第天鵞絨話 「常識外れて」
国境検査を通ると、そこには超高層のビル群が連なっていた。
「これが植民地かよ...どうなってんだ」
ヘイは思わずビルを見上げて呟いた。
大和国は新漢に国として認められる代わりに相互の物資交換を契約している。外交的にも、新漢と大和は切っても切れない関係になっていた。
「チャイナの副都市と呼ばれるくらいは繁栄してるぞ」
隣で胃酸のすっぱい臭いをさせながらチェーカが言う。
「...そうか」
ヘイは彼女が見た目の真逆の言動ばかりとるので、若干混乱していた。
白軍5位を誇るチェーカだが、ルックスだけならモデル顔負けだ。小さい顔に白く艶やかな肌。男でさえも近づきにくい可憐さを持っている。
その容姿とは裏腹に、男勝りな口調、お淑やかとはかけ離れた行動。
ヘイは何となく幼少期に何かあったのだろうと考え、両脇に立ち並んだ高層ビルに唖然としながら港まで向かった。
彼らも浅黄たちと同じくコンテナの中でブラウグラウの到着を見張ることになっている。
「チェーカ。臭えからコンテナ入る前に口ゆすいで来い」
心ない紅鳶の言葉に、チェーカは舌打ちをして蛇口を探しに行った。
3人はコンテナに入ると、荷物を降ろし、ブラックマスクが見張りに立たせる。
「はぁ...座り続けたから腰が痛ぇ」
「くだらん理由で下手を踏むなよ」
寝袋の上で横になるヘイに紅鳶が言った。
彼は「大丈夫だ。少し横になれば治る」と答えて目を瞑る。
そこへチェーカが薄いピンク色の唇を擦りながら戻ってきた。
「それにしても、ここの国民は陰った顔をしているな...それに、やたら人を見てくる」
確かにここへ来るまでに見かけた国民の大半は、スーツにネクタイ、同じような髪型同じような曇った表情をしていた。新漢に対して辟易しているのかもしれない。
「大和国では機械的で生物的な国民性を見られるって聞いたな」
紅鳶が思い出したかのように顎を触りながら呟く。
(もう二度と戻ってこないと思ってたんだがな...こんな時化た国...)
彼は外が見えないコンテナの中にいるのにも関わらず、どこか遠いところを見ているようだった。ヘイとチェーカはそれに気づいて首を傾げた。
地平線からは燃えるような太陽が現れ、灰色のビルを朱色に染めた。
建物内で忙しなく働く人々を晒すかのような窓ガラスには、綺麗な紅い光が反射している。
歩道を行く通行人は「また朝が来たのか」と言わんばかりに目を細めて手で光を遮った。
2チームがやっと目的地に到着し、肩の力を抜いている最中にも【灰色の狼】は唸り声をあげてヘイたちに近づいていた。
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「グリブニックさん。ヴェルツェコの酒が手に入ったのですが、よろしいですか」
前部住居区で読書をしていたグリブニックに酒瓶を持った部下が聞いた。
彼は目が隠れるほどの前髪で本当に活字を読めているのかと疑問があるところだが、手を上げて「結構」の合図を送った。
「グリブニックさん酒もタバコもせずに読書ばかり。禁欲家だなぁ」
個室を出て、部下が2人で駄べり始めた。艦内はモータの音と部下のがや騒ぎなど、細かい音が飛び交っている。
その中でもグリブニックは物音ひとつ立てずに、少し色褪せた分厚い本と睨めっこしていた。
「あの人は頭脳、長刀、洗骨拳の三種の神器で闘うからな。頭脳はブラウグラウ随一、敵の過去から何から全部知ってるらしいぜ」
潰れたような形の鼻をした部下が得意気に言った。それを聞いて髪が禿げ上がってタオルを額に巻いている部下が驚く。
「おっかねぇな。なぁ、洗骨拳っていうのはどんなもんさ」
「いや、俺もよくわかんねぇが、指で肉を削ぐとか何とか」
「洗骨ってのは土葬した遺体の骨を洗って再び土葬することだ」
「!?」
部下が言い終わる前に、個室からグリブニックが姿を現した。長身長髪の彼を間近で見ると、やはり迫力がある。2人の部下も身体が固まって声が出なかった。
「骨についた肉を洗うかのように相手の肉を指で削ぐ。肉弾戦に秀でた対白軍用に作られた拳法だ」
「そ、そうなんですか!洗骨拳で白軍の一角を落としたと聞きましたが」
禿げ上がった部下は緊張して頭皮に汗をかき、髪が悲惨なことになっていた。
「あー。メアリーか。今、白軍1位の紅鳶がいるだろ?」
「は、はい。奴は1人で軍隊以上の戦力を持つと聞いています」
「あー。うん。メアリーってのは奴の姉貴分だ」
「そんな大物を...」
部下達は、彼の並外れた強さに息を飲んだ。
「こうやった」
突然、グリブニックは潰れたような鼻の部下の喉に右手の人差し指と中指を突き刺した。
まるで粘土に指を捩じ込んでいるかのように、彼の指はどんどん部下の喉に埋まっていく。
「あがっ...がっ...」
部下は喉に出血した血が溜まり、溺れた人間のように痙攣しだした。口からは涎と血の混じった泡を大量に吐き、白目を剥いている。
突き刺された指と喉の隙間から血液がどろりと流れ出し、部下は地面に倒れる。もう片方の部下は衝撃的な場面を目の前で見て手足を震わせていた。
「あー。実際に見せたほうがわかりやすいと思って。彼女もこんな風に死んだよ」
何の気もない様子のグリブニックは、綿のハンカチで指を拭き、個室に戻っていった。
グリブニック。彼はある事柄を説明するためだけに部下をも殺す異常な人間であった。
だが、彼自身、異常と呼ばれるのは慣れているし、そう言われることが快感にもなっている。
(知識を積めば積むほど、常識とは外れていく...それならばいっそ、僕は狂者でありたい)
彼は多くのことを知りすぎたがために、この世のシステムに絶望し、この世の常識に絶望していた。
グリブニックはひとつ小さな溜息をつくと、読みかけの『青のない世界』という題名の本に目をおとした。
一方、グリブニックの相棒ルスカーヤは商売道具の絵画を眺めていた。
キャンバスには黒い緑の海や真っ赤な夕日にぽつんと描かれた黄色の丸などの印象派に近い絵画が並べられている。
普段、下世話な話や夜の遊びに興じてる彼だが、誰もいない保管室で絵を眺めるのが好きだった。
部下の声や機械音からは隔離されたこの空間で、未だ見たことのない青、自分達が青と言い張るものを見るこの時間が。
このときだけは、いつも威張ったように身につけているサングラスも毛皮のコートも外して、白いセーターに黒いチノパンで絵を眺める。
この時だけ、彼は1人の黒人の青年になれた。
「これは...、これは良い絵だ」
アマチュアの画家に安値で依頼させた絵。自分の想像する青を描けと無理な注文をして描かせたものだが、時折本当に青ではないかと思えるほどの上出来な絵画が手に入る。
「線路...列車...水蒸気...奥にあるのは...海か」
彼は、黒いスーツケースから絵筆を取り出すと、気に入った絵画を模写するのだった。
もちろん、アマチュアの画家と言えど素人のルスカーヤとは天と地の差がある。
それでもルスカーヤは太い指で齷齪しながら描くのであった。
何かを求めるように。何かを捜すように。何かを埋めるように。
彼自身も自分のこの奇妙な行動の理由はわからなかった。
しかしこれが、彼にとって至福の時間なのだ。
一通り描き終わると、彼は目の前にあるキャンバスの後ろに置かれたふた回りほど小さなキャンバスを見つけた。
ゆっくりと立ち上がり、その小さなキャンバスにかかった白い布をとる。
それを見たルスカーヤは言葉を失った。
「鳩のモザイク画...だと」
ゲルマン帝国皇帝のコレクションにあるはずの鳩のモザイク画。
そのモザイク画には絶滅したはずの青が使われているという噂がある。
彼はそっとモザイク画を撫で、その目に鳩の姿を焼き付けた。
そして鳩の腹の陰になった部分をなぞる。
「この腹部の...陰は...黒と、青...なのか?」
目の見えない人に海の色をどう伝えようか。
「色」とは伝えられないのだ。
「これが...青...?」
ルスカーヤは金歯を見せて口を「へ」の字に曲げる。どうやら期待していた色とは少し違ったらしい。