幸せの基準
朝-
携帯電話がなった。
ベッドの中で、素肌で抱き合って眠っていた明良と菜々子が同時に「うーーん、どっちー?」と言った。
「あー…僕のベルです。」
明良がそう言い、枕元にある携帯を手で探った。そして携帯を見つけて取り上げると、開いて電話の相手を見、電話を取った。
「おはようございます。」
明良がそう言うと「まだ寝てたのか。」という相澤の声がした。
「すいません。」
「いや、今日はお前休みにしていたからいいけど…。あ、そうか。お前休みだったわ。」
明良は目を閉じたまま、くすくすと笑った。まだ頭が起きていないが、何か相澤の言っていることがおかしかった。
「いいですよ。どうしました?先輩。」
「今日お昼に俺の部屋に寄ってもらおうと思ってたんだけど…。いや…俳優部門を作ろうと思ってるんだけど、どうかなって。」
「うちにですか?」
「うん。歌手専門のつもりだったけど、俳優や女優も育てたいな…って、昨夜ふと思いついてさ。」
「…確かに、今のところ事務所は順調ですけど…俳優さんは、同じ業界でも全く畑が違いますから、未知の部分が多いように思うんですが…。」
「なるほどね。…また明日、俺ん所来てよ。明日話そう。」
「わかりました。」
「ラブラブのところ、悪かったね。」
「!!」
明良は、驚いて辺りを見渡した。傍には菜々子が自分の胸にしがみつくようにして寝ている。
「…隠しカメラ?…」
思わず明良は呟いた。
・・・・・
「俳優部門ねぇ」
菜々子がハムエッグを作りながら、カウンターの前で、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる明良に言った。
「ええ。急に思いついたそうですよ。」
「何かあったのかしら?」
「さぁ…」
菜々子は、明良の前に「はい」と言って、出来たてのハムエッグが乗ったお皿を置いた。
「ありがとう。」
明良は先に焼いていたトーストをかじった。
「女優の菜々子さんとしては、どう思います?」
「うーん…」
菜々子は、自分の分の卵を焼きながら言った。
「明良さんがさっき言ってたみたいに、畑が違うといえば違うから、最初は大変じゃないかなぁ…。でも、将来的には考えてもいいんじゃない?1つの考えに凝り固まらないで。」
「なるほど…。」
明良は新聞を畳み、ハムエッグにとりかかった。
「でも、俳優さんの育て方から勉強しなきゃなりませんね。…営業の仕方だって違うだろうし…。」
「明良さんのところに俳優部門が出来たら、私移籍しちゃおうかなぁ…」
「えっ!?本当ですか!?」
「だって…そうなったら、わざわざ違う事務所にいる必要ないじゃない?」
明良は子どもが喜ぶような顔をした。…が、すぐに頭を抱えた。
「…でも、菜々子さんの事務所が離しますかね…」
「そこなのよね…。私も育ててもらってるから、むげにはできないんだけど…。」
「でも、前向きに考えておきますよ。」
「もう明良さんって、最初は渋ってたくせに、げんきんな人ね。」
菜々子のその言葉に、明良が照れくさそうに笑った。
・・・・・
菜々子は昼から、前のドラマで一緒だった女優同士でランチを食べる約束をしていた。
「ごめんね…前々から約束してた日だったから。」
運転している明良に、菜々子が謝った。
「いいですよ。人づきあいもお仕事のうちです。そのかわり、夜、ご飯一緒に食べに行きましょう。」
「外は嫌…家で食べたいわ…」
明良は笑った。
「そうですか。」
「明良さんが作るビーフシチューが食べたいんだけど…」
「わかりましたよ。作っておきます。」
「ありがとう!」
菜々子はそう言って、明良の頬にチュッとキスをした。
レストランから少し手前に、明良は車を止めた。
「1時間程してから、また来てみます。」
「ええ、ありがとう。」
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
菜々子は車から降りた。
・・・・・
フレンチレストランの個室で、菜々子を入れて4人の女優が集まっていた。
ほぼ同じような年代だが、その中で結婚しているのは菜々子だけだ。バツイチの女優も1人いるが。
菜々子は少々気まずいような気もしたが、断ったらよけい気まずくなるので、今日のランチに参加した。
「うらやましいわねぇ…」
早速、独身の女優が切りだした。菜々子は肩をすぼめた。
「どうやって知りあうの?あんな素敵な人。」
「…私の場合は、たまたま…。それに私から声をかけましたから。」
「あー…そうだったわね。…やっぱり女から積極的に行った方がいいのかしら。」
菜々子は(うわー…針のむしろー)と思いながら、スープを飲んだ。
「よく雑誌にあるけど…本当にずっとラブラブなの?」
「いえ…その…」
その時、じっと黙っていたバツイチの女優が急に口を開いた。
「でも、ご主人って、ずっと菜々子さんに敬語よね。名前もさんづけで呼んでるし。」
ちょっととげがあるように思ったが、菜々子は急に恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「?」
女優達は、どうしてここで顔が赤くなるのかわからない。
「どうしたの菜々子さん。」
「い、いえ。何でもないの。」
まさか口に出して言うわけにはいかない。
実は、明良はベッドの中だけ菜々子を呼び捨てにする。それは、結婚前からの明良の癖というか、ルールというか…。
「何か気になるわ。」
「気になるわね。」
独身の女優が口々にそう言い、菜々子を見た。
(絶対に言えない!!)
菜々子はごまかすことにした。
「敬語はやめてって最初は言ってたんですけど…どうしても治らないから、もうそのままで…」
「他人行儀じゃない?もっと菜々子さんから言ったら?」
そのとげのある言葉に、独身女優達が少し気を遣う様子を見せた。
「でも、誠実そうじゃない。そういうところが…」
「それも、プロダクションの副社長さんですものね。」
菜々子は話題が変わって、ほっとした。
「でもいつどうなるかわかりませんし…気を抜けないわ。」
「そうよね…」
菜々子の言葉に、独身女優達がうなずいている。
バツイチの女優は相変わらず、機嫌が悪いようだ。
結局、大した話題もなく、女優達は解散することになった。
レストランを出たところでと手を振りあって別れた。
その時、反対側の車線に夫の車が止まるのが見えた。
菜々子は道路を渡って車に駆け寄った。明良は助手席のドアをあけて待っている。
「ありがとう。明良さん。」
「楽しかったですか?」
「え、ええ…」
明良はドアを閉め、運転席に回った。
菜々子はバツイチの女優がじっとこちらを見ているのに気付いた。
(!)
明良は気付いていないようだが、すっと車を発進させた。
菜々子はほっと息をついた。
明良は運転しながら尋ねた。
「女優さん達ってどんな話をするんですか?」
「……」
「?…菜々子さん?」
明良は菜々子の元気がないことに気付いた。
「どうしたんです?何かあったんですか?」
菜々子は、はっとしたように明良を見た。
「別に…何でもないの…。…その…明良さんが私に敬語だから、他人行儀だって言われて…。」
明良が笑った。
「そうですか。そう言われてもね…。僕の癖ですから。」
「いいの。…そうじゃない時もあるから…。」
菜々子がそう言って、下を向いた。明良も顔が赤くなっている。
・・・・・
家に着くと、ビーフシチューのいい香りがした。
明良はキッチンに入って、止めていたシチューの火をつけた。
「あと2時間は煮込まないとな…。菜々子さん、コーヒー淹れましょうか?」
「お願い…」
と菜々子は言ってから、慌てて言い直した。
「…いいわ。自分で淹れるから。」
「?…」
(何か様子がおかしいな…)と明良は思った。
菜々子は明良が自分を見ていることに気付いて、ごまかすように言った。
「ちょっと…着替えてくる。」
「ええ。」
菜々子は、リビングを出て行った。
・・・・・
明良は時々シチューの具合を見ながら、菜々子が戻ってくるのを待っていた。
しかし、30分も経つのに菜々子がリビングへ戻ってこない。
明良は不安になって、シチューの火を止め、クローゼット部屋に向かった。
そしてクローゼット部屋のドアをノックした。
「菜々子さん?…どうしたんですか?」
返事がない。
「開けますよ。」
そう言って、そっと開けてみたが、菜々子はいなかった。
「!?」
明良は寝室へ行ってみた。そして寝室のドアを開けた。
「!…菜々子さん…もう…びっくりさせないで下さい。」
「……」
菜々子は着替えもせず、ベッドにうつ伏せになって寝ていた。
寝ているといっても、寝ころんでいるだけだが…。
明良が、そっと隣に座ると、菜々子は明良とは逆の方に顔を向けた。
「菜々子さん?…何を怒っているんです?」
「怒ってなんかない!」
「怒ってるじゃないですか…」
「…ちょっと考え事してるから、出て行って!」
「…わかりました。」
明良は菜々子が心配だったが、ベッドから立ち上がりドアのノブに手をかけた。
「…待って…」
「?」
菜々子のその涙声に、明良は思わず振り返った。
すると、いつの間にか起きていた菜々子が明良の体にしがみついてきた。
「!…菜々子さん…?」
菜々子は泣いていた。
明良は訳がわからないが、とりあえず菜々子を横抱きにして、もう1度ベッドにそっと寝かせた。
そして菜々子に寄り添うようにして、体を横にした。
「…何かあったんですか?」
菜々子はまた明良の体にしがみついてきた。明良はそのまま菜々子の体を抱きしめた。
「ちゃんと説明してくれなきゃ、わからないじゃないですか。」
「…明良さん…私…明良さんにとって…必要なのかしら…」
「!?…どうしてそんなこと…必要に決まっているじゃないですか!」
思わぬ菜々子の言葉に、明良は動揺した。
女優達に何か言われたのだろうか…と思った。
「何か言われたんですか?」
そう菜々子を抱いたまま尋ねると、菜々子がやっと話し出した。
菜々子はバツイチの女優に「できるだけ早く女優を辞めなさい」と言われたのだった。
その女優は、自分が女優を続けているために、離婚したのだという。
家の用事もする時間がなく、主人とゆっくり時間を過ごすこともできず、とうとう主人の方が我慢できなくなって、離婚させられたらしい。
「私も彼女みたいに、明良さんに何もしてないって…思ったの…。」
「!?菜々子さん…」
「今日だって…当たり前みたいに車で送ってもらって、晩御飯まで作らせて…迎えに来させて…私ももしかすると…愛想尽かされるんじゃないかって。」
明良は泣きながら言う菜々子に、首を振った。
「車で送り迎えするのは僕が勝手にやっているだけだし、晩御飯だって僕の作る料理が食べたいって言われたらうれしいから、喜んで作ります。そんなことで愛想なんか尽かしませんよ。」
明良は菜々子の体をそっと離して上を向かせると、菜々子の涙を指でぬぐった。
「それに、幸せの基準は人それぞれだと僕は思うんです。その御主人はきっと奥さんに尽くしてもらうのが、幸せだったんでしょう。僕は逆に尽くされると肩身が狭くてたまらない…。」
「明良さん…」
「だから…心配しないで…。」
菜々子は、やっと微笑んで明良を見た。
明良はほっとしたように、菜々子に微笑み返したが、ふと真顔になって仰向けになった。
「…でも…時々考える時があります。結婚という形を取ってよかったかどうか…」
「!?…明良さん…」
今度は菜々子が、体を起こして明良を見た。
「…僕は結婚して、あなたと家族になるのを望んだ…。姉が16歳の時に死んで、それから今まで家族がいなかったから…。…だからあなたと家族になれたことに、幸せを感じています。」
菜々子の目から涙がこぼれた。明良は、天井を見たまま言った。
「でも…結婚したために、菜々子さんの仕事が減ったような気がするんです。そのことが申し訳ないな…って。」
菜々子は首を振った。明良は菜々子を見た。
「…だから罪滅ぼしというのもなんですが、できるだけ菜々子さんの言うとおりにしたいと思っているんです。あなたがビーフシチューを食べたいって言ったら作るし、どこかへ行きたいっていったら、連れて行ってあげる。…僕も仕事がありますから、出来ないこともありますが、出来なかったら出来ないとはっきり言います。でも出来る限りのことはする。…それも僕の幸せです。」
菜々子は涙を堪えるようにして、明良の胸に自分の頭を乗せた。明良はその菜々子の頭を抱いた。
「…女優も辞めなくていいですよ。僕は菜々子さんのファンですから、あなたがテレビから消えてしまうのは寂しいんです。」
「…ありがとう…明良さん。」
明良は体を起して、今度は自分がかぶさるように菜々子を仰向けにした。
「じゃ今度は僕から聞きます。…菜々子さんは今幸せですか?」
菜々子がうなずいた。明良は首をかしげた。
「声に出して。」
「…幸せ…」
その菜々子の言葉に、明良は微笑んで菜々子に軽くキスをした。
・・・・・
翌日 夜-
「ただいまー」
夫の声が玄関から聞こえた。キッチンにいた菜々子はあわてて玄関に向かった。そして「おかえりー」と言いながら、明良に向かって飛んだ。
明良が驚いて、菜々子の体を横抱きにした状態で受け止めた。
「今日、ロールキャベツ作ったの。」
「そ、そう…」
夫の様子が少しおかしいので、ふと明良の肩越しに後ろを見ると、相澤が茫然として立っていた。
「あら!相澤さん…」
「俺、また別の日に来るわ。」
相澤がそう言って、慌てて玄関を出て行った。
「先輩!!」
明良が驚いて、菜々子を玄関に立たせると、
「先輩の分もある?」
と聞いた。菜々子がOKのサインを出すと、持っていたビジネスバッグを菜々子に押しつけ「先輩!」と言いながら、慌てて玄関を出て行った。
「あっ!火を止めてない!!」
菜々子は慌ててキッチンへ走った。
(終)