3-意味のないことに全力を出すのが人生
これはラクロスという“趣味”にあけくれる妙齢女性たちの、青春の続き――
『これをもってラクロスクラブリーグ、閉会とさせていただきます』
ラクロスクラブ連盟の代表者が朝礼台から挨拶をした。男子の決勝戦も終わり、決勝戦を戦った4チームが閉会式を終え、各々解散した。
「?」
一華はサンベアーズの列の後方から、朝礼台に立つ代表者の顔を見上げて首を傾げた。
選手たちは着替えを終え、会場の後片づけを手伝っていた。
ラクロス専用のグラウンドというものはなかなか存在しない。サッカー場やラグビー場にラインを引いて、試合や練習のために自分たちでフィールドを作るのがごく当たり前だ。そして試合が終われば現状復帰に奔走する。
一華は使用したゴールを解体し、その収容場所を探していた。
ラクロスのゴールは8~9本の長いポールの組み合わせでできている。練習の後はしばしば、その金属のポールを1本ずつメンバーが持ち帰ることもある。
「ゴール、運ぶの手伝うよ」
「ん?」
一華が振り返ると、気の抜けたような顔をした大柄の男が立っていた。ラクロスショップでシュート対決をした、亮介だった。
「女の子はそんな重いもの持たなくていいんだよ」
「……」
一華は心底不快そうな顔をした。それを目の端で捉えた亮介は、すかさず言い換えた。
「試合後の肩に負担がかかるのは良くない、と思って」
一華は亮の顔を見定めてから、ゴールを入れていた袋をガシャンと降ろした。
「それはそうだね。ありがとう」
亮介と一華は、袋の取っ手を片方ずつ持ってゴールを運んだ。
「メッシュの調子はどう?」
「いい感じだよ。うちに最高の編み師がいてさ、その子に編んでもらうと引っかかりもすごくよくて。最後のシュートは本当気持ちよかった」
亮介は楽しそうに語る一華の横顔を、眼福を得たように見つめた。
「一華ちゃん……!?」
「あ、さっきの……」
「あ、亮さんまで……。試合、お疲れ様です。疲れてるのに運ばせてすみません。ありがとう。倉庫はここです」
閉会式で挨拶をしていた代表者が、倉庫の扉を開けた。かけている丸メガネを手の甲で押し上げた。
「どこかで会ったっけ?」
「あはは。同期であなたのこと知らない人なんていないよ。私は矢島叶恵。クラブ連盟で大会運営の手伝いをしてるの」
ラクロスの大会のほとんどは、有志のボランティア人員が運営を担っている。
叶恵はがさがさと得点版やコーンを端に寄せ、ゴールをおくスペースをつくった。
一華は作業をする叶恵の前に立った。
「なんで閉会式、泣いてたの?」
空気を切るように、鋭く問いかけた。
「……え……」
叶恵は顔を上げた。一華の漆黒の瞳に捕らえられ、吸い込まれるような感覚に陥った。
叶恵は今日の決勝戦を、オフィシャルベンチの後ろの特等席で見ていた。直前まで運営の仕事を任されていたため、そのままフィールドに一番近い場所からで試合を見ることができた。紅のクイックシュート、伶歌のドロー、深雪のフェイク、翠のパスカット、そして一華のフリーシュート……。
――ああ、すごい。みんな。私と同世代なのに、まだまだプレーでラクロスを引っ張っていくんだ。どんどん新しい技を身につけて、洗練していくんだ。まだまだ、ラクロスは未開拓のスポーツ。だから自分でプレーを創ってるんだ。ラクロスに、正しいプレーもなにもないんだ……。
閉会式では、クラブ連盟の代表として選手たちの健闘を称えた。
――健闘を称える? それは頑張ってきた人を褒めること……。私のどこにそんな資格が? 私は何をした? なんで、私はここにいるの? ここで、何をしているの――
目を瞬いて、何とか顔を逸らした。息がつまり浅い呼吸を繰り返した。
「みんな、すごいなって思って。自分を信じて戦えることが、羨ましいなって。ほんとにラクロス好きなんだなって。私には無理だなぁって。悔しくなっただけだよ」
「なんで無理なの?」
「みんなみたいに、ラクロス上手くないから。運動神経も普通だし、背も高くないし、強豪校出身じゃないし、得意なシュートも、自信も、何もない!」
自分で言って恥ずかしくなった。恥ずかしさで、目尻に熱いものが溜まった。わかってる。才に恵まれなかったことなんて、大したことじゃない。深雪だって普通の人だ。翠なんてあんなに小さい体で。持ってるものを最大限に磨いて、勝負してる。
日本を牽引する一流選手の前で、何を言ってるんだろう私は。小さい。この人だって、楽しいことばかりじゃなかったはずだ。持って生まれたからこその、期待や誤解、孤独や苦しみだってきっとある。
言い訳ばかりで情けない。溢れる涙と鼻水を袖でぐしゃぐしゃに拭いた。
ほんとは、わかってる。何もしないことが、一番情けないことだって――。
「私、来年新しいチーム創るんだ。日本のラクロスを、面白くするの」
泣いてる人間を前に慰めるでもなく、励ますでもなく、一華は言った。
「チームをつくる……?」
鼻をすすりながら、叶恵は一華を見た。
――この人はまだ、前にいくんだ。
「うん。だから、メンバー募集してるの」
――ここで逃げたら、もう――
「私にも、できるかな……」
みっともないくらいに声が震えた。
「……さぁ?」
一華がそっけなく首を傾げた。叶恵はズボンをぎゅっと握った。
「そんな言い訳ばかりするなら、できな」
「私もラクロスしたい!」
一華の言葉を遮り、ほとんど叫ぶように想いを主張した。
「私も今から頑張って、みんなに追いついて、戦う! だから仲間にいれて!」
一華は満足そうに笑った。
「いいよ」
「あ、亮介さん。一華ちゃん、飲みに誘えました?」
倉庫から出てきた亮介に男が声をかける。
「……いや。あれは只者じゃないな。俺ももう少し精進しないと、相手にされないな。帰って今日の試合のビデオ見よう」
「亮介さんが相手にされないって。そのスペックで……? 意味わからないですよ……」
「そういうことじゃないんだよ」
亮介は息をつき、会場を後にする一華の後ろ姿を目で追った。
「ん? 志麻。今日も休みだったんだ」
着替えを終えた一華たちのもとへ、志麻が差し入れを持ってやってきた。千尋と光も一緒だ。
「うん。一華、相談があって。実は私も、ぐはっ」
「一華さん!」
志麻の巨体を押しのけて、一華の前に透き通った肌の少年が現れた。
「ん? 誰?」
「弟子にしてください」
一華の手を取って強く握った。涙で目を輝かせながら恍惚とした表情で一華を見上げた。
「あんた誰?」
翠が一華の影から訝し気に、少年の整った顔を覗き込んだ。
「あれ……どっかでみた覚えが……あ。碧依ちゃん……?」
深雪が指さした。
「そうですよね! 碧依ちゃんですよね! 碧依ちゃん、いつの間にオーストラリア留学から帰ってきてたの?」
千尋が興奮した様子で尋ねた。少年は少年ではなく、女子ラクロスの選手だった。
「さっきのロングシュートも、スタンディングシュートも、ドローも本当に感動しました。痺れて、動けなくなるくらい! やり方教えてください! 師匠!」
碧依は深雪や千尋を無視して一華を見つめ続けた。一華以外はまったく眼中にない。
「師匠か~悪くないな。いいよ」
一華は目尻をだらしなく垂らして笑った。碧依の頭に手を置くと、碧依はポッと頬の明度を上げた。
翠が眉間に皺を寄せて一華の後ろから顎を突き出した。
「一華! 警戒心! あんた、一華の一番弟子は私だから!」
「翠はDFでしょ……」
「翠さんのパスカットもテンション上がりました。あのパスに反応するなんて、ほんとにっ。今日の試合、すごかった……」
碧依は目に涙を溜めてほとんどしゃくりあげるように言った。
翠は満更でもない様子で鼻を鳴らした。
「……まぁ。それをわかってるならいい。但し、まずは私の弟子になること」
「う、嬉しいです! ありがとうございます!」
碧依はこぼれんばかりの笑みを返した。
「……ま、まぶしい……」
隣にいた深雪が目を細めて鼻を痙攣させた。
「あ、いたいた。一華ちゃん!」
叶恵が書類の束を抱えて一行のもとに駆け寄った。
「チームを創るって言うけど、どれだけ大変か知ってる? 協会登録に、申請書作りに、ユニフォーム台帳も作って、お金も工面しなきゃ。組織づくりも大変だよ」
すっかり元気を取り戻した叶恵が、書類やファイルを一華に差し出した。
「あれ、叶恵? うわ。こんなに書類あるんだ……」
叶恵が差し出した書類を、深雪が受け取った。
一華は叶恵と深雪を交互にみて2人の肩に手を回した。
「2人とも、細かいことは頼んだよ!」
「ちょっと一華、面倒なことは押し付けようったってそうはいかないわよ!」
話の流れを見ていた志麻が、遮るように手を挙げた。
「一華、私も、新しいチームに入れてほしい。けど、練習の日に仕事が休めるかわからない」
「ん? 志麻は最初から頭数にいれてるよ。あんなに上手にクロス編める人、入ってもらわないと困る。料理もうまいし」
「一華、そこじゃない」
翠が一華を見上げた。
「紅みたいなパワープレーヤー、翠じゃどう頑張っても止められないわ。志麻がいてこそ、翠が生きるのよ」
深雪が翠の頭に手を置き、志麻を見た。
「深雪もアリアナを止められてない」
翠が深雪をじとりと見上げた。
「でも、練習に、参加できない、から……」
「ん~。来れるときに来る。それでいいんじゃないの?」
一華が何の気なしに言った。他のメンバーも納得している様子だった。
「でも! 紅だってアリアナだってこれからどんどん上手くなる! 半端な練習で止められるとは思えない! なによりあんな試合見て! みんなが練習してる間に自分だけ仕事するなんて、我慢できない! やるなら、全力で挑みたい! だから……」
珍しく強く意見を主張する志麻を、一同は驚いて仰いだ。
「明日仕事辞めてくる!!」
「「えええ!?」」
一同は声を上げた。
「……志麻、勢いでそんなこと言って、大丈夫……?」
「ずっと考えてた。勢いがないと決断できない。迷わせないで」
志麻が顔を顰めた。
「何事も自分次第」
翠が志麻の頭に手を伸ばして撫でた。
「ふははっ。みんな最高! よーし、志麻も、碧依も、みんなで今から第1回新チームミーティングするぞ~!」
「「お~!」」
「深雪」
翠が深雪の袖を引っ張った。翠が指さす方に普段着を着た愛奈が立っていた。スチール製の松葉杖に体重を預けている。
深雪は深い溜息をついた。
「……私たちも落とし前つけなきゃいけないみたいね」
「ヤクザ?」
翠は深雪を見上げた。
空気はしんと静まりかえり、秋の終わりを告げていた。吸い込んだ息が体の奥から体温を奪う。
深雪と翠は、一華たちと別れて愛奈と合流した。
外は寒いと駄々をこねる愛奈に、深雪が手頃なカフェを見繕う。大会会場の通りを挟んで向かいの路地にある、アンティーク調のインテリアが並ぶカフェだ。大会会場は頻繁に使用する場所であったが、傍にこのような異空間を思わせるカフェがあることは知らなかった。愛奈は「素敵~」と店内を見渡し気に入った様子であったが、深雪と翠は居心地の悪さと自分たちの場違いな恰好に辟易した。
「2人とも冷たい」
席に着くなり愛奈は顔を横に向けむくれた。
深雪と翠は顔を見合わせた。
「練習に来れない人がいたら、連絡くれるのが普通じゃないですか。まどかも、萌美も、優香も他のメンバーはみんな私のこと心配してくれたのに」
寒いと言ってカフェにはいった愛奈は、コップの表面が結露するくらいに冷えたアイスカプチーノをゆっくりかきまぜた。
「私、このチームが日本一獲れないの、そういうところだろ思うんですよね。ONE TEAMになりきれてないっていうか。愛情が足りないっていうか」
「……」
深雪が何か言いかけて、何も言わずに口を閉じた。
「でも私、2人のことを尊敬してるから、意見が聞きたいです。最近、2人が何をしたら喜んでくれるのか、わからなくなっちゃって」
「あ、愛奈、私たち……」
「そういえば、一華さん来年どうするか聞いてますか? 一華さんが、なんで今サンベアーズの“仮”入部なのかわかりますか? 2人のために私が入部拒否したんですよ」
「え? どういうこと?」
「だって、一華さんが帰ってくるまで2人の口から一華さんの話聞いたことなかったし、怖くて口に出せないだけで、本当は苦手なんだろうなって。それを一華さんに伝えたら、じゃあ“仮”にしておいてくれって」
「ちょっと待って……何を言ってるの……?」
愛奈が顔に張り付けたような笑顔でまくしたてる言葉を、2人は必死に理解しようとした。
「2人のためを想って言ったんですよ。大事なチームメイトだから、守らなきゃって。私も一華さん怖いですけど。でも勇気だしたんです!」
深雪は背中にじっとりとした感覚を覚えた。初めて、コミュニケーションの断絶というものを目の当たりにした。この時間が、無駄だと思った。今ここから、何も生まれないと思った。月並みの言葉を使えば“価値観が合わない”。どれだけ話し合っても、歩み寄っても、絶対に理解し合えないのではないかと、そう思えるくらいに、思考回路が違う。
「でも一華さんにもちゃんと、意見を聞いたんですよ。このチームの良くないところってどこですかって」
深雪はもう、ほとんど聞いていなかった。愛奈の言葉より、遠くで鳴っているカフェの入口の鐘の方がよっぽど鮮明に聞こえた。視界が乾いて霞んで何度か瞬きをした。
何の話をしてるんだろう、この人は……。
「でも一華さんは基本的にいいところしか見ないからわからないって言うんですよ。でもそれって、楽な生き方だと思いませんか?」
「ねぇ、さっきから何が言いたいの。この会話の目的は?」
翠がしびれを切らして口を開いた。
「翠さん、なんで怒ってるの?」
愛奈は両肘をテーブルに立てて顎をおいた。不思議そうに顔を傾げ、2人を交互にみつめた。
「怒ってない。論点をずらすな」
「怒ってるよ。怖い。ちゃんと話そうよ。目的とかじゃなく。愛のあるチームをつくりたいの。そして誰からも応援され、愛されるチーム」
翠は立ち上がった。言葉を失い放心している深雪の腕を引き、無理矢理立たせた。
「このチームが日本一を獲れないのは、チームワークをはき違えてるからだよ。私たちは、日本一の先にいく」
2人は表にでた。
冷たい風が足元をさらう。
温かい室内にいたはずなのに、身体の芯から凍えていた。店に入る前よりも寒い。上着の前を握って身を縮めた。
「深雪。あの子の目的はなんだと思う」
襟に顎をうずめて、肩をすぼめて歩いた。
「わっかんないよ……。理解できない……。怖かった……」
深雪は愛奈の言葉を反芻した。
2人のためを想って……守らなきゃって……日本一を獲るために……愛のあるチームを……。
真摯な目つき、穏やかな口調。愛奈の残像が脳裏にこびりついて離れない。胃の奥から込み上げる不快感に顔を歪めた。
「少なくとも日本一を獲ることや、ラクロスを楽しむことじゃないのはわかった。要するに『私に従いなさい。私を立てないないなら、チームから消えて』ってことよね」
人は導きを求める。選択から生じる責任から逃れる。そしてそれを救済者に委ねる……。褒められたい、認められたい、自分は頑張ってると思いたい。
それを全て叶えよう。だから共に、頑張ろう……。
自分の生き方に迷いがあったら、あっという間につけ込まれる。
「洗脳」
軽蔑するかのように翠が口にした。
改めて言葉にされると、目の当たりにした後では、恐ろしさすら覚えた。深雪は眉間を押さえた。
「サンベアーズのメンバーたちは、みんな信者でしょうね」
「おそらく私たちが最後。優しい深雪を染めてから、深雪を見捨てられない私を取り込むつもりだった」
「そのあとに一華……?」
「いや。一華が現れて、こいつは無理って気づいたから、私たちごと切り離した」
今度はこめかみを押さえて、深雪が小さく唸る。
「……私、危なかった。気持ち悪くても、あれ、何度もやられたら、言うこと聞いちゃうかも」
「別にお金をとられるわけでもないし。楽だし。そっちの方が幸せな人もいる。ラクロスに、何が正しいかなんてない」
相変わらず、歯に衣着せぬもの言い。遠慮も気遣いも何もない。それが今は、こんなにも心地いい。
「私にはあれ、跳ね返す勇気はない……。愛奈も大変だなって、辛いのかなって、思っちゃう……」
諦めたように、弱い自分を嘲笑した。
「……深雪らしいよ」
深雪は足を止めた。店から出て少し歩いて、いつの間にか体の芯は温まっていた。
立ち止まる深雪を気にも留めずにすたすたと前を歩く翠。自分より一回り小さいはずの背中が、やけに大きく感じられた。
師走を迎え、寒さも本格さを増した。ビルとビルの間から見えるのは狭く低い空。重い雲が、冷気を閉じ込めるように街を覆っている。移りゆく季節を知らぬまま、人々は年の瀬の忙しさに追われていた。
社会人クラブリーグが幕を閉じ、残す試合はクラブ優勝のカメリアルズと学生優勝校が戦う全日本決勝戦のみとなった。この2チーム以外の全国のクラブチームと大学チームはオフシーズンを過ごしている。来シーズンに向けての準備、休息期間だ。
深雪は連日の残業の疲れでベッドから起き上がれずにいた。
今シーズンは終わった。しばらくラクロスはお預けだ。休日の朝5時に起きて電車に飛び乗る必要もない。たまの休みくらい、ゆっくり、ゆっくり……
「深雪! 名古屋いくよーー!!」
再び夢の世界に戻ろうとまどろみ始めた深雪は、突然の衝撃に跳び起きた。
「だぁーー!? 重い!! 降りろ!」
深雪にまたがり全体重をかけてくる一華を力いっぱい跳ねのけた。が、一華の体躯と怪力に勝てるはずもなく、覆いかぶさる女を青ざめた顔で見上げた。
「何言ってんの……? 寝かせて……」
「名古屋」
一華は無垢な笑顔でにっこりと笑った。その笑顔を見て深雪は頬をひきつらせた。この女のそばにいるうちは、平穏な暮らしなどあり得ない。
「何をしに……?」
「ラクロスしに!」
振り上げられた一華の手にはクロスが握られていた。
「っ着いた~! 結構遠かったな~」
一華は車の助手席から降りて大きく伸びをした。空は澄み渡り、吸い込んだ空気の冷たさが心地よい。
「深雪の運転がとろいから」
翠が後部座席からぴょんと飛び降りた。
「あんたたちの運転が荒すぎるのよ! それに交代した後はほとんど寝てたじゃない! ていうかこの車どうしたの⁉」
深雪は7人乗りの大きな乗用車を指さして言った。もう片方の手で自分の腰を揉む。片道5時間をほぼ1人で運転して体が硬くなっている。
「もらった」
「誰に……? なんで……? あ、待ってよどこいくの?」
クロスを担いで風を切るように歩く一華と、その後ろをとことこ歩く翠の後を追う。
「え……何ここ?」
駐車場を抜けると木々に囲まれたグラウンドが見えてきた。ざらざらとした砂が混じるハードコートが1面、陸上トラックの内部に広がっている。
見知らぬラクロスプレーヤーがグラウンド中央に集まっていた。面々は一華を見るなり歓喜の声を上げた。
「おお! 東京組も続々と集まってきたな!」
「お~、一華ちゃん! 何年ぶりだ⁉ なんかでかくなったな!」
「よ~し! そろそろ始めますか! 年忘れゲーム大会!」
年末の繁忙期にも関わらず、日本中から集まったラクロスジャンキーが催す非公式大会だ。年齢性別経験関係なく、ただ楽しむことが目的のゲーム大会。オフシーズンにはしばしば、このような大会が日本各地で行われる。
「優勝チームには景品もあるぞ~! 今年はプロテイン、カフェオレ味!」
「プロテインが……タダ……⁉」
翠が優勝賞品に反応して鼻を膨らませた。
「っしゃ~ラクロスするぞ~!」
一華は臆することもなく輪の中に入っていった。いつの間にか練習着に着替え、スパイクまで履き替えている。
「翠……あんた知ってたなら教えてよね」
「知らなかったよ。一華がラクロスするって言うからついてきただけ」
真顔で言い切る翠をからかおうと喉元まででた言葉が、自分にブーメランのように帰ってくる言葉だと思い至り、丸々飲み込んだ。
番号を適当に割り振られ、3人は別々のチームに分かれた。一華は各々ストレッチをしているメンバーを見渡し、両手を上げて叫んだ。
「私は一華! みんな、今日はよろしく~!」
チームのメンバーは突然の大声に驚き、一華に注目した。しかしすぐに順応し、口々に自己紹介を始めた。
「名古屋のクラブチーム、レゴディウスの宮藤環。環って呼ばれてます」
グレージュに染めた、7ː3分けショートボブの女性が手を上げる。太い眉と長い下睫毛から、気の強さを感じさせる。
「あ、よろしく! 俺はTLCの佐々木!」
「僕は大阪のクラブチームに所属してる横村です! よこって呼んでください!」
「大阪からわざわざ! すごいね!」
一華の一声によってメンバー同時のコミュニケーションが始まった。互いの出身地、ここに来た経緯、交通手段など、当たり障りのないバックグラウンドを伝え合った。
「今年も、この大会は参加人数多いよね~」
「いろんな人とラクロスできるのがいいところですよね」
「最近ラクロスしてないから、全力で走るの怖いな~。怪我しないようにしなきゃ」
「みなさん、せっかくなんで、優勝目指して頑張りませんか⁉」
和やかになったチームの雰囲気を、環が一瞬にして凍りつかせた。この提案に乗るか乗らないか。迷いどころだ。お互い知らない者同士、今後会うことはおそらくない。普段の自分のキャラクターを貫く必要はない。
「え~ガチでやる感じ? 環ちゃん真面目~。楽しくやろうよ」
「はい! 本気でやるほうが、楽しくないですか?」
メンバーは言葉を詰まらせ顔を見合わせた。
一華は動的ストレッチをしながら、メンバーのやりとりを見ていた。
環の一声で最初の試合の戦い方についての会議が始まった。試合に出場する順番なども話し合う。数分前まで見ず知らずの他人の集まりだったメンバーは、だんだんと互いに自分の意見や知見を主張し始めた。
「んん~。早速いいやつみつけた」
一華は満足そうに口角を上げた。
ゲーム大会の様式は公式試合よりも簡易的なものだった。フィールドの大きさは通常の1/3のサイズ。5人ずつフィールドプレイヤーとして出場し、男女比は3:2に調整する決まりだ。一華のチームには女子が2名しかいないため、一華と環はフル出場が決定した。
「一華悪いね。疲れると思うけど」
「なんで謝るの? たくさんラクロスできて嬉しいよ。体力ならいくらでもある」
環は一華の顔を見上げた。
(改めて近くで見ると大きいな。なんてきれいな目の色をしてるんだろう)
環は大学生時代、東京の大学のラクロス部に所属していた。一華のことは一方的によく知っていた。一華は当時からその類まれなるラクロスセンスと魅力的なパワープレーで名を馳せていた。一度見たら忘れられないような、豪快なプレースタイル。公式試合で戦ったこともあるし、代表選抜の選考会でも会ったこともある。別段仲良くもおそらくは話したこともなかったが、そのプレースタイルはよく研究したものだ。
同期の中で一華、伶歌、紅、志麻は抜きん出た存在だった。彼女らを筆頭に黄金世代と呼ばれた学年の中で、自分もそこに肩を並べようと必死だった。暴力的なまでの実力差に、胸の焦げるような想いをしたこともある。小さな勝負に勝って、密かに自分の成長を喜んだことも。
あのとき憧れに過ぎなかった一華が、ここにいる。今から一緒にラクロスをする。
緩む頬を拳でぐりぐりと撫でつけて、環はフィールドに足を踏み入れた。
3ヶ所のミニフィールドで、それぞれの試合がスタートした。試合の始まりはドローではなく、フィールドに転がったボールを奪い合うところから始まる。
一華は実に楽しそうにプレーした。
どこにいてもボールを要求した。上手くマッチアップを外して、ゴール付近でも常にフリーだった。
そしてボールを持つと、必ず面白いことをした。
敵が目の前にいれば、ボールを叩きつけてバウンドパス。
後ろに目がついているのかと思うくらい的確な、相手を見ない(ノールック)パス。
パスフェイクをすれば敵も味方も騙された。
シュートはさらに自在だった。どこからでも、いつでも打てた。
守りのときは、環が立てた戦術通りに動いた。とにかく一華がボールを追いかけてプレッシャーをかけるという馬鹿げた戦術。敵は嫌がり逸れたパスだす。それを他のメンバーが奪って全員で前へつなげた。
ふざけてて、遊んでて、ハイリスクのトリックプレーばかり、それなのに、チームは勝ち続けた。
環は楽しくて、何度も一華にボールを渡してしまった。
はたと、まだ自分でシュートを決めていないことに気が付いた。一華にばかり気持ちのいい思いをさせるのも悔しい。自分の得意なカットインを試したいと思った。普段はチームメイトのスピードに合わせて少し押さえてプレーしている。でも一華なら、自分の全てに合わせてくれるのではないかと思えた。
環は自分の出せる全開のスピードでゴール前に切り込んだ。
一華は目の端でそれを捉え、走りながら環にパスを出した。
――すごい。なんの打ち合わせもしてないのに。初めて見たはずなのに。気づいてくれた。これが、市川一華―――
一華のパスは、環にとっても獲りにくく、かつ、環にしか獲れないスペースへ投げ込まれた。まるで敵の手の届かない場所へ環を誘導するように、ボールが走った。
絶対に獲りたいと思った。獲れるかな。あ、獲れる。ただ、体が動く。
――あぁこれ知ってる……
全身の血が沸騰する。痛いくらいの速さで血管を駆け巡る。自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。ボールは止まっているように見える。むしろボール以外は何も見えない。夢中で手を伸ばし、クロスに収めた。よし、このまま、手首の返しだけで打てる……
「あっ」
急に視界が開けた。ボールをキャッチしシュートを打とうと間をためた瞬間に、クロスが叩かれた。
環のシュートフォームにいち早く反応した相手チームの男子選手に、クロスを叩き落と(チェック)されたのだ。転がったボールは相手選手が拾い、持っていかれた。
ゲームは止まらない。守備に戻らないと。いや、そんなことはどうでもいい。
環は興奮して一華に駆け寄った。胸倉を掴んで顔を合わせる。
「今の! もう一回投げて!」
一華は環の必死の形相に面食らったが、意味を理解し環の額に自分の額をぶつけた。
「次は打つとこまで見せてよ」
大会は昼下がりまで続いた。
決勝戦は一華チームと翠チームの戦いとなった。一華と環の連携プレーで得点を重ねるものの、緻密に守りの作戦をたて、狭いコートに合わせた速攻で点を稼いだ翠のチームが優勝を手にした。翠は、「DFを制するものがラクロスを制する!」と高らかに謳い、優勝賞品のプロテインを我が物にした。
大会後はチームごとに整理運動を行った。環がジョギングをしていると、一華が後ろから追いついてきた。
「環、私と一緒に新しいチーム創ろうよ」
「え?」
環は言われた意味がわからず呆けた。
「世界一面白くて自由なチーム創ろうと思ってるんだ」
一華はにかっと笑った。
「えっ? チームを創る……?」
「うん。環も入ってほしい」
「へぇっ……ん~でも、私はレゴを辞めるわけにはいかないな」
一華に一目置かれた嬉しさで口元が緩む。顔を逸らして、どうにか隠した。
「どうして?」
逸らされた顔を追うようにして、一華が環を覗き込んだ。
「……私がいないと、成り立たないからさ。あいつら何もできないんだよな」
「………」
「今更このチーム捨てて東京戻るなんて、そんな薄情なことできないよ」
自分に言い聞かせるように、強く言葉にした。
「……へぇそう。なにそれ、救済者気取り?」
環の足が止まった。
「まぁどうでもいいや。でも私は環のこと諦める気はないから。じゃあまたね」
環は立ち尽くした。一方的に話を終え颯爽とグラウンドを後にする一華を、呆然とみつめた。
今日のゲームで見た光景を思い返す。
極限の集中状態。
たった数時間一緒にゲームをしただけで、あそこまで引き上げられた。学生最後の、一部昇格をかけた絶対に負けたくない試合でしか、“あれ”を体験したことがなかった。それを、こんな小さな非公式大会で、初めて一緒にプレーしたような人に……。
不思議といやな気持ちはしなかった。むしろ高揚感すらあった。あの人はこうやって、人を巻き込んでいくんだ……。
「よ~し。2人とも、ひまつぶし食べにいくぞ~!」
一華は荷物とクロスを車に投げ入れた。
「ひつまぶしね!」
「はらぺこ」
深雪と翠も続いた。
すると一華の背後に、先程一緒にゲーム大会をした顔ぶれが集まってきた。
「一華ちゃん、お願いがあるの」
集団のうちの1人が一華に声をかけた。
一華は昼食に向かう邪魔立てをされ険しい顔をした。
「環を……無理矢理でもいいから、東京の強いチームに勧誘してくれない?」
集まっていたのは、環が現在所属する名古屋を拠点とするクラブチーム・名古屋レゴディウスのメンバーだった。東海地区の強豪クラブチームであり、全国大会出場経験もある。
「環さん、もう、名古屋出向は終わってるんですよ。東京本社に栄転したんです。住んでるのも東京です。それなのに、うちのチーム辞めないで、毎週土日に東京から名古屋に来てるんです」
「そうなの!?」
深雪が運転席から身を乗り出し驚きの表情を見せた。翠も後部座席で聞き耳を立てている。
「はい。あんなに上手いのに。本当は、日本一目指して強いチームで戦いたいんですよ。絶対に言わないけど」
「新卒のときからこっちでプレーしてて、私たちに東京のラクロスをたくさん教えてくれました。それで、レゴは東海地区で一番強くなった。今のレゴは環さんが作ったようなものです」
「でも、結局関東・関西には及ばない。あの人は、本当は東海地区で燻ってていいような人じゃないんですよ。でも私たちの見捨てることになるのが耐えられないんです。優しい人だから……」
「一華さんとラクロスしてる環さん、本当に楽しそうだった。あんな顔初めてみた。環さんには、ずっと笑っててほしい。足をひっぱりたくない……」
レゴディウスのメンバーは、今にも泣きだしそうな顔で支離滅裂にまくしたてた。しかし一華はメンバーの言い分を聞いても眉一つ動かさなかった。
「悪いけどそのお願いは聞けない」
一華の返答にレゴディウスのメンバーは押し黙った。
「私も誘ったけど断られた。本人の意思は尊重したい。でも私もあいつ欲しい。どうしたらいい?」
レゴディウスのメンバーは互いの顔を見合わせた。覚悟を決めたように、頷き合った。
その中に1人、神妙な面持ちをしている選手がいた。
環はレゴディウスの唯一の同期メンバー・なつみに呼び出され、馴染みのファミリーレストランで遅い昼食をとることになった。もう何度この店で、この2人で食事をしただろう。話題はいつもチームの運営についてだった。
「は~それにしても今日のゲーム大会、参加してよかったな。楽しかった」
環は食事を終えソファにもたれかかった。
「うん。そうだろうね。それでね。次の主将は3年目の中堅メンバーの中から選ぶことにしたから」
環は顔を上げた。
「は? どういうこと? 私は?」
2人が食事を終えたことに気が付き、ウェイターが膳を下げにきた。
「もう、代替わりしていかないと。とういうことで、環はもう役職付かなくていいよ。引継ぎしてあげて」
「なにさ急に。そんな大事なこと勝手に決めたの?」
「そうよ。環がゲーム大会で一華ちゃんたちとラクロスしてる間にね。優秀な後輩たちでしょ?」
環はなつみの発言に驚き顔をまじまじと見つめた。
「なつみ、何が言いたい?」
「環、私に言わせないでよ。本当は決めてるんでしょ? 楽しかったんでしょ? 一華ちゃんとのラクロス。本気でラクロスしたいんでしょ? 自分に正直になってよ」
5年一緒にチームに関わってきたレゴディウスの唯一の同期・なつみ。どんな無理な提案でも、呆れながら応えてくれた。こんなにも鬼気迫る勢いで詰め寄られたことは、一度もなかった。
「……楽しかったけど……。でももう、遅すぎる。次28だよ? 今更トップ集団に混ざってプレーなんてできないだろ」
環は顔を逸らし、絞り出すように言った。
「そう思うなら尚更、今すぐ行って! 人生に遅すぎるなんてことはない!」
ドンッと拳でテーブルを叩いた。隣の席の客が何事かと振り返った。
「自分のためにラクロスして。私たちのことを想ってくれるなら、トップに挑み続ける姿を見せて」
「……随分、生意気言うようになったね」
環はなつみの気迫に少し驚いた。こんなに強い意志をぶつけられたのは初めてだった。
ガシャン
なつみがテーブルに車のキーを放った。
「一華ちゃんたちが今日乗ってきた車。私の部屋にある環の荷物、もう全部詰めたから。駅で待ってるから、早く行ってあげて。なにか他に、名古屋来る理由ある?」
環は投げ出されたキーを見つめた。知らない外車の厳かなマークが、渋い光を放つ。
「……あるよ」
環はキーを無視してテーブルに身を乗り出した。なつみの目をまっすぐに見た。なつみはその眼差しを受け止めた。
「私がいなくて、本当に大丈夫なの?」
「ねぇ」
「うん」
「私は、結婚したいの」
「……うん」
「女同士は、結婚できないのよ。知ってる?」
「うん」
「私たちの関係にはいつか終わりがくる。私、そろそろ婚活しようと思って。良い男見つけたの。だから、もう大丈夫」
なつみは環の目を見て朗らかに笑って見せた。
「……そう。なら安心した」
環は優しく息をついた。飲みかけのグラスに手を伸ばし、ゆっくりと飲み干した。いつものカルキ臭のする安っぽい水ではなく、今日に限って、さっぱりとしたレモンの酸味がした。
「ここは奢るよ。餞別。東京でしっかり暴れてきてよ」
なつみは窓の外の景色を見ながら言った。外は陰り、暗雲が立ち込めていた。
「ありがと。なつみ、元気でね」
環は車のキーを掴んで立ち上がり、笑顔を残して走って店を出て行った。
なつみは窓に映った環の笑顔を見て、顔を歪め、唇を噛みしめ、大粒の涙を流した。
「女は相手の目を見て嘘をつく……」
「は? 翠、なに?」
「別に。今、椎名蜜柑がそう歌ってた」
一華、深雪、翠は駅前に駐車した車の中で環が来るのを待っていた。一華はお土産に買った名古屋限定菓子を食べるのに夢中だ。
ポツポツと雨が降り始めていた。雨粒が車の窓にあたって弾ける。深雪が運転席の窓を開けた。
「雨降ってきた……。環……来るのかしら」
「来なくても、荷物は持ってっちゃえばいいよ。家は東京だし」
一華が頬袋を膨らませながら言った。口の周りに食べかすがついている。
「あのね。車の鍵がないんだから帰れないでしょ」
深雪は呆れ顔でティッシュを差し出した。
後部座席には、衣類と生活用品が詰め込まれたバッグが何個か積まれている。翠がその山に靴を脱いで寄りかかり、音楽を聴きながら鼻歌を歌っている。
「レゴの人たちも案外強引よねぇ」
深雪は息をついて背もたれに体を預けた。すると突然素っ頓狂な声を上げた。
開け放してあった運転席の窓に環が寄りかかって、車を覗き込んでいた。髪が雨で湿っている。
「環~~! 来てくれるの⁉」
環に気付いた一華は、助手席から嬉しそうに身を乗り出した。翠も顔を出す。
「行くよ。ここにいる理由はなくなった。自分の本気を試したい」
環は額にへばりつく前髪をかき分けた。
「「やった~~!」」
車の中の3人は両手を挙げて喜んだ。
「運転代わるよ。名古屋、怖いだろ?」
「ええっっ。優しいっ嬉しいっ」
深雪は環の申し出に感動した。一華と翠からは絶対に出ない言葉だ。
「あ……。環、あれ」
運転席から降りた深雪が、道路の向かい側を指さした。
そこには寒い冬の雨の中勢揃いしている、レゴディウスのメンバーの姿があった。全員両手を振って何やら叫んでいる。笑ったり泣いたり、顔をぐちゃぐちゃにして飛び跳ねている。
しかし駅前の車の通りが多く、雨も強くなり、その声は全てかき消されてしまう。
環はメンバーの姿を見て、5年間のこのチームとの思い出が胸に溢れた。
仲間のために力が湧き出てくる感覚、本気で心をぶつけあう喜び、高い壁を前に悔しさを分かち合った時間、練習後に騒ぎながら食べる安い飯の味――
ここで学んだものがたくさんあった。自分が与えているようで、与えられてたのは自分だった。ここでのラクロスが退屈だと思ったことなんて一度もなかった。
環は鼻に皺を寄せた。迫り上る熱いものが喉から溢れ出さないように、唾を飲み込んだ。
「何も聞こえないよ。ばか」
集団の一番端で、無理矢理笑顔を作っているなつみの姿が見えた。その口元は、ありがとう、と言っているように見えた。
環は雨で濡れた目元を拭って片手を上げた。
「行ってくる!」
環を乗せた車が見えなくなるまで見送り、レゴディウスのメンバーたちは喪失感でその場を動けずにいた。冷たい雨が体に打ちつける。
「行っちゃいましたね。明日から環さんいないのか……」
「なつみさん、よかったんですか? こんな遠くから。絶対何も聞こえてなかったですよ」
「いいのよ。手の届く距離にいたら、引き留めたくなっちゃうでしょ」
なつみは歩きだし、少し離れたところで振り返った。
「さ、来年に向けてチームミーティングするわよ。環と戦うかもしれないんだから。心配されるような弱いチームじゃいられないわ」
なつみの強い瞳をみて、メンバーたちは顔を拭った。雨の中街へ戻るなつみを、笑いながら追いかけていった。
「いたたた……。なんでオフシーズンなのにこんなに体が痛いの……」
深雪はオフィスにつながる渡り廊下をゆっくりと歩いていた。なるべく筋肉を使わないように足を滑らせるようにして前に進む。
――深雪は、全体的に筋力が足りないね
大学時代スポーツ学科に所属しトレーニング関係の知識がある環が、名古屋の帰りの車の中でそう指摘した。それを聞いた一華から、夜な夜なトレーニングに誘われるようになった。
仕事から帰って風呂に入って疲れを癒そうというときに、ゴリラのような女に首根っこを掴まれ環が映るパソコンの前に座らされる。画面通話越しに環に監視されながら、足がぷるぷると震えるまで深いスクワットをする。
『もっと深く。一番つらいところでキープ。ラスト10秒!』
しかし自分に厳しい環のことだ。深雪に指導する以上のことを自分に課しているんだろうと思うと、何も言い返せない。
環の指導が的確なものなのか深雪にはわからなかったが、一華は環を“トレーニング係”に任命した。環は、練習が開始されたら全員分のパーソナルトレーニングを組むと言って意気込んだ。深雪は背筋の凍る思いがした。
普段しっかり使えていない筋肉を刺激され、日常生活に支障をきたすほどの筋肉痛が全身を襲う。
「うわっ」
筋肉痛で足がいつもより上がらなかったせいか、普段から注意力が散漫なのか、深雪は廊下に落ちていた印鑑を踏んで後ろにのけ反り尻もちをついた。その拍子に手に持っていた書類を廊下中にばらまいた。
近くに人影が見えたが、深雪を一瞥し去っていった。深雪は散らばる書類を集め始めた。転んだり、ぶつかったりすることには慣れている。人々は関係のない人に対しては案外手を差し伸べないことも、よく知っている。
「うわ~派手にやりましたね」
深雪は顔を上げた。色の薄い短髪をさらに刈り上げた、憂いを感じさせる垂れた目の、どうやら女性社員が、拾った書類を深雪に差し出していた。
「あ、ありがとうございます」
こういうときは謝らない。一華と翠に何度も指摘されてきた。あれ、この人……
「……城山さん?」
先日上司に教えてもらった、学生時代にゴーリーをやっていた広報部配属の社員だ。城山潤。名前は既に調べていた。
「はい。営業部の日下部さんですよね」
深雪は自分が相手に知られていることに驚いた。書類を受け取り、同じ一角にあるオフィスに同行した。
「顔と名前だけ。日下部さんがラクロスやってるって、部署の人に何回も聞かされましたから」
軽快に歩く後輩に遅れないよう、痛みを堪えて歩調を合わせた。軋む体に鞭を打つ。
「そっか。早く声かけたらよかった。城山さんってゴーリーやってたって聞いたんだけど、そうなの?」
「はい。日下部さんは今でもラクロスやってるって本当ですか?」
「うん。よかったら今度、うちのチームの練習にこない?」
深雪は後輩の顔を覗き込んだ。チーム練習にゴーリーは必須だ。この子が来てくれたら、きっといい練習になる。
「いや、やめておきます。自分はもうラクロスはいいかなって」
あまりの即答に深雪は面食らった。
「そ……そうなんだ……どうして?」
「ん~特には。頑張ることに疲れたっていうか。遊びたいし」
後輩は曖昧な笑顔を浮かべた。到着したエレベーターに2人で乗り込む。
「でも、大学4年間で終わらせちゃうのもったいないよ。私もう9年目になるけど、毎日新しい発見ばっかりで楽しいよ」
後輩が顔を上げた。興味を持ってくれたことが嬉しくて、話を続けた。
「一華が帰ってきて、新しいチーム創るって息巻いててさ、今仲間を集めてるの」
「一華さん……」
「うん!」
「って……誰ですか?」
深雪は衝撃を受けた。今年の新卒ということは、深雪と潤は4歳差だ。潤がラクロスを始めたのは、深雪が大学を卒業した後なのだ。引退してすぐアメリカに渡った一華のことを、潤が知るはずがなかった。
そこで思い知った。一華の名前を使って、勧誘をしようとしていた事実を。
「あ、いや、今のなし」
深雪はエレベーターから降りた。
「今日は、この辺にしておくね。私たちがつくるラクロスは、あなたにとってもワクワクするようなものだと思う。だからあなたがその気になるまで、誘うね」
首を傾けて目を瞬かせる後輩を残し、オフィスへ戻った。
深雪は顔を上げて壁の掛け時計をみた。ぎゅっと目を瞑ってこめかみを押さえる。
このままでは今日も残業コース。でも今日中にあと一件訪問しておきたい……。気合を入れ直し、取引先に急ごうと席を立つ。上着を引っ掴んで休憩所の前を通ると、喫煙スペースに洒落た短髪を見つけた。
「あ、あの子……」
声をかけようとして、ポケットの中の社用のスマートフォンが震えているのに気づく。
「お世話になっております。くさか、」
『深雪~? おせわになっておりますぅ~。今週、チーム初練習しよー!』
「一華⁉ どこの電話使ってるのよ? ていうか仕事中にかけてくるな! みんなには伝えておくからって、切れてるし!」
再び喫煙所を見るとすでにもぬけの殻であった。
「もぅっ」
「うあ~また負けた!」
「あはは、千尋、守備は全然だめじゃん! 今時守備ができないATなんて流行らないよ!」
「うるさい光! 碧依ちゃんが上手すぎるの! 絶対碧依ちゃんを止めて、イケてるATになるんだから。光だって一回も志麻さん抜けてないでしょ!」
一華たちは都内の河川敷のグラウンドで練習を始めていた。川沿いのグラウンドは気温も低く風も強い、じっとしていると足先の間隔がなくなってくる。
「おーいチビ、私と1on1やろう! 東京初シュート決めてやる」
環が翠の肩を引き寄せ勝負に誘った。
「返り討ちにする」
「みんな1on1好きよね~」
グローブをはめ、寒さに鼻頭を赤らめながら深雪が呟いた。
「いいこといいこと。ラクロス本当に好きな人は、地味な練習を一生やってられるからな~。基礎を怠らないやつが、一番強くなる」
一華が腕を組んで、満足げに練習風景を眺めた。
「なら、私が一番たくさん練習しなくちゃ。2人とも、ご指導願います!」
吹っ切れたような晴れた顔で、叶恵が2人の前に立って両手を広げた。一華が不敵に口角を上げた。
「じゃ、深雪、試合で伶歌にぶちかましたあのステップ、教えてよ!」
「は~? 私が何年かけて身に着けたと思ってんのよ! 自分で研究しなさいよ!」
2人も練習に入っていった。
メンバー達は1on1の相手をとっかえひっかえしながら、ステップや体の入れ方を確認し、鍛錬を繰り返した。無意識化に落とし込めるまで、何度も何度も。
「う~ん」
「なに? 一華」
寒空の下にもかかわらずじわりと汗をかいてきたところで、一華が顎に手をおき潜考した。
「ゴーリーが欲しいな」
「そうね。ゴーリーがいないと練習メニューに幅がでないわ。シュート練習の質も落ちるし……。そもそもゴーリーがいないと試合に出られないわよ」
「攻めても守っても、ゴーリーがいないと楽しくない」
深雪はそれを聞いてふっと笑った。一華の物事の判断基準は、楽しいか楽しくないか、それだけだ。
「そういえばうちの会社に大学時代にゴーリーやってた子がいるんだけど、なかなか取り合ってくれなくて」
「へぇ。なんて子?」
いつの間にか脇に翠が立っていた。小さすぎて視界に入らず、急に声をかけられて心臓が飛び出しそうになることが間々ある。
「新卒の子で、城山さんっていうんだけど」
「それ、城山潤って名前じゃないですか? 碧依の同期の、椿森学園のスタメンゴーリーですよ。確かその年の主将でした」
翠の後ろをついてきていた碧依が、翠の頭の上からひょいと顔を覗かせた。
「椿森⁉ じゃあ、実質日本一のチームのゴーリーってこと? あの子が……?」
深雪はオフィスの喫煙所でたばこを吹かす潤の姿を思い返した。
「はい。上手いですよ。でももうラクロスはやらないって言ってました」
「よく知ってるのね。仲いいの?」
「なっ仲良くなんかないですよっ」
碧依は口を尖らせそっぽを向いた。
全日本大会ではここ4、5年ほど連続して学生がクラブチームを下し、全国制覇を果たしている。学生の優勝は伝統校・椿森学園の一強であり、紅、伊代、董など、カメリアルズに所属する多くのメンバーの出身校でもある。
日本一に輝いた強豪校の主将がラクロスを辞めて会社の休憩所で喫煙をする現実。何があったのか、何を想っているのか。煙の奥の物憂げな表情が頭から離れなくなった。同時に、余計な世話焼きをせずにはいられない性分を恨んだ。
「げーっほげほげほ」
昼休みの休憩所に潤の姿を見つけ、深雪は初めて喫煙スペースのドアを開けた。黒ずんだ煙が鼻から入り込み肺を詰まらせる。
「日下部さん……。現役でしょ? だめですよこんなところに来たら」
潤は深雪に気づき、たばこの先を灰皿に押しつぶした。
「わかってるわよ。でも、少し話したいなと思って。げほっ」
酸素を欲してゆっくり呼吸をすると、むしろむせた。
「今週も練習ですか?」
「うん。もちろん。先週は1on1ばっかりやっててさ、それで3時間も、」
「日下部さんって何歳ですか? いつまでラクロスするんですか?」
潤が深雪の話を遮った。遠慮も建前もない、直接的な問いかけ。
「……ん~。満足するまで、かな」
正直なところ、引退の時期など真剣に考えたこともなかった。そもそもプロでもない趣味の一環で、引退も何もあるのだろうか。
「どうなったら満足ですか? 日本一獲ったらですか? 言っときますけど、日本一獲っても、何もないですよ。やった~って。それだけっすよ」
言葉を吐き捨てるように紡ぎ、そして消え入るように結んだ。潤は淀んだ空気の向こうで、腕を抱えて遠くを見ていた。あどけなさの残る目元、皺のないスーツ、交じり合う煙の臭い……大人と子供の堺で、彷徨い、何かを探している。深雪は煙たさに目を細めた。
「日本一なんて、通過点でしかないんだよ」
潤は顔を上げた。
「え?……意味、わかんないですよ……。じゃあ、どこにいくんすか……?」
不熟な瞳が戸惑いと不安に揺れる。
「あははっ。わかんない。一緒にいく?」
深雪は潤を安心させるつもりで、自虐も込めて明るく笑った。
深雪と翠は仕事帰りに落ち合い、顔なじみが経営するバーでカクテルをたしなんでいた。
店内は女性の1人客が多く、稀の複数客の会話も薄暗さに包まれ静寂さを保っている。テーブルの上だけが優しい照明で照らされていた。
2人が向かうカウンターテーブルの上は、食べかけの食事と書きかけの書類で混沌としている。
「よし、これで叶恵に言われた書類関係はほとんど終わり」
深雪はペンを置いた。2人はラクロス協会に提出するチーム申請に必要な書類を仕上げていた。といっても実際に手を動かし記入していたのは深雪で、翠は口ばかり動かしていた。
「まぁ翠に見てもらったから書き間違いはないでしょ。協会に提出して通れば、正式にラクロス連盟に登録できるわ。後は、ユニフォームを創らなきゃね。それにチーム名を決めてないし、チームの組織についても考えないとね」
深雪は書類を集めて端を揃えた。
「それはみんながいるときにしよう。どうせ一華がいないと決まらない」
翠はショットグラスに手を伸ばし一気に飲み干した。
かれこれ10年近い付き合いだが、酒に溺れる翠の姿を見たことがなかった。一華もよく酒を飲むが酔うと豪快さに拍車がかかり、散々騒いだ後いつの間にか爆睡している。自由の利かなくなった巨体を寝床に運ぶのが深雪の役割だった。
深雪は翠が杯を乾かすのを見届け、共に席を立った。
「翠……。勝つことって幸せだと思う?」
2人はバーを後にし、外界の極まる寒さに身を縮めた。
「……なにそれ。哲学?」
翠は深雪の気遣わしげな表情を見上げ、溜息をついた。
「深雪、悩み事があるときの顔してる。しかも大体、他人の心配」
深雪は観察眼の鋭い旧友に、首を竦めた。
「日本一獲ったのに、なんであんな顔するんだろ」
若くして憂いを携えた潤が頭から離れない。日本一を獲った潤はラクロスを辞めて苦しそうで、日本一を獲れなかった私たちは今でも楽しくラクロスしてる。日本一を獲るって……なに?」
「……私の定義を用いるなら、勝つことは幸せではない」
「と言うと?」
深雪は翠の持論聞こうと顔を向けた。
「スポーツは決められたルールの中で同じ土台に立って勝負を決める。正直言って、センスのない活動だと思う。想像力に欠ける。同じ人間なんて一人もいないのに、そんなことに生涯かけて、馬鹿だと思う。勝ったって負けたってそれが幸せだとは思わない」
「……。じゃあなんで翠はスポーツするの?」
「スポーツは手段。ただのゲーム(あそび)で、一華に会って、深雪に会って。新しい仲間が増えた。ラクロスに真剣になればなるほど、面白い人に会える。それだけ」
深雪は、翠の言葉を理解するのに時間がかかった。
「翠ちゃん~」
深雪は翠の頭に手を乗せ、わしゃわしゃと撫で回した。
「茶化すな。……なんか知らないけど、そういうことは一華に聞いてよ」
翠は表情を隠すようにマフラーを引っ張り鼻を埋めた。
翠と別れて、夜道を1人で歩いた。繁華街を抜けて地下鉄の駅に向かう。
長い付き合いの中で、翠の歯に衣着せぬ物言いは一つの道しるべだった。芯のぶれない友人がいることは、心強かった。何度迷っても、変わらずそこにいてくれる。だから私は、安心して間違える。
翠の言葉を反芻する。誰も見ていないのをいいことに、口元を緩める。声が出ていたかもしれない。あの目つきが悪くて口数少ない能面女が、私と会って幸せだと言った。いやそうは言ってないが、要約すればそういうことだ。早く帰って、一華に話そう。
踵を突き上げて、大股で歩く。
すると数歩先に、見覚えのある洒落た短髪が目に入った。潤だ。広報部の残業時間も営業部に差し迫るものがある。
ふと、昼間にはつけていないような大柄のピアスをつけていることに気が付いた。早足で人通りの少ない裏通りに逸れる。深雪は少し躊躇い、すぐに潤の後を追った。
高架下の狭い通路をヒールの音が響かないようにつま先だけで走る。街灯は壊れて点滅している。悪臭が立ち込める路地に出た。古いビルを曲がる前に、話し声が聞こえた。深雪は冷たい壁に体を寄せ、様子を覗き見た。
潤と、薄切れた作業着を着た巨漢の男がいた。男は深くキャップを被って目元はよく見えない。潤が男に何かを手渡した。
話し声はくぐもって聞こえない。何を渡したのかも定かではない。心が波打った。怖い……。誘拐、ではなさそう。売春、売薬……? 知りうる単語を引っ張り出しては状況に照らし合わせる。ただの副業……? だったら、他人が首を突っ込む事柄ではない。子供じゃあるまいし。……他人……?
――じゃあ、一緒にいく?
自分の口から出た台詞を思い出した。そうだ。一華でもない、翠でもない、私が誘った。もう他人じゃない。潤の不安げな瞳も、鮮明に思い出した。
深雪は路地に飛び出した。潤と男から少し離れたところで震える膝を突っぱね、大きく息を吸った。
「あ、あれぇえ? 城山さんじゃない? どうしたの? こんなところで、奇遇ね!」
自分でも驚くくらいの大きな声がでた。裏返った声が狭い路地に反響し、何重にもなって返ってきた。潤は驚いて振り返り、男は深雪を見るや反対方向に巨体を揺らして走っていった。
深雪は整わない呼吸を無理矢理押し込み、潤に詰め寄り手首を掴んだ。自分の手が悴んでいるからか、潤の腕が冷たいからか、握っている感触がなかった。決して交わらない境界線がそこにあった。潤は目を見開いたまま深雪を見て、立ち尽くしていた。
助けた? 邪魔した? もしかして余計な事をしてる? わからない。
潤は何も言わない。深雪も何も言わずに唇を結び、潤の腕を引いた。元来た道を戻る。暗いトンネルの奥に見える、朧げな光の方へ潤を引っ張って歩く。潤は成されるがまま、よたよたと足を動かしついて来る。
怪しげに灯る歓楽街のネオンに、安心感すら覚えた。人の営みが、2人の体温を正常に戻す。血管の末端まで血が巡り、指先にじんじんと痛みを伝える。眠らない街をこんなにも心地よいと感じたのは初めてだった。
「虚無感っていうか……」
「……うん」
深雪は振り返らずに、潤の腕を引いて歩き続けた。暗い路地で何をしていたのか、問うつもりはなかった。
「なんかもう、あの時以上の自分になれる気がしなくて……」
酒が回り大声で猥談をする若者や、店頭に突っ立って客引きをする苦労人。その喧騒の中で、潤は小さく喋り始めた。ぽつり、ぽつりと気持ちを絞り出した。
「達成感の閾値が上がってるっていうか。何やっても満たされないというか。だからと言って、もう一回あの努力をする自信もなくて……。本当に大変だったし……」
潤の声は震えて、喉につっかえた。
「そっか」
「だから、ラクロスで日本一獲った自分。日本一獲った椿森の主将。で終わらせたいんですよね。ずるずる続けて、結果残せなくて、あの時は良かったって思うのが怖くて……」
星も見えない、この汚れた夜の街でなら、全てを吐き出しても許される。誰もいない。守るものなんて何もない……。
深雪は足を止めて振り向いた。情けない顔で言い訳を並べていた潤が、振り向いた深雪の顔を見て驚いた。
「な、なんであなたが泣くんですか……」
深雪は目尻に涙を一杯に溜めて、声を上げないように顔に力を入れた。潤を掴んでいる手に力を込める。今度は、自分の掌も潤の腕も、確かにここにあった。混ざりあう温もりが、確かにある。
――本当に……。日本一獲るのって大変なんだね。君がそんな顔するなんて……。絶対に負けちゃいけないって思ったんだろうね。強豪校の主将。連続優勝。プレッシャーもあったよね。勝つのがあたりまえなんて、ありえないのにね。辛かったね。本当に、よく頑張ったね――
言葉が浮かんでは色褪せ、白い息となって消えた。なんて陳腐な言葉しか思いつかないんだろう。
誰が、何が、この子からラクロスを奪うんだろう。こんな想いを抱えることになってまで、得たものって何なんだろう。私はこの子に、何を伝えられるだろう。
深雪は手を離した。
「君はもう、自由なんだよ」
深雪は深夜近く、灯りのない部屋に帰った。一華はすでに床に入っていた。
外の冷気を纏ったまま俯きリビングに入ると、一華が布団から顔を出した。
暗い部屋を横切り、コートを着込んだまま床にへたり込んで、一華の寝そべるソファに頭を預けた。
「どうした?」
一華は体を起こして深雪の様子を覗き込んだ。
いつもはこの時間、寝息をたてて寝ている癖に。こういう日に限って。まるで今日、こうして甘えてくることが分かっていたみたいに。
「また、お節介して、嫌われたかも」
深雪は自分の腕に顔を埋めて呻いた。
「ふは。深雪らしいね」
一華は肘をついて頭を乗せた。
悩みがあるときはいつも、1人でじたばたして、結局煮詰まって、最後の最後に一華に意見を求める。
「一華。一華はラクロスしてて、幸せ?」
そして悩みすぎて、打ち明けるときには突拍子もない形になってしまう。それでも、一華は返してくれる。何を聞いてくるのかも、何でも分かってるみたいに。
「……うん。幸せ」
薄暗い部屋の中で、優しい月明かりが一華の瞳に反射した。
1人で抱えきれないほどの想いを抱えて、どうにも動けなくなる。何度繰り返しても、懲りずに拾ってしまう。
それでも一華は、簡単に全部掬いあげてくれる。
「ラクロスしてたら、人が集まってきて、みんな目指してるものがあって、そのうち、色んな人の窓から色んな人生が見える。どの人生も、できることなら上手くいけばいいなって思う。そう思える相手が多ければ多いほど幸せだな、と思う」
深雪は横たわり頬杖をつく一華の瞳を窺った。全てを吸い込んでしまうような力強く黒々とした瞳も、今は引力を携えていなかった。月に照らされて、艶やかな輝度を保っている。
「ラクロスやってて、そう思う相手がたくさんできた。最初は1人だったけど、今は1人じゃない。まぁそれが私の場合たまたまラクロスだったって話」
一華は優しく笑った。
調子が良くて、自分勝手で、わがままで、興味のないことには一切取り合わない。気遣いもしないし、マナーも悪いし、おまけに口も悪い。粗忽で、態度も図体もでかい、居候。だけど何やらせても天才で、そのくせ努力家で、誰も追いつけない速さで、いつの間にかとんでもないところにいる。誰も思いつかないようなことばかりして、枠からはみ出て、平気でいる。みんなが心惹かれて、追いかけて、いつまでも遠くて……それなのに、こっちが苦しいときは笑いながら現れる。生きる力を分けてくれる。勇気の出し方を教えてくれる。
――ずるいよなぁ。あんたが泣くときは、私じゃないくせにさ……。
「たまには、私のことも頼ってよね」
「いつでも頼ってるよ」
――そうだけどさぁ。そうじゃないんだよ。まぁいいや……。私も、誰かの光になれるように歩くよ……。あんたの隣にいて、恥ずかしくない自分になるよ……。
深雪はそのままベッドに頭を乗せて寝てしまった。一華は深雪の寝顔を覗き込んで呟いた。
「おやすみ」
「今日は、シュート練祭りだぁ~~!」
「「やった~!!」」
一華の一声で、メンバーたちは飛び上がって喜んだ。いつもの河川敷グラウンドで、寒空の下クロスを持って集まっている。
その中に、ゴーリー防具を付けた潤の姿があった。ゴーリーはフィールドプレイヤーとは異なりヘルメットの他に胸パッドの着用を義務づけられている。
潤のヘルメットには潤の趣味だろうか、大きな青い稲妻のステッカーが貼られている。
「潤、ラクロス続けるの? どういう心変わり?」
潤と同い年の碧依がつっけんどんに話しかけた。実力主義の碧依が、同期で唯一認めている選手が潤だった。1年前、短期オーストラリア留学の推薦枠は碧依と潤のどちらかが獲得する予定だった。潤が辞退したことで自動的にその枠を手に入れた事実に、碧依は釈然としていなかった。
「わかんない……誘われて、なんかさ、必死だったから」
「なにそれ。先輩を馬鹿にしてる?」
碧依は眉を寄せた。
「へへ。いいじゃん。面白そうだし。自由でしょ?」
潤はヘルメットを被り、フィールドに足を踏み入れた。ヘルメットの金具に朝日が当たり、白い線が走った。
「深雪、よかったね。あの子でしょ?」
「うん、あれから毎日あの子のデスクに通ってしつこく勧誘したのよ。私らしいやり方でしょ?」
深雪が誇らしげに言った。川沿いの澄んだ風が束ねた髪をなびかせる。
一華は深雪を横目で見て笑った。
「ねぇ。チーム名思いついた」
「ん?」
『NEO THUNDERS』