第天話「緊急事態」
全体会議後
「私が真琴を可愛がる理由ですか...」
ヘイたちが立ち去った後、聖堂には杜若とパンチャー山田が残っていた。2人でいるとやけにここが広く感じる。
「うむ。ただの興味本位なのだがな。プライドの高い華ちゃんがなんであの子を」
パンチャー山田は顎髭を引きちぎる勢いで捻りながら言った。
杜若は自分の名前の呼ばれ方に苛立ちを覚えつつも、その問いに答える。
「大和国出身であるという民族意識ですよ。列島は沈んでしまいましたが、私たちの血はちゃんと生きています」
第3世界大戦後2000年。日本列島は津波に飲み込まれほぼ沈没した。
その後に産まれた人類は日本の四季、哀愁、湿り気を感じることはできない。
日本は、当時大陸を統治していた中国の一部に植民地を築いており、そこに少数の日本人が移民した。
だが、この機を狙った中国は日本の植民地を属国として扱う。
杜若華はこの窮地を脱するためにゲルマン帝国へ来た節があった。
彼女は名高い白軍をバックにつけ、日本の地位向上を望んでいた。
「紅鳶君はどうなんだ?彼も大和国出身ではないか?」
パンチャー山田が聞くと、杜若は眉を顰めた。
「奴はアメリカとのハーフです。実力は認めますが、力をひたすら求める性格はヘイ・ロウに通ずるものがあります」
「はは、今日は随分しゃべるね。ランチでもどうだい?」
「ええ、ぜひ。そういえば、ラーメン街に私のおすすめがあるんです」
「ほう...ところで、最近育毛剤を使い始めたんだ。見てくれないかい?」
「はやく行きましょ」
_______
シグナルライトのようなぼんやりとした灯りが白い建物の小さな窓から漏れている。
しかし、真っ赤になった空はその灯りが見えないほど、白い建物が白と認識できないほど世界を照らしつけていた。
建物内では緊迫した空気が辺りを支配している。
「そのナイフ、返して貰おうか」
ヘイが眉間に血管を浮かばせて言った。アルバートは太腿に装着しているナイフホルダーから、二又のシースナイフを抜く。
「これは実にいいナイフだ...。使う者のことを考えていない、傲慢で強力な...」
ナイフを眺めながら、アルバートは悦に浸ったような表情をした。
彼がヘイに向かってナイフをヒョイっと投げると、それは地面に突き刺さった。
驚くべきことは、アルバートは軽く下から投げたのに、ナイフが大理石に10cmほど突き刺さったということだ。
斬れ味が良いというレベルではない。まるでどんなものでも貫くために生まれたような刃。
ヘイのナイフはその業界の中でも異質な存在であった。
極端に刀身が重く、柄が軽い。
使用者に多くの技術を要するそのナイフは、まさしくヘイにだけしか使えないものであった。
「で、どうすんだ。改宗するか、弾圧されるか」
ヘイは床に突き刺さったナイフを抜き取り言った。
コンラート宣教師とエドガー宣教師の暗殺は決定事項だが、アルバートの処分については何も知らされていない。
ヘイはアルバートが白軍の一員であることを考えて、一応彼に逃げ道を用意した。
「人肉を初めて食べたのはいつだったか...四肢を分断された遺体だけが、俺を認めてくれた気がしたんだ...」
アルバートは赤黒く染まった前髪を手でかきあげ、焦点の定まらないぎょろっとした目でヘイを睨みつけた。
「俺は彼ら(死体)といられるだけでいい、食人を正当化したのがこのソダ派だ...」
「どういうことだね!アルバート!」
エドガー宣教師は、肉切り係として使っていたアルバートの思いもよらない言動に声を荒げた。
「宗教なんて元々どうでもいいんだよ...俺はただの食人鬼。楽に人の死体が手に入るここを選んだってわけだ...」
アルバートはそう言うと、ゆっくりエドガー宣教師の元へ歩いてくる。
つまるところ、彼はこの宗教問題とはなんら関係がないということだ。
その場にいる誰もが、アルバートが味方であり続けると思った。
たが、彼の肉切り包丁はエドガー宣教師の首を刎ね、その勢いで近くにいた浅黄の腕にめり込んだ。
「っ!?」
浅黄はすかさず日本刀を楯にして肉切り包丁を防ごうとしたが、アルバートの包丁を振るう力が想像よりも強く、腕橈骨筋を切り裂いた。
エドガー宣教師の首からは黒い血が溢れ出し、アルバートの頭にかかる。
彼の体は力なくその場に倒れた。
「おっと、強く振りすぎたか...?」
アルバートは痛みに悶える浅黄の顔を見て眉を吊り上げて笑った。
「お前らのせいで...俺の楽園が台無しじゃねぇか」
彼の言葉は、白軍からの脱退、そして宣戦布告を意味していた。
彼は包丁を抜くと、浅黄の傷口にハイキックを食らわせた。
雷にうたれたような痛みが浅黄の身体を貫く。
「くっ...」
倒れた浅黄の前に、アルバートが歩み寄ってきた。
彼は包丁を横に大きく振りかぶる。
この一撃で彼女の頭をかち割る気なのだろう。
浅黄の下には血の池ができていて、彼女に近い死の存在を意識させた。
包丁で彼女の首が横に薙ぎ払われるかと思われたその時、ヘイが包丁の背を踏みつけ、動かないようにした。
アルバートは一瞬何が起こったかわからなかったが、すぐにヘイの姿を確認し、蹴りを入れる。
ヘイはそれをかわし、一旦アルバートとの間合いをあけた。
彼の狙いは、アルバートの注意を浅黄から逸らすことだ。
この隙に、浅黄は立ち上がって体勢を立て直す。
「浅黄!コンラート宣教師を探せ!コイツは俺が殺る」
ヘイはシースナイフを抜き、構えた。
「わかりました!」
腕からは血が溢れているが、それは休戦の理由にならない。彼女は腕を抑えながら奥の扉へ向かった。
「来いよヘイ・ロウ。お前の本能を見せてみろ」
アルバートは舌を出してヘイを挑発した。彼も、杜若と同じでヘイの中に眠っている本能に気づいたのだろう。