変化
朝陽が窓から差し込み部屋を明るく照らす。
耳元で鳴り響くスマートフォンの着信音。それは鳴り止んだと思ったらまた鳴る。それを三回は繰り返している。
「誰だよ。こんな朝早くから」
目を擦りながら、電話に出る。
「もしもし」
『今どこにいる?』
電話の主は聞き覚えのある声。いつも、会っていて昔から友達。蒼空からだ。
最初の言葉が居場所を尋ねる質問。焦っている様子もなかったが呆れてはいた。
「どこって家だけど」
当たり前のことを当たり前のように答える。
『そうか・・・なら、今何時か分かるか?』
「今?ちょっと待てよ」
枕元に置いている目覚まし時計を確認する。電池の残量が無いのかデジタルの表示の数字が薄く消えかかっていた。
「えっと、十時十分だけど。・・・・・えっ!」
自分で時間を確認して口に出してようやく違和感に気づいた。
学校には八時半までには行かなくてはならない。そのためには最低でも八時十五分には家を出る必要がある。だが、今は十時を過ぎている。完全なる遅刻である。今から行っても間に合う訳もなく、それに加えて今日は先生達の研修もあり、半日で学校は終わる(終わると言っても一時過ぎまではある)。
「今日は休む」
少し時間を置いて、『だろうな』という分かりきっていたと言わんばかり返答が返って来た。
今日の夜に泊まりに来ると約束をして電話を切った。睡魔が再び寝起きの緋多に襲い掛かって来て吸い込まれるように夢の中に落ちていった。
どこまでも広がる草原。遠くのほうで微かに見える建物。それに向かって歩く。ここがどこなのか分からないけど何故か歩いている。横から吹く心地よい風は歩くことに疲れを感じさせない。晴れて気温が高い四月の終わりに吹いてくる初夏を感じさせる風に似ている。
最初に居た位置から大分進んだところでようやく建物の近くにたどり着いた。白い外壁で高さが十メートルとちょっとはある。ステンドガラスが埋め込まれている中央は一際目立っている。こういうのは外国では教会と言うのだろうか。触れてみると硬くもないが軟くもない。何と言ったらいいか解らない。弾力があるというのも何か違う感じがする。
教会らしきものの周りを歩いて回る。周りには教会らしきもの意外は何もなく、草原が広がり近くに川が流れているぐらい。教会らしきもの自体もこれと言って特徴があまりない、普通のどこでもありそうな建物。ただ、決して古くはないが新しくもないのに妙に綺麗である。
一周回ってきたところで前にあるドアと向かい合あう。開けるか開けないかで悩んだが、結局は開けることにした。両手で扉を左右に押し開ける。鍵は掛かっていなかった。天窓から差し込んでいる太陽の光によって教会内は明るかった。二、三歩前に進んだところで上を見上げた。教会の周りを歩いているときには気づかなかったが、正面にあるステンドガラス以外にも奥の方や両サイドにあった。それらは、光を浴びるといろんな色に変化していた。
「・・・ここは一体?」
関心と共に疑問も浮かんできた。
上を見上げていた視線を前に戻す。
戻した視線の先に一人の女性が後ろ向きで立っている。教会に入った時は女性はおろか人ひとり居なく、動物の気配さえも感じなった。それなのに視線の先には女性が立っている。
でも、そのことに関しては何故か疑問を持たなかった。疑問を持つということよりは考えようとしなかったと言うべきだろうか。この時だけは、何が起きても全てを受け入れることが出来たと思う。
女性に一歩ずつ近づいていく。近いようで遠く感じる。距離は見る限りでは十メートルあるかないかぐらいだ。でも、すぐには女性の元にはたどり着けない。これだけは、疑問を感じたかも知れない。それでも、すぐに疑問は霧のように崩れ、風に乗りどこかに消えてしまった。
あと二、三歩という所で声が聞こえた。
『あなたは他人の心を読むことは出来ますか?』
その声は女性からのものだろう。
透き通った美しい声で雑音や掠れ、濁りが全く無い。何にも邪魔されることも耳に届く。癒される声や聴きやすい声と言ったものではない。簡単に言うと安心できる声と言うべきだろうか。
まるで遠い昔から、それこそ記憶が薄れている幼い頃から聴いている身近に感じる声。でも、周りの人間には安心できる声などいない。親友と言える蒼空でさえ安心できるとは言えない。寧ろ、不吉な予感がする。
どこかで聴いたことのある声。いつ、どこで、誰の声を聞いたのか解らない。思い出せない。
前に進んでいた足を止め女性の質問に答える。
「僕には無理です。誰が何を考えているかなんて分かりません」
おどけることも無く答えることが出来た。
不思議だ。普通なら答えに詰まったり、戸惑ったりして答えられない。なのに今はスラスラと答える。ここに来てから自分の中でいろいろと変わっている。
女性はピクリとも動かず、生きているのかと問いたくなる。
『あなたは人の心を聞いて平常心を保てますか?』
またも、根拠がわからない質問が聞こえてくる。
「・・・・・それは・・・・分かりません」
今度の質問にはさすがに言葉が詰まる。
今まで生きてきて人の心を聞くということがどういうことなのか分からない。もしかしたら、普段から友達や先生、親と話していることがその人の本心や事実であるかも知れない。はたまた、全ての事が存在しない偽りの話で嘘なのかも知れない。そのことは、例え血が繋がっている親子や兄弟などの血縁者や幼い頃からいつもそばにいる友達、もしくは生涯を共に過ごすと誓った夫婦でさえ本心なのかそれとも嘘なのかはわからない。
そんなことを訊かれて何と答えれば良かったのか。
『他人の本心を知るということは何も良いことではありません。本心を知ったことで今までのようには接することが出来ず、今の関係が崩れるかもしれません。気をつけてください。』
女性は突然、訳のわからないことを言い出した。
自分の自説論なのかそれとも誰かの言葉なのか。兎に角、女性は一つも質問をしていないのに関係が崩れるなどと言い、最後は注意をしてくれた。
他の人がここに居たら俺の頭の上には?マークが浮かんでいるのが見えると思う。
女性に言われた言葉の意味を考えていると目の前を蝶が横切る。それが合図になったのか女性の周りには数十、数百の蝶が輪になって渦を巻く。
それはなんと表現したいいのか分からない。今まで観たことがない。
輪になった蝶は次第に女性の全身を包み込み天井を目指し上へと飛び立つ。開いていた天窓から群れとなり外へと出て行く。女性の居た場所には一匹の蝶が居た。でも、女性の姿はどこにも無い。
蝶に近づこうとした時、めまいが襲う。足はグラつき平衡感覚を失う。そのまま地面へと倒れる。
その後、その場所がどうなったかは分からない。蝶が何を示していたかさえ分からない。
あそこに居た女性は誰なのか、何故人の『心を聞く』などと訊いてきたのか何も分からない。二度と会えないような気がした。
眠っている頭を無理やり起こし、重い重い瞼を持ち上げる。
半袖、半ズボンにタオルケット一枚とはいえ、七月の中盤であるこの時期にクーラーや扇風機なしで昼間から爆睡していれば、Tシャツは汗でびっしょりになる。
汗でべとべとになったTシャツを脱いで替えの服をタンスから取り出し、バスルームへと向かう。この時期は、一日に最低でも二回はシャワーを浴びなければ、汗臭さとベトベト感で普通には過ごしていられなくなる。普通は、学校から帰って来て一回浴びて、二回目は寝る前に浴びる。平日はいつもこれで過ごしている。休日や祝日は一日に三~四回は浴びることもある。
シャワーで一気に汗を洗い流すと体にあった違和感が無くなり、清清しくなる。
シャワーを終えて、新しい服に着替えて今の時刻を確認する。テレビ横に飾られているデジタル電波時計は三時半を表示していた。
電話が掛かって来てから約五時間は経過していた。その間トイレに行くこともなく寝ていたことになる。
寝ているときに何か不思議な夢を見た気がする。それがどんな夢なのかが思い出せない。覚えているとしたら不思議で変わった夢と言うことしか分からない。
夢の事を考えているとお腹がグーと音を立ててなる。
「腹減ったな。何か買いに行くか」
朝、昼と食べていなくても夕食までは持つだろうと予想はしていたけど、さすがに無理があった。我慢するという考えもあったが昨夜のように何も食べないで過ごすキツさが頭を過り、トラウマになるのは嫌だと思い買いに行くという選択肢にした。
蒼空が泊まりに来ると言っていたが何時来るかは分からない。でも、決まって八時過ぎにくる。これは強制したわけでもなく、最初から八時過ぎに来るという決まりが出来ている。
財布を持って家を出る。
四時近いとはいえ街には学校が終わった生徒達で溢れかえっていた。友達とじゃれあい制服では出入り禁止されているゲームセンターに入り仲良く遊ぶ者もいれば、カップルで喫茶店に入り他愛も無い話をして盛り上がったり、プリクラで思い出をつくる。それ以外にも塾に行って進学に向けて勉強する者もいる。
いろんな生徒がいるが全員が同じ学校の生徒と言う訳ではない。どっちかという同じ学校の生徒はたまに見かけるくらいでそんなに多くない。ほとんどが他の学校の生徒ばかりだ。
この地域には学校が四十とちょっとあまりある。その内、高校は六つ、中学は十四くらいあったと思う。全ての学校の予定が被ることはほとんどないがこういう時だけは被ってしまう。先生達の研修はいろんな学校の先生と合同で行う事がほとんどでその度に半日授業になったりする。それは地域全体の学校で行われる(私立の学校を除いて)。
だから、今日は生徒が普段より多いのだ。
行きかう生徒達を避けるようにしてファミリーレストランに入店する。店の中は四時という夕食にするには早く、昼食や休憩がてらに来るには遅い時間なのかガラリとしていて、今なら指定席というより貸切状態になっている。
中途半端な時簡に来店したのが悪いのか店員の態度と視線が痛い。文句を吐けるなら聴こえないように言って欲しい。遠くから「折角の休めるのに」と女性店員と男性店員のため息交じりの声が聞こえてくる。そもそも、この店はウェイターに男を雇うのか。普通のファミレスで男を厨房以外で雇っている店を見たことがない。少し変わっている。
街にいる生徒を避けるようにして入ったのに、これならコンビニで適当に買って家で食べれば良かった後悔した。
この店を出て行くという選択肢もあるがここで出て行くと負けた気がする。何と戦っているかは分からないが、ある意味では店員と我慢比べになっている。こっちが視線に負けて出て行くか店員がお客様として丁寧に扱うかになっている。ここで出て行ったらこの店に次から入り難くなる。
メニュー表を手に取る。ランチタイムの時間でもなければ、ディナータイムでもないので時間ごとのメニューが頼めない。
五分ぐらい悩んだが夕食がてらにサイコロステーキ定食を頼むことにした。
各テーブルに備え付けてある呼び出しベルを鳴らす。何故かボタンを押すのに少し戸惑いと抵抗があった。
俺以外には誰もいないためにすぐに店員は来た。
注文を聞きに訊きに来たのはさっきから俺に向けて愚痴を溢している二人のどちらかだろうと予想していた。だが、その予想は間違っていた。この店には男女二人組みの店員以外にも居たのだ。入店したときには見えなかったが確かに居たのだ。さっきから愚痴を溢している二人とは違い、客を笑顔で迎えられる店員もいた。
「ご注文は御決まりでしょうか?」
彼女は笑顔で丁寧に対応する。
観ていて心が癒され目の保養になる。
絶世の美少女とは言えないが可愛いのは間違いない。セミロングで日本人っぽい黒髪に身長は百五十五ぐらいだろうか。幼くも見える大人っぽくも見える。意外にストライクだったりするかもしれない。
「えっと、サイコロステーキ定食下さい」
メニューを見ながら答える。
「お飲み物はいかがなさいますか」
メニューを片付けようとしているときに飲み物を訊かれた。
「アップルジュースをお願いします」
メニューをとっさに開き、ドリンクを確認する。
いつもの行っている店ならばドリンクバーの券を出して飲み放題にするがここにはそれがないようなので、最近よく飲むアップルジュースを頼んだ。
女性店員はメニューを復唱して間違えがないことを確認すると厨房へ向かった。
あの態度が店のマニュアル通りだとしても何だか清清しい。奥で愚痴ばっかり言っている二人とは大違いだ。同じマニュアルを読んでいるはずなのにどこをどう間違えたらそうなるのだろうか。不思議に思う。
待ち時間にスマフォでゲームをやりながら時間を潰した。
サイコロステーキだから時間が多少は掛かるだろうと思っていたけどそうでもなかったらしい。これも、客が俺一人だからだろうか。
気を使ってくれたのかアップルジュースとサイコロステーキ定食を同時に持ってきてくれた。
「ご注文は以上で」と言って丁寧にお辞儀をして去っていった。
会話する相手が居ないため黙々と目の前の料理を食べていた。
窓側に座っていることもあり、たまに外から来る視線が少し痛い。時間が経つに連れて道を行きかう人の人数も増え、こちらに視線を飛ばす人数も増えてきた。
これじゃ、妙なプレッシャーが気になってゆっくり食べることが出来ない。
食べ終わる頃には四時半を過ぎていて、少しずつだが店の中にも客が増えてきた。いつの間にか、俺への態度が大きかった男女二人組みのウェイターが居なくなっていた。シフト時間の終わりでも迎えたのだろう。新しく女性ウェイターが二人来ている。相変わらず彼女はさっきから頑張っている。今も他のテーブルの注文を聞いている。
半分ぐらい余ったアップルジュースを少しずつ飲みながらくつろいでいる。
くつろいでいると言ってもグダーとなってテーブルに寝ていると言う訳ではない。この店の中にいる人達の行動を観察しているのだ。行動を観察していると言うと何だか響きや感じ、ストーカー風に悪く聴こえるかも知れないが、みんなが想像しているようなことではない。簡単にまとめると人間観察というべきだろうか。それとも、路上観察というべきなのか迷ってしまう。
人間観察は一般的には趣味が悪いと認識されがちだが意外にやっている方は面白いのだ。たとえば、普通のサラリーマンが信号待ちをしている時にどのような行動や仕草をするのか見ているとたまに顔には見合わない仕草や物を持っていることがある。例に挙げるなら、ゴツイ人がウサギのストラップを持っていることがある。それを観ても笑いそうになるがサラリーマンの近くに居る人の中でそれに気づいた人の反応もまた面白い。
あまり伝わらない人は一度やってみると良い。必ずとは言えないが新しい発見をすることがある。そのうち、意識しなくても人間観察やってしまうだろう。
最近では道に設置されているベンチに腰掛けている人が隣に居る後輩や電話越しの相手と何を話しているのかを勝手に想像したりしている。これはこれで面白い。
ただ、気をつけて欲しいことがある。あまり人を睨んだり、表情を表に出し過ぎると相手に不快感を与えるので長時間見るのは控えたほうがいい。観察しているのがガラの悪い人なら尚更だ。トラブルになることもあるから気をつけて欲しい。
アップルジュースを飲み干す頃にはほとんど席が埋まっていなかったこの店も三分の一とちょっとは埋まっていた。相変わらずだが外はまだ明るく、夕焼けにさえそまっていない。
一時間以上ここでグダって居るのも悪いので外に出ることにした。
レジに向かうと注文を訊きに来てくれた彼女がいた。
「サイコロステーキとアップルジュースで九百八十円になります」
サイコロステーキ七百八十円、アップルジュース二百円は高校生のお小遣いにとってはなかなか高いものである。こんなものを毎日食べようなら一週間とも持たない。
だが、緋多は違った。緋多の家計は少々複雑で簡単に話せるようなものではない。
ポケットから財布を取り出し中から千円札を抜こうとした時だった。
『この人、長い時間居たのにあまり食べてないんだ』
どこからとも無く聞こえてくる。聞こえてくると言って耳から入り脳に伝わるのではない、直接的に脳内に響くのだ。
その声の主は紛れも無く目の前にいる彼女のものだった。
千円札を取ろうとしていた手を止め彼女の顔をみた。
「どうかされました?」
突然、観られたことに戸惑い、自分の顔に何かついているのかと手で触れて確認をする。その仕草から彼女がさっきの言葉を言ったとは思えなかった。
「今何か言いました?」
率直に尋ねる。
「いえ、何も」
彼女の声は嘘を言っている様子もなく、瞳をいろんな方向に泳いでいなかった。
「何か言ったか」という質問に「いいえ」と答えた彼女は何も間違っていなかった。緋多が財布からお金を取り出すまで彼女は言葉どころか口さえも開いていない。
それでも二人の周りには誰も居ない。他の客も二人を見ている素振りも無く楽しく食事をしている。店員も厨房や各テーブルで食器をせっせと運び片付けている。
「すみません、変なこと言って」
自らが勘違いしていたと思い、疑問を持ちながらも素直に謝り、千円札を出す。
「気にしないでください。千円からですね」
彼女はいい人だ。突然、見知らぬ男から変なことを言われても不愉快さを表に出さず、「気にしないで」と優しい心遣いで逆に気を使わせてしまった。優しいというか心の器が大きいというか、何と言って良いかは分からないけど兎に角良い人なのは間違いない
お釣りを貰うと入店してくる客と入れ替わるように外にでた。
夕焼けにも染まらない空の一方で街は学生に加え帰宅途中のOLやサラリーマンの姿が多く見られ、居酒屋に入っていくのが見える。これから、仕事ことも忘れてお酒で溜まっているストレスを発散するのだろう。
今から家に帰ることも考えたが帰っても大してすることも無く暇なだけだから近くの本屋に行くことにした。
大型ショッピングセンターに入り本屋へと向かった。
ここは百を超えるテナントが入っていて洋服や食品、日常品などがあり地下にはお土産やご当地品などを扱う店があり、屋上に近いところはレストラン街となっている。
一日でこのショッピングセンターを回ることは難しく、初めて来たグループでは必ずと言って良いほど迷子になることがある。そうなった場合は見つけるのに一苦労して、自分達が最初どこにいたのか忘れてしまうことがある。
中庭を抜け二階に上がる階段を上るとその本屋はある。
床面積約千五百平方メートルという広さを誇り、書籍の数はざっと見ても二万を超えている。種類もジャンルを問わず多彩であり、この地域では一番大きな書店になる。
ここには結構な頻度で来る。漫画や小説の最新刊が出ると三日以内には来る(交通状況や距離などの関係で二日ぐらい遅れることがある)。それ以外にも目的が無くても来ては適当に本棚を回って試し読みができるものがあれば立ち読みをして、それが面白かったら出ている巻数で手持ちのお金が許すだけ買う。今までの一回の買い物の最高が二十五冊を買ったことがある。このときは、最新刊や面白いものがたくさんあって買ってしまった。さすがにこの時だけはやばかった。財布の金が一気に飛んでいった。
そんなこんなで家には八百近く漫画が置いてある。
気づかないうちにどんどん増えていって今では本棚に入りきれていない。まるで、借金のように膨らんでいくのだ。
今回は漫画ではなく小説が置かれている棚へ向かった。
小説はSFファンタジー系が好きで最近では電〇文庫の本を(立ち読みだが)よく読むようになった。
前に来たときに読みかけになっている本を一冊取り出しページを捲る。
周りには数人いたが気にすることなく集中して読む。一度集中してしまうと周りが見えなくなり音も聞こえなくなる。たまに集中しすぎて四時間ぐらい立ち読みをしていたことがある。さすがにこの時だけは店から注意を受けた。それからは気をつけているがそう簡単に出来るものではない。それでも、一時間から二時間ぐらいには抑えている。
読み始めて数十ページ、本の中盤に差し掛かったときのことだった。
集中していて何も耳に入ってこないはずなのに確かに聴こえた。
『またあいつ立ち読みしてるよ』
その声と口調は近くにいる店員のものだと分かった。
その店員には前に注意を受けたことがあるから分かる。
隣にいる中年のサラリーマンに当たらないように棚の下にある引き出しから本を取り出し隙間の開いたところを埋めていく。たまにこちらに視線を向ける。まるで、立ち読みをやめろと言っているように。
本に集中しようと視線を文字に移すが店員が気になって内容が頭に入ってこない。あまりにも視線が気になったので後ろを向いた。
一瞬だが目が合ってしまった。
『やべー、目が合ったよ。どうしよう』
咄嗟に顔を前に戻したがまた言葉が聞こえた。
さっきのファミレスと同じ、耳から聞こえてくるのではなくて頭の中に直接語りかけるように聴こえる。
店員が口から言葉を出していないのは分かった。
『この間はどこまで買った?』
また、頭の中に響く声。
今度は男性店員のものではなくおそらくその隣にいる中年のおじさんのものだと思う。
その声には周りにいる誰も反応しない。聞こえているけど聞こえていないふりをしているのか、それとも本当に聞こえていないのか。
周りの反応を見る限りでは後者になると思う。
(幻聴が聴こえたのか)
自分には聞こえていて周りにいる男女さまざまな人には聞こえていない。そうなると空耳なのかそれとも幻聴なのかと疑いたくなる。もしかしたら、変な病気に罹っているのではないかと不安にもなる。
本に集中できなくなり棚に片付けて店を出ることにした。
広い迷路のような店内を迷わずに出口へと向かう。
昼間のように明るかった空も夕焼けに染まり、街では所どころで少し早いが街灯もともり始めていた。
家に帰る途中で街を行きかいすれ違う人々の声が聞こえた。声自体が聴こえるのは大して問題ではなくそれが当たり前なのだ。ただ、聞こえてきた声はどれも本音のようなものだった。
上司と呑みに行っているサラリーマンからは「なんで俺がこんなジジィ相手しなければいけないんだ」と上司には絶対に口が裂けても言えない言葉や「そろそろ別れようかな」なんて言う外から見たら中の良さそうなカップルの彼女の声が聞こえてくる。
なんとなくだが街にいるのが嫌になって大通りから路地に入り街外れにある河川敷を目指した。
その間も三、四人だがすれ違う人の本心が聴こえた。
気がついたら途中から走り出していた。何故走っているのかは自分でも分からなかった。十分ぐらい走ると目指していた河川敷に着いた。
川に沿いながら夕陽と逆の方向へ歩いた。
紅に染まり輝く太陽に照らされた背中が歩く前に影となり伸びている。
東に浮かんでいる雲も普段から知っている白色ではなくオレンジに染まり、自然のアートを作っている。
周りに人がいないお陰でさっきまで聞こえていた声が聞こえなくなり、スッキリした。今までは心の声を聞きたいと思ったこともあった。でも、実際に聞こえると嫌になってくる。人の聞いてはいけないことまで聞こえて来て、プライバシーを犯したているようで罪悪感を感じる。
少しの間、何も考えずに歩いた。
ポケットで着信を教えるバイブレーションがなる。
「・・・もしもし」
『今どこだよ?』
少し怒った声が聞ける。
「河川敷だけど、どうした?」
『お前家に居ろよ。圭亮と新次でお前の家の前に居るんだけど帰って来てくれないか?』
電話の主は蒼空のようだ。
今日、泊まりに来ることになっていた。谷村圭亮と堀原新次は同じ高校のクラスメイト。高校では良く四人つるんでいる。ちなみに、昨日の一件はこいつ等も関わっている。
「分かった。二十分ぐらいで戻る」
電話を切り、河川敷から大通りに入る道へと行く。
その帰り道は声が聞こえなかった。