青天の霹靂
蝉の鳴き声が、耳鳴りかマイクのハウリングのようだ。
「焦げる……。」
藤春磨人はひとりごちて、右腕で太陽をさえぎる。
夏は好きだが、この陽射しは、いっそ凶暴とも言えた。
――こんな中に五分も立っていたら、佐里なんか溶けちまうな。
氷の女王。
だれがよび始めたのか、気づいたときには、二年E組中に広まっていた。
真原佐友里はどこか超然とした雰囲気を持つクラスメイトで、ヘアスタイルやメイクの出来で一喜一憂する多くの女子と一括りにしようものなら、ひとにらみで首をはねられそうな迫力がある。
成績優秀、品行方正。染めたことも巻いたこともないだろう髪を背に揺らし、颯爽と歩く姿は、思わず道をあけて目を伏せたくなるほどに、女王陛下然としたものがある。
とはいえ、真原佐友里は近づきがたくはあるものの、冷ややかな気性でも態度が特に冷たいわけでもなかった。
実際磨人は、自分こそが彼女と最も親しいうちの一人であると自負している。
――まさか、日なたで待ってるわけ、ないよな。
クラブ棟の前で待ち合わせのはずだったが、そこに彼女の姿はなかった。
磨人はひとしきりきょろきょろし、ピロティを行ったり来たりし、クラブ棟の玄関をのぞきこんでやっと、靴箱横の掲示板をながめている彼女を見つけた。
「佐里!」
「ああ、藤春。」
ふり返ると、彼女の髪がゆれた。幻聴だとわかっているが、しゃらりと涼しげな音が聞こえた気がする。
「すごい汗。わたしを探しまわったの? よんでくれたらよかったのに。」
スマホをかかげられて、ようやく「そうだった」と思い至った。
「でも、まあ、すぐに見つかったから。」
「ごめん。こっちで待ってるって、わたしのほうから連絡すればよかったな。あの凶悪な陽射しの中でじゅうじゅう焼かれるのは、バカみたいだと思ったんだ。」
「うん。おまえが原形をとどめててよかったよ。」
「原形?」
「いや、こっちの話。」
氷の女王だから溶けると思った――などと、口にしたなら確実に呆れられるだろう。
「で、用事って何?」
まっすぐに見上げられ、磨人は決まり悪くなった。
彼女は小柄というほどではないが、身長のある方ではない。氷の女王とささやかれる特有の雰囲気のため、長身のような、高いところから見下ろされているような錯覚を覚えるのだが、実際は磨人より二十センチも低い。
しかも、たいがいの女子なら磨人の目をぶしつけに見ることはない。はにかむなり、まぶしそうに目を細めるなり、視線をさまよわせるなり……まあ、そういうものだ。
とにかく、虹彩の筋を数えられそうなほどに直球な彼女のまなざしは、磨人を後ろめたい気持ちにさせた。
もっともそれは、彼女の視線のせいではなく、彼がもともと後ろめたい用事を抱えていたからにちがいないのだが。
観念して、磨人は腹に力を込めた。
「佐里は、相馬秀介を知ってるか?」
「知らないほうが稀少だよ。」
彼女はうなずいて、窓越しにテニスコートのほうを指さした。
「あの黒山の人だかりの発生原因。ちがう?」
「……ちがわない。」
相馬秀介は、東花高校随一の有名人だ。有望なテニスプレイヤーとして、中学時代からメディアにも注目され、今もたびたび取材が入る。
そのネームバリュー、且つ容姿端麗――騒がれないわけがないのだ。
彼がコートを使う日は、必ずと言っていいほど見事な人垣ができあがる。東花の生徒でありながらあのフェンス前に足を運んだことのない女子は天然記念物扱いで、天然記念物でなければ、女王陛下くらいのものだった。
「その相馬秀介がどうかしたの?」
「佐里に会いたいんだって。」
「はっ?」
頬を赤らめたり、よろこんだりという態度は、まったく期待していなかった。なにしろ氷の女王だ。しかし、眉間に深いしわを寄せ、ここまでいぶかしげに聞き返されるとも思っていなかった。
「……すげぇ顔。」
「失礼な。」
「いやだって、ここんとこ、しわが。」
「君がぶっ飛んだこと言うからだよ。なんでわたしが、なんの接点もないのに会いたいとか言われなくちゃいけないの。」
「フツー、自意識過剰な女子だったら、ここはときめいたりするとこじゃねーの?」
「『女子だったら』って、偏見だぞ。しかも藤春のくせに、頭ん中の辞書にときめくなんて単語を入れてるなんておかしい。」
「それこそ偏見だろ。」
実のところ、磨人はほっとしていた。
万が一、ここで彼女が相馬秀介に胸をときめかせるような態度を見せようものなら、立ち直れなかったかもしれない。
真夏の太陽が直撃しようが、春風が春を運ぼうとしようが、真原佐友里はそれを堂々といなす氷の女王なのだった。
「藤春の用件ってそれだけ? なら、もうわたしは帰っていいかな。」
「待てって。俺もいっしょに帰る。委員会の仕事も終わったし。」
「仕事、残っているでしょうが。相馬秀介んとこに報告しに行く仕事が。」
「わざわざ行く必要ねーよ。それこそ、なんのためのスマホだよ。」
「そっか。」
クラブ棟の玄関を出ると、西日がさっそく猛威を振るった。薄暗い屋内にいたために視界が明滅し、磨人は何度もまばたきをして目を慣らさなければならなかった。
ようやく景色が当たり前に見えるようになったとき。すぐとなりを歩いていた気配が立ちすくんだのを感じた。
「佐里?」
またしても眉間にしわをきざんで「すげぇ顔」をしている彼女の視線をたどってみると……はたして、タオルとラケットをさげた相馬秀介が、笑顔で手をふっているのだった。
「何やってんだおまえ。」
「それはこっちのセリフだよ。磨人、ちゃんと僕のこと、女王様に伝えてくれたわけ?」
「伝えたけど振られたぞってことを、親切に教えられるまで待てなかったのかよ。」
「待てなかったから来たんじゃないか。……真原さん、こんにちは。そこの使えないバカから聞いたか聞いてないか知らないけど、僕は相馬秀介です。」
同級生に「こんにちは」とあいさつする神経は信じられないが、それをおかしいとは感じさせないやわらかな声と物腰は、まちがいなく彼の武器だった。磨人の持ちえない武器だ。
「藤春からは、君がわたしに会いたいと言ってるって聞いたよ。」
だからこいつはきちんと用をなしたのだと彼女が言いかけたところ、
「それだけ?」
相馬が遮った。
彼女の双眸が、問いただすように磨人を見る。
「藤春。ほかにも何かあったの?」
「……やっぱり磨人、肝心なところは言ってないじゃん。」
相馬の非難めいた声。
だましたつもりは毛頭ないし、何より、彼女は相馬に会うことにまったく興味を示さなかったのだ。門前払いになったのだから、「肝心なところ」を開陳する機会はなかったのであり、責められる筋合いはないと思う磨人だった。
だが、門前払いを押してでも言おうとは考えなかったのも、事実だった。
「ねえ、真原さん。」
相馬が一歩、二歩距離をつめる。女子が黄色い悲鳴を上げる微笑みが、三割増しで深くなる。
「僕とつきあわない?」