1 3時間歩けば誰だってこける
目を開けば、そこは森の中だった。
さっきまで通学路を歩いていたはずなのに、瞬きをした瞬間景色は森の中。右を向いても左を向いてもあるのは木と草と変な形の岩だけ。新手のドッキリかと思い、カメラを探してみたり、スクリーンを手を伸ばして探してみるが何もない。ただ一人寂しく手を振った。
頬を撫でる風、揺れる木々、湿った土の匂い。普段は気にしないような事だが、今は嫌に生々しく感じていまう。
「(そうだ、スマホ)」
ブレザーのポケットからスマホを取り出しロックを開く。電源は付いたが左上にある圏外の文字。知らない場所、スマホも使えない。理解できない状況に春はその場に蹲み込んだ。
「うぅ…はあぁぁぁぁ」
絞り出すようにして何とか声を出し、落ち着こうとするが頭の中はパニックだ。
「(え?なんで?ここどこよ…え?え?)」
周りを見て、鞄を漁り、また周りを見て、スマホを見る。現実逃避をしたいがあまり、無意味な行動を何度も繰り返した。自分でもどうかしてると思うが、ただ状況が状況なだけに何をしたら良いかもわからない。
一通り持ち物を散らかし終わると、いくらか気持ちも落ち着いた。全て元に戻し、「ふんっ」と気合を入れて立ち上がる。
「(まずは川か人を探そう)」
いつかテレビで見たサバイバルをする番組で、森や山で遭難した時は水を探すのが大事だと言っていた。
どうやって自分がここに来たのかはさっぱりだ。そしてここがどこなのか、人里からどれだけ離れているかもわからない。希望は捨てるつもりはないが最悪も考えておかないといけない。人に会えなくても、水さえ見つかれば人は生きていける。
ただ現実はそう甘くなかった。入学祝いに買ってもらった時計を見れば、かれこれ3時間は歩いている。それなのに、人どころか川すら見つからない。
山ならば麓まで降りて行けはいいのだが、ここはどうも平地らしくほとんど高低差を感じない。歩いても歩いても木と草と変な岩。
ローファーは草で滑り、制服には虫や蜘蛛の巣が引っ付いて気持ち悪い。
「最悪…」
諦めかけた時だった。遠くから微かに聞こえる人の声。足を止めて耳をすませば、その声は少しずつ近づいて来ている。
「(助かった!)」
縋る思いで森の中を走る。微かに聞こえていた声は、次第に意味を持った言葉になってきた。
もう直ぐ助かるという、はやる気持ちを抑えられず口角が上がっていく。
「(ありがとうございます!…ベスターさん!…市川大佐!)」
番組でサバイバル生活を教えてくれた、二人の名前を心の中で叫んだ。何一つ役に立っていないが、それでも嬉しい。
はっきりと聞こえるようになった声は、怒っているようだが気にしない。この際助かるなら密猟者に間違われても、地主の頑固親父にどやされても幸せだ。
春は気付いていなかった。3時間歩いた自分の足が、限界を迎えていた事に。
拳代の小さな石を超えきれなかった右足は、前進する身体を支える事ができない。それでも前に向かう上半身は支えられる事なく落ちていく、加えて左足は地面を蹴り出していた。
「ブッッ…」
ズシャーーーー。
勢い良く迫る地面とランデブー。これだけ派手に転んだのは小学校の鬼ごっこ以来だ。
手をついて身体を起こせば、掌や膝がジンジンと熱くなる。生理的な涙が溢れて来た。
「(ヤバイ、痛いわこれ)」
初めてスカートを短く切った事を後悔した。
「なんだ貴様」
あれほど焦がれた人の声に、顔を上げれば軍服を着た三人の男。手には剣を握り、春のように地面に這いつくばる男を囲んでいる。
「(…………ん?)」
黒い軍服を着た三人の男が剣を持って一人の男を囲み、春を見ている。
「(……ん?)」
見たことのない黒い軍服を着て剣を持った男達が一人の男を囲み、鋭い視線で春を見ている。
「(コスプレ…?)」
「貴様、コイツの仲間か」
三人のうち一人だけ少し違うデザインの軍服を着た男が、視線だけ春に向けて言った。
さっきまで感じていた違和感は、何処かの彼方へ飛んでいく。黒に近い茶色の髪を短く切り揃え、端正な造りの顔をしたその男に春は見惚れていた。
「貴様…聞いているのか」
「えっ…いや!違います!そんな人知りません!」
慌てて否定したが、男は訝し気な表情をしたままだ。男の声は恐ろしいほどに低く、冷たい。
「(そんなに見ないでよ…)」
恥ずかしさと恐ろしさで、目を合わす事ができない。
しばらくして、男は納得したのか地を這う男に向き直った。その男は小さく悲鳴を上げ、頭を抱えて震えている。
「連れて行け」
男がそう言うと、残りの二人は這いつくばる男の腕を捻り、縛り上げた。男を連れて三人がその場から離れて行く。
「あ…待って!」
春の声に振り返る者はいない。まるで春の存在が最初からなかったかのように、彼らは歩いて行ってしまう。
「待ってよ!」
追いかけようと立ち上がるが、足が痛んでうまく歩けない。それでもなんとか彼らの後を着けていたが、次第に背中は小さくなり、木の陰に消えてしまった。
「(待ってよ…)」
体力も気力も既に限界を迎えていた。日も落ちているのか、森の中はどんどん薄暗くなっていく。彼らが消えた方角に進めているのかもわからない。
今まで感じなかった不安が、彼らに会って一度安心してしまったが為に春の足を重くする。本当にこのまま行けば人里に着くのか、家に帰れるのか、さっきの人達のあの格好は何だったのか。色々なものがゴチャゴチャになって喉に詰まって、うまく息ができない。
ダァーン!
突然銃声が森中に響いたと思えば、目の前に大きな何かがボトリと落ちた。暗くなっているせいでよく見えないが、それからは確かに獣の匂いと鉄の匂いがする。
得体の知れないものを前に、一歩後ろに下がる。そして今度は後ろから草と土を踏む音が聞こえ、地面に自分の影ができていく。
自分の肩を抱きしめて、ゆっくりと後ろを振り返る。
「キィィヤァァァァァァア」
何かを見たわけじゃない、ただ振り返った恐怖で思わず悲鳴をあげていた。まるでホラー映画に出てくる人形のように顔をカタカタと震わせて、今まで溜まっていたものを吐き出すように叫ぶ。
甲子園のサイレンのようにゆっくりと叫び声が消えて行けば、喉に詰まっていたものは無くなりスッキリする。スッキリしたら目の前の光に気付いた。その強い光に目を細めると、人の影が見える。
ゆっくりと近づいて来た影は、春を見て首を傾げた。手に角灯を持ち、肩に猟銃のようなものをかけた青年だ。春を頭から足先までじっくり舐めるように見ている。
「(な、なに…?)」
今度は自分があの男の人みたいに縛られる、そう思った。
だが、青年が発した言葉は予想外のものだった。
「お前、日本人か?」