ドラゴンロード
夏の課外授業はキライだ。
窓際の席に座り、机のうえに開いているのは難解至極な数学の教科書。
カリンはペンシルの先で頭を掻いた。
「……であるからしてぇ、この公式に当てはめると……」
窓は開いていて、カリンの心は外へと向けられている。眠たい。赤点の末、夏休みを削ってまで受ける授業なんかつまらない。
ペンシルが広げたノートにミミズのような線を引いていく。
太陽は東、まだ昼前だと分かる。日光を遮る雲さえなく、太陽の日差しがジリジリと教室に差し込んでくる。
カリンの耳は蝉の声を聞いている。日本語とも思えない教師の発する数式は雑音としてとらえていた。
早く終わらないかな……帰りたい……
ぼんやり考えていると、ふいに日が陰った。
カリンは空を見た。
黒雲がいつの間にか太陽を遮っている。それも太陽だけを隠すように丸くなって。虹色の稲妻らしき閃光が黒雲の表面に映る。
カリンは目を見張った。
閃光はチリチリと音もなく、地上へツルを伸ばそうとうごめいている。オパール色のきらめく光がパシンと校庭の中心に突き刺さり、消えてしまった。
それは本当に一瞬の出来事だった。
カリンはじっと校庭の中心を見つめた。そして空を見上げると、あの黒雲はかき消え、またあのしつこくじりつく太陽が顔を出していた。
「ま……そうま……相馬!」
カリンはハッとして立ち上がった。
「相馬、答えは外なんかに転がってないだろ! そんなんで大学受ける気か」
数学教師は巨大な三角定規をビシッとカリンに向けて、そう言い放った。
カリンはふざけて、
「先生、あたし、文系ですから数学はほどほどでいいんです」
「おまえはァ、どうしてそんなかわいくないことが言えるんだ」
「反抗期だからです」
「反抗期でも何でもいいから、おまえ、この公式解けるか?」
「解けませーん」
カリンは明るく大きく答えた。
後ろからこづかれ、カリンは振り向いた。
「やめときなって、あんた、それ古典の時も言ったじゃない」
カリンの通う学校はレベル中くらいの女子校だ。ほとんどの生徒が付属の女子校へ進学していく。カリンも仕方なくそうするつもりだった。だからどうしても真剣になれない。
数学ができなくったって、世の中渡って行けるのよ! カリンは教師が別の生徒に当てるのを見て、座った。
学校はつまらない。
高三になったカリンが考えることはそればかりだ。数学と古典さえなければ、自分の偏差値も下がったりしない。そこそこにいい大学に入れる。今なら推薦を受けるのも可能だ。
けれど、それはできない。なぜなら、親に全面反対を受けているからだ。特に父親がカリンを県外に出したくないのがその理由の一つだ。後は訳が分からない親の都合のような理由。
思い出すだけで腹が立ってくる。それにもっと腹が立つのは自分が諦めかけていることだった。親の不合理な命令に屈している自分が大嫌いだった。
「カリン」
気付くと授業は終わり、辺りは解放感にざわめいていた。
「カリン、怖い顔してどうしたのよ?」
「あたしは親の人形なんだって、考えてたとこ」
「またその話?」
友人は複雑な顔をする。どう答えていいものやら口ごもってしまうからだろう。
「なんか、あたしには自由がないって感じ」
カリンは友人にかまわず続けた。
「このまま短大行って、親の選んだ男と結婚して、子供産んで、親の言いなりのまま年取っていくんだ」
「そんなことないって、カリン。考え過ぎだって」
「でも本当のことだもん」
進路のこととなると、カリンにはそういう考え方しか浮かばなかった。どうしても明るい展望を見つけることができない。
「大変だね、カリン」
「本当、そうだよ」
「ねぇ、帰りにマクドに寄ろうよ、それともカリンお弁当?」
「ううん、いいよ……」
カリンはそう答えてから、慌てて言葉を濁した。
「やっぱ、遠慮する。ちょっと用事があるから」
あの稲妻の落ちたところを見てみたいと好奇心に駆られたのだ。稲妻が落ちたところはちょうど校庭の中心だった。
カリンはわらわらと校庭を抜けていく群れから外れて、ゆっくりと校庭の真ん中へ歩いていった。
光を受けてキラリときらめくものが落ちている。
かがみこんでよく見てみると、オパール色の親指大くらいの石があった。カリンは疑うこともせず、すっと自然にその石を拾った。
手の中で転がすと、それは滑らかな光沢に輝き、その中心部にはゆらりと赤いもやが見て取れる。
「カリーン! 何やってんのぉ?」
友人の声にカリンは振り向いた。
「あ、あのねぇ……」
石のことを知らせようと、カリンは石を握った右手を振った。そして、はたと気付いた。
石の感触がない。
「なぁに?」
寄って来た友人から隠すようにカリンは右手を開いた。
石はなかった。消えうせていた。
カリンはぼうぜんとしながら、答えた。
「な、なんでもない……やっぱマクド寄るよ」
「バリューセットふたつでコーラ」
カリンはトレイを受け取り、二階席で席を確保しているはずの友人を探した。
「ねぇ、さっきはどうしたの?」
最初に友人から切り出された。
「うーん……なんて言ったらいいかわかんないんだけど……数学のとき、外見てたら校庭に雷が落ちてね……」
「うそー、雷なんか鳴らなかったよ」
「うん、音はしなかったんだ。けど、本当に稲妻が校庭に落ちてさ……」
カリンは友人が信じてないと思ったけれど、石のことといい気味が悪かったので、話し続けることにした。
「その跡を見たくてそこに行ったら、オパールみたいな石が落ちててね、だけど、本当に一瞬のうちに消えちゃったんだ」
「うわぁー……思いっきり夏向きの話しだねぇ。カリンが見たのって、UFOじゃないの?」
「そうかも……」
カリンはチーズバーガーの残りの一口を口に入れた。
ふと、階段のほうに目をやると、全身黒づくめ男が上がってきて、席にも座らず、カリンがちょうど見える場所に立った。夏なのに長袖シャツに、さまざまな色のガラス玉を連ねたチェーンベルトを腰に垂らしていて、暑苦しい真っ黒なズボンに黒の革ブーツを履いている。
カリンは友人に、
「ねぇ、あそこに変な人がいる」
「どこ?」
「ほらそこだって」
「いないよ、どんな変な人だったの?」
友人にはあの怪しい男が見えてないのだろうか。説明しようとして友人の顔を見てから男に目をやった。
しかし、黒づくめの男は消えていた。
外国人ぽい顔で、背がすごく高くて、長髪だった。けっこうハンサムだった。すごく目立つのにだれもあの男には気付かなかったようだ。
「幽霊見ちゃったみたい……」
カリンは説明のしようもなく、ただ気味悪く思えてつぶやいた。
途中まで友人と帰り、カリンは早く帰ってシャワーを浴びたい、と思いながら道を急いでいた。
頭のうえには核兵器ものの太陽光線。足の下からはコンクリートから立ちのぼる殺人兵器ものの熱気。
早く帰ってアイス食べたい。冷たいジュース飲みたい。
呪文のようにつぶやく。一歩一歩足を出すための呪文だ。カリンは住宅地の長い坂道を登りながら思った。
陽炎の立つ道のはるか先に、人影が浮き出た。
近所のおばちゃんかな……カリンは額の汗を拭いながら思った。
しかし、カリンは立ちすくんだ。
あの人影は見間違いでなければ、確実にマクドで見た変人だ!
くるりと向きを変え、カリンは逃げ出した。遠回りだけど、自分の家にたどり着く小道を走り抜けて行った。
やっと自分の家の門前にたどり着き、カリンは息を切らして周囲を見回した。あの黒づくめの男はいない。カリンはホッと胸をなでおろした。
「ただいまー」
「おかえり」
台所から母親の声が返ってきた。
「暑ーい、シャワーシャワー!」
カリンはカバンを階段の下に放り投げた。
「カリン! 階段のとこにカバンなんか放り出さないで!」
まるで見ていたように台所から母親がどなった。
「すぐかたずける!」
「シャワー使ったらすぐご飯よ」
「もう食べた! あたし、いらない!」
「カリン! 何食べたの 今日は家で食べる日でしょ! 無駄遣いさせるためにお小遣いあげてるんじゃないのよ!」
「あたしはお母さんの人形じゃない! いちいち指図しないで!」
このごろ、母親は小言が多い。話してると、段々イライラしてくるし、向こうもどうやらカリンと同じようだ。
父親と顔を合わせば、進路についてまた口げんかになるし、この家は今トゲトゲだらけのサボテン無法地帯と化している。
簡易制服の前ボタンを外しながら、カリンは洗面台の鏡を見た。
一瞬、息が止まった。
額に何かある。オパール色で親指大の……
「お母さん !!」
カリンは急いで台所へ駆け込んだ。
「どうしたの? ゴキブリでも出たの?」
「違う、違うって! お母さん、あたしのおでこに変なの付いてる!」
母親は不思議そうな顔をして、カリンの額をなでた。
「付いてないわよ、ニキビもないし」
「付いてるって!」
カリンは自分の額に触った。しかし、石の感触はない。母親も困った顔をしている。カリンは力が抜けて黙り込んだ。
「なに寝ぼけたこと言ってんのよ」
母親は全く相手にしてくれず、カリンは不思議に思いながら、風呂場に戻った。
もう一度、洗面台の鏡を覗いた。
オパール色の石がチカチカと、カリンの額で輝いている!
しかし、今度は心臓のほうが止まりそうになった。
鏡のなかのカリンの背後にぴったりと、あの黒づくめの男が立っていたのだ。
気が付くとカリンは走っていた。
薄もやのなか、口と背中に違和感を覚えながら、カリンはひたすらに足を動かしていた。
口の中の変なものを吐き出そうともがくけれど、ますますそれが口の中に食い込んできて、唾があふれて垂れていく。
手足を闇雲に動かし、カリンは腹と口に受ける衝撃に驚きながら駆けた。
目の前に広がっている景色は見覚えのないものだった。薄もやが広がる四方に建物や木々はなく、紫がかった白いもやで視界がさえぎられている。
足元の道らしきものはアスファルトなどではない、硬質感のある白磁器もしくは白い金属のように見えた。
次第に自分が手足を使って走っていることに気付いた。まるで犬のように走っているのだ。そして、背に乗っかっている何者かが、自分よりもずっと小さいことにも気付いた。
ムカムカと怒りが沸いてきた。
走るのなんかやめてやる!
カリンは思い切りのけ反ったり、跳びはねたりして、背中の邪魔者をふるい落とそうとした。
「どうどう」
男の声が馬をならすような調子で聞こえた。
カリンの堪忍袋はパチンと破裂した。
もう我慢ならない。
カリンは立ちあがり、ひどく背中を揺さぶった。
「うわぁ!」
無礼な男はカリンの背から転げ落ちた。罵声が薄もやから響いた。
「一体どうしたんだ !?」
「口の中の変なものを取ってよ! あたし、手が上がらないのよ!」
もやに紛れて自分の声が聞こえてくるが、自分自身がどんな姿なのか、全く分からない。ふるい落とした男の姿も勿論見えなかった。
「もう覚醒したのか !? まだ予定より早すぎる!」
「早いも何もないわよ! 早くどけてよ!気持ち悪い!!」
「文句ばかり言うドラゴンホースだな」
ざりざりと音がし、男が近づいてきた。カリンは身構えて、緊張して待った。
「そんなにはみがいやなのか?」
目の前に現れた男は、やはりあの黒づくめの変人だった。
「いや !? いやも何もこんな痛くてまずいものなんか口ん中に入れないでよね! それになんなのよ! あたしのことどうするつもりなのよ !?」
怒鳴りながらもカリンはおびえていた。
「ドラゴンロードを探すんだ」
男はカリンの口からはみを外した。
はみは金属臭くて、カリンは恥ずかしさも忘れて、地面に唾を吐き続けた。けれど、うまくいかない。まるで自分の口じゃないみたいだった。
すると、男がふいに手を伸ばし、カリンの額の石に手を触れた。
そのとたん、カリンの体中がズクズクとうずき、自分自身が変化していくのが感じ取れた。あっと言う間に男がでかくなり、カリンの背が奇妙なくらい縮まり、あれほど頑張っても上がらなかった手が頬に触れていた。
「参ったな……ドラゴンストーンは人間が吸い取るはずじゃなかったんだ」
カリンには男の言うことが分からなかった。第一、ここがどこかも知らない。この変人のことさえも分からない。それなのに、自分は男の言いなりになるしかない。ひどくはがゆい思いと、腹立たしさにカリンの体は震えた。
「ドラゴンストーン!?」
「何百年に一度、天から降ってくるんだ。ドラゴンの腎臓とも言われてる。ドラゴンロードを見つけ出して、ドラゴンの元まで連れて行ってくれる道案内なんだ。俺の行ける界域では本当に久しぶりだった。まさか人間がドラゴンストーンを拾うとは思ってなかったんだ」
「ドラゴン!? ドラゴンロード!?」
カリンは金切り声を上げた。この変人は何を言ってるんだ。
「ドラゴンストーンを体内に吸収したものは、ドラゴンロードを見つけ出すドラゴンホースになれるんだ」
「ドラゴンホース!? 何言ってんのよ! そんなこと信じられるわけないじゃない!」
こんな変人なんかほっといて、帰り道を探そう。カリンは男を無視して、一人でさっさと歩き出した。
白いもやで道の四方はわからなかったが、きっと脇道があるはずだと思い、カリンは道から外れようとした。
「危ない、待てっ!」
男は慌ててカリンの後を追い、その手をつかんだ。
とたん、カリンの体がずるりと道から落ちた。カリンは悲鳴を上げた。
「ここはドラゴンロードの中なんだ。ドラゴンホースしかここを歩けない。それに俺から離れれば、他の竜魔士がお前を捕まえるだろう」
やっとのこと引き上げられ、カリンはうずくまったままたずねた。
「竜魔士!?」
男はカリンのまえに腰を降ろした。
「ドラゴンマスター。ドラゴンを操るんだ。もう何百年もドラゴンは現れていない。おまえは今竜魔士の注目の的なんだ。実際ねらっているのは俺と界域を同じくするダークウルフだけどな」
しかし、カリンはそんなことが知りたい訳ではなかった。怒りで頭の中がワヤクチャになってしまっていた。
「ドラゴンマスター!? 一体なんのことよ !? どうしてあたしが他のだれかに狙われなきゃならないのよ !!」
「落ち着いて」
男がごそごそ腰元を探り、一本の木の枝をカリンに渡した。
「これを噛んでいれば落ち着いてくる」
カリンは始めはいぶかしんでいたが、木の枝を口に含んだ。ミントの味がする。
「あの界域で俺がお前を見つけられたのは本当に何千分の一かの可能性だったんだ。ダークウルフに先を越されてもおかしくなかったんだけどな……これでドラゴンを見つけられれば、別の界域へ自由に移動できる」
「あんたの言うことなんか信じられない」
気分は落ち着いてきたけれど、カリンは頑固に言い放った。
「信じられないなら信じなくていいよ。だけど、ドラゴンは見つけてもらう。もうこの界域は壊滅寸前なんだ。早く逃げ出したい」
カリンは木の枝を噛みながら、男を見つめた。
男はまじめな顔でカリンを見返している。
どうやら、ドラゴンを見つけなければ、自分もこの変人と一緒にこの霧だらけの世界で恐ろしい目に合うようだ。
「いいわ……でもドラゴンロードからは抜け出せないの?」
「もう無理だ。ただひとつ、ドラゴンロードの道の狭間にはまれば、界域を抜けられるけれど、死ぬ」
さっき落ちかけたのが、その狭間なのだろうか。カリンはゾッとした。
「それならどうやって竜魔士が来れるって言うの」
「この霧に紛れて竜魔士はやって来る。霧がある場所でしか長く存在できないんだ」
「でも狙ってる竜魔士はダークウルフだけなんでしょ?」
「ダークウルフは何千年も生きてる奴だ。俺では勝てない」
「じゃあ、どうするって言うのよ!」
「ドラゴンホースになればなんとかなる。けど、俺が諦めたり死んだりしておまえから離れれば、おまえはダークウルフのものになる。ただし、奴が狙って来るのはおまえがドラゴンホースの姿になったときだけだ。おまえを変身させることのできるのは最初に触れた俺だけだからな」
嘘か本当か、カリンには見当がつかなかった。ただ黙って、この男に従うしかないのだろうか。自分には選択したり、決定したりする権利はないのか!?
また、カリンはひどくはがゆい思いに駆られた。
「なんで竜魔士なんかになったのよ!」
男は静かに言った。
「ここに産まれ出る人間はみな竜魔士なんだ」
「じゃあ、親も?」
「そんなものは居ない。俺たちは霧から産まれるんだ」
カリンは男の言葉にゾッとした。
「そんな……妖怪人間ベムじゃあるまいし……」
「妖怪人間?」
「いやぁ……そんなことはどうでもいいんだけど……名前くらいあるんでしょ?」
「ナイトホーク」
「あたしはカリン、相馬カリン」
ナイトホークはしごくまじめな顔をして、カリンの言葉を聞いている。無表情だがそれがとても美しく見えて、カリンはどきまぎして目をそらした。
「名前を聞かれたのは初めてだ」
「仲間同士で話し合うこととかないの?」
「ないね。みんな一人だ。けど、ぎっしりみんなここにいる。俺たちの話も全部聞かれてるよ」
「えっ !? そうなの?」
カリンは気味悪く感じ、辺りを見回した。
「大丈夫。カリンにちょっかいをかけたりできない。カリンは俺の属する界域の人間だからだ。気をつけなければいけないのはダークウルフだけだ。だから、変身したときに気をつけるんだ。カリンをドラゴンホースに変えられるのは最初に触れた俺だけだから」
「でも、霧相手に何ができるの?」
ナイトホークは立ち上がった。
「ドラゴンホースになれば分かる。そろそろ行こう……早くドラゴンが見つかれば、カリンを元の界域に連れて行ける」
ナイトホークはそう言うと、カリンの額の石に手を触れた。
「はみはやめてよ。それからおなかをけるのも」
変身しながら、カリンは言った。
「分かった」
走り出してからものの数分で妨害は始まった。
眼前に目に見えない粘つく壁ができ、ナイトホークをカリンの背から引きずり降ろそうとした。
「カリン、火を吹け!」
と言われても、火なんか吹いたことすらないカリンは、精一杯ゲーゲー喉を鳴らした。
「火なんか吐けない! どうすればいいのか分からない!」
そのうちにナイトホークはカリンの背から落ちてしまい、粘つく物体に体をひねられている。ナイトホークはかすれ声でもう一度叫んだ。
「火くらい吐ける! 信じるんだ、カリン!」
カリンは口を開き、闇雲に息をはいた。ぷすぷすと黒い煙が口から漏れるだけだった。
「大丈夫! カリン、できる。自分を信じろ! 諦めるな!」
自分を信じる……!
諦めない……!
あたしは火が吹ける!
カリンはもう一度試みた。自分の口から火柱が立つのを想像した。
一直線の火炎が、カリンの口から吹き出した。体をねじられ、失神寸前だったナイトホークに絡まる粘つくものは、回りの霧と共に蒸発して消えた。
「やった! できたよ、あたし、できた!」
ナイトホークは咳ごみながら、カリンの背に飛び乗った。
「竜魔士である俺たちの体は霧でできている。だから火に弱い。カリンの炎は俺には効き目がない。また襲われたら頼むよ。俺は信じてる」
ナイトホークの言葉に、カリンの心にわだかまっていた何かが晴れた。
やればできるんだ!
「さぁ、このまま駆けて行けば霧は晴れてくる。急げ」
確かに霧は晴れ始め、今まで走って来た道が何だったのか、はっきりと現れた。
白磁器の道の脇には地面こそないが、白濁した沼が広がり、草などは一切生えていない。
ソテツやシダのような形をした灰色の植物らしきものが、にゅっと沼から頭を出して林立している。
どう見てもそれは岩の塊のようで、あたり一面が灰色にくすんでいる。
しかし、ドラゴンホースであるカリンの目には、白磁器の道のほかに虹色の道がはっきりと見えていた。虹色の道はずっとはるかかなたまで続いているように思えた。
カリンの乱れた息遣いに気付き、ナイトホークはカリンから飛び降りた。
「少し休もう」
「でもすぐにドラゴンを見つけなきゃ」
ナイトホークの顔色は暗かった。なにか思い悩むように眉間にしわが寄っていた。
「本当はここからが正念場だ……今までのはダークウルフのお遊びみたいなものだ。カリンのお陰で助かったけれど、ダークウルフは何千年もドラゴンストーンを待っていた。奴はドラゴンホースの炎だけでは散らせない……もしも俺が死ねば、おまえを元の界域に戻してやる奴がいなくなる」
ナイトホークの不吉めいた言葉に、カリンはおびえながらも励ました。
「そんなことない、きっとできる! きっとドラゴンは見つかるよ! 危なくなったらあたしを元に戻せばいいじゃない。そんなに気弱でどうするのよ!」
「俺が死んでしまえば、カリンが人間に戻っていたとしても同じことだ」
「そんなことない! ナイトホークだってさっきあたしに言ったじゃない! 諦めるな、信じろって! きっとなにか方法があるはずだよ、ここまで来て諦めちゃだめだよ!」
ナイトホークの体がぼんやりと透けて見え始めた。
「もう……だめだ……俺が死んでしまえば……」
ナイトホークの体が白い霧に戻りかけている。やっとカリンはナイトホークの様子がおかしいのに気付いた。
座り込むナイトホークの背中にしっかりと黒い染みがしがみついている。
カリンは思い切り炎を吐いた。
しかし、黒い染みは消えなかった。カリンの吐く炎の威力が弱すぎるのだ。
そうしているうちにナイトホークは霧に返っていく。
「ナイトホーク!」
カリンは口のなかに炎をためた。
轟音と共にカリンの口から丸い火炎が噴き出された。
ナイトホークが消えかける前に、黒い染みは散り散りに消し飛んだ。
「ナイトホーク!!」
カリンはナイトホークの耳元で大声で叫んだ。何度も呼ぶうちにナイトホークの姿が戻り始めた。
「カリン……」
「ナイトホークの背中に黒い奴がしがみついてた。炎で消し飛んだけど……あたしが馬のまんまだったからよかった」
「ああ……そうだ……俺は自分に自信がなくなっていくのが分かった。大きな力の前に屈服しそうになった。何も変えられない……もう方法はないと思いかけてた……」
だけど、変えられた。方法はあった。カリンは思った。あたしは勝手に自分から何もできないようにしてた。卑屈になってた。だれかのせいにしてた。
カリンはナイトホークを見つめた。見ているうちに勇気が沸いてきた。
諦めてしまうことはないんだ。諦めなければ、いろんな道が開かれるんだ。それを選ぶのも選ばないのも、自分が決めることなんだ。
カリンとナイトホークはまた歩き出した。
沼地は相変わらず続いたが、石化した植物は途切れて、四角柱の灰色の建造物が規則正しく並び、虹色の道はその柱の一つへと続いていた。
もはや竜魔士である霧は見当たらなかった。
しかし、行く手に黒い霧がわだかまり、カリンたちを待ち受けていた。
カリンは身構え、ナイトホークに呼びかけた。が、ナイトホークはそのままカリンの背から落ち、沼地に横たわってしまった。
「ナイトホーク!!」
「ナイトホークはわたしが眠らせた」
カリンは真正面の黒い影をにらみつけた。黒い影は形を取り始めた。ナイトホークに似た姿形だったが、何とも言えない冷気が漂ってくる。
「そいつよりもわたしの魔力の方が強いのだ。そいつは戦わずしてわたしに負けたのだ。ドラゴンストーンは勝った者のものになるのだ」
ダークウルフはカリンを手招いた。その手招きに強い魔力を感じ、カリンは必死でそれに抵抗した。
カリンは苦し紛れに火炎を吐いた。火炎は火柱になり、一直線にダークウルフを貫いた。
しかし、ダークウルフの前には見えない壁が何列も並んでおり、ダークウルフの元に届くころには炎は小さくくすぶるだけだった。
カリンはくじけそうになった。もう本当にだめなのだろうか。勇気が見る間にしなびていくのを感じた。
「来るのだ、ドラゴンホースよ……心配は要らぬ。ドラゴンを我が手に収めた暁には、おまえを元の界域に戻してやろう。嘘は言わぬ。その未熟な竜魔士に比べれば、わたしに従うほうがより良いと悟るだろう。来るのだ……おまえに選択の余地などないはずだ」
そうなのだろうか……? カリンは心弱く考えた。けれど、ナイトホークは何と言っていた? ダークウルフには炎だけでは勝てない。
カリンは勇気を奮い起こした。この竜魔士の言うことは嘘だ。選択の余地はある。ただ自分の努力が必要なだけだ。努力せずに屈服してしまうなんて、自分自身の弱気に負けてしまうなんて……!
カリンは自分の勇気が額の宝石に集まってくるのを感じ取った。持てる力すべてを石にたぎらせた。
額の石に熱がこもり、石が変化していく。
石が研ぎ澄まされ、長く伸びていくのを感じる。
オパール色の一角を掲げ、カリンはダークウルフ目がけて突っ込んだ。
薄い氷が何枚も割れるような音が続き、カリンの角はダークウルフの胸を貫いていた。
ダークウルフの魔力はドラゴンホースには何の効き目もなかったことを、カリンは悟った。何もかも、自分の心弱さが原因だったのだ。
ダークウルフの体は薄れていき、空気に溶けていった。
「カリンが助けてくれたのか?」
振り向くと、ナイトホークがぼうぜんと立っていた。
「ダークウルフなんて屁のカッパよ。それにナイトホークがいないとあたし馬のまんまだし、帰れないじゃない」
「そうだ、これだけはどんなに努力しようと変えられない事実だ」
「ところで、ナイトホークってどのくらい未熟なの?」
ナイトホークは不思議そうな顔をして、カリンを見つめた。
「なぜ?」
「ダークウルフがそう言ったから」
「俺は生まれてからたったの百年しか生きてない。まだ赤ん坊同然なんだ。だから最初にカリンを見つけられたのは何千分の一かの可能性だって言っただろ? 奇跡に近かったんだ」
そう言って、ナイトホークは初めて笑った。
濃淡鮮やかなエメラルド色の縞の石柱のゲートをくぐり、カリンはナイトホークを背に乗せ、暗い道を進んだ。
どうやらここは深い穴蔵のようだ。冷たい水の匂いと感触が漂い、その暗い中、虹色の道だけが辺りを照らしている。
ふいに虹色の道は途切れた。途切れた道の端に黒い光沢の台座があり、そのうえにドラゴンの石像が鎮座していた。
滑らかな石の台座に、はっきりとドラゴンホースのカリンとナイトホークの姿が映っている。
ドラゴンホースは馬というより、爬虫類ににていた。形は馬だけれど。
カリンはドラゴンの石像を見た。
ドラゴンは見上げるほどに大きく、穴蔵いっぱいに体を丸めていた。粗い灰色の石像からはひとかけらの生気も伺えない。背中の巨大なこうもりのような翼は力なく垂れ、身体を覆っている。
ナイトホークはカリンにまたがったまま、呪文を唱えた。両手を広げ、大きくドラゴンに差し伸べた。
「眠れる主なきドラゴンよ、永い眠りより解き放たれよ。永き眠れる果ての道を見つけよ、そこに主の立つ姿が見えるであろう」
しかし、何も起こらない。
ナイトホークはもう一度呪文を繰り返した。
ドラゴンはピクリともしない。
ナイトホークはカリンの背から降り、台座に近づいて、低くうなった。
「どうしたの?」
ナイトホークの肩が震えている。
「ナイトホーク、なにかあったの?」
「す……すまない」
ナイトホークは背を向けたまま、つぶやいた。
「俺はカリンを生きて帰してやる事ができなくなった。こんなこと……考えてもみなかった……」
「だから何のこと? 生きて帰せないって、どういうこと? はっきり言ってよ、ナイトホーク」
ナイトホークは振り向き、
「ドラゴンを目覚めさせるには呪文ではだめなんだ。カリンの……ドラゴンホースの血が必要なんだ……」
そして、その手には今まで持っていなかったはずの黒い剣が握り締められていた。
カリンはおののいた。
「ま、まさか……ナイトホーク、嘘よね? だって……あたしたち、そんな……」
言葉が続かなかった。カリンの育ててきた大切な何かがみじんに砕かれた。
「そんな……嘘よ!?」
「呪文には続きがあった。目覚めにはドラゴンホースの血を捧げよ、霧は影に、影は闇に、闇を貫き、虹色の光がドラゴンを眠りから解き放つであろう」
カリンは叫んだ。
「嘘つき! ナイトホークの大嘘つき! なによ、役目が終わったらあたしのうちに帰してくれるって言ったじゃない!結局、自分が大事なのよ。諦めるな、信じろなんて言って、あたし、信じたのよ! 信じてたのに!」
「まさか、こんなことになるなんて、俺も知らなかったんだ。俺はカリンを殺したくない。カリンは俺を救ってくれた。消滅しそうになった俺を助けてくれた。分かってる! 分かってるんだ! こんなこと、俺の望みじゃない。どうすればいいんだ !?」
「殺せばいいのさ」
澄んだ男の声が響いた。
倒したはずのダークウルフが、ドラゴンロードに立っていた。
胸の傷に手を当て、やはり片手には黒い剣を携えていた。
「し、死んでなかったの !?」
「この程度でこのチャンスを諦めるものか」
ダークウルフは剣の切っ先をナイトホークに向けた。
「わたしにはハンデがある。これでお前と対等だ。それとも、もう降参かな?」
「戦う……」
カリンは驚いた。
ナイトホークは顔をきっと上げ、もう一度言った。
「戦う。そして、カリンをもとの界域に帰す」
ダークウルフはあざ笑った。
「おまえはやはり未熟者だ。この界域はあと数十年ももたない。おまえはこの世界とともに滅びるのだ」
カリンはハラハラしながら二人を見つめた。
黒ずくめの二人はジリジリと間合いをせばめ、剣の切っ先を擦り合わせた。
キュイーン!
剣と剣が音叉のような音を発し、弾け飛ぶ。確かに二人は互角だった。
カリンは台座の前にたたずみ、ただぼうぜんと戦いを見守るしかなかった。
しかし、だんだんとナイトホークは追い詰められ、カリンににじり寄ってきた。
ひゅっ ひゅっ
ダークウルフの剣がカリン目がけて振り下ろされる。
それをやっとのことでナイトホークは押し止どめた。
明らかにダークウルフはナイトホークではなく、カリンを狙っている。
狭いドラゴンロードの上では逃げ場もなく、カリンはおろおろするだけだった。
「カリン!」
ナイトホークが叫んだ。
「絶対おまえを死なせない! ドラゴンなんて所詮俺には無理だったんだ」
カリンは目頭がほてってくるのを感じた。
そんなことない、そんなこと……!
「ナイトホーク! やっぱり、諦めちゃだめ! ドラゴンはナイトホークのものだよ!」
カリンは思わず叫んでいた。でも後悔してなかった。
あたしには分かった。何にもしないより何かした方がいい。何もしないで諦めるより、失敗してもいいから挑戦した方がいい。
だから、あたしはナイトホークのために死ぬ!
ナイトホークとダークウルフがギュインと剣をあわせた。
力と力のせめぎ合いに剣が悲鳴を上げ、二人の手から離れた。
二本の剣がカリン目がけて迫ってくる。
カリンは悲鳴を上げて、目をつぶった。
カリンと同時に悲鳴を上げたものがいた。
だれの悲鳴なんだ?
薄れゆく意識の中でカリンは思った。
「カリン……」
呼ぶ声がする。カリンはそっと目を開いた。
ナイトホークが心配げにカリンを見下ろしていた。
「ダークウルフは?」
「消滅した。そして、カリンも死なずにすんだ」
「じゃあ、ドラゴンは諦めるんだね……」
しかし、ナイトホークはカリンがドキッとするほどの笑顔を浮かべ、ドラゴンを指さした。
黒い滑らかな台座にくっきりとドラゴンホースの姿が映り、その鏡映に剣が刺さっていた。
「じゃあ、あれは」
カリンの問いにナイトホークはうなずいた。
「ドラゴンホースを殺すんじゃない。その影の血が必要だったんだ」
気づいてみれば、カリンはもとの人間の姿に戻っている。
台座にはもう一本剣が突き立っていた。
「ダークウルフは自分の剣で自分の影を貫いてしまったんだ」
ふたりの見守る中、台座のドラゴンホースの影から、じわじわと虹色の光が広がっていった。
影は白色のきらめく光を放ち、足元からドラゴンを照らした。オパール色の光はドラゴンに吸い込まれるように、灰色の石を染め変えていく。灰色のうろこが光を放ち、ドラゴンは見る間にオパール色に輝き出した。
目覚めたドラゴンはシャリシャリと翼を広げ、首を下ろし、主がその背に乗るのを待ち受けた。
「カリン、これでおまえの界域に連れて行ける」
差し出されたナイトホークの手を取り、カリンはドラゴンの背にまたがった。
カリンは頭上を見上げ、
「天井にぶつからない?」
と、心配して言った。
「大丈夫、ドラゴンは移動するんだ。飛ぶのは次空と次空の狭間で、空間じゃない」
「ナイトホークの言ってること、なんだか分からない」
「乗れば分かる。本当に一瞬に俺たちは移動する」
「さよならは言えるの? また会えるの?」
ナイトホークは表情を緩め、カリンを見つめた。
「会えるときはいつでも会える。さよならはまだ早いかもしれない」
ナイトホークは虹色のドラゴンの首筋をなでた。
「さぁ、出発だ」
カリンはナイトホークにしがみつき、目をつぶった。
カリンは恐る恐る目を開いた。
その目に映ったのは、カリン自身だった。
カリンは呆然と鏡の前に立っていた。
ナイトホークのこともドラゴンのことも、夢のことのように思えた。しかし、その名残がカリンの額でささやいていた。
オパール色の石はそのままカリンの額に輝いていた。けれど、石の真ん中でチラチラと揺れる赤い炎は消えていた。役目を果たして、もうあの不思議な力は発揮されないのだろう。
その代わり、カリンはふつふつと胸のうちに沸いてくる力を感じた。
頑張れる。
カリンは鏡の中の自分を見て、思った。
いろんな可能性が自分にはあるんだ。未熟なナイトホークでさえも、小さな可能性をつかみ取れたのだもの。
そして、カリンは微笑んだ。