セイギノミカタ
「よし、追って来てない……」
非常階段のテラスから下を見て、僕は安堵の息をついた。どうやらヤツは思った通りに動いてくれたらしい。これなら巧く逃げられる、そう思った僕は階段を 一段飛ばしで降りた。後は路地に出ればヤツも迂濶なマネは出来ない筈だ。そう信じて狭い道を駆け抜ける。昔路地裏は異界である、と誰かが言っていたが、僕 は今ほどそれを実感した事はない。早くこの異界から抜け出したい、その一心で出口に差し掛かった。しかし、それと同時に僕の希望は絶望で塗り替えられた。 横から出口を遮る様に現れた影。今しがた見たばかりのシルエットに戦慄が走る。
「階段で二階まで追い掛ける、とでも思ったか?」
影が僕に声を掛ける。その声は僕に実感させるには十分だった。ヤツに見付かってしまった。追い付かれてしまった。捕まってしまった。恐怖が喉を突き上げる。呟く様に口にしたのは、まだ認めていない筈の、ヤツの名前だった……。
「正義の、味方……」
日本には馬鹿が多い。大した悩みが有る訳でもないのに、少し何かがあるとすぐに死にたがる。自力で対応出来る困難という物がどれだけ素晴らしいのかが分かっていないのだ。世界を見れば、困難の前に選択肢すら与えられず死んでいく人間は数え切れない程居る。それを分からずに、安易に死を選ぶなどまさしく愚の選択だ。
それだけならまだ良い。そう言った人間はやたらと自殺をしたがる。周りを見れば殺人願望を持った人間なんて掃いて捨てる程居るのに、わざわざ自分から死ぬという世にも恐ろしい行動に出たがるのだ。本当に馬鹿だ、そんな怖いことをしなくても、死にたいなら僕が殺してあげるのに。そう思う様になってから、僕の”趣味”は始まった。
“趣味”は大成功だった。僕は長年に渡り溜め込んできた殺人願望を発散し、死にたがりの人間は有意義に死んでいく。死に行く人々の行為で、僕は罪に問われない。需要と供給の織り成す、究極の循環社会。僕の考えた”趣味”の中には、その完成された輪が絶えず回り続けていた。少なくとも僕はそう思っていたのだ、ヤツに会うまでは。
「お前、今人を殺したろう?」
ヤツは”趣味”を済ませた僕にそう問いかけてきた。今にして思えば殺人を目にしてこうも落ち着いた声を出せる人間なんて多かれ少なかれ異常がある人間だった筈だ。しかし、”趣味”を堪能して気が緩んでいたのだろう、僕は特に気にする事もなく、ヤツに答えていた。
「うん? 殺したけど、それがどうかした?」
そう答える僕を見て、ヤツは暗がりでも分かる程に口元を歪めた。そこでやっと気付いたのだ。ヤツが、僕と似て非なる嗜好を持っている人間である事に。だがここで気付けた事が幸いした。お陰で僕は、次の瞬間に迫ってきた冷たい閃きに、咄嗟に反応出来たのだから。
「そうか、なら……悪いヤツだ!」
言葉と共に銀色の反射光が僕に向かって振り下ろされる。それを寸での所でかわし、ヤツから距離を取った。光の正体をナイフだと確認しつつ、僕はヤツを睨み付けた。極めて危険な状態だが恐怖している事を悟られたら相手の思う壺だ。出来る限りの虚勢を張りながら僕はヤツに尋ねる。
「いきなり危ないな……君、なんなのさ?」
ヤツはにやけたまま自分に酔った様に、誇らしく、高らかにこう答えた。
「正義の味方さ」
「さて、何か言い残す事があれば聞いてやるが……どうする?」
エレベーターを二階で止め、そこから非常階段に逃げる作戦は失敗。完全に追いつかれてしまった僕には、既に逃げ道など残されていなかった。突破しようにも相手はナイフを持っているし、僕自身は喧嘩が得意じゃない。逃げる方法は尽きたと言って良い。勿論命乞いもNG。こういった人種は”悪人”に対してかける情けなど持ち合わせていない。ならば、僕が生き残る術は唯一つ。
「僕は……悪人なんかじゃない」
正義の味方が倒す対象ではなくなる事。別に理屈を捻じ曲げるような行為じゃない。だって、僕は罪など犯していないのだから。
「確かに僕は人を殺したけど、彼は最初から死にたがっていたんだ。死が確定している相手に、最後の一押しをしただけ。死刑の執行をするスイッチを押す様なものじゃない。あれって罪にならないでしょ?」
アレが犯罪になるなら誰も役人になどなりたがらない。公然と行われる殺人を当然の様に許しているのだ。つまり、人を殺しても罪に問われなければそれは悪ではない。僕はその悪ではない殺人をする為にこんな回りくどい事をしている。だから誰も僕に法の裁きを与える事なんて出来ない。僕は悪なんかじゃない。僕は……
「悪人だよ、お前は」
男は僕の考えを言語で一蹴した。
「お前がどれだけ理屈を並べ立てたところで変わらない事実が一つ有る。お前が、罪もない人を殺したということだ。合意だろうと、法がそれを認めなかろうと、それはお前が認めた紛れもない悪事だ」
男は言う、人を殺す事は悪だと。男は言う、これだけ世間に配慮した僕を悪だと。なら、今まで僕のやって来た事はなんだったと言うのだ。世界は安易に命を粗末にしようとした彼らは無実で、努力を重ねて無駄な命だけを消そうとした僕を悪だというのか。思考だけがメビウスの輪の様に堂々巡りを繰り返し、身体が言う事を聞かなくなっている。いや、身体に言う事を言えなくなっている。そんな僕を尻目に、男の執行は着々と進んでいた。
「冥土の土産に覚えておけ。お前達がどんなに罪を覆い隠し、法の眼を逃れても、必ずやってくる裁き……それが、正義の味方だ。……成敗」
男はまだ何かを言っている。でも大丈夫だ、僕は悪人じゃない。僕は悪くない、僕は……。
「一件落着」
胸から血を滲ませながら崩れ落ちる男を見て、俺は仕事が終わった後に言ういつもの一言を呟いた。普段ならここまで来てまだ逃げようとする輩も多いが、こいつはすぐに立ち止まってくれたので比較的楽に済んだと思う。これが、引き際をわきまえるという事だろうか。
しかし、最後にブツブツと何かを呟いていたが、一体何を言っていたのだろう? 死ぬ間際に彼が見せたあの虚ろな眼。彼はあの短い間に何を思ったのか……
「……どうでも良いか」
所詮は悪党の考える事、理解するだけ無駄である。特にこの男の様な理屈めいた思考の人間の考える事は得てしてろくな事ではない。この男、聞けばやれ法的にどうだの、合意の上だからなんだのと反吐の出る様な理屈を並べ立てていた。こういう法しか基準を持ち合わせない人間がいるから世界から情が薄れていくのだ。法は確かに大切かも知れない。だが、それ以前に我々は人間なのだ。法よりも、心で動かなければならない。
「罪なき人の命を奪う心無い連中は、俺が退治してやる」
それが、この世界に心を取り戻す為の近道だ。決意を新たに、俺は路地裏を出ようとする。すると、後ろから呼び止める声が聞こえた。
「君今、人を殺したよね」
一瞬さっきの男を殺しそこねたのかとも思ったが、違う。口調は似ているが、声は全く別人のものだった。まぁ、どちらにしても不愉快な事に変わりはない。
「違うな、悪党を退治したんだ」
振り向かずにそれだけ答えた。心ない人殺しなどと同じにしてもらっては困る。俺がしているのは正義の行いだ。俺は……
「悪人だよ。法を犯した訳でもない人間を殺してるんだからさ」
男は俺の言葉を真っ向から否定する。直後、チャキという音と共に、頭に硬い何かが押し当てられた。見なくてもなんとなく分かる、突きつけられたのが拳銃である事が。
「……お前、何者だ?」
俺の問いに、小さく吹き出してから男は答えた。
「正義の味方さ」