十二月 前原 朝子
賭けたのはお金じゃない。たぶん男のプライド。
きっかけはある日の放課後。
だいぶ冷たくなった外気。図書室に行くための渡り廊下は外壁がないからかなり寒い。ってか痛い。風が頬に当たる度、私は白い息を吐いた。
すると、後ろからパタパタと駆けてくる足音。見ると仲林君だった。
「あれ、部活は?」
「期末発表になったろ。だから明けるまで休みなんだ。」
仲林君とはあれから何だかんだと仲良くなった。お互いある部分で尊敬しているからなのか、性格が合うのか。恋愛関係のない男女間を保っている。そういうのっていいよね。
図書室で望と真紀に勉強を教えるということを話すと、仲林君も参加を申し込んできた。まぁ一人二人増えても大して変わらないので、了承して一緒に机を囲むことになった。
図書室の大机を挟んで向こうに望と真紀と仲林君、こちらに私と、三対一でお見合い座りをしている。わからなくなったら私に聞くのだ。
に、しても。彼の頭がこんなにも悪いとは思わなかった。この人って野球だけできる人だったんだ。あれだ、野球馬鹿?
仲林君は頭を抱え、頻繁に質問をしてくるのだ。数学や理科は得意らしいが、それでも平均点をようやく超すくらい。それって得意とは言わないよ。
次に頭悪いのは真紀。まぁ赤点は取らないけどギリギリのライン。得意科目は保健体育と日本史。成績は常にど真ん中。
望は比較的頭がいい。学年で二六八人中いつも二十位前後に入ってる。これまでの最高位は十番。あれは確か一年の・・・
「人の勉強見てやるなんて、ずいぶん余裕だね。」
思い出そうとしたその時、背後から声をかけられた。振り返るとそこに立っていたのはB組の委員長。
「あ、井倉君。久しぶり。」
井倉君は一年の時に文化委員会で一緒だった。特に親しかった訳ではないが、お互い成績上位者という共通点のためか話す機会は多かった。少しくせっ毛。顔は結構格好いい。スタイルもよく、スポーツ万能、頭までいいのだから女子からの人気は必至だ。ただ、私は彼の目があまり好きではなかった。貪欲というか、ギラギラした目。これだけの才能を持ちながら、まだ上を目指している。上昇志向は良いことなのだろうけど、私は少し苦手だ。
すると今度は、
「仲林、ノート・・・」
ツンツン頭の背の高い生徒が入ってきた。井倉君よりも一回り大きくてしっかりした体が、こちらを見つけて驚く。
「前原さんと付き合ってんのか?」
「ちがーーーう!」
安易すぎるって。仲林君が慌てて否定した。隣では真紀がなぜ自分たちではないのかとぼやいていたのには笑えたけど。彼も確か野球部だったはず。名前はたぶん館君。
すると、隣にいた井倉君が私の肩にポンと手を置いて爽やかにニッコリ笑いかけてきた。ほら、これ。偽物の笑顔。
「じゃ、僕行くよ。期末は抜かせてもらうね。」
井倉君は野球部二人を見ると、嫌な形の口で笑った。
「甲子園でツーアウトから逆転サヨナラくらったバッテリーなんかとつるんでたら成績落とすよ、前原さん。」
ブツッ。
野球部の二人より先に、私が切れた。
部屋を出ていこうとする彼を呼び止める。彼はまた作り物の笑顔でこちらを振り返った。その瞬間、彼のおでこに消しゴムが当たる。野球部が投げた物ではない。私が投げた消しゴムだ。
「情けない。それくらいキャッチしなさいよ。」
すると、望も参戦してきた。
「確かに、高二の男子にしたら情けない態度ね。」
さらに真紀。
「っていうか一度も朝子に勝ったことないくせに偉そうにしていることが情けない。」
三人もの女子に立て続けに『情けない』と言われては、さすがの井倉君も肩を落とす。いや、迫力負けしたのかな。仲林君達も少し縮こまってた。
井倉君は素早く復活して、反論してくる。
「なら、勝負しようじゃないか。僕と彼ら、どちらが情けないか。」
「勝負って・・・期末でつける気?それはいくらなんでも・・・」
野球馬鹿対成績上位の常連。試合をする前に勝負はついている。
「五〇番。」
「は?」
「彼らが前期末から五〇番上げれば二人の勝ち。だが無理なら僕の勝ちだ。」
あぁ、それならありかな。
「いいわよ。」
私が了承すると、野球部両名が嘆く。
「勝手に決めるなぁ。」
無視だ、無視。こんなおもしろいこと、やらずにいられますか。でもこういうのってやっぱり・・・
「ね、罰ゲームとか決めない?」
私の提案に、男達は固まった。代わりに望と真紀が乗ってきて、あれやこれやと案を出す。その中での真紀のアイディア。
「逆モヒカンってのは?」
逆モヒカン。つまりモヒカンの逆で、頭の真ん中ラインにボウズ地帯が伸びるスタイル。ヒーローでも完全男でも、そんな姿は、
「おもしろいね。それ決定。」
するとすかさず仲林君。
「だから勝手に決めるなぁって。」
まるで漫才の突っ込みのように、絶妙のタイミングで反対した。他の二人は呆気に取られて何も言えないようだ。
でも、こんなおもしろいこと。彼らだけ味あわせるなんて癪だな。
「ねぇ、私たちもやろうよ。」
井倉君に尋ねてみた。別に逆モヒカンがやりたいわけではない。だけど、なんだか参加したくなった。今まで何となく一番を取ってきたけど、本気でやったら私はどれくらい力が出るのか。急に試したくなった。相手が井倉君なら申し分はない。そして井倉君も、頷いた。こちらの勝負の方が彼も楽しみなようだ。
「何を賭ける?」
「そうね・・・じゃ、お互いの秘密は?」
「・・・わかったよ。勝負だ。」
作り笑いじゃない。憎々しい、彼の中から出た嫌みな笑顔。私はこの顔の方が好きだ。その笑顔を置いて、彼は部屋を出ていった。
野球部のエースとキャッチャーが私に泣きついて来たのは言うまでもない。
彼は私以外に負けたことがない。
彼は私に勝ったことがない。
それから試験までの一週間はスパルタだった。朝早くに集合して、徹底的に指導。それだけでは足りず、仲林君と館君は休み時間ごとに私の所へ訪ねてくる。放課後はA組に集まって勉強会。
聞けば。
二人は本当に頭がいい方ではなかった。仲林君に関して言えば、本当に馬鹿だった。
館君は前回二六八番中一六四番。まぁ真紀と似たり寄ったりの成績。数学だけは群を抜いていい。その代わりに文系がボロボロ。でも要領がいいので、教えたことをすぐに覚えていく。基本的な部分でこの人頭いいんじゃないだろうか?
救いようがないのが仲林君。前回は何と二百番台。何度教えても覚えてくれない。何て教えがいのない。苛め甲斐は充分にあるけど。
真紀と仲林君は同じC組ということもあり、自習時間などは一緒に試験勉強をしたらしい。私が教室にいない時は望が代わりに二人に指導していた。特に望と館君はツッコミとボケ役で馬が合い、勉強以外でも話すようになった。
そんな感じで私たち五人は仲良くなっていった。そこに青春に付き物の恋愛なんてものはないが、いつの間にか居心地のいい空間ができたのだ。
「今回も期待しているんだが・・・」
職員室に呼ばれたのは、別に悪さをしたからではない。説得のようだ。
放課後の職員室は蛍光灯が眩しかった。外はもう暗い。冬で陽が短いから、逆に部屋が余計に明るく感じる。
「ご両親との話し合いも上手くいってないようだし。」
担任の今雪先生は柔道部の顧問。その太い指を弄びながら、続ける。
「まだ二年生だし、俺としても前原自身を応援したいのは山々なんだが・・・」
四三歳の貫禄あるベテラン教師には似合わない口ごもり。歯に衣を着せて着せて、暑苦しいくらいだ。
「電話があってな。親御さんは美大受験をやめさせて欲しいと・・・」
今雪先生は大きく溜め息を着いた。その巨体を縮込ませて。
この期末が終わるとあるプリントを提出しなければいけない。進路調査のプリントだ。それによって来年のクラスが決まってくる。進学組と就職組。進学組でもさらに難関大学組に分けられたりする。先生はそのこともあって私に話しているのだろう。
「どう転んでもいいように、一応難関大組に希望を出しておいて欲しいんだ。いや、もちろん決めるのはお前だが、家族とも色々あるだろうから。それで今まで通り、美術の世田先生に指導してもらえばいい。な。」
教室に帰る足取りは重かった。
秋に自分の進路を自分で考えて自分で決めた。それを叶える覚悟をしたはずだった。努力も惜しんでいない。学校では毎日世田先生の所へ通い、家では毎日『女の幸せ=結婚』の両親と論争し。両親は言う。゛絵なんかやって何になる?゛彼らにとって絵は゛なんか゛なのだ。自分の親達のことは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。だけど自分の物差しでしか物事を測れない彼らが、今はたまらなく煩わしい。
「怒られたのか?」
嫌みな笑みを帯びて、二番が近付いてきた。手には鞄を持っている。もう帰るだろう。
「何で?」
「しわ。」
井倉君は自分の眉間を指で押して笑った。気づかないうちに私は不細工な顔をしていたらしい。
「一番なんて取らなきゃよかった。」
毎回二番の彼に言う台詞じゃなかったかな。きっと嫌みに聞こえて、不快になるだろう。
だが、意外にも彼はただ笑っただけだった。得意の嫌みな顔でも作り笑顔でもなく、ただ笑っただけだった。
「贅沢だな。だったら譲れよ。」
言いながら、階段の方へ行く。つい、私も並んで歩いた。
「やだ。負けるの嫌いだもん。」
すると、彼はまた笑った。何て自然な表情だろう。もしかして今の状況が楽しいのかな。
一年の時から彼はいつも一人だった印象が私にはある。頼りになる委員長で、女の子からもモテて。周りに人が集まってはいたけど、心は一緒にはいなかった気がする。まぁ、こんなこと本人にしかわからないけど。
急に、彼は足を止めた。窓の外を眺めている。一緒になって覗くと、薄暗くなった一階の渡り廊下でキャッチボールをする仲林君と館君がいた。
見つめる井倉君の横顔は、彼らよりもっと遠くに向けられている気がした。
「・・・何で一番にこだわるの?」
驚いたようにこちらを振り返ると、彼はまたあの嫌な笑みを浮かべる。
「秘密。」
そう言い残すと、井倉君は階段を下りていってしまった。
窓の外の二人は白い息を吐きながら、それでも楽しそうだった。
そして期末を迎え、終わって、結果を待つのみとなった。
恒例となっている、昇降口の掲示板。今日も見てみると生徒が群がっている。いつもは素通りする私も、今回ばかりは気になった。
上位十名。その中に私と井倉君の名前はあった。そしてその位置は・・・
「げっ。前原って三点しか間違ってねぇの?」
誰かが言った。
そう。私たちの位置は相変わらず。
彼は私以外に勝ち、私だけに負けていた。
その後、教室でも成績表が返された。
ちなみに。
望は十四番。好成績。苦手の数学も、得意の古典でカバーしていた。
真紀はといえば一二三番。綺麗に数字を並べたものだ。
今日は午前中で授業が終わった。そして放課後、私は井倉君と待ち合わせた。賭の商品を貰うためだ。
グラウンドでは運動部が練習を始めていた。屋上では吹奏楽が音を鳴らし、音楽室からは合唱の声が聞こえる。部活解禁だ。
私たちはグラウンド沿いを歩きながら、成績表を見せ合った。
「完敗。」
彼は笑って両手を上げる。
「じゃ、秘密。教えて。何で一番にこだわるの?」
「・・・そんなのでいいの?」
そう言いながらも、彼の目は暗かった。話したくないことなのかもしれない。いや、そうなのだろう。でなければ秘密になんかしない。
「一番になりたいからさ。」
「?」
「僕、養子なんだ。名前継がせるために、叔父の家に入ったんだ。」
思いもよらない、予想以上のショックがあった。聞かなければよかったと、少し後悔した。そして彼の作り笑顔の理由が理解できた。そりゃ人に疎まれるのは怖いだろう。
グラウンドでシュート練習をするサッカー部を眺めながら、彼はそこにあったベンチに腰掛けた。
「僕もね、子供の時スポーツやってたんだ。サッカー。結構上手かったんだよ。足も早い方だし。」
あぁ、好きだったんだな。そう感じるほど、彼の目は輝いていた。だが、すぐにあの暗さを帯びる。
「でもいくら頑張っても努力しても一番にはなれなかった。」
その一言は、今の私には他人事には聞けなかった。思わずギュッと、拳を握ってしまう。
「努力は必ずしも報われるとは限らない。ある程度の相性がいるんだよ。」
彼は真っ直ぐに前を向いて、力強い声で言う。「一番にならなきゃ、養子の僕は両親に認められない。だから得意で相性のいい勉強を頑張って、中学では首席になったんだ。」
この人はパーフェクト人間じゃない。すごい努力家だったんだ。しかもそれを人に悟られることなく、当然のようにして。
「認められたってわけか。」
「いや。」
え?
「それでも両親は振り向かなかったよ。」
・・・・。
「だから僕は認められるまで一番を取り続けなきゃいけない。」
「好きなことを我慢してまで?」
「勉強が好きなことなんだよ。」
本心が読めない笑顔で、彼はそう答えた。たぶん、好きなのは本当なんだろう。だけど、何かを捨ててきたのも事実だと思う。ひとつはっきりわかったことがある。彼は親に認めて欲しいんじゃない。振り向いて欲しいんだってこと。愛して欲しいんだってこと。
彼は上手く隠して喋っていたんだろうけど、自分で口にした。『認めなかった』じゃなく『振り向かなかった』と。
「あ。」
井倉君がグラウンドに何かを見つける。見てみると、仲林君と館君。
ん?
よく見ると、仲林君の頭・・・
「おう!」
館君がこちらに気が付いて手を振る。それに仲林君もこっちを向いた。と、すかさずその頭を隠す。なんと仲林君の頭はボウズになっていたのだ。
「こいつも頑張ったんだし、ボウズで勘弁してやってなぁ。」
楽しそうに言う館君。
野球部の部室には常にバリカンが置いてあるというのを聞いたことがある。まさか今日のうちに刈るとは・・・
「・・・だって。どうする?」
「いいさ。認めてやるよ。」
そう言って井倉君はベンチを立つと、
「今度は模試で戦おう。」
と言って背を向けた。
私は、言っておきたかった。
「私はあんたのこと認めてるからね。」
嘘じゃない。対等に戦えるのは、彼だけだ。成績も、きっと今の状況も。
井倉君はあの得意な嫌みな笑顔をして見せた。
「嬉しくないよ。」
ちなみに。
館 164番→91番(七三番上げ)
仲林 202番→一58番(四四番上げ)