発熱
「ただいまー!」
夜8時-
菜々子が帰ってきた。
「明良さん?…菜々子ですよー…3日ぶりですよー?」
いつもなら明良が出迎えてくれるのに、返事もない。
玄関の電気がついていたので、てっきり明良が先に帰ってきていると思っていたが…。
「いやだわ…電気つけたまま、仕事にいっちゃったのかしら…」
正直、明良も事業が軌道に載ってきたらしく、忙しいようである。
「…おみやげ…買ってきたのに…」
菜々子はドラマの撮影で、伊勢に行ったのだった。
「もう!…仕事なら仕事って連絡してくれたらいいのに…」
菜々子はそうふてくされながら、リビングに入った。
荷物をソファーに置き、寝室のドアを開けた。
電気をつけて、菜々子は「きゃっ!!」と声を上げた。
「もおっ!!明良さん、いるんじゃない!!」
明良が洋服のままで、ベッドに寝ていた。
よっぽど疲れているのか、菜々子に気付いていもいない。
「もう!明良さん!…起きてよっ!!」
菜々子がそう叫ぶように言うと、明良ははっと目を覚ました。
「あっ!えっ!?…あ、すいません。菜々子さん…お帰りなさい!」
明良が飛び起きるようにして体を起こし、言った。
「ひどーい!!私に気付かないなんて…」
「ごめん!…このところ徹夜が続いてて…ごめんね。菜々子さん。」
明良はそう言って、ベッドから立ち上がった。
が…急にめまいを起こしたように、その場に座り込んだ。
「明良さん?」
菜々子が驚いて、明良の背中に手を当てた。
「!?…明良さん!…体が…」
「ああ、大丈夫大丈夫…。さっき薬飲んだから、もうすぐ効いてくると思う。」
明良がそう言って立ち上がった。
「…すごく熱いじゃない!」
菜々子はその明良の体を、ベッドに押し倒すようにして寝かせた。
「大丈夫だって!」
「大丈夫じゃないの!!」
菜々子はそう言うと、明良の首元に頬を当てた。
「かなり熱い…。…明良さん本当にお薬飲んだの?」
「ええ…本当についさっき…最後の一包を飲んだところなんです。」
明良は特異体質で、市販の薬は漢方薬以外飲めない。熱を出した場合は、熱さましはもちろん、普通の風邪薬すら飲めないので、必ず内科に行って、体質にあった薬をもらわねばならなかった。
「とにかく、ベッドに寝てて!」
菜々子は明良の体をベッドに押し倒した。
「菜々子さん…あの…」
「今、起きたら、1週間キス禁止!」
その菜々子の言葉に、起き上がろうとしていた明良は、あわてて体を横たえた。
「今、氷枕持ってくるから。」
「…はい…」
明良はおとなしくしているしかなかった。
……
「えっ!?明良、熱出したの!?」
携帯の向こうで、相澤が言った。
「そうなんです。だから明良さん、しばらくお仕事休ませてもらおうと思って…。」
菜々子が言った。
「それは、もちろん。…薬はあるの?あいつ、市販無理だろう?」
「ええ。明日、いつもお薬をいただいてるお医者様のところにいって、もらってこようと思っています。」
「菜々子ちゃんは、お仕事は?」
「今、一段落したところなので、大丈夫です。」
「そうか…でも、あんまり明良に近寄るなよ。」
「?…どうして?」
「風邪が遷ったら、菜々子ちゃん、次の仕事取れないだろう?」
「…まぁ…そうですけど…」
「明日、姉貴行かせるから、菜々子ちゃんは別の部屋で休んでて。」
「…そんな…百合さんに申し訳ないです。」
「しばらく会ってなかったから喜ぶと思うよ。とにかく菜々子ちゃんは風邪遷されない様にするんだよ。キス禁止ね。」
さっき、明良に言ったことと同じようなことを言われて、菜々子は苦笑した。
……
翌日、百合が本当に来てくれた。
「百合さん、ごめんなさい。…わざわざこんな。」
「何言ってるの!菜々子さんは休んでてね。昨夜、明良君の傍にいなかったでしょうね?」
「…はい…」
菜々子は明良が心配で、本当は傍にいたかった。
だが、明良が「風邪が遷るといけないから」と、部屋に鍵をかけてしまっていたのだ。
客間が別にあるので、そこで菜々子は寝たが、正直、安心して眠れなかった。
百合が、寝室のドアをノックして「百合だけど入れてー」と言った。
すぐにドアが開いて、百合は入って行った。
何か菜々子の心に寂しさが募った。
……
明良の薬を取りに行くのも、百合が許さなかった。
「病院って、病気の巣みたいなものだから、菜々子さんが遷ったら大変。」
と言って、菜々子を置いて行ってしまった。
菜々子は、寝室のドアをノックした。
「明良さん?具合はどう?」
しかし、中から返事はなかった。眠っているのだろう。
菜々子はドアにもたれて、うなだれた。
……
翌日、菜々子に仕事の電話が入った。
番組対抗のクイズ番組があるという。
菜々子は「別に自分じゃなくてもいい」と言って、断った。収録は先だが、何か明良のことが気になって、仕事をする気がなかったのである。
それを聞いた百合が驚いていた。
「菜々子さん、駄目よ!…明良君が逆に怒るんじゃない?」
菜々子ははっとした。
「…でも、もう断ってしまったし…」
「菜々子さん、気持ちはわかるけど、明良君は子どもじゃないから大丈夫よ。菜々子さんは女優のお仕事に集中して。その方が明良君が喜ぶんじゃない?」
「…はい…」
菜々子は寂しげに返事した。
……
その夜、百合が帰って行ったあと、菜々子は寝室のドアをノックしてみた。
「明良さん、具合はどう?」
「大丈夫です。」
と返事があったが、その後に咳き込んでいる声がした。
「!明良さん!」
「…大丈夫、大丈夫…。菜々子さん、早く寝なきゃ。」
明良の声がかなり嗄れているのがわかる。
「明日も仕事はないから、いいのよ。」
「…でも、いつ仕事が入るか分からないじゃないですか。早く寝て下さ…」
そこで、また明良が咳き込んだ。
「明良さん!」
「…おやすみ…菜々子さん。」
必死に咳を止めながら、明良が言った。
菜々子の中で、何かが切れた。
「明良さんのばかっ!!」
菜々子はそう言うと、傍にある電話台を持ち上げ(もちろん電話は音を立てて落ちてしまう)、ドアノブに叩きつけた。
大きな音がして、ドアノブが壊れ落ちた。
菜々子がドアを押しあけると、明良がびっくりした表情でこちらを見て、起き上がっている。
「菜々子さん!…どうしたんです…」
嗄れた声で明良が言った。
菜々子は明良の体に抱きついた。
「だめです。風邪が遷ったら…」
「私は、明良さんの妻なのよ!!」
「!!」
「みんなして、仕事仕事って…。私、女優だけど、その前に明良さんの妻なの!北条菜々子なの!!」
「…菜々子さん…」
明良の驚いた表情が、微笑みに変わった。菜々子はそれに気付かないまま、明良の肩に顔を埋めて泣いている。
「なのに…妻なのに…何もできないなんて…」
「菜々子さん、ごめん…。泣かないでください。」
明良はそう言って、菜々子の体を持ち上げて、横抱きするようにして座らせた。
「女優じゃなくても、やっぱり風邪を遷すわけにはいかないですよ…。」
「……」
菜々子は明良の顔を見つめた。そして、突然明良の首に抱きついて、キスをした。
「!!」
明良は一瞬、菜々子の腕を掴んで体を離そうとしたが、すぐに力を抜いた。
2人はしばらくそのまま離れなかった。
やがて、菜々子の方から唇を離した。
「…これでもう…遷ったわよね。」
「菜々子さん…」
「一緒に寝てもいいわよね?」
明良が笑いながら、菜々子の髪を撫でた。
「負けましたよ、菜々子さん。」
「じゃ、も1回!」
「!!」
明良は菜々子に押し倒されるようにして、再び唇を奪われた。
……
翌朝--
百合が寝室のベッドの前で仁王立ちしていた。
「…明良君…なんでこうなっちゃったの?」
「…すいません。」
体を起こしている明良の横で、菜々子が赤い顔をして寝ていた。完全に風邪が遷ってしまっている。
「…ドア壊されたので…」
「ついでに言うなら、電話機も壊れてるけど…。でもいい訳にはならないよね?」
「……」
「とにかく、2人とも治るまで、キス禁止!!」
「えーーーっ!?」
明良がそう言うと、
「えーっじゃないっ!!」
と百合の雷が落ちた。そしてドアがバタンと閉まった。(鍵はできないが)
菜々子がそっと目を開けて、両手を明良に差し出した。
明良はふとドアを見てから、菜々子の体にそっとかぶさった。
(終)