2 合歓木苡穂の大邸宅
「まさか、え、ほんとに……?」
野森は落ち着きなく視線を泳がせながら、近所で知らぬ者のない〝御殿〟の門を前にしていた。見事な枝振りの松が、塀の向こうから頭を覗かせている。
苡穂は、インターホンを鳴らしながら軽く振り向いた。
「そうだよ。この春から住ませてもらってるの。前から、長い休みの時はよく泊まりに来ててね、それで——あ、苡穂です、ただいま帰りました」
インターホンから『お帰りなさいませ』との仰々しい返事がかすかに聞こえ、野森はさらに萎縮した。緊張にのまれないよう、とにかく手近なものを見て言ってみる。
「あ、表札、合歓木じゃないんだね」
もしかしてそれは聞いてはいけないことだったか、と不安になるよりも早く、苡穂の答えが返ってきた。
「そう。山井は、ハウスキーパーの名字」
「え、ハウスキーパーって……。じゃあ、何でその、合歓木って表札じゃないの?」
「それは、だって防犯上——」
と、ガタゴトと鍵か閂の音が聞こえ、まもなく大きな木製の扉が開いた。いちいち味わい深い音がする。
「お待たせ致しました」
姿を現したのは、いかにも品の良いおばさんだった。なんとなく執事っぽいと野森は思った。
「初めまして、野森麻由美さんでいらっしゃいますね。どうぞ」
ややそっけない言い回しを補うかのように、おばさんは友好的な笑みを見せている。手で「こちらへ」と示す動きも柔らかい。
苡穂が一歩退いて、野森を先に促しつつ「山井朋子さんだよ」と小声で教えた。
「わー……すごい。映画やテレビの世界だよ……」
門をくぐり、おずおずと歩きながら野森は修学旅行で訪れた京都を思い出していた。
パターゴルフをしたら楽しそうな(そして怒られそうな)、広大で良く手入れされた日本庭園。そして、冬になったら赤穂浪士が討ち入りにでもやって来そうな、立派で厳かなお屋敷。ちょうど四十七人くらいならもてなせそうな大きさだ。
「そうだ。車でどこか連れて行ってもらう手があるね」
と、前を歩く苡穂が言い出した。
その手が示す方向には、建て増しらしいガレージがあり、その中に黒光りする高級車が潜んでいた。さらに、遠くの方には土蔵の白い壁と特徴的な屋根が見えて、いよいよ野森の背が涼しくなる。鑑定団もやって来そうだと思った。
山井朋子が、苡穂だけに向けて静かに言った。
「先ほどご連絡をお受けした時から、多少は準備しましたので……、いずれにせよ、まずはお上がりいただいてお茶でも……」
「そっか、うん、そうだね。そうします」
苡穂はそこで野森へ視線を送り、「まず家で休んでもらって、その後、どこか行きたいところがあれば」とやんわり訊ねた。
「いや、そんな、なんというか、できれば最もお気軽で人手をわずらわせないプランでお願いします……」
野森はどちらかと言えば本当はもう家に帰りたかった。ジャージ上下でクラシックコンサートに臨むような気恥ずかしさがあった。
そんな心情を察したらしく、苡穂は楽しげな笑みを浮かべる。
「わかった。じゃあ、うちでゆっくりしていって。そしていっそもう泊まるか暮らして」
「な……、またまたぁ」
野森は精一杯の作り笑いで、なんとかそれだけ言った。
約一時間後。
「ふぅー、美味しかったぁ……。限りなく美味でしたー」
野森は満ち足りてふやけきった表情を浮かべ、緩慢な動作でお茶を飲んでいた。
お茶、昼食、ケーキ、お茶と怒濤のようなおもてなし波状攻撃を受けてさらに緊張が増すかと思われたが、至高の食味快楽を立て続けに味わううちに、だんだんともう色々なことが気にならなくなっていた。
向かいに姿勢良く座る苡穂が、お茶を置きながらそんな様子に笑みをこぼす。
「ふふ、お口に合って良ござんした」
「くふふふ……さすが、上手だね朋子さんのマネ。酷似酷似」
屋敷の奥、庭を望むのに最も良い場所に位置する応接間。歴史的なまでに純和風な空間である。床の間には、掛け軸と何かの枝を生けた花器が当然のごとく揃っている。がやはり、自然と目が向かうのは、午後の強い光で照り映える庭の景色だった。
「しかし、絶景ですなぁー。この誕生日は、一生ものの思い出になりそうだよ」
野森に合わせて庭を見ていた苡穂は、その言葉で思わず友人の横顔に引きつけられた。
「もう、一生かけなきゃ返済できないね、この借りは」
とおどけて言った野森の笑顔に、苡穂は返すべき言葉を探すのに時間がかかった。
「……少なくとも、利息はいいからね。なんて」
「ええ、ほんとに?」
そこでほどけるように、どちらからともなく少し笑い合った。そのあと、今はより和やかな空気に満ちた和室から、また二人して庭を眺める。薄雲ひとつない快晴、光が溢れている。
と、野森が、庭の一方へと腕を伸ばして言った。
「気になってたんだけどさ、庭のあの、甘食みたいな形の、山かな? あれってなんていうか、何なの?」
「あー、あれね。すごい昔からあるみたいなんだけど、意味とかは良くわかんない。ちっちゃい頃、よく登ったりして遊んだなぁ。見つかると怒られたけど」
「そりゃ危ないよー、あれって地味に標高二メートルくらいあるでしょ」
「うん、結構登りがいがあるよ。近くで見ると大きく感じるし」
「ここから見てもすごい存在感だもん。なんか、モダンなフォルムというか」
「うぅん、そうだね。妙にきちっとした形だからすごく浮いてるよね、改めて思うと」
トントン、と不意にノックのような音がして、「はい」と苡穂が素早く反応した。
ふすまが開き、山井朋子がお茶の替えをお持ちしましたと言う。そして、二人のお茶が器ごと新しいものと取り替えられた。
去ろうとする山井朋子へ、ふと苡穂が声をかける。
「そうだ、ねえ朋子さん」
「はい、何か」
「庭のあの小さい山って、何か由縁があったりする?」
野森は、また少し緊張しながらそのやり取りを見守っていた。
苡穂の疑問を受けて、山井朋子の温和な表情に、ほんのわずかだが何らかの張力が働いたようだ。
「ええ、ございますとも」
声は明るく、今までにないくっきりとした響きがあった。記憶を探るように一度視線を外し、息を吸って語りだす。
「なんでも二百年ちかく前に、突如、一夜にして現れたとか。詳しくは、その当時のものは少ないですが、後年に撮った写真などの記録の品がいくらか残っております。苡穂さんは、ご覧になったことがおありかと存じますが……」
「えっ。そういえば、なんか見たような……でも、だいぶ前の話じゃない? ほとんど覚えてないよ」
待ち構えていたように、山井朋子はその言葉を受けて一際優しい笑みを浮かべた。
「無理もありません、あれは十年以上も前のことになりましょうか。苡穂さんが初めて七五三をなさった頃のことでしたから……。あ、よろしければ、今ひとわたり持って参りますので……」
「うん、見たい見たい。じゃあちょっとお願いします」
「わかりました。では、しばしお時間を……」
と頭を下げながら言い、山井朋子は静かに退室した。
野森は、何だか余計な仕事をさせてしまったように思えて、ちょっと気が重くなった。
それを紛らわそうと、軽口をたたく。
「ね、これで、朋子さん七五三の写真だけをひとわたり持って来たりして。しかも確信犯で」
それを聞いて苡穂は呆れたような、純粋ではない笑顔で言った。
「そんなボケをやってのけてくるようなら、私は複数の野森に囲まれて生活してることになっちゃうね」
「えー? そんな〝ボケイコールわたし〟みたいに言わないでよー」
野森は、明らかにまんざらでもなかった。