あんずの祈り
猫が人になります、ご注意
「おーい、あんず、メシだぞー」
間延びした声で私を呼ぶ彼が、だらしないパジャマでリビングに現れた。
この屋敷で生活するようになって一ヶ月が経とうとしている。
今日は天気がよく、彼は変わらず部屋にこもりきりだが外に目を向けて「良い天気だな」と表情を緩めるくらいには気になるらしい。
私がこの屋敷で過ごす間、彼は私の食事を持ってくるようになった。
猫用の缶詰、カリカリ、栄養も取れるようにと果物や、庭で採れた野菜など。
私はそれらを貰いながら、ちらりと自分の食事を続ける彼へと視線を巡らせる。
油断しきっているためか視線が庭に向けられたままぼーっとしているようだ。
「みゃおん」
「ん……水か?」
鳴き声に反応して、私の前にある水用の皿が空だと気付いた。
立ち上がってキッチンへ向かう。
彼は、私のお気に入りの場所に植えてある杏の木から取って、私をあんずと名付けてくれた。
しばらく猫、猫、と呼ばれていたが、前に家にやって来た男に「飼うなら名前を付けなさい」と言われて付けてくれたのだ。
それからはその男が事あるごとに家へ来て私用の皿や、トイレ用の砂、猫用品で部屋を満たし始めた。
それについて怒ることもなく、ありがたいと礼を言う彼と男の関係とは?と、私は毎回首を傾げる。
そして私もお礼とばかりに肉球を好きに触らせてあげていた。
部屋の中は相変わらず汚いままで、私に人間の背と腕や脚があればお片付けしてあげられるのにと、最近は特に思った。
この家の中で綺麗なのは、彼の部屋のみ。
二階の端にある部屋でその中は綺麗に整頓されていて、家の中でも別世界のようだ。
最近では庭で寝るのは暑いだろうと部屋に入れて貰っていて、彼のベッドへ潜り込む毎日。
朝寝坊助な彼の頬を舐めて、くすぐったそうに笑う彼におはようと言って、彼がカーテンを引くと1日が始まる。
そんな穏やかな時間が流れつつ、私はやっぱり彼の事が少しだけ心配になる。
前に来た男が家を出入りするのは、私がこの家に来た一ヶ月の間で4回だ。
やはり他の人間は出入りしていない様子。
この辺りの猫達は私がこの家に飼われたと知ると驚いたように聞いてくる。
実験の為に私を飼ったのでは?夜な夜な毛をむしられたりしていないか?太らせて食べる気なのでは?とか、失礼な事が多いが。
しかし彼はそんな事はせず、部屋の中で書類とにらめっこの毎日だ。
ハンコを押したり、サインしたり。
そして書類を見て唸ったり。
たまに日が昇るまで書類とにらめっこをしている時もある。
そんな時は私がぺろりと頬を舐めて、働き過ぎだと忠告してあげるのだ。
たまにすごくすごく黒い液体を飲んで夜を徹して書類とにらめっこする時もある。
そんな時は膝の上で癒しを届ける事もあった。
たまに眉間にシワが寄っている時は腕にすり寄り、唸り始めたら手を止めるようにその手に抱きつく。
彼はそんな私に苦笑して「ありがとう」と言ってくれた。
優しい人。
いつしか、私は生前願ったあの神様への祈りを思い出した。
もし私に人と同じ腕や脚があれば、もっと彼を助けてあげられるのに。
その願いは日増しに高まって行く。
私は満月の夜、未だ机の上で唸り続ける彼を横目に、祈りを捧げる。
神様、どうかお願いします。
私もこの人と一緒に死にたい。
もう見届けるのは嫌なの。
すごく優しい人だから、きっと全てを抱え込んで真っ黒な闇の中に落ちて行ってしまう。
そんな時は側に居てあげたい。
彼が暗闇に囚われない様に、隣に居てあげたいの。
満月を見上げながら、私はこの祈りが届く様にと祈るのだった。