十一月 辻本 望
鬼の霍乱。だから鬼じゃないって。
昇降口で二人を見つけて、声をかける。
「おはよう。」
私の声に、二人は驚いて、というか何者?誰?みたいな目で振り向いた。
まるで喉でアヒルを飼ってるのかって言うくらいのガラガラ声。風邪なんて久しぶりにひいたわ。マスク姿の私に、朝子と真紀も若干引いてた。来るなよ学校、みたいな。でも熱はないし、体は何ともないから。それに。
「期末近いし、無理しないほうがいいよ。」
それ。授業とばしたくなかったのだ。私は理由あって成績を落とせないから。それは朝子との約束でもあるんだけど、まぁこいつは覚えてないだろう。
「私が無理するわけないわよ。」
一生懸命とか、はまるとか、縁がない言葉。
「それに風邪って言っても喉と頭もちょっと痛いけど、それだけ。体は何ともないから。」
「そ?ならいいけど。」
そう言って、朝子は美術室へ向かった。本格的に美術の先生に指導してもらうらしい。この朝の時間も、美大受験対策に当てられた。真紀も宿題をやっていないと自分のC組に戻った。
ホームルームまでにはまだ時間が大分ある。私は音楽室へ向かった。暇つぶしの手段として、私はよく音楽室を使っていた。
喉の痛みよりも、苦しいことがある。ただひとつ。
音楽室に行くと先客がいた。ドア付近からはピアノの屋根が邪魔して顔は見えなかったが、その音色が響いたことで誰かがいることに気が付いた。
「誰?」
かすれて聞き苦しい声で尋ねると、ピアノの向こうで影が立ち上がった。
「あんたこそ誰?」
男の声だった。低いけど透き通った声。
「二年A組の辻本望です。けど。」
「風邪かい?」
眼鏡の奥の瞳はクールな印象。
その男はこちらへ来ると、ニコリともせず、
「お大事に。」
と言い捨てて出ていってしまった。
その姿を見送りながら、何となく見たことがあるのを思い出した。確か三年生だったような。名前は知らないけど。
まぁいいか、とピアノへ行くと一枚のスコアが置いてあった。あの人の忘れ物だろうか。スコアは手書きで、おそらくオリジナル曲。
そしてそのタイトルは『HOPE』───
休み時間、仲林がうちのクラスにやって来た。なんだか先月あたりから朝子と友達になったらしく、結構顔を出すようになった。それきっかけで私も友達になったんだけど。
「よ。風邪引いたんだって?」
「朝子なら今いないわよ。トイレ。」
「べ、別に前原さんに会いに来たわけじゃないよ。英和持ってる?」
会いに来たくせに。辞書ならもっと近くのクラスに借りれるだろう。わかりやすい男だ。まぁその根性を称え、英和辞典を貸す。
すると、朝子が戻ってきた。朝子は軽く挨拶をすると、ハッと思い出したようで手を合わせた。
「ごめん、まだ絵できてないんだ。」
あぁ、確か野球部の記念誌の表紙を頼まれたんだっけ。その辺りで何かあったのか、朝子は吹っ切れたようだ。
私は今の朝子が好きだ。前よりもずっと活き活きしている。
「三年生もあと三ヶ月しかないんだね。」
「学校来る日にちは三ヶ月切ってるだろ。」
「私らも来年三年生かぁ。」
朝子の何気ない一言。きっと朝子じゃなくても、二年生なら誰もが一度は口にしたり考えたりすること。来年は三年生。受験。卒業って。
流れていく時間。
この制服を脱げば、例えば蝉のように、成虫になって空を飛べるのだろうか。
昼になると熱まで出てきて、ちょっと辛くなった。午後の授業は体育と得意の現国だったので、早退することにした。
そのまま病院に行き診てもらって薬を受け取り、真っ直ぐ家に帰って寝るつもりだった。んだけど・・・今日は水曜日。一週間のうち新譜が一番出る曜日だ。帰りに馴染みの音楽ショップに寄るのが日課になっていて、つい足がそちらへ向いた。
少し古くて小さい『新譜堂』。ここの店長が目を付けた曲は八割当たる。入荷するCDやレコードも、店長が選んだ物。だから色んなタイトルがあって、ここへ通う年齢層も幅広い。
「風邪か?」
私のマスク姿に、第一声がそれだった。無造作に生やした髭を掻きながら店長はコーヒーを出してくれた。レジの脇に座れるように椅子が置いていて、私はいつもそれに腰掛けて店長といろんな話をする。もうすぐ半世紀を迎える店長の話はおもしろく、また深かった。
「ひでぇ声だな。しばらく歌えないんじゃないか?」
「ま、ちょうどいいかな。もうすぐ期末あるし。」
「二年生だろ?大学行くのか?それとも歌やんのか?」
頂いたコーヒーを、飲んだ。暖かかったけど、少し苦かった。
好きなものは、好き。
好きな物を我慢していた朝子も、心には逆らえなかった。私は我慢なんてしてない。やりたいことをやるだけ。だけど・・・
翌日。薬のお陰か熱も下がり、マスクも取った。未だ声はアヒル声。
朝、また私は音楽室に行った。もしかしたら昨日のあの先輩がいるかも。
ドアを開けると、予想通り先輩はいた。昨日と同じようにピアノを弾いて、私に気づいて、立ち上がって、こっちに来る。
私は一枚の紙を差し出した。昨日拾った、あのスコアだ。
「・・・君が拾ってたのか・・・」
驚いたような、何だか照れてる?ような複雑な表情で先輩はそれを受け取った。眼鏡で見えにくかったけど、昨日よりも温度を感じる目だ。
「それって先輩が作ったんでしょ?『HOPE』って。」
「あぁ・・・」
「だっさいタイトル。」
思ったままを口にすると、多少なりともダメージを受けたのかそっぽを向いた。何だか子供みたいだ。
私はピアノに付いて、少し指を慣らしてから曲を弾いた。その音色に、先輩はゆっくりとこちらを振り返る。私の指が奏でたのは、先輩の曲。
──────『HOPE』
゛希望゛と呼ぶには、悲しすぎる音。
弾き終わってから、何となく雑談することになった。ホームルームの時間は過ぎてたけど、もうサボってしまえと思い切れる時間だった。私はピアノに着いたまま、先輩はピアノに背をもたれ掛かけて。お互いに顔を見合うことなく、会話は進んだ。
「僕はもう進路が決まっていてね。楽なもんだよ。」
「いいですね。音大ですか?」
すると、少し間をおいて返ってきた。
「いや・・・行きたかったけど無理だった。」
私は先輩を見た。後ろからだからちゃんとは見えなかったけど、かろうじて見えた狭い横顔は少し陰りと悲しみを帯びていた。
「タイムリミット。僕らの時代は限界を知る時代だよ。時間と力の限界を最近突きつけられたんだ。」
無理に上げたテンションで声を発したのがわかった。あぁ、悔しかったんだろうな。何かを吹っ切るように天上を見上げるその姿は、少し心が痛んだ。
「君のライブ、見たことあるよ。」
「そりゃどーも。」
いきなり話を変えたな。でも。ふぅん。私のこと知ってたんだ。
「激しくて荒々しくて。自分が゛生きてる゛ってこと思い出させてくれる。そんな声だ。」
・・・びっくりした。言葉がなかった。自分の歌を聴いて、そんな風に感じる人がいたんだ。私の声が、ちゃんと人の中に入っているんだ。・・・素直に嬉しい。
「ありがと。」
キーンコーンカーンコーン。
予鈴が鳴る。もう行かなきゃ、と席を立つと、先輩は私にファイルを差し出した。中を見ると何枚ものスコアが。全部手書き。つまり全部先輩の曲。
「やるよ。」
「え。」
「・・・いつか、詞を付けて歌って欲しい。いつか・・・」
背中を向けたまま、先輩は言った。
きっと恥ずかしいんだ。私はそう単純な考えで、笑いながら先輩を見た。
「じゃ、その時はちゃんと聴きに来なさいよ。」
「あぁ、行くよ。きっと。必ず。」
私はポンと先輩の背中を叩いて、教室を出た。ドアの所で先輩を振り返ってみたけど、まだ彼はそこにいたまま。
先輩はずっと、私を振り返ることはなかった。
また少し頭が痛くなって、三時間目を保健室で過ごすことにした。三時間目は苦手の数学だから、後で朝子にノート見せてもらわないと。
保健室に行くと、先生はいなかった。ベッドにも誰もいなかったので勝手に寝ることにしよう。一応利用者名簿に名前を書く。と、どこかで聞いた名前があった。誰の名前かは思い出せなかったけど、何だか胸に引っかかる。まぁ、いいか。思い出さなくてもさほどの影響はないだろうし。
ベッドに倒れ込むと、ゴロンと天上を見上げた。あぁ、ボーっとする。熱が上がってるのかな。
それにしても。
『HOPE』か。ださいよね。何でこんなタイトルにしたんだろう。また今度会ったら聞こう。そういやまだ先輩の名前聞いてないや。それもついでに聞こう。
ーHOPEー
希望、望むこと。
私は望みなんてない。そう思い込みたかった。゛ただ歌だけあればいい゛
それ以上望んでしまうと、自分が傷つきそうだったから。
もっと。もっと。もっともっともっと。
徐々にライブハウスは大きくなり、少しずつチケットの枚数が増えていく。
それでも。
もっともっともっともっと。
けれど、もう一人の自分がブレーキをかける。
゛歌なんて先が知れてる。現実を見ろ。゛って。だから、歌だけあればいい、と思い込ませてる。どうせ手に入らない物なら傷つく前に諦めた方が痛くない。なのに。
「ララ・・・ラ・・・あれ・・・」
歌わすにはいられない。
喉が痛いのに。まだいい声も出ないのに。私は自嘲して、頬を流れた水滴に気づかない振りをした。
私の熱は、下がることを知らない。
先輩が亡くなったのは、それから五日後のことだった。誰かが死んだ、なんてニュースはすぐに噂で広まる。私も、先輩のファンだった子が話しているのを聞いたのだ。その頃には私の風邪も姿を消していた。
先輩は治らない病気を抱えたらしい。本人の希望で学校に来ていたが、五日前に容態が変わり入院したのだという。
そう。スコアをくれたあの日。約束をしたあの日、彼は倒れたのだ。
私はまた一人、音楽室に顔を出した。先輩が出てくる、とかそんな子供みたいなことを思ったわけではない。ただ、なんとなく、足が向いただけ。
放課後の音楽室には、誰もいなかった。合唱部はどうやらお休みの様だ。さっきまで誰かがピアノを触っていたのか、蓋が開いたままになっている。白い鍵盤が夕日に染められ色を変えていた。
「・・・嘘つき。」
私は声を出した。腹から出して、歌った。先輩の言う、生きていると気づかされるこの声を振り絞って。
彼は制服を脱ぐ前に遠くの空へ飛んでしまったんだ。
諦められない夢。
諦めてしまった夢。
諦めるしかなかった夢。
あの人はどんな気持ちだったんだろう。
未来を何となく察してしまっても、望んでしまう自分好みの明日。
制服を脱いだって人間は空を飛べない。
だから。
一生懸命土を踏んで歩くんだ・・・・
歌い終わって、ふとピアノを見た。笑うだろうか。それでもいい。私には見えた。初めて見る優しい笑顔で、手を叩く先輩の姿が。
結局、『HOPE』って彼の生きる希望ってことだったのかなぁ。スコアを眺めながら、お昼を食べて思わず呟いた言葉。すると朝子から思わぬ仮説が立てられた。
「・・・それって望へのラブレターだったんじゃない?」
「うん。私もそう思う。」
真紀まで。は?何で?ただの譜面じゃない。隅々を見ても『好きです』なんて言葉は綴られていなかった。そんな様子を見た二人は、顔を見合わす。
「だって。」
真紀が譜面のタイトルを指でなぞる。
「HOPEは希望、つまり望むってことで・・・望のことだもん。」
また、声が出なかった。風邪はもう治ったのに。二人はなんて大胆なことを考えるのか。
でも・・・
もしそうだったとしたら、彼は狡い。卑怯だ。こんなの残すだけ残して逝くなんて。まぁ真意はもうわからないけど。そしてホントにそうだったとしたら・・・
「・・・やっぱりダサイ。」
告白の仕方も。曲のタイトルも。