り!」
一華がふんぞり返った。
「馬鹿。試しに打ってみるのやめてよね」
深雪が一華をどやした。
「………」
3度目のドローセット時、シードラゴンズのドロワー・果歩が構えを変えた。手首のスナップと肩の力でボールをさらっていく一華に対して、セット時からあらかじめ全体重をかけてきた。獲ることを諦め、一華に獲られないように。
ボールはフィールドに落ち、一番近くにいたシードラゴンズの選手が拾った。シードラゴンズの攻撃陣はゆっくりとボールを回し、エース・鵜沢果歩が攻撃サイドに入るのを待った。
しかし深雪が常に果歩のクロスの位置に纏わり付き、ボールが渡らないようにパスコースを塞いでいた。
「私にピックかけて!」
自由にプレーできない果歩が堪り兼ねて金切り声をあげた。
ピックとは、相手のマッチアップを強制的にチェンジさせる動きのことだ。深雪から逃れられれば、動きやすくなると踏んでの指示だ。
シードラゴンズのATが深雪を抑え込みに行き、その隙を見て果歩が加速した。果歩が瞬間的にフリーになり、それを目ざとくとらえたボールマンがパスを入れた。
「1人が強いだけのラクロスじゃ、うちには通用しないよ」
「⁉」
深雪に代わり果歩にマッチアップした志麻が、身体を張り果歩の進行を妨げた。受け手を失ったボールは、ゴール前に転がった。
「いただき」
ゴールから潤が飛び出し、ボールを拾って駆け抜けた。プレッシャーのないままフィールドを半分以上走って運んだ。
「潤! 勢い余ってライン超えないでよ!」
「わかってますって!」
潤は、同時に切り替えて横を走っていた翠にボールを投げた。
ゴーリーは、敵陣側にあるフィールドを3分割する線を超えて攻撃サイドに侵入することはできない。
突然の攻守交替に慌てたシードラゴンズの守備陣は、陣形を崩した。
攻撃サイドに残っていた千尋、光、環、そしてボールを持った翠を含めた4人と、シードラゴンズ側守備陣3人の、4on3の形となった。このパターンは、合宿時に散々擦り合わせた。
――DFが走りあがる形!
4人の頭の中には共通の配置が浮かんでいた。
上がってきた光に翠からパスが入る。光の正面に千尋が回り、環の後ろから中央に走り込んだ翠にボールを戻す。ゴール前の状況が、翠と環、相手1人の2on1につくりかわった。
(どっち……? こっちか)
シードラゴンズのゴーリーは、勢いをつけてボールを運んでくる翠の方にヤマを張った。翠がクロスを振りかぶった瞬間に、前に出た。
翠はゴールサークルぎりぎりまで走って、ゴール脇に控える環に相手を見ないでパスを投げた。
そのボールを環が受け、ゴール脇0度から体をねじって鋭角シュートを決めた。
「っしゃあ!」
環がクロスを地面に投げつけた。攻撃陣が環と翠に周りに集まった。
「環、ナイス! 翠~、名演技! 翠が打つのかと思った!」
「打つわけない。シュートの打ち方わからない」
一華が翠の背中を幾度も叩き、翠は頭を揺らした。
ハーフタイムを終え、後半が始まった。
「ふふふ、いいこと思いついた。もう、私からドローはとれないよ。ふはは」
独り言ちりドローセットの体勢を確認する一華を、果歩は冷めた目で見た。
「楽しそうでいいね」
「……」
一華が果歩に目を向けた。
果歩は身体が強張るのを感じた。この試合、始めて一華と目が合った。その目は黒く奥行きがあり、畏れさえ感じられた。果歩の知らないものがそこにあった。
(絶対的なエースが引っ張るチーム。そうじゃないの。私とあんたと、何が違うっていうの)
「一華さん、構え変えた……」
左足を前にする構えから、両足を揃えた構え変えていた。ホイッスルが鳴る前に果歩から全力で掛けられる力を、力で相殺するつもりだ。その違いに、碧依だけが気づいた。
ドローは2人のクロスから弾け出るように飛んだ。
反応勝負に持ち込めば一華に分がある。流れるような動きでボールを奪取し、果歩を置き去りにした。
一華がドローをほぼ獲得することで、攻撃権は常にNEOにあった。NEOが強い攻め込みとボール回しで確実に得点を重ね、ついにシードラゴンズの守備陣のスタミナが限界を迎えた。
試合終了間際、一華にボールが渡った。足が動かなくなった守備陣の裏をとり、ほぼフリーでスタンディングシュートの体勢をとった。
「また……⁉ さっき止められたのに……!」
一華のマークマンが、シュートの妨害をしようと慌てて手を伸ばす。そのクロスが一華の頭部にあたった。
一華は痛みに耐え、そのままシュートを打った。ボールはゴーリーの頭を超え、2番のコースに突き刺さった。
「……なんで……さっきと何が違うの……?」
観客席は唖然とした。
ピッピッピ――!
試合終了のホイッスルが鳴った。クラブリーグ開幕1試合目は5対0でNEOに軍配が上がった。
NEOのメンバーは互いに抱き合い顔を綻ばせ、結成初勝利を喜んだ。
選手達はフィールド中央に整列し、互いに健闘を称え試合を終えた。
「いいわね。やる気のあるメンバーが揃ってて」
試合後、ベンチから撤退しようと身支度している一華の脇に、SEA DRAGONSのエース・鵜沢果歩が立った。
「強くないのに強く見せて、優しくないのに優しさ振りまいて、そうやって1人でチーム動かす辛さなんて、あなたは知らないでしょうね」
一華は顔を上げた。
「……知ってるよ。私も、昔は1人だったから」
果歩は一華の黒い瞳を見つめた。この絶対的実力と圧倒的なキャプテンシーを持った人物が、1人だった……。人はわからないものだ。
「本当の仲間に会えるまで、歩き続けるしかないよ」
「私もう30なんだけど。今から出会えるのかしら」
果歩は自虐的に笑った。
「知らないよ。案外近くにいるかもよ」
肩越しにそう言い残して一華はその場をあとにした。
「果歩さん!」
一華がいなくなったのを見計らったように、シードラゴンズの後輩たちがばたばたと果歩に寄ってきた。
「果歩さん、すみません、今日ボール持ったら果歩さんばっかり探しちゃって……。果歩さんがベタでつかれてるのわかってたのに。もっと自分で仕掛ければよかった!」
「あんな新生チームに一点も取れないなんて悔しいです。もっと1on1練習します! 練習付き合ってください!」
「ていうかあのゴリラマン誰ですか? あんな超人いましたっけ? もう負けたくないです。今からみんなで今の試合のビデオ反省会しません?」
「え? え、あ、うん……」
長年このチームでプレーしてきて、メンバーからこんなにも能動的な提案をされたのは初めてだった。万年最下位で、勝利に対する執着もなく、いつも自分だけが張り切っていた。厳しく言えば辞める、優しく言えばやらない。気を抜けばチームという形すら留められない、ただの友達の集まりだった。そう思っていた。
それだけ、名もないチームに圧倒的点差で負けたことが悔しかったのだろうか。カメリアルズにもサンベアーズにもこれ以上の大差で負けたことがあるのに、何がこの子たちの心を動かしたのだろう。何がこの死んだチームに、この子たちの目に、火を灯したのだろうか。今からでも遅くないのだろうか。
「果歩さん……?」
眉間がじりじりと熱くなった。鼻に力を入れて息を吐いた。
「うん。学生じゃないんだから、何回だって、挑戦できる。来年は倒そう」
「はい!」
日本一を獲りに行こう、とはまだ言えなかった。それをためらわずに口にできるチームを、これから創っていく。そう決めた。
果歩は西日の中に消えていく背番号1番を見つめ、眩しさに目を細めた。
「で、結局あのゴリラ誰だったんだろう」
「開幕戦のカメリアルズvsサンベアーズまでにはパンフレットが出るよ。そこで確認しよう」
「そうだね。開幕戦の前に試合が始まるのも変な話だよね」
試合を観戦した学生達が、興奮して試合の感想を言い合い、帰り支度を整え始めた。
「市川一華よ」
学生の隣に足を組んで座っていた気の強そうな女が立ち上がった。艶やかな黒髪をかき上げる。
「うちの妹がどうも。とってもかわいいでしょ?」
女は学生たちに笑いかけた。学生たちは女性を仰ぎ、威圧感に尻込みした。
「でもこの程度じゃあ、ここから先は勝ち残れないわね。お姉ちゃんが大人の世界を教えてあげなきゃ。私は果歩みたいに甘くないわよ、一華」
清華はフィールドを見つめ、小指で唇をなぞった。
女の名前は市川清華。一華の3つ年上の姉だ。
*
日曜だというのに都営の地下鉄は多くの乗客でひしめき合っていた。
電車の入口付近で髪を緩く束ねた若い女性が、窓に映る自分の顔を見ていた。リュックを抱えてドアにもたれて、背中にかかる圧力に耐えている。
昨日のNEO THUNDERS vs SEA DRAGONSの試合の主審を務めた審判員の1人だった。
今日の試合の会場グラウンドまではあと数駅。今日の試合では審判の仕事はないが、観戦しながら勉強するつもりだ。
(それにしても昨日吹いた試合、面白かったな……。……?)
回想に耽っていた女性は体に違和感を覚えた。感じたことのない感覚に生唾を飲む。顔を正面に向けたまま、眼球だけを動かして自分の胸を見た。
横に立っているずんぐりした男が、自らのジャケットに腕を隠し、女性の胸を小刻みに突いていた。
視界に入ったものの気持ち悪さと不快な感覚が一致して、息を詰まらせた。
突然のことに頭は混乱した。逃れようと右に体を逸らすが、すぐ近くに座席の手すりがありこれ以上移動できなかった。後ろに引こうにも、一歩も身動きができないくらいに人が密集している。せめて体の向きを変えようと肩をずらして背中を向けた。
瞬間に路線がカーブに入り、その慣性を使って男が熱い体を押し付けてきた。
「……っ」
全身に悪寒が走り吐気が襲った。唇が震え、声にならない。全身を強張らせ縮こまり、沸き起こる嫌悪感と屈辱感に堪えた。
ドンッ
突然、背後から拳が振ってきて、電車のドアを打った。女性と男の間に、褐色の逞しくも美しい腕が割り込む。
周囲の乗客は何事かと顔を上げた。
「み~つけた」
満員電車にはまるでふさわしくない大きな声で、腕の主は楽しげな声を上げた。
自分に関わりがなさそうだと判断すると、乗客たちは再び顔を落とした。
「??」
女性は状況が理解できずまた別の意味で固まった。首を回し声の主を見上げると、昨日の試合で活躍を見せたNEO THUNDERSの市川選手の顔があった。
「あ……」
「ねぇ」
「え?」
「昨日の最後の頭部への危ないファール、流したでしょ」
一華はやはり場にそぐわない大きい声で話を始めた。話しながら覆い被さるように体を滑らせ、ドアに寄りかかった。
一華の身体で、視界が塞がった。口をぱくぱくさせながら、必死に話に追いつこうとした。あれはそうだ。自分の中でもジャッジに悩んだシーンだった。だから昨日から頭の中で繰り返し再生されていた。あの話か。
少し落ち着きを取り戻し、一華を見上げた。
昨日の試合の中で、一華に一番近づいたのはドローセットのときだ。ドローセットの時は姿勢を落としていたからあまりわらなかったが、こうしてみるとやっぱり大きい。全てのプレーが、見たことのないダイナミックさだった。こんなすごい人に、意見するのは……、でも……選手と審判員は対等だ。私にも譲れないものはある。
「……はい。それほど危険ではないと思ったし、あそこで笛が鳴ったらしらけるじゃないですか。せっかくいい流れで決まりそうだったから。見て見ぬふりました」
思ったより強くて大きな声がでて驚いた。一華の声量につられたようだ。喋りながら、昨日の試合を思い出して、心が熱くなった。
「審判は○×を決める機械じゃない、と思ってます。ラクロスには“禁止する”ルールが多いから。有利不利に関わらない、吹く必要のないファールは吹かない。そうじゃないと、いつまでも安全な手段ばかりとるようになると思いませんか? 私は審判が日本のラクロスの成長を妨げるようなことになってほしくない」
一華は口角を上げた。
「いいね。うちでラクロスやらない?」
「……え……?」
真意がわからず、一華の瞳を覗き込んだ。
「今から練習なんだけど」
電車のドアが開いて一華が降りる。他に誰も降りないような寂れた駅のホームで、半分体をこっちに向けて待っている。風なんて吹いていないのに、一華の纏う衣だけが息づいた。
駅の発車ベルが鳴った。一華の瞳に吸い寄せられるように、足が動いた。
「あ、一華! あんた急にいなくなってびっくりするじゃない!」
「どうやってあの人込みを移動したの?」
別のドアから降りたNEO THUNDERSのメンバーが一華に寄ってきた。
背後で金属の擦れる音がした。振り返ると、人々を詰め込んだ鉄の箱がゆっくりと動きだした。
――あれ今私……何してたんだっけ
「……まぁいいか」
笑い声のする方へ走った。
「はい、ちゅうもーーく!」
一華が声を張り上げた。
初戦に白星をあげたNEOは、試合の翌日も練習のために集まった。今日の練習場所は都内の大学グラウンドだ。途中まで半面を借り、途中から合同練習をする。
「キャプテン! 筋肉痛が辛すぎます!」
千尋が泣きごとを叫んだ。
「つべこべ言わない! 私たちには時間がないんだよ!」
環が鬼の形相で黙らせた。次の試合を1週間後に控えていた。社会人チームが集まって練習ができるのは休日だけ。実質2回しか合わせる時間はない。
「大丈夫だよ千尋。私も超痛い」
志麻が穏やかな眼差しで言った。
「志麻さんフォローになってない~!」
光もべそをかいた。
「ちょ、私の話を聞けー! さっき私がスカウトした、審判員の……、何だっけ」
「2級審判員のグエン・ダオです。今日からみなさんのお手伝いをさせてもらうことになりました」
一華に雑な紹介を預かったダオが、メンバーに頭を下げた。
「え~、2級⁉ すごい!」
「ラクロスはとにかく変なルールが多い。ルールをどう味方にするかが勝負のカギ! だから審判員に仲間になってもらうことにした!」
協会会員はラクロス協会が管轄する審判員試験を任意に受験することができる。試験に合格した者が、各試合の審判員として活躍している。
「大学でのスタッフ経験もあるので……」
「え、やったぁ!」
NEOはスタッフを渇望していた。練習メニューのタイム管理、ホイッスル、怪我や熱中症時の応急処置。今は選手だけでなんとか回している。練習に集中するためには、スタッフの存在は必要不可欠だ。
「ビシビシみなさんのお尻を叩いていきたいと思います」
ダオはにっこりとほほ笑んだ。
ほんわかしたマネージャーに優しくドリンクを渡される情景を想像していたメンバーは、ダオの笑顔をみて我に返った。
「……んっ?」
ピィー
「光、はけるの早い! それじゃ、自分のDFも一緒にはけちゃうでしょ⁉ 相手を置いてわざとフリスぺをつくるの! そうすれば一華さんのフリーシュートになる!」
「え~っ! 難しい!」
ピィー
「環さんゴールサークルにクロスが入ってます! 相手ボールになります! コースの打ち分けが上手なのはいいですけど、そんなにゴールの近くで打ったらだめです! ノーゴールですよ! もったいない!」
「すっすみません……」
ピィー
「ボールがなくなりました! シュート外した人は取りにいってください! スタッフはボール拾いなんてしませんよ!」
「え~ん! イメージしてたのと違う!」
一通り基礎練習を終えて、メンバーは芝に転がり休憩をとった。細かいルールを意識し頭を使うことで、いつも以上に疲労が溜まった。ダオのおかげで、普段どれだけ頭を使わずにラクロスをしているかを痛感させられた。
「一華ちゃん、合同練習の前に、次の対戦相手の特徴を共有しない?」
叶恵が、一華のシャツの袖を控え目に引っ張った。
「おっけー。みんな集まれ~! 叶恵大先生の授業が始まるよ~」
メンバーは叶恵を仰いで芝に座った。
叶恵がいつもの癖で、今はかけていない眼鏡をずり上げる動作をして1人ではにかむ。
「次の対戦相手はLITTLE CREWS。千尋ちゃんと光ちゃんの元いたチームだよね」
「えっ。そうなの?」
環が驚いて2人を見た。
「リトルクルーズはそのほとんどが体育大出身の、身体能力の塊集団。足の速さも、体力も腕力も初戦の比じゃない」
叶恵の説明に、メンバーは息を飲んだ。
「……2人ともよくそこでやってたな」
環が慈しむような目で、小柄な千尋と光を見た。
「私たちも体育大出身なんですよ! 見た目で判断しないでください!」
千尋が目を怒らせた。
「攻撃陣はほぼ足抜きで、最初にスピードを上げて抜いてくる。ただスピードを上げた選手がその後走りながらパスを出すってことはない。そのままその人が打つか、打ち止めるかの選択しかない」
「じゃあ、ボーラーを止めればいいんだね」
一華が合点のいった顔をした。一華には、目には目を歯には歯を、の考え方しかない。
「それだけ足に自信があるってことだよ。迷いがないから怖い。私もよく練習参加してたけど、単純な1on1の実力はかなり厄介だよ」
志麻が呆れて戒めた。
「そんなつまんないラクロスに負けたくない」
碧依が駄々をこねる。
「じゃあフォローの練習に力をいれよう。いずれにしろ、この先単純な1on1だけで守れるチームなんてない。ラクロスは攻撃が圧倒的に有利なスポーツなんだから」
「よし、守備はフォロー重視の練習だね。攻撃はどうする?」
一華が指揮をとり翠の意見を採用した。攻撃陣が目を見合わせる。
「体力戦になることは必須だろ。MFは守備のために体力を残したいから、AT中心に攻めるのが定石だな」
そう言って環が千尋と光の肩を寄せた。
「リトルクルーズは千尋と光のプレーをよく知ってる。いいの?」
志麻が心配そうに問うた。
「逆だよ、志麻。知られてるからこそ、その上をいく。まぁ2人に任せる。どうする?」
一華は戦術の決定権を千尋と光に委ねた。2人は、環越しに互いの顔を見た。
「いや、私たち秘密の特訓してますから。リトルが知らない最新の私たちで挑みますよ」
「古巣に負けてるようじゃ、日本一なんて獲れませんから」
一華は立ち上がって2人の頭に手をおいた。
「よし、決まり!」
「ただ今よりNEO THUNDERS vs LITTLE CREWSの試合を始めます。礼!」
初夏に近づき汗ばむ季節となった。
NEOの2戦目は郊外の公共グラウンドで行われた。観客席にはカメリアルズのメンバーの姿もあった。
「新進のチームとは言え、ドローはやっかいね。一華を攻略しないと、最初の攻撃権は常にNEOになるわ」
「でも一回奪ってしまえばこっちのもんじゃないですか? 守備は連携が命。結成して数カ月そこらの守備じゃ、うちの攻撃は止められないですよ。それにNEOのゴーリーの潤は私が育てたようなものです。セーブの癖は全部知ってます」
カメリアルズのゴーリー・董が息巻いた。董は椿森学園出身であり、潤の2つ上の先輩にあたる。
「あのね。あんたが知ってるってことは、あっちにも知られてるってことでしょ」
同じ椿森学園出身で董のさらに2つ年上の紅が、呆れるように返した。
「……癖を知っていることは、必ずしも有利に働かない……」
伶歌が、高くあがるドローに手を伸ばす一華を見つめて呟いた。
攻撃はNEOから始まった。ボールを受けた千尋がゴールの裏に移動した。
ラクロスのフィールドにはゴールの後ろにも10m程のスペースがあり、ゴールの裏側から攻撃を仕掛けることも可能だ。
千尋がゴールの裏側からゴールサークル線状に沿って攻撃を仕掛けた。千尋の仕掛けと同時に光と環はゴール前から掃ける。ゴール前にできたスペースに千尋が飛び込み、回転し体の向きを変える。左手にクロスを持ち替えシュート体勢のままゴールの逆サイドにパスを投げる。パスの先に光が飛び込む。
しかしゴーリークロスがパスコースを遮った。
「!」
「あんたたちの得意パターンなんてお見通しだっての」
リトルクルーズのゴーリーが、パスカットしたボールフィールド中央に向かって投げた。
試合早々、あっさりと攻守交替した。
「あの2人、リトルにいた子たちじゃない?」
「はい。東体大の同期ですよ。新チームに移籍したみたいですね。リトルじゃ試合あんまりでれないからですかね」
観客席で、董が紅の質問に答えた。
リトルクルーズのキャプテンがボールを受け、攻撃サイドにはいった。
「速攻くる! 叶恵! ボールマンについて!」
翠が怒号を上げた。
叶恵がボールマンの進行方向を塞いだ。叶恵が時間を稼いでいる間に、一華、深雪、碧依が守備サイドに加わった。
「人数揃った!」
深雪がMFの状況を確認し、発信した。
その声が守備陣に行き渡らないうちに、叶恵が押さえていたボールマンがスピードを上げた。叶恵はそのスピードについて行けずに取り残された。
ボールマンはゴールに向かって加速し、ノンプレッシャーでシュートを打ちつけた。
ピ――ピッ
先制はリトルクルーズだ。
「キャプテン、ナイスシュート!」
リトルクルーズのメンバーはシューターの周りに集まった。
「一華!」
翠が手を伸ばして一華の頭に鉄拳を食らわせた。
「今の一華が2線だよ! フォロー寄って! 練習でやったでしょ⁉」
「ごめん。忘れてた。次はちゃんとはいる!」
「なら許す」
フォローとは、ボールマンの1on1に対してその隣のDFもコースにはいり、実質2人でボールマンを守る守備の手法だ。その際ボールマンについているDFを1線、その隣のDFを2線、そのさらに隣のDFを3線と呼ぶ。
「3線は深雪だった! 3線が2線に声をかけるってきまりだよ!」
翠は深雪にも檄を飛ばした。
「すみません」
「まったくMFはこういうところポンコツ」
(守備のこととなると厳しい……)
深雪は翠に叱られて反省した。
守備のことは守備の専門家の指示に従う。攻撃は攻撃陣に合わせて動く。MFというポジションは忙しい。攻守のスキル、切り替えの速さ、走り続ける体力。多彩な能力が求められる。
2度目のドローも一華が獲得し、最初の攻撃権はNEOのものとなった。
今度は光がボールをゴールサイドまでも持っていき、やや距離をとったところに千尋がポジショニングをとった。
光が仕掛け始めるのと同時に千尋が光に近づく。すれ違い様に光がボールをトスし、宙に浮いたボールを千尋が掴みとった。
「ボールマン変わった!」
「!」
光についていたDFがすぐに仲間へ指示をだした。千尋へのプレッシャーが高くなり、ゴールまで進めずに裏へ逸れる。裏に追い詰められクロスを叩かれた千尋は、ボールを取り落とした。それをリトルクルーズのゴーリーが拾い上げ、大きく遠投の構えをとった。
「奪った! クリア!」
「くそ……」
千尋がボールを奪い返そうとゴーリーを追った。
「それ新しい技? でも、2人がボール持っても何も怖くないよ」
「……」
光についていた元チームメイトはくすくすと笑った。
光は誰にもまだ見せてない新技が一瞬で見破られ困惑した。クロスとボールを体に隠し素早く味方にパスをし、相手にボールマンが変わったことが気づかれないうちにシュートへ行く、2on2の戦術だ。あらかじめ知っていなければ、相手の反応は多少なりとも遅れるはずだ。
「あれ、今の、ポップチェンジじゃないですかぁ~?」
カメリアルズのメンバーが集まる席に伊代が到着した。
「伊代。遅いわよ」
紅が諭した。
「ごめんなさい、渋滞してて~。それより、私もポップチェンジ、紅さんとやりたいと思ってたんですよ~。先越された~」
「……あの程度の完成度なら、今から練習しても私たちの方が上手いわよ。次のNEO戦で当てつけにやってもいいわよ」
「え~、紅さん性格わる~い」
伊代が嬉しそうに紅の隣に座った。
「フォロー準備! さっきと同じこと言わせないでよ!」
翠が叫んだ。
「オッケー!」
守備サイドにたどり着いた一華が応えた。今度は深雪がボールマンにマッチアップした。ボールマンはスピードを緩めずに深雪を抜きにかかった。
「うっ……速いっ」
深雪はボールマンの右手側にポジションをとり続けた。完全に抑えることを諦め、ボールマンが走る方向を限定したのだ。
「それでじゅ~ぶん! 碧依、フォロー!」
「はい!」
碧依がボールマンの方へスライドすると、深雪と碧依の2人に囲まれたボールマンはさすがにスピードを緩めた。
その一瞬を見逃さず、碧依が相手のクロスに手を伸ばす。
ボールマンは碧依のクロスから逃げるように反転し、一番近くにいた仲間にボールを放った。
「あ、」
一華がその緩いパスをもぎ取った。碧依が深雪のフォローに寄ったと同時に、一華は碧依のフォローに寄っていた。
ボールに対して人を密集させて相手の攻撃を阻止する。それがフォローだ。
「本来は奪う戦術じゃなくてただ阻止するだけの戦術だけどね。一華に碧依、さすがの身体能力だね」
志麻が味方に感心した。
「フォローは、要はタイミング。身体能力より経験値」
翠が訂正した。
「一華!」
一華に向かって、ATの環がボールを受けにきた。
MFは攻撃にも守備にも参加する。MFの体力を温存するにはATやDFが運動量を増やす必要がある。
ボールを受けた環はゴール前に突進するが、リトルクルーズの守備陣が待ち受ける。環は直前でステップを踏み、敵の間を割ろうとする。全力で押し返され後ろにステップを踏み、相手の力が緩んだところをもう一度仕掛けた。半ば強引にクロスだけ前に出し、チェックから逃れ、あとから身体を押し込んだ。
「ああああ!」
「うわっ」
前に倒れながら手首だけでクロスを倒し、ゴーリーのクロスを持っていない側の腰にボールを投げた。
ボールはゴーリーの太ももにあたり弾かれた。が、角度が変わり、ゴールのポールにぶつかった。ボールはそのまま威力を失いゴールライン内に転がった。
ピ――ッピ!
「環さんっ大丈夫⁉」
膝から大胆に転び顔に泥をつけた環に、千尋と光が駆け寄った。
手の甲で顔の泥と汗を拭い、環が立ち上がった。
「2人とも、かっこよく決めようとするなよ」
「え?」
「ATはかっこよくシュートを決めるポジションじゃない。ゴーリーが止めて、DFが奪って、MFが運んできたボール。どんなにかっこ悪くても、ボールをゴールにねじ込むのが、私らの仕事なんだよ」
環が纏う空気が殺気を帯びて揺らめいだ。
環の気迫に、千尋と光は生唾を飲み込んだ。
「古巣相手に気張る気持ちもわかるけどさ。もっと、目の前の相手と勝負しなよ」
環が2人の肩に手をおいて間をすり抜けた。
「ん~? なんかスイッチはいった?」
「影響されやすいのよ環は。単純だし」
フィールド中央で、一華と深雪が面白そうに様子を見守った。
「ATってみんなそうでしょ。そうやって、チームの中で自分が一番点とってやるって思ってもらわないと困るよ」
一華は千尋と光のふっきれたような顔を見て、楽し気にポジションに戻った。
「痛そう~。今あんなに頑張る必要あった~?」
「あれ誰ですか?」
董が首を傾げて紅に尋ねた。
「宮藤環……。私の同期で、2部の女子大出身だったと思う……。当時の関東選抜レベルまではいたわ。今までどこでラクロスしてたのかしら……」
「え~でも、日本代表呼ばれてないでしょ? そんなに上手くないし」
伊代が口を尖らせた。
「……守備側としては、あーゆーのが一番嫌だよ。しっかりコースに入って止めてるのに、なりふり構わず打ってくる奴。空気読まないでねじ込んでくる奴。お上手なプレーしてくれたほうが、よっぽど予測しやすいのに」
董が忌々しそうに環を見た。
千尋はボールを受け、もう一度光との2on2のためのポジショニングをとった。光と目が合わせ、光が千尋の後ろへまわり、ポップチェンジの体勢に入る。
その時、相手選手の重心の動きが変わるのがはっきりと見えた。光の方に重心を傾けている。光がボールを受けた瞬間に2人で囲んでボールを奪うつもりだ。
環の言葉を反芻した。
――目の前の相手と勝負しなよ
千尋は光にトスしようとして伸ばしたクロスをぎりぎりで引っこ抜いた。重心が全て光に向いている自分のマークマンの脇をすり抜け、加速した。
「あれ⁉」
リトルクルーズのDFは光がボールを持っていないことに気付き驚いた。
千尋がフリー状態で突破したことに気が付いた他のDFが、千尋のコースにはいる。ラクロスではルール上、シューターとゴールの間に、身体をいれてはならない。審判が黄色のフラッグを揚げた。
ファールが起こった場合でも、ボールマンにとって不利にならないと判断された場合は、ゲームが続行される。その間審判はイエローフラッグを掲げる。イエローフラッグが揚がっている間は攻撃側の無双状態だ。強引にプレーを続けることもできるし、例えボールを失ったとしても、その前に起こったファールが適応され、自分からゲームが再開する。
場所によってはフリーシュートの権限を獲得できる。千尋がいるのは、ゴールから11m半円上に書かれた扇型のラインの中だ。ここでファールが起きた場合は、フリーシュートとなる。
「千尋! フラッグ揚がってる!」
深雪が声を上げた。
――どんなにかっこ悪くても、ゴールにボールをねじ込むのが、私らの仕事なんだよ
千尋は自分のコースを塞ぐ目の前の選手から、離れるように横に跳んだ。ゴーリーの動きを見る。さっき環がシュートを打った場所、クロスを持っていない側の腰がら空きだ。
千尋は横に倒れながら、横にしたクロスを思いっきり振った。
ピ――ッピ!
審判がシュートシグナルを出した。
「千尋~⁉」
倒れ込んだ千尋を光が引っ張って起こした。
「よく光が狙われたのわかったね。シュートもなんか、熱いじゃん……」
「へへ……」
環も駆け寄ってクロスの柄を差し出した。3人で柄を合わせ、金属音を響かせた。
ピピ―!
「タイムアウトNEO!」
NEO側のタイムアウトの申請だ。タイムアウトは90秒、各チーム2回申請できる。
「大丈夫ですか?」
ダオが救急箱を持ってきて環と千尋をベンチに座らせた。医療従事者である翠も応急処置を手伝った。翠は私立高校の養護教諭をしている。
「翠さん、任せていいですか? ここまでのデータを集計したので、叶恵さん見て下さい」
「えっ。ダオそんな分析もできるの?」
「人手が足りないので、ドローとシュートと攻撃率くらいですけど……。今の千尋のシュートで気づいたんですけど、ゴーリーのクロスを持っていない側セーブ率が著しく低いと思いませんか? こっちはリトルクルーズの前回の試合のデータと合わせたものです」
叶恵はダオに差し出されたスコアシートを覗き込んだ。
「確かに、リトルクルーズのゴーリーは反応が遅い。わざとスペースを空けておいてカモるタイプ。ゴールに近いところからクロスを持っていない側に打てば入る確率は高いね。それも、そのシュートにスピードは必要ない」
「あ、だから、クロスを持っている側のスペースが空いてるのか」
合点がいったように一華と光が手を叩いた。
「確かに相手の攻めの起点は明らかにMFだし。こっちの守備もMFの体力の消費が多くなるわ。ATだけで点を重ねられるならそっちの方がいいわね」
「え~」
深雪の提言に一華が不満を漏らした。
「私たちがバテたら、うちの守備が立ち行かなくなるでしょ! 翠に怒られるわよ!」
深雪が一華の胸倉を掴んで揺らした。環と千尋の応急処置を終えた翠が立ち上がった。
「一華の方が体力はある。どうせ先に相手がバテる。4Q目をMF対決にして、畳みかければいい。一華、今日は4Qの女になって!」
翠に勢いよく顔を指さされて、一華はにんまりした。
「よし、4QまでAT陣頼むぞ!」
「一華の扱いに最も長けてるのは翠だね……」
終始見守っていた志麻が呟いた。
「結局3Qまでで、4対1に離せたね」
「やっぱり攻撃にはボールマンの脅威がなにより大切なんですよ~!」
「そうそう! ボールマンが脅威を持って仕掛けるから、ポップチェンジも、ポップフェイクも効くんですよ~!」
ATの3人は肩を組んで検討を称え合った。
「全然私の出る幕なかったな~」
ATの話を聞きながら一華がぼやく。
「いいじゃない、4Qで3点も取ったんだから!」
NEOは第2戦、最終スコア7対2でリトルクルーズを下した。第4Qは翠の読み通り相手のMFの足が動かなくなり、一華の独壇場となった。
「早く着替えてカメリアルズの試合見に行こう」
翠が、観客席から離れるカメリアルズのメンバー達を見やった。
カメリアルズのメンバーは会場を移動しようと席を立った。
「NEOの攻撃は一華さん以外も意外と厄介ですね。一華さんは異常に面倒ですけど。あの攻撃力に対抗できるMFは伶歌さんかアリアナしかいないですよ」
「MFが一華だけっていうのがNEOの痛いところね。それに、一華の決定的な弱点をみつけたわ」
紅が含み笑いをしながら、会場に背を向けた。董と伊代が後を追った。
「……2試合とも、何もしてない……」
碧依はベンチに座ってスパイクの紐を解く。思うように活躍していない自分にいら立ちが募る。
「ブロック戦なんだから、温存できるものはしておいたほうがいいでしょ。碧依はNEOの秘密兵器なんだからさ」
志麻がベンチに並んで腰かけ、碧依の頭に手を置いた。
「……秘密……兵器……?」
碧依は顔をあげ、志麻の言葉に頬を桜色に染めた。
「ちょろい……」
真後ろにいた潤が同期の様子を見て呟いた。すると碧依はぐるりと首を回し、潤に顔を向けた。
「潤、シュート練しない?」
潤は突っかかられると思い身構えたが、予想外のお誘いに拍子抜けした。
「今から? 試合終わったばっかりなのに」
「潤は今日そんなに疲れてないでしょ!」
「碧依が疲れてると思って心配したんだよ!」
「2人ともカメリアルズの試合みないの?」
2人に志麻の声は届かない。ぎゃんぎゃん言い争いながらグラウンドに戻っていった。
「……若いなぁ」
チームの未来を背負っていくであろう後輩たちの背中を眺めて、志麻が頬を綻ばせた。
潤と碧依は一台のゴールを借りて、ユニフォームのままシュート練習を始めた。
「どうしたの? 碧依。そんなランニングシュート普段やらないのに」
首を傾げながら助走の距離を取り直す碧依に、潤が尋ねた。
「だって、うちのチーム誰もランニングシュート打てないからさ。プレーは偏らない方がいいでしょ。それにみんな慣れてないから今日みたいな直線系の1on1止められないんだよ。潤も2点取られてたし」
潤は、ゴールの周りに転がったボールを集めていた手を止めた。
「……なにそれ。誰のために練習してんの?」
「そりゃ、チームのためでしょ?」
不穏な空気を感じとったように、碧依も動きを止めた。付け足すように言葉を並べた。
「碧依はもっともっと先輩たちの役に立ちたい。いろんなプレー得意だし、チームに足りない部分を埋める動きだっていい。あの人たちと日本一獲りたい」
潤は碧依の言葉を聞きながら、その澄み切った瞳を見つめた。その幼さに苛立ちが募る。
「じゃあ、碧依は一華さんが日本一獲るって言ってるから日本一獲りたいってこと? あの人が獲るのやめるって言ったらやめるの? あの人がラクロスやめたらどうするの? ちゃんと自分のためにラクロスしなよ!」
喋りながら感情が昂ぶり段々と声が大きくなった。普段は起伏の激しい方じゃない。先輩といるときはもっと落ち着いて、一歩引いて渡り合える。でも碧依と話すときは、何もかも剥き出しで、全てをぶつけないと気が済まない。
「誰かのためにとか、誰かと一緒にとか、そういうの、逃げでしかないよ」
嫌悪も込めて吐き捨てた。
瞬く間に、碧依の眉間に皺が刻まれた。
「そんなの、日本一を目指すことが前提のチームでの話だよ! 潤はさぁ、“この大会で優勝しよう”って言ったらチームのモチベーションが下がる経験したことある⁉ 自分以外誰も本気じゃないラクロスしたことある⁉ 練習がいやでみんな辞めて試合にでれないなんて状況信じられないでしょ! ラクロスは1人じゃできないんだよ!」
碧依は、潤と同じ熱量の金切り声で返してきた。
潤の出身大学は全国大会常連、部員数200名の強豪校。片や碧依は3部リーグ所属の弱小国立大学出身。2人はその年代の関東選抜チームに抜粋され、当時からよく2人で自主練習をする仲だった。大体は碧依の誘いに潤が付き合う形だったが、チーム内に何人もライバルがいる潤にとっても、校外の練習相手は都合のいい存在だった。
当時から碧依は自チームの事情を語りたがらず、潤も詳しく聞かなかった。引退してからすぐに、碧依はオーストラリア留学の道を選んだ。社会人になって、お互いの学生ラクロスを振り返るのはこれが初めてだった。
「誰かのためにラクロスしたいなら、カメリアルズでも、サンベアーズでも、日本一目指してちゃんと練習してるチームにすぐにはいればよかったじゃん。なんで1年オーストラリア行ったの?」
「日本のクラブチームがこんなに熱いなんて知らなかった。クラブの情報なんて、3部には入ってこないんだよ。何かをしにオーストラリアに行ったんじゃない。本気で頑張っても嫌がられないところに行きたかっただけだよ……!」
碧依が心の内を絞り出した。潤はヘルメットを外した。自分たちはさっきから、何に熱くなってるんだろう。なんの話をしてる? いや、別にいい。ゴールなんかなくたって。
「それ、楽しかった?」
「……」
潤の問いに、碧依は言葉を詰まらせた。
「別に碧依のことなんか誰も求めてないよ」
言葉を探して黙りこくる碧依に、潤が言い放った。
「碧依がいなくなったくらいでNEOは崩れたりしない。もう前いたチームとは違うんだよ。人に認めてもらおうとするから、いつまでも辛いんだよ。人の目なんか、気にするなよ」
潤は遠慮も飾りもない言葉を投げつけた。
碧依は瞬きもせず、唇をきゅっと締めて潤の言葉を聞いていた。
意味を理解したのかしていないのか。何も言わない碧依にいら立って、畳み掛けるように続けた。
「碧依が、そう思うんでしょ? 先輩のためとか、チームのためとか、そう思うのは自分でしょ? 自分のためから逃げるなよ!」
潤は自分から出た言葉にはっとした。
学生時代、死に物狂いで日本一になって、もう目指すものがなくなって、立ち止まった。日本一の先に何も用意されていないことに、絶望した。オーストラリア留学なんて、行ってなにになるのか。そう思って辞退した。なんで、人に与えられることばかり望んでたんだろう。ない道は、自分で創ればいいんだ。
目の前に広がっていた空虚に、道ができた。潤は碧依に背を向けて口元を緩めた。
「一華さんだって深雪さんだって自分のためだよ。そういう強い信念があるから、信頼できるんだよ。碧依が本気で、自分のために、楽しく自由にラクロスしてたら、どこまでも応えてくれる人たちだよ」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎながら、潤は深雪の泣き顔を思い出していた。薄暗い街に似つかわしくない涙。欲望と貪汚が渦巻くネオン街の中で、随分と眩しく感じた。その光に導かれるように、今ここにいる。
私も人に説教している場合じゃない。私が、ラクロスを創る。
「クロスワーク」
「ん?」
碧依が唐突に発したキーワードの意味が分からずに聞き返した。
「クロスの扱いが下手だと、プレーの幅が狭まると思う。日本のラクロスはみんなクロスワークが覚束ないから試合見てても単調で面白くないし、技術的に世界に通用しない」
碧依は足元に転がるボールをクロスで拾い上げ、クロスの端から端へボールを転がした。クロスの先にたどり着いたボールをけん玉のように弾き、柄の底にバランスよく乗せた。
「碧依は日本一クロスワークが上手だって自負してる。海外でも充分通じた。ラクロスを本気で楽しむにはクロスワークが大事だって、自分のプレーで証明したい」
碧依はボールをひょいと上に投げ、落ちてくる間にくるりと回って背中に回したクロスでキャッチした。そのボールを今度は股下を通して潤の方へ放った。
「いいじゃん。それなら付き合うよ」
潤はボールを手の平でキャッチした。