1-帰ってきたゴリラ
これはラクロスという“趣味”にあけくれる妙齢女性たちの、青春の続き――
ブーッブーッ
デスクに置いてあったスマートフォンが震えた。翠はペンを止め、それにちらりと目をやった。
5限の終鈴が先程鳴っていたから、今は15時半すぎ。こんな就業真っただ中に連絡をよこす友人に、心当たりはない。室内に生徒が来ているが、緊急連絡の可能性もある。電話に出るくらいは問題ないだろう。
のろのろと画面を覗き込み表示された名前を確認した途端、翠は思わず息を飲んだ。急いで通話ボタンをタップする。
「もしも」
『あ、翠? おはよ~! 私そろそろ日本に帰るから近いうちに会いにいくわ! それより、深雪の電話番号知らない? かけても繋がらなくて!』
プッ
電話をかけてきた人物は一方的に自分の要件をまくしたて、翠が言葉をする前に通話を終了した。
翠は急いで電話の相手にメッセージを送信した。興奮で指先が震える。
「翠先生、誰から電話?」
保健室の客用ソファに腰かけていた生徒に尋ねられ、はっと振り返った。呼吸を忘れていたことに気がつく。
「さ、仮病は治った? もう掃除の時間。教室に戻りなさい」
「え~」
翠が動揺を隠しながら退室を促すと、生徒は頬を膨らませた。
「……先生、なんか嬉しそうだね」
幼い顔立ちの生徒は長いおさげを揺らしながら、翠の顔を覗き込んだ。
「……そうかな」
そう言いながら自分でも、頬が緩んでいるのがわかった。
翠は作業台の上に立てかけてあった写真を手に取った。そこには土や汗にまみれた女の子たちが、楽しそうな笑みを顔いっぱいに浮かべて写っている。ブラインドの隙間から差し込む西日がキラキラと反射する。
その中でより際立って肌が浅黒く、豪快な笑みを浮かべて写る人物を見て、翠は口角を上げた。
――あいつが帰ってくる……!
夜22時近く、ヨレたスーツに身を包み、重い足取りで歩道橋の階段を登る1人の女がいた。手すりに寄りかかりながら一歩一歩階段を登っていく。この女は日下部深雪。都内の人材系の企業に勤めて5年目になる27歳独身女性。週半ば、残業が長引いて疲れ果て、鉛のように重い体を引きずっている。
――お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ!
日中上司に言われた言葉を、頭の中で反芻する。
今日この時間まで残業をするはめになった原因を作ったのは、他でもない自分だ。取引先の信頼を失い兼ねない致命的なミス。パワーハラスメントの王道のような名台詞だが、事実だけに、その言葉は心に突き刺ささる。その傷口からずくずくとした痛みが広がっていた。
「いたっ」
日中の出来事に意識が飛んでいた深雪は、足元を滑らせ階段に膝をついた。転んだ拍子に鞄からスマートフォンが飛び出し転がった。ストッキングは伝線し膝から血が出て滲んだ。
「はぁ……」
無意識に溜息が漏れた。
すると鞄から飛び出したスマートフォンが震えた。急いで手を伸ばし、階段にへたり込んだまま電話をとる。取引先からかもしれない、と一瞬で仕事モードに切り替えられるのは、営業マンの悲しい性だ。
『深雪』
自分の名前を呼ぶ声が、電話の向こうからも頭の上からも聞こえた。その声に引っ張り上げられるように、深雪は顔を上げた。
「久しぶり。元気?」
にっと笑って仁王立ちで見下ろしてくるのは、長身で筋肉質、色黒で短髪、深雪のよく知る顔だった。後ろから月明かりが射し闇夜に浮き上がる様子は、まるで彼女の体内から神々しいオーラでも溢れ出ているかのようだ。
「い……一華……」
待っていたつもりはなかったが、本当はずっと待っていたのかもしれない。一華からもたらされる強いエネルギーが、深雪の体を溶かしていった。
「泣いてるの? 変わってないなぁ」
ケラケラ笑いながら、階段を下りてくる。
「ほら、立って」
深雪のそばまで来ると、大きな手を差し出した。頬に涙の筋を伝わせながら、深雪はその手を見つめた。それだけで全身の血が温まり、体が勝手に動いた。
「一華~~~~!!!!」
外食には遅い時間であったため、深雪が都内に借りているマンションで再会を祝すことにした。会社から指定され家賃補助も出ている1LDKの部屋は、都内のマンションにしては広めで住みやすい。北欧風の家具が並び、整然としている。
「えっクビ!? あの大手商社!?」
「そうなんだよね~!」
深雪は仰天して一華を仰いだ。一華は外資系の商社に就職し、入社1年目に海外研修に発ってからそのままその部署での配属が決まった。と、風の噂で聞いていた。
深雪は電気ポッドで湯を沸かしながら、久々に会う旧友に視線を注いだ。
「お洒落だな~」と部屋を見回す一華は、都会の今風のワンルームマンションを背景に立つと随分と異質であった。筋肉の付き方も堂々とした風貌も、この部屋の雰囲気に一切マッチしない。パンツスーツは長く太い脚にぴったりと張り付き、ワイシャツのボタンは肩と胸のボリュームに引っ張られて弾け飛びそうだ。部屋中の空気、家具や雑貨までもが、突然の珍客の存在感に慄き静まりかえっていた。
「海外赴任が終わったのかと思ったわ」
「いや、上司殴っちゃって」
一華は大口を開けて笑い、ソファにもたれて足を投げ出した。「相変わらずね」と顔を引きつらせながら深雪は、ホットココアの入ったマグカップをテーブルにおいた。
「だから私ホームレスなんだ。しばらくここに住んでいい?」
深雪は口に含んだココアを噴き出した。「同期のよしみってやつで~」と言いながら、一華はだらしなくソファに身体を埋まらせた。
市川一華は深雪の大学の同級生であり、同じ部活の仲間であった。大学の4年間この女のこの身勝手さに振り回され、断れない質の深雪は本当に大変な思いをして、それで、まぁ結果的には楽しかっ……
「ちょっちょっと待って」
深雪は自分の思考を遮るように首を振った。深雪は一華の顔を見た。その瞳はどこまでも黒く、強く、ともすれば吸い込まれてしまいそうな力を携えていた。いくら頭の中に御託を並べようとも、この魅惑に自分が打ち勝てる気がしなかった。それでも……
「条件がある」
いつまでもこいつの腰巾着ではいられない。同じ強さで向き合わないと、巻き込まれて自分が消える。この女は気を遣うとか、察するとか、そういった上辺の優しさとはまるで縁のない世界の人間なのだ。だからこそ、その強さに何度も突き動かされてきた。
深雪が簡単に居候を承諾しなかったことが意外だったのか、一華は体を起こして深雪の眼を覗き込んだ。
「住むのはいいけど、その代わりうちのチームにはいって」
深雪が一縷の勇気を振り絞って一華の眼を見返した。視線が真っ向からぶつかるだけで、奮い立たせた心がくじけそうになった。あの頃毎日一緒に笑いあって、ふざけ合って、本気でぶつかり合って、もう何も隠し事のないはずの相手なのに、瞳の奥を見透かされて、たじろぐ。
「やだ」
深雪が決死の思いで突き付けた条件を、一華はいとも簡単に突っぱねた。そして不敵に笑って言った。
「私は新しいチームを作る。深雪が、私がつくるチームにはいって」
「は?」
同じ高さのソファに座っているのに、どうしようもなく異次元の人物と話しているような感覚になる。こっちの事情も置かれている立場も、何もかもおかまいなしだ。でもこの女がやると言ってできないことは、ない。
深雪は腹を括った。この女を家にあげた時点で、いや、友達と認定されている時点で、自分は大きな渦潮に舵をとられた小舟も同然だ。せめて飲み込まれて溺れないように、強く漕ぎ続けよう。
「あんたのお願いばっかりじゃない」
深雪は精一杯不服そうに言った。
「ふへへ」
一華は楽しそうにくしゃりと笑った。
「一華! 起きて!」
「ん~」
ソファに寝たままなかなか目を覚まさない一華の頭の上で、深雪が大声を出す。「20分後に家をでるから!」と叫びながらばたばたと部屋を行き来する。一華がのそのそと枕元の置時計に手を伸ばすと、時計の針は5時半を指していた。
「早すぎない……?」
「日本のラクロッサーの朝は早いのよ!」
深雪がリビングに戻ってきてシャッとカーテンを開けるが、朝日はまだ昇っていない。
「まだ眠い……」
「いいから着替えて!」
再び眠りに戻ろうとする一華から、布団を引っぺがして服を投げつけた。
「……深雪のパジャマ小さかった……」
のっそりと起き上がった一華は、体にぴったり張りついた綿シャツの丸襟を引っ張る。
「あんたがでかいのよ! 色々と! 文句言うな」
「うわぁ……。夜……?」
辺りはまだ暗かった。車はまばらで人通りは皆無だ。月も星も白んだ空に映えてくっきりと浮かんでいる。
一華と深雪は大通りにでた。朝帰りの乗客を待っていたタクシーを拾い、郊外の大学グラウンドに向かう。
「成西大正門までお願いします。一華、今日はどうするの?」
「深雪のチームを見学する。日本の社会人チームってどんなものか見てみたい」
タクシーが成西大学前に到着すると、一華は後部座席から降りた。まだ日は出ていない。
「グラウンドに行くのにタクシー使うんだね。社会人になると」
「一華がぐずぐずするから乗りたい電車に間に合わなかったんでしょ! あ、ちょっと私に払わせる気!?」
一華は既に門を抜け大学構内に入っていた。門守衛に明るく挨拶をし、グラウンドに向かう。深雪はぶつぶつ言いながら運転手に料金を支払う。
「お姉さんたちここの学生? それ、なんのスポーツ?」
「いや、あー、はい、ラクロスです!」
運転手に笑いかけ、急いで一華の後を追いかけた。大学生に見えるなら、そう思わせておけばいいのだ。今年で27歳になりますなんて言ったら、面白くて会話が続いてしまう。
「青春だねぇ」
「ふぅーん」
一華はグラウンドから少し離れたところに座り、チームの練習を観察していた。
「気持ち悪いチーム」
ごろりと芝の上に転がって空を仰いだ。澄んだ青空が広がっている。暑さもだいぶ和らいできて、そよそよと気持ちのよい風が吹いている。
額から滴る汗をぬぐいながら、深雪が近づき、寝転がる一華を覗き込んだ。
「一華、こんな遠くで見てないで練習入れば? みんな喜ぶと思うけど……」
「よいしょ」
一華が勢いをつけて立ち上がった。
「今日はいい。最近運動不足だったから怪我しちゃう。それより」
ばふっ
なにかが一華の腰回りに抱き着いた。
一華の背丈よりも二回りほど小さい人物が、一華の体にぎゅっと腕を回して離れない。
「翠!?」
「一華ぁ……ずっと待ってた」
腕に力を込めたまま顔を上げた翠の目尻には、涙が浮かんでいた。
「ふは、翠、待たせてごめん」
一華は翠の髪をくしゃくしゃと撫でた。翠は呻きながら再び一華の胸に顔を埋めた。
「ねぇ深雪、あれ誰?」
深雪は一華が指さした方向に顔を向けた。チームのメンバーたちと話す、可愛らしい雰囲気の女性の姿があった。
「あれはうちのチーム主将だよ。一個下の秀園大卒でOFの子。カリスマ的なリーダーシップで当時秀園大を日本一に導いた……知らないの?」
「知らん」
深雪は溜息をついた。
「あんたって本当、学生のときから他チームの情報に疎いわよね。って、いつまでひっついってんの」
一華から離れない翠の後ろ襟を力強く引っ張った。
「ぐぎぎ……一華、またラクロスするよね?」
引っ張る深雪に抵抗しながら、翠は一華を見上げた。
「するよ。ちょっと2人ともこのあと付き合ってくれない?」
一華は2人の肩に腕を回し、にっと笑った。
「一華……私たち練習後でへとへとなんですけど。いつまで付き合わせるつもり? 重いし!」
練習用の衣類やシューズがパンパンに入ったリュックを背負った深雪は、さらに両手にショップバッグを大量にぶら下げている。土曜の昼下がり、都内のショッピングモールには多くの人が行き来している。家族連れやデート中のカップルにぶつかっては謝りながら、一華の後を追う。
「まぁまぁ。引っ越しが面倒だったから荷物全部捨てちゃってさ。新しく買い直さないと何もないんだよな」
クレジットカードをひらひらさせながら、一華は人込みの中を飄々と進む。
「豪快」
翠が恍惚とした様子で一華を見上げた。
「翠、あんたも少し持ってよ!」
「無理、今プロテイン飲んでる」
片手に持ったプロテインシェイカーを掲げ、ストローでちゅーと吸って見せた。
「一華、必要なものはこれで全部?」
翠はもう片方の手に持ったメモを一華に見せながら尋ねた。
「ん……、あとは、あれだ」
「まだ移動するの!?」
「お~! 新しくなってる!」
3人は都内に唯一のラクロスショップを訪れた。深雪は買い物袋と自分のリュックをどさどさと店舗のベンチに置いた。
「一華が海外勤務してる間に、大きな改装があったのよ。アメリカ製アイテムの入荷も随分早くなったわよ」
閉塞的な店内には、〈クロス〉と呼ばれるラクロス用のスティックが所狭しと置かれている。ラクロスではこのクロスを扱ってボールを回し合い、奪い合い、ゴールを決める。他にもグローブやシューズ、目を守る〈アイガード〉の品々が並んでいる。天井からぶら下がる液晶画面には、海外選手が試合を行っている録画映像が繰り返し写し出されている。
「クロスも捨てたの?」
「うん。古かったし、飛行機に乗るとき長い荷物面倒だから。さ、全身揃えるぞ~!」
「私もグローブ新しくしようかな」
各々店内に散らばり買い物を始めた。
「一華!?」
一華のもとへ店員が駆け寄ってきた。大柄な体格に、人の良さそうな顔つきをしている。ウェーブがかったワンレングスカットが、大人びた印象を与える。
「志麻~! 久しぶり」
「いつ帰ってきたの? こっちでラクロスするの?」
志麻は一華の両腕を掴み興奮した様子で前後に揺すった。
「するっするからまたクロス、編んで欲しい。ちょっ目が回る」
「あ~、一華がついに帰ってきたのかぁ。わくわくするなぁ。編むから早く紐選んでおいでよ」
一華は志麻に促され紐売り場を物色した。
クロスの先端部分にはボールを収めるためのメッシュや紐がついている。それぞれのポジションや特性に合わせてメッシュの種類、紐の編み方をカスタマイズできる。クロスの編み方のこだわりは、競技に対するのめり込み具合に比例する。
一華はお目当てのメッシュを見つけて手を伸ばした。
「「………」」
同じ商品に伸びる、節くれだった手が目に入った。横目でその主を見ると、見慣れない長身の男が気怠そうに見下ろしていた。
「……これは男子用だよ。君には向いていないと思うよ」
「……私はこれが一番使いやすい」
男は明らかに一華よりは年上のようだが、一華は構わず下から睨みつけた。
すると2人のそばからひそひそと声がした。
『あれ……あの人どっかで……?』
『え? あ……市川一華じゃない……?』
一華と睨み合っていた男はその話声を聞き、目の前にいる気の強そうな女の姿を改めて見やった。
(市川一華……? 誰だったか……)
「……オーケイ。お互い譲る気もないことだし、あれで勝負して負けた方は諦めるってことでどうかな。先にあの穴にいれたほうの勝ち」
男が指さした方を見ると、ネットに囲まれた5、6mほどのスペースがあった。購入前にクロスの使い心地を試すために用意された試投コーナーだ。奥にはゴールに見立てた的が用意されている。
「いいよ。わかりやすい」
一華の自信に満ちた様子に、男は思わず口元を緩めた。
「ちょっと目を離した隙に、なにやってんのよあいつは……」
深雪が、一華と隣に並ぶ男を見て呆れ返った。
どうしたら買い物にきて、顎鬚を蓄えた見知らぬ年上の男とシューティング対決を始めることになるのだろう。
「誰よあれ……」
長身の男の穏やかそうとも締まりがないとも言える垂れた目元に、どことなく見覚えがある気がして深雪は首を傾げた。
「この短時間でイケメンに目を付けられる一華。さすが。健在だね」
翠は購入したグッズを抱きしめ、鼻息を荒くした。
「在庫一個しかないメッシュネットを巡って勝負するんだって。店長に見つかる前に終わらせてくれないかなぁ。他の客に迷惑なんだけど」
志麻が笑顔をひきつらせた。
「いたいた。あれ? 亮介さん、何やってんですか」
男の連れも騒ぎに気づき、ネット越しに声をかけた。気づけば店内の客がちらちらと2人の様子を窺っている。
「先攻後攻は?」
「お先にどうぞ。レディーファーストで」
一華は鼻を鳴らし、お試し用のクロスを手にとり、転がっていたボールを掬い上げた。その動作のしなやかさに、深雪と志麻が顔を見合わせた。
「そういえば、帰ってきた一華のラクロスを見るのは初めてだわ」
「まぁ、最初に見れてよかったと思うことにしようか」
公式の試合に使用されている実際のゴールは縦横180cm四方の金属製のポールだ。ここでも同じ大きさの金属製の枠が設置されており、右上の角に三角形の穴が開いたナイロン製の的が括りつけてある。
一華はボールを収めたクロスを一杯に振りかぶり、大きな動作で振り切った。
「「えっ」」
ボールは振り切る前にあらぬ方向にすっぽ抜け、一同が目を見開いている間に、天井のネットにあたった。
「あほー! どうしてそんなに振りかぶるのよ!」
「あのボールは室内用の柔らかくて軽いボール……。女子用の浅い編み方じゃ、相当リストの返しを利かせないとああなるよ」
騒ぎ立てる深雪を志麻がなだめた。クロスの紐の編み方は、男子と女子で仕様が異なる。男子用はより深くボールが落ちにくい作り、女子用は浅くボールに力が乗りやすい作りになっている。
「計算するタイプじゃない。とりあえず投げてみただけ」
翠が核心をついた。
「……」
亮介は一華の肩のあたりを盗み見た。
「じゃあ、俺のターンね」
一華と同じようにボールを拾ったが、クロスは体の真横に構え、横振りでボールを投げた。コンパクトな動きにも関わらず、ボールはスピードに乗ったまま的の10cmほど上を通過した。
「ん~案外難しいね。ボール軽いと。2回戦目どうぞ」
本来公式の試合や普段の練習に用いられているラクロスのボールは野球の硬球程度の大きさ、固さであり、ここでは安全な柔らかいボールが用意されていた。ボールが軽ければ、投げるときの力の加減も変わってくる。
一華は再びボールを拾った。先程と同じように大きく振りかぶり、同様に肩から腰、下半身を使って力いっぱい振り切った。
「だからっ……っ」
今度は剛速球が飛び出した。金属製のゴールの枠にあたり、カァンと衝撃音が鳴り響いた。
「……当たった」
「っ……あいつ……な~にが運動不足よ……」
「……」
亮介はゴールに括りつけてある的に歩み寄った。一華がボールをぶつけた箇所を見ると、金属製のポールに擦ったような跡がついていた。
「摩擦で焼けてる……」
一華の方を振り返ると、不思議そうに首を傾けて亮介を見ていた。
亮介は一華に近づくと、持っていたメッシュを一華に差し出した。
「素晴らしい体の使い方だね。その腕でこのスピードの球を投げれるなんて。君の勝ちにしよう」
「え、いいの? ありがとう!」
差し出された戦利品を邪推せずに受け取る一華をみて、亮介は目尻を下げて笑った。そのまま腰を屈めて一華の耳元で囁いた。
「楽しみにしてるよ。君のプレー」
亮介は手をひらひらさせて店舗を後にした。一華は怪訝そうに眉間に皺を寄せ、亮介の後ろ姿を見送った。
「一華、何やってるの? あの人誰なの?」
勝負の行方を見守っていた深雪と翠、志麻が一華の周りに集まった。
「さぁ。知らないよ。あ、志麻、このメッシュで編んでほしい。切らなきゃいけないから面倒で悪いけど、自分で編むより志麻に編んでもらったクロスがしっくりくるんだよね」
「え、うん。いいけど……。少し時間かかるよ」
志麻は少しはにかみながら、一華に差し出されたメッシュを受け取った。
「亮介さん、よかったんですか? あのメッシュの入荷大分待ってたのに」
亮介に追いついた連れの男が尋ねた。
「俺は実際パワー系じゃないから、あれじゃなくても困らないよ。あの子のパワー見たか? きっと女子用の柔らかいメッシュだとすぐ駄目になるんだろう。面白い子が出てきたな」
亮介は手に持っていたジャージを羽織った。胸にはPIRATESと記されている。
連れの男は亮介の顔を見上げ、普段見せない表情に少し驚いた。
「……。……あ、いや、あの子は僕らの世代では元々有名ですよ……。それに確か……」
翌日。
日曜朝7時。グラウンドに日が差し込み始めた。深雪と翠が所属する社会人ラクロスクラブチーム・SUNBEARSが郊外の大学グラウンドの端に集まり練習前の挨拶をしている。
「おはようございます!」
「「おはようございます!」」
チームを仕切っているのはこのチームの主将、白鳥愛奈だ。
「愛奈さん、今日もかわいいな~」
「美人でリーダーシップもあって、憧れるよね」
サンベアーズの若手選手たちが陶酔した様子で話している。
「こちら今日からしばらく体験入部することになった、名門天王大学出身の一華さんです!」
「よろしく」
一華はにっと歯を見せ挨拶をした。サンベアーズのメンバーは「きゃ~」だの「ヨッ名門!」だの適当に持ち上げ、拍手で迎えた。チームには一華の知った顔も何人かいる。かつて大学生時代にしのぎを削ったライバル達だ。
下は23歳から上は30歳過ぎまでの妙齢の女性たちが半袖短パンもちろんすっぴんで、――実は日焼け止めクリームだけは念入りに塗っている――グラウンドの端に集まり、練習を始めようとしている。
一同円になり、肩を組んだ。
「クラブ決勝戦まで残りわずかです! 今日も気合入れていきましょう!」
「はい!」
主将の愛奈の声掛けにメンバーたちが応えた。
「ハイじゃあ、アップからはいりましょう!」
メンバーは散り散りにウォームアップを始めた。
一華もメンバーに倣い軽いランニングを始めると、かつての戦友たちが声をかけてきた。
「「イチさん!」」
「千尋~! 光~!」
東西体育大学の卒業生たちだ。大学ラクロスは他大学との交流が多く、他大学の練習に参加することもしばしばだ。
千尋と光は大学生時代一華に憧れ、当時、一華の出身大学である天王大の練習によく顔を出していた。
「イチさんが帰ってきてるって噂できいて、今日だけ参加させてもらってるんです。私たち別のチームのメンバーなんですけど、またイチさんと一緒にプレーできるなんて嬉しすぎる……!」
「嬉しくてなんか、泣けてきた」
千尋と光が所属するチームの練習は、今日は休みだった。クラブチーム同士の交流や個々人の練習参加も、学生同様、割と自由に行われる。
一華にしがみついて涙を流す千尋も、興奮して周りをピョンピョン飛び跳ねる光も、一華より一回り小さい。
小動物を飼いならす主人のように、一華はわしわしと2人の頭を撫でた。
「大袈裟だな~。2人とも少しは上手くなったの? そうだ志麻に会ったよ。志麻はもうラクロスしてないんだね」
千尋と光は、都内唯一のラクロスショップの店員・志麻の大学の後輩であった。
「志麻さんは基本平日休みなので……。でも土日に休めた時はたまにうちのチームに遊びにきてくれますよ」
「私たちも去年までずっと仙台と長野から練習に通ってて、やっと今年から東京勤務になって本格的にコミットできてるんですよ~」
「えっ? そうなの? 新幹線で通ってたの?」
「夜行バスですよ~。金曜の夜に毎週実家に帰るんです。大変でしたよ~。あっ、なんか練習始まりそう! 行きましょ!」
驚く一華を置いて、2人はグラウンドの中心へ走っていった。
長い夏が終わり、日中でも随分と過ごしやすくなってきていた。
深雪は、グラウンドの真ん中で練習の準備をする一華の姿を見た。
白いTシャツにグレーの短パン。長い手足を惜しげもなく露出し悠然と立っている。アイガードを装着するその指の間から、黒い短髪がさらさらと風に流され煌めく。口に咥えていたグローブを手にはめ、グラウンドの奥を見つめている。
いつだったか仲間たちと試合や練習時の「スイッチをいついれるか」討議をしたことがあるが、一華はグローブをはめた瞬間がその時だと言っていた。グローブをはめた瞬間から、全身の血が沸騰するように滾り、視界が研ぎ澄まされると。
やっと昇ってきた朝日に一華の耽美なシルエットが照らされ、目が眩んだ。久々に見るかつてのチームメイトの戦闘スタイルに、今更ながら気分は高揚した。
そんな深雪を、主将の愛奈が少し後ろから見つめていることに、誰も気づかなかった。
「まずはラインドリルからー」
号令の声の主が、主将からゲームリーダーに変わった。
このチームでラクロスを仕切るのは数人のゲームリーダーである。練習メニューの決定、戦術、ポジションの采配にいたるまでラクロス技術に関わる決定権はゲームリーダーにある。
分業は各々の負担を軽減し、リーダー以外の人間のリーダーシップを高める。そして練習と練習以外の気持ちの切り替えを明確にする。グラウンド使用時間は有限だ。練習は効率的に行わなければならない。
「マーカー配置おっけー」
「ボール持った! ここから始めまーす」
「一華、サンベアーズのパス練習は7種類。前の人のプレーを見て真似して。正面の人に投げたら、向かいの列の後ろに並ぶ繰り返しよ」
深雪は一華に練習メニューの詳細を説明しながら、ボールをひょいと投げた。
クロスを横向きにしたり下向きにしたり角度を変えることで、ラクロスは無限のパスフォームを創りだせる。但しそれぞれのフォームの名称は普及しておらず、チームごとに自由な呼び方をしている。
「ありがとう」
差し出されたボールをクロスに入れて、一華は集団に混ざった。
一華は10mほど先に立つ光にボールを投げた。体をしならせて大きく振りかぶったクロスを、ムチのように引っ張って振り切った。一華の投げた剛速球が光のクロスに収まり、吸収しきれず地面に落ちた。
何が起こったかわからず固まっていた一瞬の間に、一華が光の足元まで走ってきたかと思うと、ぐっと体勢を落とし地面のボールをすくった。
ボール落とさないようにしながら、遠心力を使ってクロスを体から離したあと、身体をひねって背面からポイっとパスをした。
あっけにとられた光は自分のクロスに戻ってきたボールに目をやり、なんだか楽しくなってきてとりあえず叫んでおいた。
「あげてこ~!」
「しっ死ぬっっ」
一華は人口芝の上に身体を投げうった。
スポーツドリンクを置きながら、深雪がその隣に座った。
「どうよ。5年ぶりの日本のラクロスは」
「長い。練習しすぎだよ。あとぼやけたメニューばっかりで、細かいことが何も積み重ならない」
「ふふっ随分な言いようね。でも私はもっと練習したい。明日も会社休んでラクロスしたいな」
「休めば?」
「えっ」
そこは普通、私も休みた~いと言って実際は休めないことを自虐的に笑うところだが、一華に予定調和は通用しない。
「有給は消化するために存在するんだよ」
「そうだけど、そんなこと言ってくれる人、会社にいない」
深雪も一華を真似てごろり、と空を仰いだ。透き通るように青い、高い空だ。
「人に言われなきゃ、休まないの?」
「だって理由もなく休んだら、後で何言われるかわからないじゃない」
語尾が尻すぼみになった。嫌でも一昨日の出来事を思い出した。明日からはまた、あの職場であの上司と顔を突き合わせて働くんだ。胃がキリキリと痛む。
「休みたいと思ってる仕事なんか、何も生み出さないよ。辞めちゃえば?」
思わず起き上がる深雪。なに、と言わんばかりのきょとんとした顔を返され、またどさっと寝そべる。
「あーもう。ラクロスやってる人って、なんでこうクレイジーなんだろ」
一華はそれを聞いてふっと笑った。
「ふぅ~最高~練習のあとのお風呂さいこ~~」
練習帰り、と言っても朝7時から4時間の練習で、昼食をとった後。現在14時を回ったところである。
一華、深雪、翠、千尋、光は練習場所近辺にあるスーパー銭湯に来ていた。
彼女らの所属する社会人ラクロスクラブチームには活動拠点がない。東京、神奈川、千葉、埼玉の公共グラウンドや大学グラウンドを転々としながら、土曜日曜週2回の練習に励んでいる。
本日の練習場所の成西大学はサッカーやアメフトが盛んな有名私立大学で、サンベアーズの何名かの出身大学である。成西大学の現役大学生と合同練習をした後は、このスーパー銭湯で汗を流し練習の疲れか平日の仕事の疲れかわからないが心身を癒すのがお決まりの流れだ。日曜のこの時間帯は子供連れの利用客で賑わっている。
5人は露天風呂の湯舟に浸かっていた。
「イチさん、体験入団ってどういうことですか? 合わなかったら別のチームにいくんですか? もしかしてうちのチームも候補に入ってますか?」
頬を上気させて千尋が尋ねた。普段は外向きに跳ねている毛先も、今は濡れてまっすぐ伸びている。
「仲間を集めて次のシーズンに新しいチームを創る」
「え、えぇ!」
浴槽の縁にもたれる一華の爆弾発言に、千尋と光は湯舟から立ち上がった。
社会人ラクロスのシーズンは6月から12月にかけてであり、現在は10月の終わり。今シーズンの終盤である。社会人ラクロスの頂点を決めたあとは、学生チャンピオンと戦い、真の日本一を争う。今シーズン勝ち残っているチームは、サンベアーズを含めたクラブチーム2チームと、学生チームの2チームの計4チームである。千尋と光が所属するチームの今シーズンの公式戦はすでに終わっていた。
「2人とも私の創るチームにきなよ」
一華の言葉に、千尋と光は顔を見合わせた。
「ちょ、待ってくださいよ~。唐突すぎる~」
「そうですよ。私たち今のチームで3年もやってきて、さすがに愛着ありますよ。先輩たちにもお世話になったし……」
2人は一華に誘われたことの嬉しさと、現チームへの情が入交り困惑した。一華は動揺する後輩たちに鋭い視線を投げかけた。
「2人は誰かのためにラクロスしてるの? 千尋はいい脚持ってるんだからボールをあんな簡単に回さないでもっと積極的に1人で仕掛けていい。光もカットばっかりきって動きすぎ。DFにつかれてもシュート打てるんだから、もっと簡単に中で受けていい。それにそんなのは5年前からできていたことだろ。今いる人に合わせているから、新しくできるようになったプレーが1つもないんだよ」
千尋と光は事実を突きつけられ、返す言葉に詰まった。
「相変わらず直球。好き」
浴槽の内壁から発射される気泡にだらしなく身を委ねて、翠はその様子を眺めていた。
「そういう一華は、なんでラクロスするの。日本のラクロスじゃどこまで上り詰めても稼げないわよ」
泣きそうな顔をしている千尋と光を横目に、深雪が尋ねた。
日本のラクロス界にプロリーグは存在しない。社会人プレイヤーは全てアマチュアであり、言うなれば“趣味”だ。それぞれに生活を支える仕事がある。
一華はさばぁと立ち上がり、湯舟から出た。髪から水を滴らせながら胸の前で腕を組む。
「私は、誰もがラクロスを楽しむあたりまえをつくる」
一同は面食らい、裸で仁王立ちする色黒筋肉質の女を見上げた。
ロングTシャツにスウェットという部屋着のような恰好で女5人、座敷に並べられたちゃぶ台のまわりに集まる。
芯から温まった体に冷えたコーヒー牛乳を流し込む、風呂上りの至福のひと時だ。乾いた喉を潤すために一気に飲み干し、ぷはぁっと息を吐きながら空瓶をちゃぶ台に叩きつける。
「でもさ、それって、私たちが頑張ればどうにかなるもの? どこに行ったってそのスポーツなんですかって聞かれる。ラクロスはまだその程度の認知度よ」
「深雪はいつも、できるかできないかの話ばかり。一華は、やるかやらないかの話をしてる」
深雪は、隣で2本目の牛乳瓶をこじ開けている翠の耳を引っ張った。
「具体性の話をしてるのよ。翠はなんで、一華の話に対してそんなに聞き分けがいいの」
「翠には、私がアメリカに行く前からこの話してるから。そうでもしないと付いてきそうだったし」
――私が帰ったら一緒にチームを創って、楽しいことしよう。それまでしっかり修行しておいてよ
――……う゛ん。わ゛がった……
当時それだけ、一華がラクロス界を離れるということは一華を知る同志の中では衝撃的であった。一華と大学時代を共にした深雪と翠にとっては、3人同じクラブチームでこの“趣味”を続けていくことは当然の未来だった。しかし一華が新卒で就職した勤務先から受けた人事はアメリカ配属であり、5年後の今まで一度も会うことはなかった。
「別に私がいなくてもラクロスできたでしょ?」
「できるわよ。あんたがいなくて話題性に欠けたってだけよ」
深雪はふん、と顔をそむけた。
一華は楽しそうに笑った。
「深雪も翠も、私が知らないプレーたくさん身に着けてるもんなぁ。頼もしいよ。これからが楽しみだな」
翠が当然、というように口角をあげた。深雪は頬を染め、コーヒー牛乳を飲もうとして口に持っていき、既に空だったことに気づいた。
「まず日本一を獲って、日本一強いチーム、力のあるチーム、説得力のあるチームになる。そして徐々にアカデミーを作っ て、オリンピック出場選手を育成できるシステムをつくる。メダルがとれるような代表チームになったらさすがに国内でも注目されるでしょ? そしたら子供たちが興味を示して、大人たちもそれに付き合ってクラブや部活をつくっていく」
4人とも身動ぎひとつせずに、一華の迷いのない言葉に聞き入った。
「私その話、乗ります。イチさんのチームに入れてください。面白そうすぎる。日本一の先のことなんて考えたことなかった」
千尋が鼻息荒く、身を乗り出した。毛先は元気に外に跳ねている。
「わくわくするね」
大きな目をくりくりさせて、光も賛同した。
「イチさんって、ラクロス上手いだけじゃなかったんですね」
水気でボリュームが増した頭を撫でながら、光が呟いた。
銭湯を後にし、一華と深雪は深雪の都内のマンションにタクシーに乗って帰っていった。残された3人は、人通りの少ない住宅街を歩きながら火照った体を冷ましていた。ジャージ姿の小柄な3人組は、傍からみれば中学生の部活帰りと思われてもおかしくない。
「いつも物事の核心をつくし、あの人の強さに感化されて自分を取り戻した人は多いと思う」
翠は自分の過去を思い出しながら答えた。
「それより、2人とも一華の言っていたこと忘れてないよね?」
翠は、顔を見合わせる後輩2人の肩に手を回して引き寄せた。
「あの一華がつくるチームだよ。半端な覚悟じゃついていけない。まずは自分のプレーを見直して、強みを強化しなさい。それから、人生本当にやりたいと思っていることを整理する。苦手なことなんか気にしなくていい。誰かがなんとかしてくれる。代わりに自分も誰かを助ける。そういうチームになるよ」
一華の無尽蔵の体力も、人並外れたパワーも、やるといったらきかない頑固さも、翠は今までいやというほど味わってきていた。そしてそれは千尋と光にもなんとなく想像できる程度には伝わっていた。
「私、体力には自信ないんですけど……どうしよう。練習ついていけるかな」
千尋が不安げに嘆いた。
「じゃ、体力づくりに駅までダッシュ!」
早くも傾き始めた西日に向かって、小さな3人の影が走り出した。
ピンポーン
深雪の部屋のインターホンが鳴った。現在午後15時。開けっ放しの窓から秋風が舞い込みカーテンを舞い上げる。部屋の主である深雪は勤務中で、部屋には一華しかいない。一華は昼寝から目覚めて午後のランニングにでかけようと、買ったばかりのランニングウェアに着替えていたところだ。
「は~い?」
モニターも確認せずにドアを開けた。警官服に身を包んだ人相の悪い男がドアの外に立っていた。一華が軒先に姿を現すと、眉を寄せきょろきょろ周囲を確認した。
「お前な、そんなんだから風邪ひくんだろ。ちゃんと閉めろ」
男は一華を玄関まで押し戻し、開口一番説教をした。前を開けたまま下着同然の恰好でいる一華の、パーカーの裾を無骨に掴んで一番上までチャックを閉めた。
「うへっぇ」
一華は言葉にならない声で呻いた。
一華は男を部屋にあげた。この男は一華の幼馴染の一樹。一華はソファに胡坐をかき、嬉しそうに幼馴染を見上げた。
「一樹、久しぶりだね~。なんか用?」
「なんか用ってあのなぁ……。さっき清華から連絡があってわざわざ顔見に来たんだよ。もう日本に帰ってるみたいだから生存確認してこいって。どうせお前じゃ連絡つかないだろうし」
部屋の入口に立ったまま一樹は呆れ顔で言った。
「へぇ、仕事中にそんなに急いで?」
一華が首を傾げると、一樹はきまりが悪そうに警察制服のネクタイを外した。
「んなことはどうでもいいだろ。まぁ相変わらずそうでよかったよ。全く。一度も帰って来ないなんてなぁ、心配するこっちの身にもなれよ」
一樹は短く刈り込んだ頭をがしがしと掻いた。
「ん~ごめん、用がなくて。一樹も忙しかったでしょ?」
一華は体を揺らしながら気の抜けた返しをした。一華は海外勤務中一度も日本に帰っていなかった。会わずに5年も経ったのが信じられないくらい、2人の距離は変わらない。一樹はふっと笑うように溜息をついた。
「伶歌には会ったのか?」
一樹の問いに一華は答えなかった。一樹は一華を一瞥すると、大股で近づいた。片手で頬を挟んで顔を向き合わせ、無理矢理目線を合わせた。
「会ってないんだな」
一華は一樹の手を振り払いもせずに、顎を突き出し睨みつけた。
「……どこにいるか知らないし。必要があればまたどこかで会えると思ってる」
拗ねたように目線を逸らし、一樹の詮索から逃れようとした。
「まぁ確かにな。お前ら2人がカフェでお茶なんてしてたらびっくりするよ」
一樹はくっくと笑い手を離し、一華の隣に腰かけた。
「な、失礼な。深雪と翠とならいくよ。ソイラテのパウダー増し増しでしょ?」
一華の意味の分からない抵抗にまた笑った。ふと、一華の傍に立てかけてあるラクロスのスティックが目に入った。クロス……って言ったな。
「一華。お前にとって今更日本のラクロスなんて、面白いのか?」
腑に落ちない顔をしている一華に、唐突に真剣な疑問を投げかけた。
純粋な疑問だった。一華は日本のラクロス界を牽引するトッププレイヤー。アメリカのクラブリーグでも、その実力は認められていた、と聞いている。日本とアメリカのラクロスのレベルの差がどのくらいあるのか知らないが、この国のアマチュアラクロスで、こいつが楽しめるのだろうか。
一華と目が合った。一華の黒い瞳に捉えられ、短く息を飲んだ。全ての色を取り込む、奥行きのある目。自由を好み支配を嫌う。誰もが魅了され、そして掬われる。久々に目の当たりにした強い色に、目を眇めた。でも俺はもう、昔の俺じゃない。こいつに助けてもらってばかりの、弱い俺じゃ……。
「……負けっぱなしは好きじゃないの」
一華の言葉に一樹は我に返った。前にも一度同じ言葉を言われたことがあった。小学生の時だったか、中学生の時だったか。こいつの負けん気は筋金入りだ。相変わらず可愛げがねぇな……。
「それにラクロスは、自分で面白くしていくスポーツだから。今更なんてないよ。ずっと、今から」
一華はソファに立てかけてあったクロスを、楽しそうに手の中でくるくると回した。
俺の知らない間にラクロスに出会って、俺の知らないところまで行ってしまった。こいつはこの先どこへ行くのだろう。この先、迷い、立ち止まることなんてあるのだろうか。どん底に突き落とされて這い上がれないことなんて、あるのだろうか。そういうとき、誰かに縋りたいと、思うのだろうか。誰に……。
「たまには、俺のことも頼れよ」
意図せず言葉が口を突いた。しまった。柄にもないことを言った。これじゃまるで……。
「いつも頼りにしてるよ?」
一華は大きな目を丸くして、屈託なく笑った。
この笑顔が、偽りのないものだと知っている。だが力になれた覚えは、一度もない。いっそ頼りにならないと罵ってくれた方が楽だ。
自分で言い出した癖してどうも情けない気持ちになって、そろそろ部屋を出ようと腰を上げた。
「もう帰るの?」
「へっ?」
突飛な声が出た。言葉通りでしかない一華の台詞を、一瞬にして都合のいいように変換した自分のおめでたい頭が恨めしい。恥ずかしさで、頬が熱くなった。
「?」
「あ……いや、仕事が、残ってるから」
しどろもどろに嘘をついた。
「ん。会えて嬉しかったよ」
眩しいくらいの笑顔で見上げられて、顎を引いた。どうしたらこう、素直に自分の感情を言葉に乗せることができるのか。妙なことを考えた自責の念と、対照的な瑞々しい表情に挟まれて、思考が淀んで長い溜息をついた。もういい。何したっていい。どこにいたっていい。いつまでも、その笑顔を失わないでほしい。……なんだそれ。
「また試合見に行くよ」
力なく笑い返して、一樹は部屋を後にした。
「……相変わらず忙しないやつだな」
残された一華はしばらく首をかしげていたが、考えるのが面倒になってランニングに出かけた。
ランニングコースがある都立公園まで走り、3km弱のコースを3週したところで大分息が上がってきた。公園は活気に溢れ、学校が終わった子供たちがふざけながらコースを横切っていく。散歩中の子犬が一華の周りをきゃんきゃん飛び周り、ごめんなさいね、と飼い主がリードを引っ張る。手入れの行き届いた木が生い茂り、木漏れ日が輝く。
立ち止まり、吹き抜ける風を大きく吸い込む。
新品のシャツの袖を引っ張り額の汗を拭いた。気温は随分下がってきたが10kmも走れば汗が止まらない。ジョギングで家まで戻ろうと公園をでたところで、右膝に痛み感じて顔をしかめた。
「徐々にいかないとな……」
車通りの多い大通りの歩道で膝をさすっていた一華を、何かが追い抜いた。ものすごい速さで過ぎ去り、そのまま歩道橋を軽快に登って行った。
一華はその後ろ姿を凝視した。
10年、いや20年、毎日毎日ばかみたいにあの後ろ姿を追いかけた。追いかけて追いかけて、競い合って、泣いて、またやろうと笑った記憶が、一華の青春の全てだ。
あの後ろ姿を見間違えるはずがない。
「伶歌!」
一華が叫んだ。
伶歌は振返らない。歩道橋を登りきると無駄のない動きでさっと角を曲がりそのままスピードを落とさず走り去った。人通りのある都心部を走るランナーのスピードではない。曲がった拍子に、その動きに合わせて翻す長いポニーテールは昔と変わらない。
一華は走った。後を追いかけて歩道橋を渡るより、奥の交差点を渡ったほうが早く追い付ける。
伶歌が歩道橋を下りてきた。
一華は、通りを挟んだ向かいの歩道を走る伶歌を大声で呼んだ。
「伶歌! 伶!」
一華の声は通りを走る乗用車に掻き消された。
横断歩道を渡ろうとすると、視野外から大型トラックが左折してきた。一華は驚いて後ずさり、ぎりぎりでかわした。
そのうちに信号が変わり停車していた車が走り出した。一華は信号を渡ることができず、さらに先回りしようかと、ぴょんぴょんと跳んで伶歌の姿を探した。
「あっ」
伶歌は角を曲がり、小脇に逸れた。そして人込みに紛れて見えなくなった。角を曲がるときにまた、美しい細髪を翻して遠のいた。
――痛いっての! 伶の後ろ走ってると髪があたって痛いよ! 髪切ってよ!
――うるさい。あたるのが嫌なら私の前を走ればいい。まぁ無理だけど
――このぉぉ。絶対追い抜いてやるからな!
学生時代、瞬発系トレーニングのタイムは伶歌がダントツでトップだった。何度競っても一華はいつも伶歌の後ろだった。ラクロスの技術の上達も、レギュラーに選ばれるのも、一華は伶歌のあとだった。それが悔しくて、1人で地味な練習を積み重ねた。
上級生に上がると急成長を遂げた一華は代表選抜にも召集されるようになり、その日本人離れしたパワープレーでラクロス界の注目を集めた。
それでも最後まで追い抜くことができなかった相手、それが伶歌だった。
「……伶、なんで、まだ走ってるの……?」
すでに伶歌の姿はない通りを見つめて、震える手でガードレールを掴んだ。
「ただいまぁ」
夜が更け、家に着くなり深雪は長い溜息をついた。予期しない仕事が舞い込み、終電間際にやっと切り上げ帰ってきた。
「……一華……? いるの?」
鍵は開いているのに電気も付いていない部屋の様子を訝しがり、そろりそろりとリビングに向かう。
ひんやりした部屋の中で、一華はローテーブルに突っ伏して寝ていた。長いまつ毛が月明かりに照らされて煌めく。テーブルの上にはここ4、5年の公式戦のBDが散らばっていた。
深雪はそれを見て神妙な面持ちになった。
「会ったのかな……」
開け放されていた窓を閉め、少し厚手の毛布を一華の肩にかけた。
「走って! あと2分で電車が来ちゃう!」
まだ日の出ていない白んだ空の早朝、最寄りの駅に向かい深雪と一華は猛スピードで走っていた。
「深雪、今日はどこで練習?」
一華は右手にバナナ、左手におにぎりを持って口をもぐもぐさせながら尋ねた。
「大宮!」
「え~!? ……それどこ?」
「おお~! ここどこだ!?」
一華と深雪は一面に天然芝が広がる公共グラウンドに到着した。手前にはサッカーグラウンド、奥には野球グラウンドらしいものが何面も並んでいた。朝の8時だというのに少年サッカーチームや草野球チームで広場は溢れかえっていた。
ラクロス専用のフィールドというものは中々存在しないが、大きさとしてはサッカーフィールドやラグビーフィールドと同程度のため代用して利用することができる。
「今日は、ぶへっ」
「イチさん! おはようございます!」
今日のチームのスケジュールを一華に説明しようとした深雪を押しのけて、光と千尋が一華に飛びついた。
「イチさん、聞いてください! 私、平日ずっと角度がない場所からのシュート打てるように練習してるんですよ! 今日打つんで見ててください」
「私も確実に勝てる1on1の方法考えたんです!」
「へぇ! 楽しみだなそれは」
押しのけられた深雪にどやされる光と千尋、そこに加わろうと走ってきた翠が躓きドリンクをぶちまけ一同朝から少年サッカーチームにも負けない賑やかさだ。
その様子を、土手の方から階段を下りてきた愛奈が見つめていた。
「今日はリトルクルーズとの練習試合と合同練習です! 今日が決勝前最後の練習なのでそれぞれ気を引き締めて行きましょう!」
主将の愛奈がチームに号令をかけた。LITTLECREWSは体育大出身の選手が多く所属する古参のチームだ。
公式戦は全て消化し終わっていても、シーズンの終わりは自分たちで自由に定めることができる。リトルクルーズはこの練習試合を今期の最後の練習とし、3カ月程度のオフ期間を設け、2月頃に来シーズンを始める予定だ。千尋と光はこのクラブチームの所属で、今日は対戦相手である。
リトルクルーズのメンバーたちがグラウンドに続々と集まってきた。
「全然、リトルじゃないんだね……」
筋肉隆々、肩がパンパンに張ったジャージを纏って登場した女たちを見て、一華が衝撃を受けた。体育大出身の選手たちは軒並み運動能力が高く、体躯も良い。
その中にラクロスショップの店員・志麻の姿があった。
「あれ!? 志麻!」
一華は志麻を見つけて嬉しそうに近づいた。
「クロス編み終わったよ。お客さん」
志麻は一華が先日購入したクロスを2本渡した。
真新しいクロスを受け取った一華はメッシュに拳を当ててぐりぐりと伸ばしたり、裏側からひっぱったりして仕様を確認した。ボールを収め、目の高さに持ってきてポケットの深さも確認した。
「さすが、志麻~。深さもハリもちょうどいい」
「こっちがドロー用」
「ん~結び目の位置も5年前と一緒! 覚えててくれたんだね。職人だわ。早く使いたいよ。もしかして今日試合出るの?」
一華が目を輝かせて聞いた。
「うん。リトルクルーズには知り合い多いから、ちょくちょく顔出して運動させてもらってるんだ。土日はお店があるから所属はできないけど、たまに休みのときはこうやって」
するとリトルクルーズの集団の先頭を歩いていた女性が、握手を求めて一華に手を差し出した。一華よりも4、5歳は年上に見える。
「あなたがあの有名な一華ちゃんね。一緒にラクロスできて嬉しいよ。私たち今年は負けちゃったけど、来年からはよろしくね」
「みんな強そう! 楽しみ!」
満面の笑みで握り返した。
「一華さんは、ベンチスタートです。体験入部なので」
やる気に満ちた一華に、サンベアーズのゲームリーダーが後ろから釘を刺した。
「えぇー!?」
「ただいまより、サンベアーズとリトルクルーズの練習試合を始めます。礼っ」
「「お願いします!」」
グラウンド中央に整列した各10名のスターティングメンバーが、審判の号令で互いに礼をし、それぞれのポジションに散っていった。フィールド中央に描かれているセンターサークル上には両チーム2名ずつ、計4名の選手が配置した。
「ドローセット」
審判を挟んでグラウンド中央にポジションをとったのは〈ドロワー〉と呼ばれる役割の選手だ。それぞれのクロスを重ね合わせボールを挟んだ。
ピッ
試合開始のホイッスルと同時にドロワーがクロスを動かしボールを弾いた。ボールはリトルクルーズのドロワーの後方に飛び、そのまま落下した。と同時にセンターサークル上に配置していた選手たちも、そのボールめがけて駆け寄った。
この〈ドロー〉と呼ばれる作業は、試合開始時にボールの保持を決めるために行うものだ。バスケットボールでいうところのジャンプボールと同様の意味を持つ。
グラウンドに落ちたボールをクロスに収めたのは深雪だった。ボールを収めたクロスの柄を相手選手に何度か叩かれたが、直線運動を使ってなんとか軸をぶらさずに走り抜けた。
「ん~。まぐれだな。深雪の近くに落ちただけ」
一華が口を尖らせてぼやいた。スターティングメンバーに選ばれず、むすっとした顔でベンチから試合を眺めていた。
ボールを保持した深雪はそのままの勢いで敵陣まで独走した。バスケットボールと異なり、ボールマンはフィールド上を何歩でも移動することができる。
深雪がゴールに向かって突き進むことで、相手チームのディフェンス陣の意識が深雪に集まった。
「それで愛奈にパスするんでしょ」
深雪は敵陣深く入り込むうちに、相手に走るコースを塞がれスピードを落とした。しかし深雪の勢いを止めるために人員を割かせたことで周りが手薄になり、ゴール前の愛奈がフリーになった。そこに深雪がボールをアシストした。
「でも追いつかれる」
ボールはきれいに愛奈に渡り、愛奈はそのままシュート体勢に入った。愛奈に守備はついていない。目の前のゴールキーパーとの一騎打ちだ。
ラクロスのゴールキーパーはホッケー等と同様に<ゴーリー>と呼ばれている。ゴールの周りにはサークルが描かれており、その円の中にゴーリー以外は足を踏み入れることができないルールだ。
愛奈はゴールの上部を狙い、クロスを振った。
誰もが試合開始早々、サンベアーズの先制点獲得かと錯覚した。しかしボールはゴールの枠を大きくそれた。クロスを振った瞬間に、何かが愛奈のクロスにあたり、振り切ってコースを狙うことを阻止したのだ。それは深雪の勢いを止めるために深雪に寄っていたDFの、クロスの先だった。すんでのところで手を伸ばし、クロスにクロスをぶつけてボールの軌道を変えた。
「チェイス走って!」
ゴールから大きくそれてフィールド外に飛んでいくボールを、何人かが追いかけた。ゴールに入らなかったシュートボールは、フィールドからでた瞬間に一番近くにいた選手に獲得権がある。
いち早くシュートが逸れたことに反応し〈チェイス〉を獲得したのは、リトルクルーズのDFの選手、志麻だった。これで攻守が交代した。
志麻は大きく振りかぶるとフィールド中央に向かってボールを投げた。40m以上のロングパスだ。ボールは高さを保ったままスピードに乗り、フィールドの半分近くに到達した。
「わお!」
ベンチにいる一華は感嘆した。
縦100mほどあるフィールド上で、どのようにボールを運んでいくかというオールコートオフェンスも、女子ラクロスの一興だ。しかし志麻のロングパスでそれはほとんど省略された。走って体力を消耗させる必要がなく、非常に効率的なプレー選択だ。肩の強さと遠投のコントロールに自信がなければまず選択しない。
志麻のパスを受けたのはリトルクルーズのOFの選手・光だった。サンベアーズのDFのマークが甘く、プレッシャーをいなした光は敵陣ゴールを目指した。サンベアーズが不利な状況の3on2となった。
千尋が光の前方を横切り、ボールを要求する動作を見せた。
それを見た光から千尋に、鋭いパスが渡った。ように見えた。千尋がキャッチする寸前に誰かのクロスがパスコースを塞いだ。翠だった。
「いただき」
「おぉっ」
一華が驚きの声を上げた。
千尋の代わりにボールを収めた翠は、千尋から遠ざかるように走った。これで再び攻守が交代した。
ピィ――――
突如ホイッスルが鳴り響き、試合は中断された。なんの反則ファールが起きたのかと一同辺りを見回した。
選手たちの視線を追うと、リトルクルーズ側のゴール前に愛奈が倒れていた。近くにいた面々が心配そうに集まり、足を抱えて蹲る愛奈を覗き込んだ。
「大丈夫? どこか怪我したの?」
先程シュートを打った拍子だろうか、足を痛めたようだ。サンベアーズにはトレーナーがいなかった。マネージャーがベンチから駆け寄ってきて愛奈の様子を確認し、グラウンドの外のベンチまで運ぶようにメンバーに促した。愛奈はグラウンドに横たわり、顔を歪めて呻きながら足首を押さえていた。一華はその様子をベンチから訝し気に見ていた。
しばらくして愛奈はメンバーに両脇を支えられ、片足でゆっくりと立ちあがった。
「深雪さん、いる?」
やや遠巻きに事態を見守っていた深雪は、名前を呼ばれて驚きの表情を浮かべた。「なに?」と愛奈に近づいた。
「多分病院に行くことになると思うので、あとの仕切り頼みます」
深雪はサンベアーズの副主将であった。
「えっ? あ、わかった……。気を付けて」
愛奈はそのまま仲間の肩を借りて、片足を引きずりながらフィールドをあとにした。
「えーっと、じゃあゲームリーダー、すぐに愛奈の代わりを決めて再開しましょう。相手を待たせてるから」
試合のメンバー采配を任されているゲームリーダーが、深雪の指示を受け、愛奈の代わりを探してベンチを見回した。
「そろそろ私の出番かな」
一華がずいと前に出た。
「あ、あ~そうですね。じゃあ愛奈さんのポジションで……」
一華はゲームリーダーの脇をすり抜けドロワーに近づくと、にっこり笑って肩に手を置いた。
「ドロー、変わってもいい?」
「わ、イチさんがドロー?」
「強引……好き」
センターサークルから少し離れたところで、千尋と、千尋にマッチアップしている翠が嬉々として話していた。センターサークル上に配置される選手以外は、ドローに関わることができない。
女子ラクロスにおけるドローの重要度は高い。ドローを獲得し、ボールを保持し、ポゼッション時間を長くすることは試合の勝敗に大きく影響する。ラクロスはサッカーやバスケットボールのドリブルと違い、ボールが保持者の身体から離れることがない分、ボールを奪うことが難しい。いわば、オフェンス側断然有利のスポーツなのだ。よってまだどちらのものとも決まっていないボールを獲得することは、勝率を上げる上で重要事項である。
「一華のドローって確か……」
深雪は大学時代の記憶を呼び起こして顔をひきつらせた。
背筋と肩の力で弾き飛ばすボールは、センターサークルにいる選手の頭上を越えて飛んでいくほど威力があった。ただしコントロールはまるでない。おそらく当時より数段パワーアップしているに違いない。
深雪は慄いて2歩後ろに下がり、センターサークルから離れた。
センターサークルに配置されている選手たちは、試合開始と同時にいかにそのラインから早く一歩を踏み出すか、で常に鎬を削っている。深雪にマッチアップしていたリトルクルーズの選手は、自ら不利な状況を作り出した深雪を見て不審がった。
「ドローセット」
審判に促され、一華とリトルクルーズのドロワーが構えた。
「ん?」
深雪が目を凝らした。5年前一緒にプレーしていた時とは構えのスタイルが違った。
ピッ
試合再開のホイッスルと同時に両者がボールを弾いた。ボールは真上に高く上がり、頂点に到達する前に、一華が左手で持ったクロスをいっぱいに伸ばして跳んだ。相手のドロワーも手を伸ばしたが遅かった。一華が片手で持ったクロスの先でボールを掴み、着地と同時に踏み込み、走り出した。
「さすが志麻の編んだクロス~。いい引っかかり!」
前方にマッチアップから離れた深雪を見つけ、深雪の走る先に鋭いパスを投げた。