2-最高の脇役になれ
これはラクロスという“趣味”にあけくれる妙齢女性たちの、青春の続き――
「捻挫ぁ?」
一華たちは練習を終え、最近若者たちの間で流行っているらしいアイスキャンディーバーのテラスに屯していた。
フルーツの形をそのまま閉じ込めたアイスバーがショーケースに並んでいる。カラフルな彩りと瑞々しさが人気のようで、女の子たちが一生懸命角度を変えて“映える”写真を撮っている。
てんでバラバラのジャージを着て長い棒を担いでいる女性小群は、祝日の繁華街には似つかわしくなく、異様な雰囲気を醸し出していた。通りを賑わせている男女や家族連れなどが、奇異なものをみる目でちらちらと彼女達を見ている。当の本人たちは慣れたもので、周囲の視線を気にも留めずにおやつの時間を楽しんでいた。
「うん。ほら」
深雪が一華にスマートフォンを差し出した。一華が覗き込むと、咥えていたアイスキャンディーが溶けて垂れそうになった。
「うわ」
「ちょ、見えない」
慌ててのけ反った深雪のスマートフォンを見ようと、一華が身を乗り出し手を伸ばした。深雪が座っていた椅子がぐらつき、一華が覆いかぶさるように2人で倒れ込んだ。
「何してるの君たち」
自分のアイスキャンディーを買い終わった志麻が2人の様子を呆れ顔で見下ろした。
「いつものこと。それよりほら。愛奈キャプテンが自分の腫れた足の画像をチームのみんなに送ってきたよ」
翠のスマートフォンのメッセージと画像を覗き込んだ志麻、千尋、光が呻いた。光はすでにアイスを食べ終わり、棒を咥えながら「いて~っ」と顔をしかめた。
「どうしてそんな画像送ってくるのかしらね。疑ったりしないのに……」
床から起き上がってきた深雪が腰をさすりながらぼやいた。
練習試合の途中、怪我をした愛奈はメンバーをお供に整骨院へ向かった。その診察の報告がメンバー全員に送られてきたのだ。愛奈の足首はくるぶしがどこかわからないくらいに晴れ上がり、内出血による青紫色のあざが広がっていた。
「心配してほしいから、とか?」
翠の言葉に一同沈黙した。
「……あ、まぁサンベアーズのみんなは声かけるタイプだし。そういうことなら大丈夫そうだけど。私もあとで一言連絡いれておくかな」
深雪が空気を和ませようと会話を繋げた。一華は何も言わなかった。
「にしても困ったな。クラブ決勝は来週だってのに。ここにきてスタメンの欠落はいたいわ。サンベアーズの攻撃パターンは愛奈中心戦術が多いのよ。攻撃陣はみんな愛奈にボールを集めるのが癖になってる。リズムが崩れないといいけど」
「一華がいるんだから総戦力はむしろ上がりそうだけどね……。まぁそういう問題じゃないか。1年間合わせてきたわけだし」
困り果てた様子の深雪に志麻が応えた。
「そうよ。一華がいようといなかろうとこのチームで5年もやってきたのよ。ずっと夢だった日本一をいつもカメリアルズにとられて悔しい思いをして……。でも今年は新人も豊作で、今年こそ日本一まで手が届きそうなのに」
「まぁ確かに今年のサンベアーズの新人はいいよね。愛奈を中心にボールよく回るし……。あ、だからこそ愛奈が抜けるときついのか」
「気になってたんですけど、イチさん、来週の試合でれるんですか? 帰ってきたばっかりなのに、協会の申請通らないですよね?」
ラクロス談義に花を咲かせる大人たちに、千尋が疑問を投げかけた。
ラクロス協会の会員になるには出場する試合の数カ月前に会員登録をする必要があった。さらに試合に出場するためには毎月出場選手の登録名簿を更新する決まりがある。その手続きをしていなければ、大会に参加することはできない。
「そうなの? まずいなそれは知らなかった」
一華が大してまずくなさそうに言った。
すると翠が、ぴらりと一枚の紙を皆に見せた。
「ん?」
一同がその紙を覗き込んだ。深雪だけはアイスを咥えながら明後日の方向を向いていた。
翠が差し出した紙はサンベアーズの会員登録名簿だった。一番最後の欄に、一華の名前が添えてある。
「えっ? いじったんですか?」
つい最近日本に帰国した一華の名前が、ここに登録されているはずがなかった。
「一華のことだから、急に予告なしに帰ってくることが予想される。いつ帰ってきても試合に出れるように毎年勝手に登録してた。もちろんユニフォームも5年前から用意してある」
「……はは。さすがすね。そんなの通用するんですね」
当たり前のように重い愛を語る翠に一同顔をひきつらせた。毎年更新する会員登録にも決して安いとは言えない登録費用がかかる。
「もちろん。協会は金さえ手にはいればそれでいい。試合に出てない人が金を払う分にはとやかく言わない。まぁ初回手続きしてたのは私だけど、毎月の更新の手続きは副主将の仕事で毎年の会員登録費を払っていたのは、うぷ」
深雪がバツの悪そうな顔で翠の口を後ろから塞ぎ、言葉を遮った。
「そもそも、ラクロスするのになんでお金を払わなきゃいけないのよって話よね。そういうわけで、来週の試合にはサンベアーズとしてでてくれるのよね? 居候さん」
深雪が話を逸らして、ごまかすように一華に視線を向けた。
「ん~。しょうがないな。暇だし……。で、どこと戦うって?」
「……当然、知る由もない、か」
深雪が溜息をついた。
「一華たちが来週戦うのはカメリアルズ。ここ最近10年連続クラブ優勝を果たし、真の日本一になった経歴もクラブチーム最多の最強のクラブチームだよ。予選ブロックの試合を含めてもサンベアーズがカメリアルズに勝ったのはここ5、6年見たことないな」
志麻が淡々と説明した。深雪と翠が所属するサンベアーズは実力者が揃うものの、結成以来何度も優勝を目前で逃している万年2位のクラブチームだ。
「カメリアルズの中心選手は一華さんたちの代の椿森学園の人たちですよね~。そのあとその後輩たちが続々入団していって、戦力をキープしてるってとこです」
千尋が志麻の説明に付け加えた。
「私あのチーム苦手です~。お高くとまってる感じが」
光が大袈裟に両手を広げてテラスの椅子にもたれかかった。
「へぇ、あいつらまだラクロスやってるのか。意外」
学生時代の記憶を呼び覚ますように一華が視線を上に向けた。
社会人クラブチームに所属する選手たちは、学生のように引退の時期を決められているわけではない。プロでもないためいわゆる「戦力外通告」を下されることもない。体力の許す限り何年でも活躍することができる。しかし強豪チーム以外のクラブチームの人員はむしろ減少傾向で、存続の危機に立たされている。1年単位でなく、長いスパンでチーム作りを考えられたチームが生き残る。
「特にあのドロワーの伶歌さんが苦手で~」
一華がぴくっと反応した。その様子を見逃さなかった深雪と翠は横目で目を見合わせた。
「話かけても無視されるし、睨まれたことも、もがっ⁉」
翠が立ち上がり、食べかけのアイスを光の口につっこんだ。
「もういらない。あげる」
志麻はその様子を怪訝な顔で見上げた。椅子に座る志麻と立ち上がった翠の目線はそれほど変わらなかったが。
「よし、混んできたからそろそろ出ましょ」
深雪も示し合わせたように立ち上がる。
「あ、この後うちに来てみんなでカメリアルの試合みない? 戦う前に特徴教えて欲しいし」
「それ最高すぎる! 色々買い込んでレクチャーパーティーしましょ!」
「チヂミ! チヂミつくりません⁉」
一華の提案に千尋と光は嬉しそうに賛同した。
「辛いの苦手」
と翠も続いた。
「ならタレにゴマ油も用意しようよ」
一華と光が置いていったアイスのゴミを集めながら志麻が微笑んだ。
「ちょっと、あんたんちじゃなくて私んちなんですけど⁉」
深雪はテラスを後にする身勝手な友人たちを追いかけた。
6人は深雪のマンションに集まって、この夏に行われたサンベアーズvsカメリアルズのブロック予選の試合動画を分析し始めた。
料理上手な志麻を筆頭に、夕飯の準備も同時に進められた。
「ちょっと、誰。こんなもの買ったの」
深雪がキッチンでとろろ昆布の袋をつまみ上げた。
「チヂミにいれたらうまいでしょ⁉」
一華が深雪の肩にあごを置いた。
「どうしてそう思うの⁉ もう、いいからホットプレート温めてよ」
深雪に振り払われた一華はホットプレートを持ってリビングに向かった。
「イチさんはこっちでカメリアルズの分析ですよ」
光がちょいちょいと手招きした。ローテーブルを挟んでテレビを見ながら翠、千尋、光がソファに座っている。
「あれ? 画面消えた……」
「翠さん貸してください」
千尋が翠からリモコンを取り上げた。テレビを巧みに操作し、画面に動画共有サービスシステムを映し出した。
「ここにパスワードいれればチームの共有動画が見れますよ」
「なんで?」
翠は千尋のITスキルに追いつけず、とりあえず感心してリモコンを受け取った。
「千尋は器用だしマシンにも強いな~」
一華がプレートを温めるダイヤルを回した。
「いや、マシンって……え、イチさんそれコード刺さってないから!」
一華はふははと笑ってコンセントプラグを探した。
カメリアルズは新人とベテランが混在し、戦力的にもバランスのとれたチームだった。個々の技術が高く、攻撃パターンはパスワーク中心。外で回して中に入れる、そこからシュート、無理なら戻すの繰り返しだ。守備陣もハードワークができる選手が揃っている。能動的に奪いにいくシーンは少ないが、相手のミスを確実にものにする。
一方サンベアーズも愛奈中心にボールを動かし、ドライブとパスを織り交ぜて点を重ねていた。
4クォーター目に差し掛かったところでサンベアーズが猛攻をしかけるが、カメリアルズのゴーリーのセーブ力が炸裂する。試合終了間近に深雪が一点押し込んで、3点差でカメリアルズの勝利に終わっていた。
「深雪、シュートはいるようになったね」
「ん……シーズンの入りは調子いいのよね」
一華の何の気ない感想に、深雪は照れてぼそぼそと返した。
「毎日欠かさず壁打ちしてるもんね。表の駐車場のボールの跡、そうでしょ」
翠に影の努力を晒されて、横目で睨んだ。
「最近自分の自主練やトレーニング動画をSNSに投稿するプレイヤー多いですよね」
千尋はチヂミを焼き終わったホットプレートに、輪切りのバナナやらスライスしたりんごやらを並べてデザートをつくっていた。一華と光がよだれを垂らして覗き込む。
「なんでそんなことするの?」
深雪が一華と光を制しながら怪訝そうに尋ねた。
「さぁ、なんででしょうね? 自分のクセや習得中の技を公開しちゃったら、研究されて自分が不利になるのに。あ、志麻さん帰りにジュースとってきて~」
千尋が立ち上がった志麻に声をかけた。
「承認欲求ってやつだよ。自分を愛せなくて他人の評価に飢えてる。現代社会の闇」
翠がソファによりかかり、麦茶の入ったグラスを傾けた。
「まぁ、つながりを好む時代なんだよ」
志麻がオレンジジュースを片手に、やんわりと現代社会を擁護した。
「そうですよ~。何だってすぐ電波でシェアするのが今風です。時間も空間も楽しさも。ほら、撮りますよ」
千尋が菜箸を持ったまま、スマートフォンで自分たちの様子を録画し、虚空に話しかけた。
「HeySari、今の動画、タイムラインにアップしておいて」
「千尋が外国語で機械と喋ってる」
一華が動揺して千尋を見た。
「それよりドロー」
翠が一華のひざの上にノートを広げた。
紙面にはいくつものセンターサークルとその上に配置された選手の位置、ドローボールの落下点、獲得率が記されている。
「この試合で起きたドローは14回。カメリアルズのドロワーは全て伶歌でおそらく代わりはいない。14回中8回本人が獲得、3回サークル周りが獲得。ドロー獲得率脅威の79%」
「うへぇ~。伶歌のやつそんなにドロー上手かったっけ?」
一華はチヂミを食べながら顔を歪めた。志麻が付け加えた。
「カメリアルズの強さはドローの強さでもあるね。最初にドローを獲得することでボールの保持時間をかなりキープしてる。まだあるけど焼く?」
「そういうこと。逆に言えばここを削れば削るほど勝率はこっちに傾いてくる。体力使う守備戦術だから、ボールを長く持つことで自分たちの守備時間をなるべく短くしたいはず。もう少し食べる」
志麻が翠の前にチヂミのタネを垂らした。
「……一華のあのスタイルのドローなら、伶歌とまったく違うからどうなるかわからないわね……。一華のパワー相手に伶歌がコントロールする方向にボールが飛ぶとは思えないし……。だからといって高く飛ぶとは限らないから……。あ、私も食べる」
深雪も志麻におかわりを要求した。
千尋と光は一華にもたれかかってソファで寝てしまった。翠も空いたスペースに丸まって、寝息を立てている。結局夕方から夜も更けてきたこの時間まで、サンベアーズvsカメリアルズのブロック予選の試合動画を研究していた。
一華はドローシーンを何度も巻き戻し、一時停止しては画面を虚ろに見つめた。動画の中ではカメリアルズのドロワー・伶歌が華麗にドローを獲得し、走り去る。
キッチンで洗い物をする深雪のところへ志麻が食器を持ってきた。
「ねぇ、あれなんなの?」
志麻が一華の行動をあごでさした。深雪がリビングの様子を窺う。
「え? ……あぁ……」
志麻は持っていた食器をシンクに置き、深雪と並んでそれを洗い始めた。
「ん~。私たちが大学の同期なのは知ってるよね」
「そりゃ知ってるでしょう」
一華、深雪、翠、そして伶歌は天王大学のラクロス部の同期だ。学部も学生数も多い、都内にキャンパスを構える私立の総合大学。大学時代、志麻のいた東西体育大学とも学生大会で何度も死闘を繰り広げてきた。
「それで、うーん。そこでいろいろあったのよ」
「色々って? 天王大の同期は仲が良いってイメージしかないんだけど」
「いや、そういうことじゃなく……」
*
――5年前、秋。
「あと2勝で日本一! まずは2週間後の学生決勝戦に向けて今日も楽しんでいこう!」
「「おぉ!」」
当時天王大学4年生、ラクロス部の主将であった一華が、円陣の掛け声をかける。翠、深雪を含めたメンバーたちは実に楽し気にそれに応え、各々ランニングを始めた。
一華は澄んだ秋空を見上げ、少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。乾いたグラウンドの砂が秋風に舞い上がった。
「一華さん。伶歌さんが来てます」
みんなの後を追いかけようと走りだそうとしたところへ、一華は後輩マネージャーに声をかけられた。
その言葉に驚き、グラウンドの入口に目をやった。
「伶!」
グラウンドに続く階段の一番下に伶歌が佇んでいた。一華と同じくらいの長身だが線が細く色は白い。長く細い髪を束ねて秋風になびかせていた。
一華は伶歌に駆け寄った。
「心配したよ。急にこんなに長く休むなんて、どうしたの?」
伶歌は生気のない顔で一華を見た。
「もう練習始めてるよ。こないだからね、1年生の上手な子も1軍に上げてね、」
一華が伶歌の手首をつかんで引くと、伶歌はその手を振り払った。一華は戸惑いの表情を浮かべた。伶歌が今度はまっすぐ一華を見た。
「一華。私、ラクロス辞める」
「……え?」
一華は信じられない様子で聞き返した。
「……何言ってるの?」
「部員には落ち着いたらけじめつけるから。日本一、一緒に行けなくてごめん」
伶歌は踵を返しグランドをあとにしようとした。長い髪が揺れる。
「な、なんで!? そんな一方的に辞めるなんて許さない」
一華が追い縋り、再び伶歌の手首を掴んだ。
伶歌は立ち止まり肩を上下させた。
一華は伶歌の前に周り、その青ざめた顔を覗き込んだ。
「理由を言って。言わないと離さない」
伶歌は顔をこわばらせ、鼻で息をした。何度か口を開いては閉じ、言葉を探していた。ついに乾いた唇を震わし、しゃがれた声を絞り出した。
「————」
一華は思わず言葉に詰まった。目を見開き、口を結んだ。
伶歌は一華の手を振りほどき、階段を駆け上がっていった。向かい風に、長い細髪が舞い上がった。
一華は追いかけようと伶歌の方に顔をあげたが、足が鉛のように重く、動かない。
「一華……? 伶歌、帰るの? なんだって?」
「練習始めて大丈夫?」
背後から深雪と翠の声がして、一華は我に返った。
肺の奥から熱いものが込み上げて、喉元まできていた。気を抜けば、何もかも吐き出してしまいそうだ。奥歯に力を入れて、ぐっと飲み込む。
短く息を吐き、主将の顔で振り向いた。
「うん、家庭の事情で、復帰難しそうだって。今度チームには改めて挨拶するって」
一華は2人の間を抜けてグラウンドに戻っていった。
「……そう……」
「……」
深雪と翠は、走り去る一華の背中を見て妙な胸騒ぎを覚えた。そして階段を登る伶歌の後ろ姿を見上げ、西日に顔をしかめた。2人には逆光で、伶歌の黒いシルエットが何を訴えているのかわからなかった。
大学選手権の決勝戦はラクロスの試合の中でも最も入場者数が多く、実況アナウンスやテレビ取材も入り盛り上がる一大イベントだ。この試合に勝った大学が全日本選手権に進み、社会人リーグの優勝チームと真の日本一を争う。
この年の決勝戦のカードは、一華率いる優勝候補・天王大学と、数多の実力選手を有する強豪校・椿森学園だった。両者一歩も譲らず、前半を天王大学がリードし、後半から椿森学園がじわじわと追い上げる展開となった。
迎えた最終クォーター、ラスト1分を同点で迎えた。このドローを制した者が攻撃チャンスを得、学生優勝に王手をかける。
後半のドローは一華のコントロールがうまくいかず、全て相手に引っ張られ、グラウンドに落下した。それをサークル周りの選手が取り合う形で五分五分の勝負だったが、最後のドローは高く上がった。背の高い一華だけが届く範囲に、一直線に真上に飛んだ。
椿森学園のドロワーも負けじと腕を伸ばした。
競り合いぶつかり合う最中で一華が跳ぼうとした瞬間、相手選手の足が一華の足を踏んだ。跳ぶ体勢に入っていた体に足はついていくことができず地上に取り残された。
激痛が走り、一華はクロスを落とした。
ずくずくとした感覚が膝に集中した。神経を直接握り潰されているような痛みに、意識が飛びそうになる。
しばらく息を止めて痛みに耐えた。しゃがみ込み、人工芝を鷲掴んで気を紛らわせる。
相手ドロワーが、空中でボールをキャッチした。そのままその場を走り去り、走りながら味方にパスを出す。
(あと、一分なら……。いける……)
一華は立ち上がろうと足に力をいれた。
――日本一、一緒に行けなくてごめん。
目の奥に、長い細髪がちらついた。チカチカと視界が揺らぎ、眩暈がした。力が抜けて倒れそうになるのを、必死でこらえた。
(なんでこんなときに思い出す……)
膝に手をついて呼吸を整えた。
(伶。なんで、ここにいないの。今、なにしてるの。ドローは、伶の仕事でしょ)
顔を上げると、ぼやける視界の中で、深雪と翠が椿森学園のエースのショットに飛びつくように攻撃を阻止しているのが見えた。
(……いかなきゃ)
一華は引っ張られるように動きだした。まるで自分の身体じゃないみたいに、膝がかくかくと震える。
(日本一にならないと、ここまで来た意味が……全てを捨ててきた意味がなくなる……)
視界に入ったボールマンにくらいついた。
(ボールを奪って、ゴールまで走って、シュートを打つ。それだけで、全部救われる。負たけたら、何もかも終わりだ。何もなくなる。負けるのは怖い。ボールを、ボールを……)
ピィ――――
鳴り響くホイッスルに、一華は我に返った。試合が終わるにはまだ早い。
「な……」
一華が顔を上げると、審判員が近づいてきた。動きが鈍いせいで、怪我をしていることに気づかれたのだろうか。
(別に、大丈夫だよ、まだやれる)
審判は一華の横に並ぶと、オフィシャル席に向かって黄色いカードを掲げた。
「天王大、背番号11、イエローカード」
一華は審判員の掲げるカードを見上げた。
危険なファウルを行った選手に、2分間の退場を命ずるカードだ。一華の伸ばしたクロスが相手選手の顔の近くを通ったことが、危険を及ぼす行為だと判断された。
「な、は……?」
2分間退場している間は、天王大は1人少ない状態で試合を行うことになる。試合残り時間は1分を切っている。一華が退場している間に、試合は終わる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! あと1分でしょ⁉ 最後までやらせてよ! 日本一にならなきゃいけないの!」
一華が審判に縋った。
審判員は黙って一華を見据えた。一度下されたジャッジは覆らない。
「……っ」
一華は唇をかんで審判員から手を離した。ここで食い下がれば、この先の天王大学の大会出場に関わるさらに重い審判を下される可能性がある。
黙ってフィールドを去る一華を、会場の全ての視線が追った。
「……ミスジャッジだなあれは。この大事な試合で勝敗を左右するミスはきついな……」
観客席で試合を見ていた男が頬杖をつきながら呟いた。
「興奮して目立ちたくなる審判っていますよね。あの子あれで引退ですよ。学生リーグなんだから、趣旨理解してあげてほしいっすよね」
「まぁそう言うなよ。審判員だってボランティアなんだ。だがせっかく上手いのに、あれはもう社会人リーグで続けないだろうな。トラウマだろ」
「ですよね……。……伶歌、顔色悪いけど、大丈夫か……?」
男らの会話を隣で聞いていたのは、伶歌だった。立ち上がり、震える手で柵を握る。
「一華……」
一華がオフィシャルベンチの“反省席”に座ったと同時に、試合は再開された。
1人少ない状態で、司令塔の一華も失い、天王大の守備陣の動きは鈍った。ボールを楽に回され、空いたスペースを執拗に攻められた。翠が咄嗟にフォローに寄ったが遅かった。
ほとんどフリーの状態で、椿森学園のATがシュートを打った。ボールは角のコースに綺麗に決まり、得点となった。フィールド、ベンチ、観客席、会場のあらゆるところで歓声が起こった。
その様子を、フィールドの外の鉄パイプに座って、一華は見ていた。見ているだけで、情報が入ってこなかった。ほんの2、30m程先で繰り広げられていることなのに、ものすごく遠くで誰かが騒いでいるような、そんな感覚がした。
一華は目を瞑った。
大学選手権決勝戦、天王大学は椿森学園に7-8で惜敗した。
『技術もフィジカルも同レベルの激しい戦いでしたが、勝敗を分けたのはやはりドローですかねぇ』
『そうですね、天王大学は後半ドロー獲得率がぐっと落ちましたね。攻略されてもドロワーが市川選手しかいないので、対応のしようがなかったんでしょうね』
『市川選手はOFでもDFでも中心選手でしたからねぇ。相手からのマークもかなりきつかったはずですし、相当体力を消耗していましたね』
『その点で椿森学園の……』
椿森学園の選手たちはグラウンドに突っ伏して重なり合い勝利を喜んだ。この勝利で全国の出場校の頂点に輝いた。歓喜の瞬間を収めようと、カメラマンたちがその周りに集まる。
そのすぐ脇に、脱力感と虚無感を抱えグラウンドにへたり込む深雪がいた。深雪は少し前の一点を見つめ茫然としていた。翠が黙って歩み寄り、手を取って立たせた。2本分のクロスを持ってベンチに帰る翠の後を、深雪がとぼとぼとついていく。他の選手たちも涙を流しながら肩を抱き合い、ベンチに戻ってきた。
拭っても拭っても、止め処なく涙がこぼれる。
天王大学の4年生の、最後の戦いが終わった。
ユニフォームから移動着に着替え、更衣室から翠がでてきた。廊下のイスに腰かける深雪に並んで、溜息をついた。
「……なんも、できなかった」
「何言ってんのよ。あんたがいなかったら、もっと早く追いつかれてたわ。なにもできなかったのは、私よ」
2人で天井を見上げた。古い蛍光灯が点滅していた。
「一華、大丈夫かな」
「昔の怪我が痛むだけって言ってた。バスケやってたときに膝の靭帯切ってるから。衝撃でそれがぶり返したって」
翠はうずくまって、呻いた。
「一華が1人で、頑張ってた」
「……そうね」
深雪は悔しそうに顔を歪めた。
「一華が笑ってないラクロスなんて、楽しくないよ。楽しくラクロスしたい」
「一華も私たちに同じこと言うわよ。きっと」
声を震わせる翠の頭に手を乗せて、深雪は深く深呼吸をした。生気のなくなった体に、新鮮な空気を取り込もうとした。
「……伶歌、見てたかな」
「どうかしらね。……ん? あれ……」
2人の目線の先には自販機で飲み物を買う男がいた。
「裕也さん……」
裕也は深雪たちの3歳上の天王大の先輩で、男子ラクロス部に属していた。引退した今でも、男子ラクロス部の練習にコーチとして参加している。女子ラクロス部の練習にも時折顔を見せ、伶歌に熱烈にアプローチしては玉砕していることで有名だった。
「裕也さん!」
2人は裕也に駆け寄った。裕也は2人に気づくと、「お疲れ様」と声をかけた。
「最近、伶歌と会ってますか?」
「えっ」
裕也は後輩2人の出し抜けの質問に動揺した。
「伶歌が突然部活辞めたの知ってますか? 連絡もつかないし、何があったか知ってますか?」
深雪が矢継ぎ早に質問した。
「伶歌から何も聞いてない?」
心臓がどくっと脈打った。伶歌が部員に教えないことを、裕也が知っていることに驚いた。2人は訝しげに頷いた。
「……じっ実は……」
「に……妊娠……」
2人は驚愕した。病気か怪我か、親の不幸か、覚悟していた事態のどれでもなかった。
息が詰まって言葉がでない。事実を追求することができない。生唾を飲み込んで、冷静さを保った。誰との子供かなんて、追認する必要もない。この男のだらしなく緩む口元が全てを物語っていた。
深雪は拳を握りしめ、踵を返して走り出した。
翠も追ったが立ち止まり、振り返って毒づいた。
「クズ」
一華は塀に寄りかかり、遠くを見つめ風にあたっていた。ゆらゆらと沈み始めた夕日が一華を包みこんで、そのままどこかへ連れて行ってしまいそうだ。
「一華っ」
深雪は一華に抱き着いた。遅れて翠も続いた。
「あんた……知ってて、全部1人で背負ってたの?」
「……何を……?」
一華が消え入りそうな声で聞き返した。
「伶歌のこと」
「……あぁ。だってこんな複雑な気持ち、試合前にみんなに抱えてほしくなくて。今日は重くて全然、走れなかったよ」
乾いた声で笑った。一華の右膝には氷嚢がラップで巻き付けてあった。そこから幾筋もの水が足をつたって滴る。
「一華ばか」
翠が抱きしめる力を強めた。
「私、あんたに頼ってばっかりでごめん。強くなりたい。一華に頼られるくらいに、強くなりたいよ」
深雪の熱い涙が一華のまだ乾いていないユニフォームに跡をつけた。
「ふは、ありがとう。でも、もう終わっちゃったよ」
一華は深雪の頭を後ろからぽんぽんと叩いた。2人に抱き着かれたまま、塀にもたれて空を仰ぐ。もうすぐ日が沈む。静かな夜が始まる。
「ねぇ、伶歌は今、どういう気持ちだと思う? なんて声をかけるのが、正しいの?」
一華が2人に聞いた。
「幸せなことでしょ? なんでこんなに、苦しいの?」
一華が自分の額に両手を置いた。
「なんでこんなに、涙がでるの?」
*
「一華は、その時のことを今も後悔してる」
深雪は洗い終わった食器の水分を乾いたタオルでふき取った。
「チームの練習を放り投げて、伶歌の後を追って、引き留めればよかったって?」
志麻は深雪から受け取った食器を棚に戻した。
「違う。そうじゃない」
深雪は別の食器に手を伸ばした。
「当時、私たちにとって“プレーを頑張ること”だけがラクロスだった。プレーで一華を日本一の主将にすることが、部員の存在意義だった。だからプレーができなくなった伶歌は辞める以外の選択を見つけられなかった。一華も止める理由がなかった。ここで止めたら、他の部員たちの存在意義がなくなるから……」
深雪の手が止まった。志麻は震えるその手に目をやった。
「例え試合に出れなくても、チームで“ラクロスをする”方法はいくらでもある。伶歌がラクロスから離れなくてもいいチームを、創れなかったこと。一華はそれを後悔してる。私たちもそう」
深雪は翠の方へ目線をやった。
「一華が……主将がいなくてもラクロスができるチームを創れなかった。一華がいないと勝てない。一華がいないと回らない。チームを創ってるのはあいつで、みんながあいつを頼りにしてた。あいつのために戦った。そんなチームは、弱い」
深雪は綺麗になった皿に映る自分の顔を見た。
「私たちは日本一に固執しすぎた……。そして負けた」
皿には無知で、不安げで、己の弱さに顔を歪めている大学生の頃の自分が映っていた。
「……頭のいいチームは、そんなこと考えてるんだね。よかったね。若いときに気づけて。学生ってそんなもんでしょ」
志麻は特に気に留めない様子で、作業を続けた。
顔を上げた深雪は笑っていた。
「ふふっ。そうね。道は前にしかないもの」
「日下部、彼氏できた?」
深雪は飲んでいたコーヒーを盛大に噴き出した。
平日の昼下がり、先輩上司と休憩スペースに並んで休憩をとっていた。上司は風船のような腹回りを摩って、ニタニタと笑った。どんな生活をしていたら、そんなビール腹を携えることになるんだろう。
「……はい……?」
平日は仕事、それも夜遅くまで残業。土日はラクロスの練習、トレーニング、試合のビデオを分析してそれが終わればそのまま一華や翠と街を練り歩き……。上司にそう思わせる心当たりがあまりにもなく、困惑した。
「なんか、最近活き活きしてるなと思って」
上司が無遠慮に、深雪の顔を覗き込む。
「……正直、彼氏という言葉の意味を忘れそうですね。なんでしたっけそれ」
「……まぁ、そうだな。あれだけ仕事任されてたらそんな時間ないよな」
2人は自分たちの仕事場を見やった。お互いのデスクには、未処理の書類が積み重なっている。
「ラクロスは、今年も順調にクラブの決勝まではいけましたけど。それかな?」
「ふぅ~ん。頑張ってるなぁ。俺も昔アメフトやってたんだよ。ラインっていう、体でぶつかって相手を押さえるポジション。そのときの名残」
上司が自分の腹をパンと叩いた。ベルトに乗っかるビール腹が深雪の前で揺れる。
「はぁ」
笑うべきところなのかわからずに曖昧に答えた。
「今度試合呼んでよ。そう言えば、今度広報部の方にくる若い子、元ラクロス部らしいよ」
「えっ? うちの会社に元ラクロス部がいるんですか?」
「うん、あ、ほらあの子」
上司が指さす方向に顔を向けると、耳の上の髪を短く刈り込んだ女の子が、大きな段ボール箱を両手に抱えてさっと2人の前を横切った。
「なんか……個性強そうですね……」
「名前忘れちゃったなぁ。ゴールキーパーやってたって言ってたな」
「え、」
「おい、お前らいつまで休憩してんだ? 会議始めるぞ」
奥から上長に声を掛けられ、2人は急いで仕事場に戻った。
「日下部さん、ちょっといいですか」
「なんでしょう」
女性先輩社員に声をかけられ、深雪はラップトップから顔を上げた。
「子供が急に熱出しちゃって。いまから保育園に迎えにいかなきゃならないんだけど、経理部に提出する報告書今日までなのよ。代わりに出してもらえない?」
申し訳なさそうな顔をしつつも、すでに鞄に荷物を詰め込み書類の片づけをしている。
またか……という気持ちは飲み込み無理矢理笑った。
「大変ですね。それくらいなら構いませんけど……」
「日下部悪い、日曜の展示会用の資料、不備があって精査しなおすわ。手伝って」
フロアに戻った上長からお呼びがかかる。上長は歩きながら、深雪に紙ファイルの束を放る。
「えぇっ。今週は早めに帰りたいんですよ……」
深雪は食い下がった。
「お前展示会出ないんだからそれくらいやれよ。19時からミーティングルームな」
上長は深雪の顔も見ずにデスクに戻った。
「他にも展示会出ない人いるじゃないですか……」
「おい。俺は子供の運動会があるんだよ。お前の遊びと一緒にするな」
「……」
(こっちは全国大会の決勝だっての! 子供の遊びと一緒にしないでよ!)
言いたいことはいくらでもあったが価値観の合わない者と言い争っていても時間の無駄だ。深雪は急いでやりかけの仕事に取り掛かった。
今週末は試合だ。休日出勤することはできない。さらに言えば平日もなるべく早く上がってコンディションを整えたかった。しかし土日に仕事を繰り越すくらいなら週の早いうちに詰め込んだ方が……。
「日下部さん、ごめんね、よろしくね」
女性社員が慌ただしくフロアを後にした。
「よし、今日はこのくらいにしよう。悪いな2人とも」
時計の針は夜の22時をとうに過ぎていた。作業がひと段落し、上長が区切りをつけた。
「働き方改革のしわ寄せが完全に独身にきてるよな。ま、いやだったらお前らもさっさと結婚しろよ。じゃ、お疲れ」
もう反論する気も起きないくらいに疲弊していた。ジャケットを羽織り、帰り支度をしていると、一緒に残されていた上司がビール腹を揺らしながら近づいてきた。もう秋も深まってきたというのに、額に脂汗を浮かべている。
「日下部、一杯付き合えよ」
「えっ? いや……」
「家そんな遠くないだろ。一杯だけ。上長に色々言われて鬱憤溜まっただろ」
自分が飲みたいだけなのか、本気で後輩を気遣って誘っているのか、図りかねた。上司に気づかれないように薄くため息を漏らし、鞄を手に取った。
一華のように豪快に、翠のように冷徹に、意思を貫けない自分が忌々しかった。
上司は4、50分立ち寄っただけの立ち飲みバーで、ハイボールを3杯引っ掛け呂律が回らなくなった。深雪は上司を店から連れ出し夜風にあてた。
「何かあったんですか? なんでそんなにお酒回ってるんですか……? タクシー呼びますよ」
首をがくんがくんさせて何も言わない上司を道路脇に誘導した。
「日下部と2人だと楽しい」
上司がぼそりと呟いた言葉の真意がかわらず、「は?」と聞き返す。すると突然深雪の袖をまさぐり手を握ろうとした。
「ちょっと、どうしたんですか」
深雪は反射で腕を引き退いた。
「お前はいつも頑張ってるな」
上司から距離をとったが、さらに間合いを詰められ頭を撫でられた。後頭部を触られ、気持ち悪さに全身の毛が逆立った。しかしあからさまに嫌悪を表す勇気もなく、体をこわばらせて耐えた。
「え、ええはい……」
酒と汗の臭いが混ざって鼻孔に入り込み、息が詰まりそうになって顔を逸らす。
「このまま遊ぶ?」
(はぁー?)
深雪はすっかり冷めた頭をフル回転させて、後腐れなくかついち早くこの場から逃れる方法を探した。舌に残る甘ったるいカクテルの味が、思考の邪魔をする。
もう疲れた。こんな風に時間を無駄にして、また一華に呆れられる。いや一華なら、深雪らしいと言って笑うかな。
すると逸らした視線の先がパッと明るくなり、こちらに何かが近づいてくるのが見えた。自転車だった。
「だーー! 危ないどいて!」
自転車の主が大声で叫び、深雪たちの間に突っ込んだ。そのまま体勢を崩し、自転車ごと盛大に転んだ。
「いてて」
自転車に乗っていた男は腰をさすりながら立ち上がり、顔を上げた。深雪のよく知った顔だった。
「え、理斗⁉」
深雪は咄嗟にひらめき駆け寄った。
「あ、すみません。こいつ知り合いで。え、大丈夫⁉ 怪我! 怪我してるね! 病院行こう! じゃ、すみません。また明日。お疲れ様です」
深雪は理斗を無理矢理立ち上がらせ、上司に会釈をしてその場を離れた。
「いや~びっくりした」
「びっくりしたのはこっちよ! 急に突っ込んできて危ないじゃない。私が!」
理斗はおかしそうにくくくと笑った。自転車を押しながら2人で夜道を歩いている。夜は更け、繁華街も静かになってきた。
理斗は深雪の中高の同級生だった。成人式で再会してからは当時仲の良かった男女グループでよく集まっていた。2人は職場も近く平日は仕事帰りに待ち合わせて飲むことも多い。
「だって、あれ深雪だと思ったら変な男に絡まれてるんだもんな~。気づいたら体が動いてた。ヒーロー登場より、あんな感じでよかっただろ?」
カラリと笑う顔が街灯に照らされる。見慣れた笑顔に、深雪はすっかり気が抜けた。
「や、あれ上司なんだけど……。ちゃんと帰れたのかな。まぁ結果的には助かったわ。ありがと」
理斗の奇天烈な登場のおかげで、上司の面子を潰すこともなくあの場を脱することができた。毎日お世話になる人だし、気まずくならずに済んでよかった……。明日の朝謝ろう。
「理斗、そろそろ大会近いよね。最近どう?」
「ああ。今年も優勝はもらいだな。今日は仕事のあとジム行って、その帰り。深雪のところは相変わらず残業多いんだな。試合前なんだから調整してもらえよ」
「ん~。そうね……。でもみんなそれぞれ色々あるからさ……。上と言い合うのも面倒臭いし……」
日中の職場でのやりとりを思い出し、溜息をついた。
「相変わらず情けないな。家あとどのくらいだっけ? 遅いから前まで護衛するよ」
「理斗の家から遠ざかるよ?」
「あれ見たあとじゃな。深雪さ、俺と結婚するか常にラクロスの棒持ち歩くか、どっちかにしろよ。全く」
本気なのか冗談なのかよくわからない指導を受けながら住宅街に向かった。
「ふふ。どっちもいやよ。どいつもこいつも結婚結婚って、何? アラサーの呪い?」
深雪はいつもの調子で笑った。
「ごめんね運ばせて。お米が入ってて重いのよね」
「まぁ、これくらいは。おばさん、俺にも何か送ってくれないかな」
実家からの支援物資が宅配ボックスに届いていた。母親厳選の気の利いた日用品や食品などが詰め込まれている。
深雪は鍵がかかっていない部屋のドアを開けた。部屋の中から暖かい空気と明かりが漏れる。
「……誰かいるのか?」
「あー、うん」
深雪は気まずそうにはにかんだ。理斗は訝しんだ。
「……同棲?」
「えっ、同棲……? いや、寄生……? それ、玄関のとこに置いてくれればいいよ。ありがとう」
理斗は納得のいかない顔で玄関先に入った。荷物を降ろすと、足元に無造作に転がっている男物のランニングシューズが目に入った。
瞬く間にこめかみに青筋を立て、奥の部屋の明かりを睨みつけた。靴を脱ぎ、どかどかと部屋に入っていく。
「げっ。ちょっと、理斗……だめ……」
理斗が部屋に入ると、キッチンのカウンターに肘をついてグラスを傾ける体躯の良い女がいた。
「なっ」
理斗は女を見るなり目を逸らした。一華はシンプルな下着にパーカーを羽織り、下はスパッツ一枚といった、体のラインがくっきりわかる格好をしていた。
「服着ろよ」
「勝手に人の家に入ってきて命令するな」
一華が正論を放った。
(さっ、最悪のコンボ……)
深雪はこの2人を引き合わせたくなかった。本能で生きて脊髄反射で動く者同士、話がまとまるわけがない。
「お前誰だ」
「いやお前の方が誰だ」
(一華が押し気味……)
意気軒昂な男女2人の攻防を、深雪は部屋の入口ではらはらと見守った。
「俺は……俺は、深雪の護衛隊だ」
(は?)
「私は深雪の恋人だ」
(え⁉)
「じゃあ俺は婚約者だ」
「ストップ! 2人とも何を言ってんの⁉」
深雪が困惑顔で2人の間に割り込んだ。一華に駆け寄り、パーカーのチャックを閉める。その深雪を、一華が押しのける。カウンターに置いてあったウイスキーのボトルに手を伸ばしローテーブルに荒々しく置いた。フローリングに胡坐をかいて下から理斗を睨みつけ、挑戦的に笑った。
「じゃあ、利害は一致してるってことでいいの?」
理斗は鼻を鳴らし一華に向かい合うように座った。
「話が早い」
理斗は一華の果たし状を受け取った。
(……奇跡……?)
40度の蒸留酒をストレートで酌み交わし、一華と理斗は意気投合した。
「あっはっは! いいやつだな! おまえ!」
「おまえもな! 深雪が見込んだだけあるな!」
「深雪は努力家だし、いいやつだからな~」
「ラクロスも頑張ってる! あの1on1のときのステップは相当練習しないと身に付かないよな~。俺も見習わないとな!」
「苦手だったシュートも克服したしな~!」
「ちょっと……私明日も仕事なんだけど……! もうお開きにしてよ」
自分の話で盛り上がられることにいたたまれなくなり、深雪は(案の定成り立っていない)会話に水を差した。すると赤ら顔の2人にぎろりと睨まれた。
「深雪は働きすぎなんだよ!」
「そうだ! もっと好きなことに時間を割け!」
自分でも薄々考えていたことを酔っ払いに指摘され、たじろいだ。
「よし、朝まで飲むぞー!」
「明日は休みだ~!」
深雪は2人に腕を引っ張られ即席の宴に身を投じた。
「もう、自由人なんだから……!」
朝日の筋が部屋に差し込み始めた。部屋の埃に反射して煌めく。
「う……罪悪感……」
深雪はラップトップに向かって呻く。
「真面目だなー。深雪」
体調不良で欠勤する旨をメールに打ち込み、上長宛てに送信した。実際に頭痛はする、気がする。あ、二日酔いか。
そんな深雪を、一華はソファに寝転がって眺めていた。理斗はいつの間にかいなくなっていた。
「休みたいときは休みなよ。自由に生きよう」
一華の言葉に応えるように風が吹き、褐色の肌を撫でて前髪をさらった。その風を気持ち良さそうに風を鼻で吸い込む。
一華は無防備に手足を投げ出し再び眠りについてしまった。風が止み、時も止まった。
規則正しく上下する胸だけが、静かな部屋で己を主張していた。
「……ん?」
テーブルの上のスマートフォンが短く震え、メッセージの受信を知らせた。
深雪はメッセージを確認し、少し遠くを見て、眉間を押さえた。
『私、このチームで日本一を目指したいと思えないんです』
全日本クラブ選手権当日。
深雪と翠は集合より少し早く会場の観客席に着いていた。すぐ横に一華もいるが、目の前で行われている女子2部リーグの試合に夢中になっている。
社会人女子クラブリーグは2部制である。その年に日本一を目指す資格があるのは、1部リーグのチームのみだ。1部リーグで戦うには、1部・2部入れ替え戦に勝利し、昇格する必要がある。
但し競技の追求や名声・結果を求めないチームも存在する。純粋に試合を楽しみ汗を流す目的であれば、毎日トレーニングをしたり、試合分析をする必要はないのだ。
日本一を掴む舞台への返り咲きを目指すチームと目の前のラクロスを享受するチーム。2部リーグは様々な思想が入り混じるドラマチックなステージだ。
「この文章の意味がわからず数日悶々としてしまったわ……返事もできなかった。どういうことかしら」
深雪は、先日愛奈から突如送られてきたメッセージを隣に座る翠に見せた。
翠は文章を読んで眉間にしわを寄せた。
「女子特有のかまってちゃんじゃないの? 冗談でも主将の言うべき言葉じゃない」
「真剣に考えてよ……。最近チーム内でごたごたなんてなかったと思うんだけど」
「深雪、他人の気持ちなんて憶測するだけ無駄。この世で常に明らかなものは、“自分がどうしたいか”それだけ」
翠は煩わしそうに顔を逸らし、プロテインをストローで啜った。
「わかるけど……。あんたみたいに割り切れないのよ。それに……こんなメッセージを受け取った私は今日一体どんな顔して会えばいいの……?」
すると深雪が持つスマートフォンの画面に新規メッセージが届いた。愛奈からチーム全体への連絡だ。
『おはようございます。先週の捻挫が痛み、行きつけの病院が今日しか空いていないので、本日はお休みします。大事な試合なのにごめんなさい。みなさんの力なら勝利を勝ち取れると思います。次の試合に繋がる、最高の試合を見せてください★』
画面を覗き込んでいた2人は沈黙した。
「私、この子嫌い」
翠は臆面もなく舌打ちし、立ち上がった。
「ん? もう着替える?」
立ち上がった翠を一華が見上げた。そこまで目線は変わらない。
「うん。早くラクロスしよう」
翠は一華に目もくれず更衣室に向かった。
一華は自分の前を通り過ぎる翠を目で追い、肩を揺らした。
「イライラするなよ~。はげるぞ~」
クロスの刺さったリュックを背負って翠に続く。
深雪は掌の中のスマートフォンに目を落として溜息をついた。電源を切ってポケットに突っ込み、小走りで2人の後を追った。
『お待たせしました! 今日は最強の社会人チームを決める、全日本ラクロスクラブ選手権決勝戦です! 真の日本一を争う全日本選手権への切符をかけて今、両チームが入場します。対戦カードは、10年連続優勝、他の追随を許さない王者CAMELLIALS。そして今年こそ念願の返り咲きを狙う実力者揃いのSUN BEARS! 両者一歩も譲らない戦いに目が離せなくなること間違いなし!』
カメリアルズとサンベアーズのスターティングメンバーがフィールドの中央に向きあった。
「これより試合を始めます。互いに礼」
審判の合図によりメンバーはそれぞれのポジションへ散らばった。
一華はフィールド中央から離れず、カメリアルズのドロワーを待った。
細く長い髪をひとつに束ねた目つきの鋭い女が、一華の前に立った。一華と同じほど背が高いが色白く、骨ばった身体つきをしている。
一華は伶歌を真正面から見据えた。
「伶……」
「……いち……」
「なんか変な感じだね」
一華は屈託なく笑った。
伶歌は応えずドローセットの体勢をとった。
顎をひき、一華に見えない角度で唇を噛みしめ、涙をこらえた。
――また一華とラクロスできる――
2人の時間は、5年前に止まったままだった。
伶歌は日本一を目前に戦線離脱し、夢も、仲間も、信頼も失った。
決勝戦直前に主力がいなくなり、チームは戦術を入れ替えることになった。他のメンバーの負担は増えた。チームの士気をとるはずの4年生が理由を告げずに消え、当時優勝候補とされていた天王大学は、がたがたに崩れた。
――私が途中でいなくならなければ、確実に日本一を勝ち取っていた。みんなで、日本一の景色を見れた。ずっと夢だった。みんなで誓い合った夢。あと少しで……
母親になったことは、謝ることじゃない。わかってる。でもみんなにおめでとうと言わせることになるのが辛くて、逃げた。逃げて隠れて、それでもラクロスがしたくて、戻ってきた。一華はもういないけど、深雪と翠とも別のチームだけど、ラクロスをしてないと、答えが、ずっと見つけられなそうで……
ピッ
ドロー開始の合図の笛が鳴った。ボールは2人の頭上高く上がった。
伶歌は空を仰いだ。こんなに高く上るドローを見たのは初めてだった。落下時の一番高いボールを狙うしかない。ボールが太陽に重なり、目を細めた。
一華はボールが落下する前に、いや上昇途中の一番高いときに、跳んだ。ボールに手を伸ばしクロスに収める。ボールを保持した一華はやや体を引き、誰もいないスペースに山なりのパスを放った。示し合わせたようにそのスペースに深雪が走り込みボールをキャッチした。
先制攻撃はサンベアーズだ。
深雪は視野をとり、速度を落とした。まずは1点、確実に先制点を奪いたい。カメリアルズの守備陣形を確認するためにパスを回して――
「げっ」
一華が攻撃サイドに加わる前に、ボールはカメリアルズに渡った。深雪からボールを受け取った若手の選手が、人数の多い敵陣に突っ込み、プレッシャーをかけられたまま無理な体勢でシュートを打ったのだ。ボールはカメリアルズのゴーリーに易々とキャッチされた。
ゴーリーがシュートをセーブするかしないかのうちに、カメリアルズの選手たちは一斉に広がり距離をとった。ゴーリーはセーブの体勢から瞬く間に遠投の体勢に切り替え、ボールはぐんとフィールド中央まで飛ばされた。
「フォームも球も速い! あれが日本一のゴーリーの実力……!」
カメリアルズのゴーリーの俊敏さに会場がざわめいた。
一華のすぐ真横まで投げ返されたボールは、突如現れたカメリアルズのATに渡った。
一華は小柄なそのATの走るコースを塞ごうと、前にでた。
「きゃ~。こわ~い。紅さん、パス!」
一華のクロスをすり抜けボールはさらに進んだ。弾道のような鋭い球がゴール前に飛び込むもう1人のATに渡った。
「ちょっと伊代! もうちょっと愛情のこもったパスにしてちょうだい」
肉付きの良いその選手は、ギリギリ手を伸ばして届く距離に投げられたボールをクロスの先でキャッチし、体勢を戻して重いシュートを放った。
ピ――ッピ!
先制点をあげたのはカメリアルズだった。
『あれはカメリアルズが得意とする速攻の形ですね。長いパスを多くすることで攻撃時の体力を無駄に削らなくて済みます。ただしその代わりミスのリスクも増える選択です。パスワークに優れる選手が多いカメリアルズだからこそ成せる戦術ですね!』
解説者が観客にわかるように一般論を述べた。
「パスワークも一流だが……それだけじゃないな」
観客席の柵にもたれて、大柄の男が呟いた。
「え……」
連れの男が隣で顔を上げた。
女子の決勝戦が終われば、同会場で男子の決勝戦が行われる。男子リーグの選手たちも集まってきていた。
「ボールマンがパスを放つ直前に全員、ワンアクションいれてからボールを迎えに行ってる。サンベアーズのDFはあの動きに反応して遅れをとって、キャッチへのプレッシャーを全くかけられていない」
「ボールをもらう前に反対方向に動いて相手を惑わせる動きをしているってことですよね? 女子ってオールコートそれやるんですね……」
「あぁ。女子のラクロスも中々面白いよ」
「にしてもあのドローの子……。この間亮介さんとシュート対決してた子ですよね? やっぱり、市川一華ですよ。3年生のときに日本代表に選ばれてその強肩っぷりで一躍有名になって……。前回のワールドカップはいなかったから引退したのかと思ってた……」
亮介はラクロスショップでの、メッシュをかけた勝負を想起した。その女の精悍な顔つき、プレーの強烈な印象を忘れるはずもなかった。しかし彼女のシュートフォームは確か……
「左利きだったのか……。なめられたもんだな」
「最後のシュートもえげつないすぎる~。ゴールサークルギリギリであんな強い球打つ?」
「光はその前の伊代さんのパスも取れる気がしないな~」
観客席で試合を観戦していた千尋と光が、同じポジションである紅と伊代のプレーに反応した。
ラクロスのゴールは半径3mのサークルで囲まれている。ゴーリー以外はサークルに踏み入れることはできない。よってシューターは3m以上離れた位置からシュートを打つことになる。サークル近くで速い球を放てば、ゴーリーは反応することができないが、その分シュートコースは限定されやすい。
「コースを読まれても反応されない自信があるんだよ。パススピードもシュートスピードも」
一緒に見ていた志麻が応えた。
「おぉ~! うまいな!」
カメリアルズの速攻をみた一華は目を輝かせた。
その一華を伊代が横目でみて、伶歌に駆け寄った。
「伶歌さん……あの強肩ゴリラ……天王大の市川一華さんですか? 伶歌さんがドローに触れないなんて初めてみましたよぉ」
「……もう一度やらせて」
伶歌は伊代の質問に短く答えてドローセットの準備をした。
「もぅ~。コミュニケーション能力ゼロ~。伊代困る~」
伊代は口を尖らせて自分のポジションに戻った。
2度目のドローも同じように高く上がった。
今度は伶歌も一華と同時にクロスを伸ばした。しかし一華がボールを掴み取った。伶歌は一華のクロスを思いっきり叩きボールを落とそうとするが、びくともしない。
一華はまた深雪にパスを出そうとして動きを止めた。深雪はマークマンにがっちり抑えられていてパスを出せなかった。
「さすが。同じことは通用しないよね」
すると一華を追い越す影が見えた。翠だ。
ドローを“誰かが”獲得した後であれば、ドローに関わらないポジションの選手も、ラインを越えてボールに関わることができる。
「あったまいい~!」
一華は翠にボールを投げた。
翠のマークマンは完全に虚を突かれ出遅れていた。翠はフリーでボールを受け、そのままOFサイドへ突っ込んだ。
「ってあれ? 1、2、3、……これじゃ私がOFできないじゃん!」
ラクロスでは攻めのセットプレーに関わることができる人数が限られている。それ以外の選手はフィールドを3分割した線を超えてプレーすることができない。通常であれば一華を含めた6名だが、翠がラインを超えたことで、一華があぶれた。
翠が攻撃陣に投げたパスのコースに、カメリアルズのゴーリー・董がクロスを差し込んだ。
「パスカット! 董さすがぁ!」
反対側のゴール付近で伊代が後輩の董を褒めた。
普段ボールを触らないポジションの翠は、攻撃の戦術に組み込まれていない。翠は攻撃陣にボールを預けてすぐに一華と交代するつもりだった。その覇気のない緩いボールを、日本最高峰レベルの選手が見過ごすはずがなかった。
サンベアーズはまたしても、ものの数秒で攻撃権を奪われてしまった。
再び華麗な速攻で、カメリアルズが得点を重ねると思われた。しかし董はロングパスを投げ辞めた。
「ん~ばれたか。かわいくないな!」
翠の代わりに守備側に残っていた一華が、楽し気に呟いた。
「今ロングパスを投げてくれれば、一華がボールを奪える守備範囲内だったのに……大した危機察知能力だわ」
深雪は敵ゴーリーの能力の高さに感嘆した。
「下がりながらマッチアップ確認して! セットプレーがくるわよ!」
深雪の掛け声でサンベアーズの選手が一斉に自陣のゴールを固めるように場所を移動した。今度は長いパスを使った速い攻めではない。何度もパスを回して時間をかけながら、ゴール前まで入り込む。
ゴール前でもパスを回し続けた。脅威のない、DFの視線を移動するだけのパスだ。攻めの波のない安定したボールは、奪いにくい。サンベアーズの守備陣は何を仕掛けることもできず、じりじりと時間が過ぎた。
すると突然伊代がゴールの裏側から、ゴール前の対角のスペースに鋭いパスをいれた。
ラクロスはゴールの裏側にも10mほどのスペースがある。攻撃陣はゴールに対して360度から攻めを展開することができる。
そのボールを紅が空中で押さえ、地面に叩きつけた。ボールは鋭角にバウンドし、ゴールの角に突き刺さった。
ピ――ッピ!
「クイックショット……うまいな。あんな簡単そうに……」
ゴール前の密集地帯では、空中のボールに上手く体を合わせにいくことは難しい。ましてやDFのプレッシャーを受けたままであれだけの力を込めることは至難の業だ。
紅にマッチアップしていたのは翠だった。翠はシュート時に押し飛ばされサークル内に腰をついていた。
「……あらごめんね? 小さくて見えなかったわ」
紅は芝に転がる翠を虐げるような目で見下ろした。翠は飛ばされた衝撃で外れたアイガードを拾い、紅の体躯を鋭い目つきで見上げた。
「翠さん速いしコース取り完璧だけど、身体小さいからな……。あの組合せ(マッチアップ)じゃ、でかい紅さんにとってはいないも同然だよね……」
「でも翠さんもそんなことわかってるでしょ……。だから小さい伊代さんにつくようにしてるのに……。カメリアルズがうまくチェンジして紅さんと翠さんのミスマッチペアをつくってるんだよ」
「じゃあそれまでわざとパス回して時間稼いでる感じ?」
光と千尋が観客席から好き好きに感想を言い合う。それを志麻が黙って横で聞いていた。志麻のポジションは翠と同じDFだ。身長は高く、筋肉量も多い。翠のようなスピードは出ないが、移動範囲の少ない紅のようなパワーシューターとの相性はいい。少なくとも翠のように、体格差で吹き飛ばされることはない。
志麻は膝の上で拳を握りしめた。
志麻の仕事は土日勤務のあるものだ。休日にしか練習ができない社会人クラブチームで、限られた練習も満足に参加できずに、チームに何を貢献できるのだろう。チームへの迷惑を考えるとクラブチームに所属する勇気がなかった。学生ラクロスを引退してから、公式戦には出場していない。
今の社会人クラブチームには紅を止められるDFはいない。志麻は奥歯に力を入れた。
――私なら紅を止められる。私も戦いたい――
「にしてもうちの攻撃陣は足が動いてないな。翠からパスを受けに上がってこないなんて、緊張してるの?」
一華が深雪に愚痴をこぼした。
「仕方ないでしょ、新人が多いんだから。会場の雰囲気に飲まれてるのよ。少しずつ慣らしていくしか……」
「そんな悠長なこと言ってたら負けるよ? 私が攻撃に入るまで自滅しないようにしてよ」
3回目のドローをセットした。
伶歌が構えを変えた。
ドローには持ち手、立ち位置、前に押すか、後ろに引くか…何通りもの組合せがありそれにより、ボールの上がる位置もタイミングもかわってくる。1人でいくつかの手段を持っていることが多い。
ピッ
今度のドローは高く上がらず、伶歌の背後に弾き跳んだ。伶歌は長い髪を翻してドローの体勢から素早く反転し、ボールを押さえた。
「市川一華が左利きなのに右手を上にしてクロスを構えるのは、高く上がったボールを一番高いところでとるため。そのために左手でクロスのボトムを持つ必要がある。ただ利き手じゃない分本来の怪力は発揮していない」
亮介が顎に手を添えて一華のドローを分析した。
「だからあえて力の勝負に持っていくために、神谷伶歌は引きドローを選んだんですね。引きなら腕じゃなく、背筋を使う。背筋の方が大きい筋肉を使える。押しでしかも利き手じゃない手でドローを上げてる相手なら、高くあがりさえしなければ、反応の速い伶歌に分がある……なるほど」
「それに2回で気づいて修正してくるのもかなりの経験者だな……。そして、押しドローの最大の弱点は……ボールを取れなかった場合、立ち位置上、守備に戻りにくい」
ドローを獲得した伶歌はそのまま独走した。一華が遅れた分、カメリアルズが1人多い状態だ。
(パス……? ラン……?)
自分のマークマンと、ボールを持って近づいてくる伶歌の両方をマークすることになった深雪が、伶歌の動きを見極めようと目を凝らした。
(伶歌の俊足でランなら、もう、今しか間に合わない……むしろ自分のマークマンにパスを出させて、戻る方が得策……だったらどっちにしろ前に……)
「深雪! ランだ!!」
一華が叫んだ。
その声を聞くなり深雪は地面を強く蹴った。伶歌の進行コース真正面に入り込み行く手を塞ぐと、伶歌が一瞬スピードを緩めた。
(今だ)
深雪が伶歌を押さえようと一歩前に出た。その瞬間、伶歌が加速した。
「……ッ」
そのまま深雪を抜き去り、ゴール前まで接近した。翠がフォローに寄ったが間に合わない。
伶歌は加速した状態のままクロスを振り切った。ボールは対角のコースへ突き刺さった。
ピ――ッピ!
「3連続失点……」
深雪は体の重さを感じた。夏のブロック予選では喰らいつけた。それなのにいつも、大会の終盤になると突き放される。カメリアルズとサンベアーズのメンバー個々の実力差は、そこまでないはずだ。この女を除いて。
深雪は、ゴール前から戻ってくる髪の長い女を見つめた。
(伶歌。出産して、育児してトレーニングなんてまともにできてないはずなのに。何なのよその速さ……学生のころからずっと天才って呼ばれてたけど、いつもすかしてて、つまらなそうで。ほら今だって決勝戦で得点決めたっていうのに、なんでそんな……)
深雪は伶歌の顔を見てはっとした。伶歌の顔を真正面から見るのは久々だった。感情が顔に出ない、起伏の乏しいやつ、と思い込んでいた。
今伶歌は口角を上げ、目に生気を宿らせ、意気揚々とした表情を携えていた。
――ラクロスは楽しむもんだよ。勝ったら楽しいから勝ちたい。それだけ
深雪は、一華の言葉を思い出した。短い髪を風に靡かせながら、一華はずっと、昔からずっとそう言っていた。
いそいそと次のドローセットをする伶歌を、静かに睨みつけた。遠く及ばない実力に絶望を抱きながらも、不思議と力が湧き上がってきた。
「まあドローはさ、互角ってことで、許してくれる?」
一華が深雪の肩に手を置いた。
「……仕方ないわね。私が拾うから、地面に落としてよ。取られても私が伶歌を追いかける」
深雪の覚悟を決めたよう目をみて、一華は満足げな顔をした。
「そ~こなくっちゃ」
ピッ
4回目ドローは2人の中間あたりに低く飛んだ。ボールを求めて2人のクロスはぶつかり合った。ボールはどちらのクロスにも収まらずフィールドに落ちた。
ピ――
ホイッスルが鳴った。
「?」
選手たちは審判を窺った。
「カメリアルズ、フライングとります」
ドローサークル周りの選手が振り返ると、カメリアルズの攻撃陣の1人が目の前のラインを踏んでいた。
ドローに関わる選手以外は、ドロー獲得前にラインを越えてはならない。
「ただでさえ下手なくせに足引っ張らないでほしいよね~」
伊代が味方に対して嫌悪感を露にした。
ボールはサンベアーズのドロワーである一華に渡された。
「ラッキー」
試合が再開されると同時に、一華は爆走した。
(……!?)
自分との距離をぐんぐん離していく一華に、伶歌は目を瞠った。
「え!? イチさんって足速かったっけ!?」
「……自分で走れないからパスしてるのかと思った……」
観客席の千尋と光が身を乗り出した。
カメリアルズのDF陣は構えた。一華の強肩であれば、現段階でどこにいる味方にもパスが出せる。あの速さで走られるのもやっかいだ。パスか、ランか……上手く距離をとりながらぎりぎりまで判断を粘ろうと、極限まで集中を高めた。
(どっちだ……)
「違う! シュートだ!」
ゴーリーの董が一華のフォームを見て叫んだ。
「は!?」
「せいか~い!」
一華はゴールから15m以上離れたところからシュートフォームをとった。左腕と左半身を後ろに引きステップを踏み、自身のスピードをゼロにする。クロスを思い切り、しかししなやかに振り、ボールを手放した。
「届くもんなの!?」
「届いても、ゴーリーが気づいてるよ!」
観客席は驚きざわめいた。
ボールは風をきりスピードを保ったままゴールへ向かった。
(速い……でも……見える)
董は動いた。ボールの軌道の先にゴーリークロスを動かした。
(!?)
ボールは鋭い音をたててネットを揺らした。サンベアーズの初得点だ。
『ゴーール! 本日サンベアーズ1点目のシュートを決めたのは大型新人、市川一華選手! 私、あんな遠くからシュートを決めた人、初めてみました! 常識外れの超新星!』
興奮した様子のアナウンスとともに会場が一気に盛り上がった。
ラクロスのゴールは縦横183㎝の小型なものだ。そこにヘルメットを被った170㎝前後のゴーリーがいる。ゴールからの距離が遠ければ遠いほど、ゴーリーをかいくぐってゴールラインを通過する確率は低くなる。
「イチさんすごすぎ~! 距離も速さも昔より格段に伸びてる感じしない?」
「あのアナウンス……誰? 一華が超新星って……。27歳のベテランだけど」
「仕方ないですよ、5年も日本にいなかったんだし、社会人リーグでは確かに新人」
志麻の怪訝そうな顔をみて、光がけらけら笑った。
千尋がふと志麻の奥に目をやり、一華のスーパーショットに目を輝かす者がいることに気がついた。透明感のある肌に、整った目鼻立ち、サラサラストレートのショートカット……
「ねぇあの子、碧依ちゃんに似すぎじゃない?」
小声で光に耳打ちをする。
「碧依ちゃんってあの代表候補の? オーストラリア留学してるんじゃないの?」
「うん……でもほらあのイケメン……碧依ちゃんだよ絶対。なんでここに……? なんか、泣いてる……?」
シュートを決めてメンバーとハイタッチをする一華を眺めながら、紅が伶歌に話しかけた。
「やっかいなやつが帰ってきたわね~」
「………」
「無理。伊代こわ~い。あのボールあたったら死んじゃう」
わざとらしく眉をよせた。
「ほんとね。DFじゃなくてよかったわ」
紅と伊代は踵を返し控え室へ向かった。伶歌もあとに続いた。
3対1、カメリアルズリードで前半を終えた。
一華のマグナムシュートを目の当たりにしてから、カメリアルズの守備陣は一華へのプレッシャーレベルを上げた。どんなに遠くからシュートが打てたとしても、ボールがもらえなければ意味がない。一華にボールが渡らないように、他の全ての情報を切り捨て、一華の動きだけを追った。
「うっとうしいな……」
一華は自分にまとわりつくDFを振り切り、ボールを受けようと運動量をあげた。サンベアーズの若手攻撃陣はパスを回し、ボールを奪われないようにするのが精一杯だ。
深雪はフィールドを見回し、試合状況を見定めた。
(……やっぱり愛奈がいないと攻撃陣は動きが悪い……。あんな脅威のないパス回しじゃ、またパスカットされるのも時間の問題……。一華はベッタリマークされてる……それなら……)
「私と一華で独立した2on2!」
深雪が叫びながら、ボールを受けにいった。
深雪の合図にサンベアーズのOF陣が反応した。一華と深雪がゴール右サイドに、それ以外の4人は距離をとって左サイドに移動した。
深雪をマークしていたのは伶歌だった。伶歌が深雪の目論見に気が付いた。
「菖蒲。ベタ解除。菖蒲!」
一華をべったり抑え込んでいるDFに共有しようとした。が、彼女は必要以上に動きまわる一華についていくことに必死で、仲間の伶歌の指示に気づかない。
深雪が両足でステップを踏んだ。伶歌の体が反応し一瞬沈んだのを見逃さず、地面を蹴った。
大きく飛んだが、足のリーチは伶歌の方が長い。立て直しも早く、すぐに深雪の正面に入り直そうとした。しかし深雪は素早く自分の肩を入れ、それを遮った。そのまま行路をつくり直線に加速した。
「フォロー!」
深雪は一華のすぐそばを通過したが、一華をマークしているDFはそれに気づかない。他の守備陣は逆サイドに固まっていて間に合わない。
深雪はノンプレッシャーでゴーリー・董と対峙した。
董は深雪を見定めた。
(この人のシュートは受けたことがない。分析にもデータが挙がってなかった。普段はシューターじゃないはず。それにクロスの位置からして――下)
深雪がクロスを振り下ろすと同時にボールを覆い込むようにしゃがんだ。
(ほら……ね……え!?)
抑え込んだはずのボールが見当たらない。顔を上げると直立した深雪がクロスをもう一度振り上げていた。ボールはまだそこにあった。
深雪がクロスをちょんと押し、ボールは緩やかな弧を描いてゆっくりゴールネットに吸い込まれた。
「一華みたいな弾丸シュートは打てないけどね」
深雪のフェイクに完璧に騙された董は、地面に膝をついたまま唇を噛んだ。
「フェイク! きっもちー!」
「深雪さんってあんなことできたっけ!? 普通のシュートだってあんまり見たことないのに!」
千尋と光が興奮した様子で深雪のフェイクシュートの真似をする。志麻は、深雪のマンションの駐車場の壁にあったボールの跡を思い出した。
「いいシュート。ステップも」
「私だって5年間、遊んでたわけじゃないのよ」
思わぬ敗北を喫し呆ける伶歌に、すれ違い様に吐き捨てた。
凡人には凡人なりの戦い方がある。誰しもが配られたカードで、勝負する他ないのだ。
「深雪~! すごいじゃん! さすが!」
「深雪すごい!」
一華と翠が駆け寄り深雪の背中をばんばんと叩く。
「うん、ありが……って痛い! 痛い! もういいから!」
深雪の周りに集まり騒ぎ立てるサンベアーズの面々。それを冷めた目で見ながらカメリアルズの選手たちは集合し、短く作戦会議をしていた。
得点が入ってから次のドローセットまで、30秒間の準備時間が用意されている。
「1点差か……、あの子を温存してる場合じゃないわね。伊代、アリアナを呼んできて」
「え~? 伊代疲れちゃう~。どうせ菖蒲さんと交代なんだから、菖蒲さんが呼んできてください~」
「あ、うん……」
菖蒲に代わりフィールドに現れた選手に、会場はどよめいた。
「は? でかい……。誰あれ」
「外人……?」
ブロンドの髪を前髪ごと高く束ねた青い瞳の選手が、ドローサークルについた。腰回りや腿、首が他の選手たちと比べものにならないくらいに太い。肩をごきごき鳴らし、長い腕で長いクロスを振り回す。隣に並ぶ深雪が子供のようだ。
『ゴーール!』
「くそ……」
「紅へのパスを警戒すれば、アリアナがあく。アリアナに人数をかければ伶歌が自由になる……。どうすれば……」
サンベアーズの選手は膝に手をつき、肩で息をした。
『後半から出場したアリアナ選手、怒涛の得点奪取で本日3得点目です! 今年加盟した社会人一年目の選手です。アメリカ人だそうです。力強い1on1、サンベアーズ守備陣、成す術がありません! 試合時間、残り2分を切っています!』
実質、アリアナの猛攻を体で止められる可能性があるのは一華だけだった。しかしカメリアルズの攻撃陣はアリアナと一華が対決しないように巧みにチェックアップを変える。
ターゲットにされたのは深雪だった。深雪は体を張ってアリアナの走るコースを塞ぐが、アリアナの視界にすらはいらない。深雪が正面にいるにも関わらず、それをものともせずクロスを振る。
深雪は身の危険を察知し飛び退いた。危うくシュートリリースが顔面に直撃するところだった。それを見た一華が額に青筋を立てる。
「危ないな……!」
獣のように毛を逆立て、身体の周りの空気を淀ませた。目を怒らせアリアナの巨体の前に立ち塞がり、低く唸った。
「Hey kid.私と勝負しろよ」
アリアナは疎ましそうに眉をハの字にし、凄む一華を見下ろした。
「そういう暑苦しいの興味ないデス」
アリアナはブロンドのポニーテールを翻し、一華の脇を通り過ぎた。
一華は鼻を膨らまし、息を吐いて怒りを抑えた。
試合時間残り1分、アリアナはボールを受けると、マークしている深雪の体を押し切りゴールに向かってドライブした。
それを見た一華が深雪のフォローに向かう。アリアナに一華が吸い寄せられた分、サンベアーズの守備の陣形が崩れた。
「ゴール前ががらあきデス」
アリアナがゴール前に鎮座する紅にパスを放った。紅はそのボールを受け、キャッチと同時に振りかぶりシュートを……
「!」
アリアナのパスは紅に届いていなかった。翠がパスコースに片手を伸ばし、ボールをクロスに収めていた。
「……な、どこから……」
「っつ……重……」
翠は方腕にかかる衝撃に顔を歪めた。体勢を整え、そのままゴール前の密集地帯を駆け抜けた。
「翠! 前に出して!」
翠がパスカットのために動いた瞬間に、すでに一華と深雪は走り始めていた。翠はプレッシャーのかからないところまで駆け抜け、深雪にパスを出した。
「! 伶歌……!」
翠のパスカットに反応していたのは一華と翠だけではなかった。深雪へのパスを奪い返そうと、伶歌のクロスが伸びる。
「残念っ!」
深雪はクロスを低く構えた。翠の投げたボールは途中で軌道を変えて急降下した。伶歌のクロスは宙をかいた。
「何年一緒にやってると思ってんのよ!」
地面すれすれでボールをキャッチし、伶歌を置いて走り去った。パスカットのために全重心をかけていた伶歌は芝に倒れ込んだ。
「深雪! 投げて!」
一華が前から叫んだ。瞬間、深雪の背筋に冷たいものが走った。後ろから只ならぬ気迫を感じた。
アリアナが深雪を追うようにクロスを伸ばしていた。猛獣が獲物を捕らえるかの如く形相で、深雪に襲い掛かった。
(狩られる……!)
深雪は真横にステップを踏んだ。アリアナのクロスは深雪の顔すれすれを通過し、肩に落とされた。
「いっ」
深雪は鈍痛と衝撃によろけた。
ピ――ッ
「カメリアルズ背番号99、頭部への危険なファール(デンジャラスチェック)をとります。4m後ろへ」
ラクロスでは相手に危険なファールを犯すと、ボールマンの4m後方へ周るというペナルティーが与えられる。他の選手もボールマンから4m離れることになり、ボールマンはフリースペースを与えられる。
「ばか。なんでボール離さないの……」
一華が痛みを想像して顔をしかめた。
「パスフォームをとったらクロス叩かれてボール取られちゃうでしょ。身を挺して守ったのよ」
「そんなのやめて」
「何よ、優しいじゃない。最後に一発……」
ファールを受けた選手のリスタートでゲームは再開される。深雪は前方にいる一華にボールを投げた。
「お見舞いしてやってよね!!」
一華はボールを受けて中央突破した。
「まかせて!」
独走する一華に、カメリアルズの守備陣が構えた。一華はゴール前10m付近でシュートフォームをとった。
ピ――!
試合終了……の合図ではなかった。ラスト1秒を残し、試合が中断された。
「カメリアルズ背番号32、フリースペーストゥゴールの侵害です」
ラクロスには、ボールを持っている選手がシュートを打とうとする時、ゴールとその選手の間のスペースに侵入してはいけない、というルールがある。
そしてゴールから11m半径内でファールを受けたとき、ボールマンには“フリーシュート”の権限が与えられる。通常のファールと同じように半径4mのフリースペースが与えられ、決められたラインからノンプレッシャーでシュートを打てる。
一華はフリーシュートのラインについた。早くスタートダッシュを切る構えではなく、その場でシュートを打つ構えだ。
「やっぱり、スタンディングシュート!!」
女子選手はフリーシュートのラインから走ってゴールを決めに行く選手が大半だ。しかし一華の強肩であれば、ラインから動くことなくゴールポストにボールを到達させることができる。
カメリアルのゴーリー・董は肩の力を抜いた。さっきより距離が近い。あの速さ以上のシュートに、打った後に反応していたら間に合わない。でも考える時間はある。
(一華さんは左利き、自分も左構え。あの角度から見えてるコースは、1番、3番、4番、7番……性格上、一華さんにフェイクの選択肢はない。豪快なプレーを好む。なら、1番か3番……! ボールをひっかけて速く離せば1番、少しでも引っ張れば3番だ。最後のクロスの向きで見極めてやる。)
董は1番と3番にヤマを張った。
コースは正方形のゴールを、野球のストライクゾーンのように9分割したものに番号をつけて呼ぶ。1番はゴーリーにとっての右上、3番は左上だ。
ホイッスルと同時に一華が体をしならせた。
董はクロス先の向きを追った。ボールはクロスから離れた……速い、1番。決まりだ。
董は動いた。手を伸ばし、ゴーリークロスでシュートコースを遮った。
「……な……」
ピッピッピ――
ホイッスル3回は試合終了の合図だ。
「ブザービート……しびれる……」
一華が放ったシュートは董の読み通り1番のコースに、それも枠ギリギリに音を立てて突き刺さった。コースを完璧に読んで先に動いた董のクロスより、速く。
「ばか。バスケじゃないんだから。ラクロスにブザービートなんてないでしょ」
千尋が光を戒めた。ラクロスの得点はゴールラインを通過した時点で確定する。その前にホイッスルが鳴っていればシュートは無効だ。
「同時?」
志麻が首を傾げた。
「同時なんてありえない。一華のショットは最速で100㎞/hはでる。11m先のゴールなら単純計算0.4秒で到達する。モーションを足しても1秒かかるはずがない」
「翠、急に饒舌ね……まぁ実際に、1秒残っていたら、の話でしょ」
深雪はオフィシャルベンチに集まる審判員に目をやった。ラクロスの試合ではラスト2分間、残り時間が審判から共有されない。マネージャーのタイム管理が審判のタイム管理と数秒ずれていることは間々にある。ラスト1秒という味方ベンチからの共有は、確かな情報とは言えない。
審判がフィールドに戻り、選手たちを整列させた。
「ただ今のシュートは試合終了の合図のあとにゴールラインを通過したと判断したため無効とします」
董と翠が盛大に舌打ちした。それぞれの頭を紅と深雪が軽く叩いた。
(……完璧に笛よりシュートの方が先だったっつの。くそ……ヤマまで張って、追いつかないなんて……どれだけ速いんだよ……くそ……)
董は親指の爪を噛んで一華を睨んだ。一華はその様子を見て飄々とのたまった。
「きみは反応が速いのに、なんでヤマ張ったの? 土壇場で自分の強みを信じないなんて、変なの」
深雪が横で、「やめなさい」とひじ打ちをした。さらにその横で、翠が審判を睨みつけていた。
(ビデオ判定機能欲しい。まぁ一華のシュートは審判も目で追えない速さってことでいいか)
「よってただいまの試合、8対2でカメリアルズの勝利とします。互いに礼」
両選手が互いに挨拶し、ベンチに戻っていった。
一華はフィールドから去ろうとする紅の腕を掴んだ。
「紅、あんたたちのラクロスってなに?」
一華に眼光鋭く射すくめられ、紅は一瞬たじろいだ。だがすぐに目に野心を宿らせた。
「……頂点をとることよ。圧倒的強さでね。当然でしょ」
「頂点には、何があるの」
「知らないわよ。だから見にいくんでしょ」
紅は一華の腕を振り払ってフィールドを後にした。
紅が去ると、目の前に伶歌が立っていた。一華は目を見開いた。
2人の時間は5年前から止まったまま。あれからまだ、必要な言葉は見つかっていない。
言いたいことがたくさんあったはずだった。でも、どの言葉も筋違いな気がした。手の届く距離にいるのに、想いは届かない。乗せる言葉がわからない。乾いた口は何も紡がない。空虚が2人を別つ。
伶歌の方から動いた。弱々しく、片手で一華の肩を引き寄せた。
「いち……お帰り」
震える声が一華を溶かした。お互いの表情は見えない。
「……ふはっ。こっちのセリフだよ。ばか」
歯を食いしばって嗚咽をこらえた。
社会人クラブチーム全日本選手権大会決勝戦は、8対2の大差でカメリアルズが11度目の優勝を果たした。