光りとネックレス
EPS ~継承のネックレス~
夕陽に照らされた誰もいない放課後の教室。誰も居ないというのは言い過ぎたかもしれない。正確には少年が一人残っていた。
少年の名前は佐々木緋多。夕日に似た色で短髪よりは長い髪で決してイケメンという分類には入らないが悪くはない。学校の勉強もそれなりには出来る。それなりには。
何故、緋多が放課後の教室で一人残っているのか。それは簡単に言うと課題と反省文を書いているのだ。
朝から友達と廊下でじゃれあっているときに勢い余ってトロフィーや表彰状の飾られた棚のガラスを割ってしまったのだ。だが、それをすぐに報告し校長に謝れば済んだことをとっさに逃げてしまい、教室に戻ろうも現場を見ていた他の生徒に顔がばれていて戻ることも出来ず学校の屋上授業をサボりで寝ていたのだ。次に目を覚ましたときは昼休みになっていた。何もしていないとは育ち盛りの高校生なのだからお腹ぐらいは空く。一階にある売店に行くか悩んだが空腹には勝てず売店に向かった。そこで選択を間違えたのだ。売店には行かず我慢をすれば緋多の運命は変わっていたかもしれない。売店に行き焼きそばパンと練乳メロンパンそれにイチゴオレを買い、屋上に戻ろうとしたとき突然右肩を誰かに掴まれ、後ろを振り返ったときには遅かった。
後ろに居たのは体育科の伊藤誠だった。伊藤はこの学校に来て九年目と長くそれに加えて今年から生徒指導部の部長をやっている。また、柔道部と陸上部の顧問もこなしている。
そんな伊藤から一度は逃げようと試みたが成功することはなかった。当たり前と言ったら当たり前の話だ。この学校で伊藤から逃げられる者がいるとするならほんの一握り。片手で数えることが出来るぐらいだ。
その後は、焼きそばパンや練乳メロンパンの袋を開けることも出来ず、イチゴオレの香りを嗅ぐことも出来ずに生徒指導部へと連れて行かれた。そして、正座した状態で二時間みっちりと説教を聞くはめになってしまった。最後の四十分ぐらいはガラスを割ったことや逃亡して授業をサボったこととは関係のない話になっていた。自分の人生の自慢話や世間で起きていることを聞いていた。
正直、うんざりしていた。話すことがないのなら帰らせろと思っていたが口にすることも出来ず睡魔に負けそうな体を無理やり起こしていた。
唯一の救いと言ったら校長が昼から学校に居なかったことだ。この学校の校長は話が長いことで有名である。一説によると卒業式のときに一人で一時間は話したという噂もそんざいする。そんな校長が居ないことはものすごい救いになった。
そんなことが今日一日で起こり、今に至るのだ。
「クッソー。なんで俺だけ」
一人しか居ない教室で心の声を呟く。
トロフィーや表彰状の入った棚のガラスを割ったのは緋多ひとりではない。他にも三名ほど居た。その三人はこの場所にはいない。
緋多を除いた三人はガラスを割った直後に一人は逃げたが教室で捕まり、他の二人はその場ですぐに捕まり生徒指導部に連れて行かれた。そのまま、午前中のうちに説教、謝罪、反省文を終わらせたのだ。
「反省文に課題ってどこのいじめだよ」
誰もいない空間で愚痴を叫ぶ。
緋多に出された反省文は四百字の用紙を五枚約二千文字、課題は国語、数学、英語の3教科のプリントを七枚ずつ、現代社会の政治に対する意見文を用紙二枚となっている。反省文は今日中に課題は明日の朝までに提出しなければならない。
ただ、ひたすらとシャープペンを持つ手を動かす。カタカタと音だけが教室に鳴り響く。その音以外は外から聞こえてくる部活動生の声と蝉の声ぐらいだ。
反省文と言っても一枚半も書くと、他に何を書けば良いのか分からなくなり結果的に同じ事を二、三回は書き、これからの目標や夢なんかも書き足していく。
集中するためにスクールバッグの中から音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンで耳に蓋をする。最近、お気に入りのWebアーティストの曲を周りの音が聞こえないぐらいの音量で流す。
このアーティストの曲はテンポと歌っているボーカルの声が良く一日中聴いていても飽きない。それに曲の歌詞が好きだ。別の歌は綺麗ごとや理想ばかりが並べられているのが多かったり、遠まわしメッセージを伝えようとするがそれがない。理想や綺麗ごととは対照的に学生が抱えている問題や意見をストレートに自分達の代わりに叫んでくれる。
インターネット上では新曲が発表されればTwitterやfacebook、チャットなどで話題となりネット上を盛り上げる。ミュージックビデオが配信されればたちまち再生回数は十万を超える。Webを日頃から使っている学生や若者なら知らない人はいないと思う。
それと同時に批判する人も少なからずいる。少ないと言っても周りには必ず一人はいる。その多くが四十代以降や教育関係者など。「教育に良くない」、「言い方を考えろ」などが彼らの意見らしい。
でも、そんな事を言っているときりがなく、何でも禁止されていく。
そんなお気に入りのWabアーティストの曲を聴きながら一気に集中する。
曲を聴かなかった時より遥に作業効率が上がった。作文用紙一枚に一時間は掛かっていたが今ではその半分以下で終わらせられる。スムーズにシャープペンが紙の上を踊るようにすべる。
この調子で行けばあと十分もすれば終わるだろうというところでペンが止まり窓の外を不意に見た。
夕陽のようなオレンジ色に染まっていた空は青黒く深海を思わせるような色に変わり、グラウンドにいた生徒達の声も止み、生徒の人影さえも観えなくなっていた。唯一残っているとしたらナイターで練習をしている野球部ぐらいだ。
一番星がいつ現れたのか、どれなのかは分からないが無数に大小さまざまに光り輝く星々と満月に近い|(もしかしたら満月は過ぎているかもしれない)少しだけ欠けた月を見ながらため息をついた。
今、一瞬だけ心の中で“平和な日常が壊れないかな”と思ってしまった。叶うわけもなければ変わることもない。
単純に現実逃避したいだけかもしれない。厨二病的な発想からして七月の夏の暑さに負けたか、反省文と大量の課題で頭の中の思考回路がショートして正常に働かなくなったかのどちらかだろう。こんな事を考えている時点で厨二病だな。
音楽プレイヤーの再生ボタンを押し、再び曲を再生した。
終わりかけていた反省文を一気に終わらせる。何も考えずに頭の中に浮かんでくる単語や言葉を流れるように書いていく。
音楽はほとんど聴いていなかったと思う。それでもなかった集中は出来なった。
書き終えると持っていたシャープペンを机に置き、手を上に挙げて背伸びをする。
時刻は七時半を回っていた。朝から何も食べていないせいか|(昼の焼きそばパンと練乳パンは結局食べることは出来なかった)、お腹が極度に空いている。時折、グーという音を鳴らしていた。何か食べないと空腹を通こしてお腹が痛くなりそうだ。
昔、友達とどちらが長く何も食べずにいられるかという馬鹿げた勝負をしたことがある。確か、小学校五年生だったと思う。
その時は、怖いもの知らずで、興味や好奇心の湧いた事ならどんなに危険と分かっていても、どんなに馬鹿げたことだと分かっていてもやっていた。多分、純粋にそのことについて知りたかっただけだろう。
子供は好奇心には勝てないということだ。
勝負の結果が未だに分からないのだ。結果はいまいち覚えていない。唯一、覚えているのが意地を張って二人とも二日は何も食べなかった。
罰ゲームが罰ゲームだけに。負けたら小学校の校長に告白するというものだった。それだけは、絶対にしたくはなかった。当時の校長は女性だったが顔がとても嫌いで無駄に絡みがめんどくさかった。特に口癖で「伝説になる」という意味の分からないことを集会などで毎回のように言っていた。そんな校長に告白をするということは小学校生活だけじゃなくて、中学校、高校と最悪な人生を送ることになる。小学生でもそのことが地獄で屈辱であることは理解できた。
一日目を過ぎてからは空腹を感じなくなった。その代わりお腹が物凄い痛みが走った。胃腸炎にでもなったんじゃないかと言うぐらいの痛みだ。
そこで止めれば良かったのだが校長に告白するという罰ゲームが頭の中で引っかかり意地を張ってやめることが出来なかった。
結果として小学生だった俺達は好奇心に勝てないのと同じで痛みにも勝つことは出来なかった。開始から三日目の昼に断食をするのを止めた。そこで、意地の張り合いは限界を向かえ、食べ物に手を出したのだ。
その時は、一週間分ぐらいの量の食事をした。それと睡眠も。
空腹から来る痛みのせいで夜は眠ることがまともに出来なかった。
その勝負から断食はし過ぎるとお腹が痛くなることと無駄な意地の張り合いはするなという教訓を学んだ。
そんな昔の事を思い出して笑いそうになりながら、机に置いていたシャープペンと消しゴムを筆箱の中に片付けて、消しカスを集めていたときだった。
窓の外から眩しい光が目に入って来た。それは星の光にしては大きく、月明かりよりも強かった。
とっさに左腕で目を隠し光が直接目に入るのを防いだ。光は一瞬のことだった。何秒もの間光り続けるということはなかった。一瞬のことで何が起きたのか理解が出来なかった。唯一、理解できたのはその光が近くの山からだということだった。
窓を開け、周りの様子を確認しようとしたが八時近いこともあって誰もいなかった。野球部も片づけを始めていた。
他に誰かあの光を観ていないのかと思い、ポケットからスマートフォンを取り出した。そこには二件のメールが来ていた。一件は携帯会社からのもので、もうひとつは親友の蒼空からのものだった。
浜西蒼空とは小学校の頃からの付き合いだ。何かをしようとする時や学校などの行事でグループに分かれようとするとき必ずと言っていいほどこいつ同じグループになる。ひとつ言っておくが断食勝負をしたのは蒼空ではない。蒼空も好奇心旺盛だが馬鹿げたことや危険なことの区別はつく|(俺も区別はつくが当時は好奇心には勝てなかっただけだ。今は大丈夫だと思う)。ただ、校長に告白するという最悪にして最低の罰ゲームを考えたのは言わなくても分かると思う。蒼空。トロフィーや表彰状の入った棚のガラスを割ったメンバーには入っている。
蒼空からのメールの内容は「反省文終わったか?。終わったらゲーセン来いよ」というものだった。完全に冷やかしに来ている。
こんな量の反省文と課題をたった数時間程度で終わらせるほど緋多の頭のスペックは高くないのは蒼空も知っている。それでも、こんなメールを送ってきたのは緋多をいじって遊ぼうとしているのだ。そんなことが出来るぐらい二人は仲がいいのだ。
「あいつー」
言い返しのメールでも送ってやろうかと思ったがそれよりも先に光のことを聞きたくて文句の文章を消して光のことについて尋ねた。
返信はすぐに返って来た。「頭でもおかしくなったか。子供じゃあるまいし、宇宙人でもいたのか」。と言う答えが返って来た。当たり前の反応だ。いきなり、“眩しい光が山から見えた”なんて送ったら飛行機や車のライトじゃねーのと言われるか、頭おかしいじゃねといわれるか、宇宙人かと言って笑われるかのどれかだ。普通に信じる人の方が少ないと思う。それも、人を信じやすく騙され易い人だ。
これ以上言っても信じてもらえないと思いメールの返信をするのをやめた。
蒼空に信じてもらえないのに他の人が信じるだろうか。もしかしたら、信じる者もいるかもしれない。それでも、信じてもらえず否定され、笑われるほうが確率的にも大きい。
少しの間考えたが誰も信じてくれないという結論が出た。迷いはあったが覆ることはないと自分自身に信じ込ませた。
黒板の上に掛けられている時計で時間を確認した。時刻は八時十五分を指していた。あの光を見てから二十分近く経っていた。その間、戸惑ったり、他に誰か見ていないかと思いメールをするか考えていた。
時刻を確認してから机に散らばったままの消しカスを机から払い落とし、筆箱や課題、反省文を鞄に仕舞い込む。音楽プレイヤーはポケットにいれたまま曲を流していた。
反省文は今日中に出せと言われたが時間が時間だけに教師もほとんど残っていないと考え明日の朝出すことにした。
この推測は間違っていなかった。確かに残っている教師は野球部のコーチや顧問と仕事をしている数名の教師しか居らず、緋多が直接関わっている教師はこの中にはいなかった。
鞄を持ち開けていた窓を閉め鍵をしたことを確認すると教室から出ようとしたその時だった。再び同じ方向から光が差し込んで来たのだ。教室のドアを出ようとしていたため、今度は背中越しに見えて直接は見ていない。それでも、光は教室中を明るく照らした。月明かりよりも明るい光は薄暗かった教室を蛍光灯を点けている時と変わらないくらいに明るくした。
後ろを振り返り光の方向を確認した。場所はやはり近くの山からのようだ。
その時、緋多の中で何かが起こった。突然湧き出してくるものがあった。光の正体を知りたい、あそこのあるものは何か、何故、誰も気づかないのだろう。湧き出してくるのは疑問に近いもの、でも疑問とは何か違う。自分でもよく分からない。
好奇心。
頭の中に一つの言葉が浮かんできた。それこそが湧き出してくるものの答えであり原点|(原水と言う方があっている)である。
少年としても心からだろうか、それとも体が未知のものを求めてなのだろうか、あるいは遺伝子に刻まれた遠い昔からの冒険と探検の血が騒いでいるのだろうか。どれにしても、好奇心というものが湧いてきたのは小学校以来ではないだろうか。高校に入ってからは好奇心という言葉さえ忘れかけていた。
次の瞬間、教室を閉めるのも忘れて駆け出した。
靴箱で靴に履き替え、自転車小屋に置いてある自分の自転車の鍵と二重ロックを外し、自転車に跨ると勢い良くペダルを踏み込んだ。正門を出ると家とは逆方向へ向かった。無人の道を時速三十キロで走る。八時を過ぎていても夏だからひとりすれ違ってもおかしくなかったがすれ違うどころか人影さえみていない。体に当たる風が生温く心地よいとは言えない。川が見えてくると少しずつ人の声が聞こえてきた。夏の川原で行われていることと言えば、もちろん分かると思う。そう、バーベキューだ。夏の醍醐味であるバーベキューを楽しんでいる仲の良い家族や若者の集団。それらの声が風に乗って聞こえてくるが目もくれず、ただ、自転車を漕ぎ続けた。
光の元に在るものが知りたくて、光の謎が知りたくて、ただ、それだけのことで夜道を走った。途中、遠く方から花火の音と赤や緑、青、黄色などに光り、夜空に大きな花を咲かせていた。その時は一瞬、自転車を止めてゆっくりと観たいと思ったがすぐに好奇心によって消され、頭から花火という文字が消えた。
山の麓には三十分ちょっとでたどり着いた。それでも早いほうで、普段なら一時間は掛かってもおかしくはない。それだけ、自転車を速いスピードを維持したまま漕いでいたことになる。好奇心恐るべしと言ったところだ。
近くの駐輪場に自転車を置き、街灯もまともにない山道へと足を踏み入れた。
傾斜角度は三十五度から四十度はあるだろうか。その急斜面を一気に駆け上る。きついは感じず、昼から何も食べていなくてさっきまでグーと音を立てていたお腹も空腹を感じることなく、全ての感情が好奇心に負けていた。
月明かりだけが整備されていない山道を照らし、あちこちから聞こえてくる蝉や鳥の鳴き声が妙に音楽になっている。
ポケットに入れていた音楽プレイヤーの曲は学校を出てきた時から流れ続けているが、全然耳には入ってこない。たまに流れていることも忘れることがある。それでも、ないよりはマシだ。音楽が流れているだけで前へ進む足が速くなる。
どのくらいの時間で登って、どのくらいの高さにいるか分からないけど、予想では三分の二は来ている筈だ。
「この辺りだよな」
進めていた足を止め、後ろに振り返った。
山の上から|(頂上まではまだ距離がある)街を見渡すと夜景が広がっていた。街を見下ろしてやっと自分がどのくらいの高さにいるのかが分かった。
夜景からまた薄暗い森の中に視線を返した。周りを見渡して光の出所を探した。山道から離れて、置くの方へ進む。隙間なく生い茂った木々の葉で月明かりが地面まで届かず、ポケットからスマートフォンを取り出し、懐中電灯のアプリを起動させ足元を照らした。懐中電灯のアプリと言っても本物よりは弱く、照らしている範囲も狭い。それでも、山道で足元を照らすことが出来ないよりはあるだけで物凄く助かる。
奥に進んでも光らしきものは何も見えてこない。夜の山の中で、しかも月明かりも当たってないとなると光っているものを見つけ出すのはテストで百点を取るよりも簡単且つ時間が掛からないものだ。
それから、一時間は探し回ったが見つけることは出来なかった。
諦めて来た道を帰ろうとしたが来た道が分からなくなり夜の森の中で迷子に近い状態になっていた。
そして、運が悪いことにスマートフォンの電池の残量が五パーセントを切った警告がなった。このままアプリを起動していると電池はすぐになくなり、いざと言う時に使えなくなるといけないからタスクマネージャを開き、起動しているアプリを全て終了させた。
多分、元居た場所からは大分奥に来ているはずだ。
スマートフォンをポケットにしまい、もう一度どの方向から来たか記憶を辿った。記憶を辿っても自分が今どの方角を向いているのかどのくらいの距離にいるかがわからないため、何も出来ない。
「兎に角、適当に歩いてみよう。そしたら、どこかには出るはずだ」
今、分かっていることがどちらが頂上でどちらが麓と言うことだけ。なら、麓に向かって下りて行けば山から出れることになる。
スマートフォンの明かりも無ければ、月明かりも無い、それこそ道なき道を下って行く。うっすらと見えている障害物を避けたり、手で退かして前へ進む。
登ってくる時までは鳴いていた蝉の声が止み、静寂の山へと変わった。
夜の山は物一つ聴こえなければ、生き物の気配さえ感じない。不気味という言葉はこういうことを指すのだろう。
自分の鼓動が何故か速くなっていることが伝わってきた。それに連れて前へ進める足が徐々に速くなっていた。焦りと恐怖からだろう。自分の来た道が分からなくなり、唯一の通信手段であるスマートフォンも残り残量がほとんど無いという状況から焦り始めた。そして、夜の山の中で迷子に近い状況で本当に帰られるのかという不安が恐怖へと変わり、薄暗い静寂の山の中で一人さ迷っている。昼間なら何も思わず、何も恐れることなく麓を目指せるが、今は違う。夜の不気味な山の中で何か出そうな雰囲気をしている。それこそ幽霊とか出るんじゃないかと考えてしまう。普段なら夜の川や道、神社、それこそトイレだって怖いと思ったことは幼い頃で今は何とも思わない。むしろ、そういった所は好きな方だと思っていた。だが、何故か今は恐怖に押しつぶされそうになっている。ここに来て自分の中で何かが変わった。
本来ここに来ることはなかったが光を二度観たことによって好奇心が此処に来る目的を作った。その好奇心さえ今はどこかに行ってしまった。
耳元で流れている音楽がなければ、自尊心を、今の自分を、まだ残されている僅かな冷静さを保つことは出来ずに、それらが崩壊してしまいそうだ。
焦りを冷静さに変えようと別の事を考え、恐怖に飲み込まれないように流れている音楽を歌う。
自分の感覚が今も正常に働いていて、まっすぐに降っているのなら半分くらいは来たはずだ。いや、きっと来ている。そうでなければ、この山から出る自信がなくなり、恐怖に負けてしまう。
無理やり自分の思考を変え、この状況に対してもっとも都合の良いことを考え、今起きていることを全て書き換えていく。
俗にいう現実逃避だ。反省文をやっていたときのよりも激しく現実から逃げようとしている。
そして、此処に来ることに後悔を感じている自分がいた。そこに光があるという確信があったわけでもなければ、そこに希望や夢があったわけではない、ただ、好奇心という欲望に負けて此処に来た。
昼から何も食べてないために空腹状態になったお腹を家に帰ってまたは帰る途中のコンビニで夕食でも買った、テレビでも観ながらゆっくりと食べて、汗でベトベトになった体をシャワーできれいに洗い流して、もう少しでクリア出来そうなゲームでもやりながらお菓子を食べて、今何気にハマっている読みかけの漫画や小説を読んで、二時くらいには体を休めるために夢の中に落ちていく。平穏ないつも通りで、変わらない日常を過ごせば良かった後悔している。
現実逃避に集中しすぎて転んでしまった。仰向けになり木々の間から空を眺めた。ここだけは、木も少なく月明かりが差し込んで明るかった。転んだことによって現実逃避からリアルな世界に引き戻された。
空を見ることで焦りが治まり冷静さ取り戻してきた。
漫画やアニメの一シーンあるのうな、手の届くことのないうっすらと灰色の混ざった空に手を伸ばす。決して届くことはなくいくら近づこうとしても近づけない場所。それが空なのだ。
「・・・主人公もこんな気持ちなのかな」
物語の絶望した、はたまた希望を持った主人公の気持ちを考えていた。
何かを求めて追いかけて追いかけてきたつもりなのにたどり着いたときには何もない事を知ったときはこんふうになるのだろうか。それとも、次のステージに行こうとすぐに立ち上がるのだろうか。大抵は後者になる。でも、現実はそうはいかない。漫画やアニメの主人公が精神的に強いだけであって世の中は簡単に立ちあがれるほど強い者がどのくらいいるだろう。表面上は強く平気なふりを装っても内側は傷ついていることもある。ある意味ではそういった人も強い人だろう。本当に弱い者は何も出来ずに立ち上がり歩き出すのに時間が掛かる。
主人公のようになりた。そしたら世界は変わるだろうか。
空に伸ばしていた左手を降ろして、そっと地面に置いた。
なんとなく力を入れたときだった、左手に痛みが生じた。とっさに力を抜いて顔の上に持ってくる途中に何かが地面に落ちた。体を起こし地面に落ちたものを確認する。
「何だこれ?」
地面に落ちたものは二匹の蝶が向かい合うように並び、その周りを囲むようにして二丁の銃が交差している。そして、それらの真ん中に睡蓮があるネックレスだった。
不可思議なネックレス。こんなネックレスを見るのは初めてだ。今まで見てものは髑髏や剣、パワーストーン、イルカなどの動物ばかりだ。特にパワーストーンはこの世の中に多く出回っている。お土産屋に行くと必ずと言っていいほど置いてある。その種類も豊富でガーネット、アクアマリン、ダイヤモンド、ルビーなどの誕生石をはじめとしていろいろと種類がある。これらのようにほとんどの物がシンプルだ。
でも、今持っているネックレスは見たことがなった。物凄く繊細に作られ、デザインが凝っている。多分、膨大な時間と労力を使って作っている。
「何でこんなものが俺の手のひらに」
高価なネックレスのはずなのに、さっきまで空に伸ばしていた手のひらの中にあった。どこかで拾った覚えもない。光を求めて此処まで来て、何も見つからなかったから帰ろうとして走っていたら転んだ。どこにもネックレスに関することはない。
少しの間、ネックレスについて考えたが何も分からなかったから、山を降りた。今度は、恐怖も焦りもなく、すぐに麓に着くことが出来た。
近くに止めていた自転車に跨り、静まりかえった街へと向かった。