1 テスト最終日
リミットを告げる教師の声が合図となって、静かだった一年β組の教室にペンを机に置くカタカタという音が一斉に広がった。箱の中に一握りの豆が蒔かれたようなその響きに加えて、紙の乾いた音や、生徒達の安堵とも絶望ともとれる溜め息が、どこからも聞こえる。
うなだれる者、伸びをする者、目の焦点が合っていない者。
そして、教室の一番後ろの席には、腕の枕でほっぺたをつぶしながらうめき声をもらす者もいた。
「いほー……」
と、すぐ背後の席からつぶれた声で名前を呼ばれた苡穂は、学力に関して一切の悩みが無い者に特有の落ち着いた動作で振り返った。
すると机にへばりついた友人、野森麻由美が、横たえた頭部から上目遣いの視線で同情を売ってくる。
「だめだー……、全然浮かばなかった。あまりにも浮かばなかったよーうう……」
口の動きに連動して、髪と頭全体が弱った動物のように揺れていた。
そんなうわ言を聞かされて苡穂は、ふっと微笑むと、友人の鼻を指先で押した。それは「ふぐっ」という音を生むスイッチだった。
「いいから早くよこしなさい」
と言いながらも、苡穂はもう野森の答案用紙を取り上げている。
「あー、さらば答案、短い間だった……。できればもう二度と会いたくないよ……」
友人の泣き言を受け流しつつ正面へ向き直り、裏にしてある自分の答案の上に徴収した野森の答案を、これまた裏返しにして重ねる。と、目が止まった。
「また……」
なんと野森の答案の裏には高校生にあるまじき、落書きがしてあった。それも大量に。
それらは絵にタイトルのような文字が添えてある形式で、まるで枠線の無いマンガのように配置されていた。
振り向き様にビスケット手裏剣を放つお菓子忍者、装備の総額は時給八百円の範囲内で。
イガグリとウニの漫才コンビ〝トゲトゲトガリ〟その下には、ハリネズミとハリモグラの超人気デュオ〝ハリハリササリ〟達。そこに群がるファン、刺さるファンと図が連なる。
やめてください、とゲソを固く結ばれたイカからの哀願。
水切りをする少年の投げた石が川を渡り、対岸の碁盤の上にバシッと音高く止まる。汗をたらし、参りましたと投了する棋士。
爆撃機から投下される大量のパイナップル。
カバの背に乗る目玉焼き。
鏡を見つつ、冷えピタに〝合格〟と書き込むビン底メガネの受験生。
「うわあー……」
苡穂は、そうしたどうしようもないイラスト群を見ることに数秒間を浪費した。苦笑まじりの吐息とともに、前の席の人に答案二枚を渡す。
野森の白くない答案は一番上のままで、必然、その列の全員の目に触れながら教卓へとリレーされていった。
「さあ、いほ帰ろ。放校アズスーンアズ帰ろ」
数分前が嘘のように野森は晴れ晴れとし、楽しげな調子で苡穂の支度を急かした。
「するやいなや過ぎるよ、ちょっとまって。……はい、行こう」
「いざいざ、風のように去りぬー」
「それ、風と共に、だよ」
「そだっけか。じゃ、風と共にナウシ――ふぐっ」
二人は徒歩のまま、通い慣れてきた下校路を一緒にたどり始める。
今日は一学期中間テストの最終日で、気合いの入った部活ならもう今頃再開しているのだが、彼女らの所属する部は、どちらも今日までしっかりお休みだった。よって優雅なる真昼の下校。
坂の多い住宅街を行く。青空を仰ぎながら、野森が目を細めた。
「いやーテスト終わっちゃったねー」
「それで、脚本のアイデアはどう? 良いの思いつきましたか?」
と苡穂は優しく意地悪なことを聞いた。しおれるように野森は肩を落とし、卑屈な笑みを見せる。
「いほさーん、わかってるでしょー。思いついてないですよねー。今日こそ起こす、奇跡。のスローガンを掲げていたんですけどねー」
「では野森さん、答案の裏にあんな大量の落書きをする時間と精神力は、いったいどこから湧くんでしょうか?」
マイクを差し出すような苡穂の手に、野森は噛みつこうとした。空振り。
「ぐあー、もう! テスト中はアイデア神の恩寵にあずかれるはずなのになぁ」
「不可解なイラストネタなら、たくさん獲得してたけどね」
「ほんとだよ……この三日間あんなのばっかり。本マグロを狙ってるのにずっとツナ缶しか釣れない漁師の気分だよ……。やっぱあれかな、テストをやらなくてはならない状況下では他の事で頭が働いちゃう作戦で、その作戦をやらなきゃいけない状況下にしてしまうとまたさらに他の事へいってしまう、ということかな」
苡穂は後半を聞き流し、数日前にも述べた意見を持ち出した。
「結局、テストに集中するべきだったってことだね」
「それは違います。不可能です、そんなものは」
野森はきっぱりと言い切り、拳を振るう。
「やっぱり集中力ですよ! まだまだ今日は長い、これから十二時間以内に思いついてみせる! トゥエンティーフォーハーフ!」
「なんでそんなに今日にこだわるの?」
と苡穂が何気なく聞くと、野森は一度視線を外し、数歩の間の後に答えた。
「えっとね、誕生日だから、とか」
「……ええ! ほんとに?」
驚いて立ち止まった苡穂を見て、野森は「うん」と頷きながらも口を引き結び、照れ笑いを隠している様子だった。苡穂は、まばたきを増やしていたが、返事を受けてすぐに笑顔になった。
「おめでとう! 十六歳! お祝いしなくちゃね……もう、言ってくれてれば準備したのに」
野森は頭をかきながら困り顔である。
「そんな、大層なことしなくていいって……」
「だめだよ、せっかくなんだから。でもどうしよう、このあと時間ある?」
「あるけど……でもいいよ、ほんと。ほどほどで」
などと遠慮がちな野森を無視しつつ、苡穂のお祝いムードは加速していく。
「今日テストの日で幸いだったね、まだお昼だもん、どこか行こうか? あ、でもどこも結構遠いし……」
海と山に挟まれたこのあたりでは娯楽施設もコンビニも貴重で、いずれもあいにく通学路から寄り道するには遠い場所にあった。駅もまた遠い。
「……わかった。それなら、私の家に来て!」
と一際明るい声を上げた苡穂は、自分の思いつきに満足しているらしい。野森は、そうしたまばゆい様子とやたらに輝く瞳を見せられ、到底反対も遠慮もできなかった。
「えーと、はい、謹んでお邪魔させていただきます……」