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婚約破棄は承諾します。ただし契約書の第七条は適用させていただきます

掲載日:2026/10/29

 その夜の舞踏会で、ガレス・ハルフォードは杯を置き、楽団に手を振って音楽を止めさせた。


「皆さんに聞いてほしい。僕は今夜、リディア・カーヴェルとの婚約を破棄する」


 ざわめきが広間を走った。三百人の視線が、壁際に立っていた私に集まる。


「理由は単純だ。僕は真実の愛を見つけた。ミレーヌ、こちらへ」


 ガレスの隣に、男爵令嬢のミレーヌが進み出た。彼女は私と目が合うと、少しだけ気まずそうに視線を落とした。悪い人ではないのだろう。ただ、人の婚約者の腕に手をかける人でもあった。


「リディア。君は商人の娘だ。金で片のつく話は得意だろう? 慰謝料はいくらだ。常識の範囲で言ってくれれば、父と相談して払う」


 ガレスは寛大な顔をしていた。自分がとても公平な人間だと思っているのが、よく分かる顔だった。


 私は手の中の扇を、ゆっくり閉じた。


 婚約から二年。この人の領地が三年続きの不作で傾いたとき、支度金を用立てたのは私の父だ。婚約契約書を書いたのは、商会の帳場で法務を手伝っていた私だ。


「慰謝料は要りません」


「そうか、物分かりが――」


「ただし」


 私は言葉を重ねた。


「婚約破棄は承諾します。ただし、契約書の第七条は適用させていただきます」


「第七条?」


 ガレスは首をかしげた。覚えていないのだ。署名のとき、彼は条文を読まなかった。「君に任せるよ」と笑って、父の前でペンを走らせただけだった。


「ご存じなくて当然です。ここで読み上げますね」


 私は広間を見渡した。


「どなたか、公証人のオルセン様はいらっしゃいますか」


「ここにおります」


 人垣の後ろから、黒い上着の青年が手を挙げた。ユリウス・オルセン。この契約書に公証の印を押した人だ。今夜は招待客として来ていた。


「今の破棄の宣言を、お聞きになりましたね」


「はい。ガレス・ハルフォード殿が、自らの意思で、公の場で、婚約の破棄を宣言されました。三百名が証人です」


 ユリウスは懐から手帳を出し、時刻を書きつけた。その手つきが落ち着いていて、私は少し息が楽になった。


「お、おい。待て、何の話だ」


「第七条。『いずれか一方の有責により婚約を解消するときは、有責側は相手方が負担した全費用を弁済し、あわせて支度金の三倍額を、拘束への補償として支払う』」


 広間の空気が変わった。


「有責って、僕のことか?」


「ほかに誰がおりますか。新しい方との交際は、破棄の前からでしょう。ミレーヌ様の名で、半年前からハルフォード家の馬車が貴族街の別邸に通っていると聞いております。ただ、それを調べなくても結構です。今ご自分で、『真実の愛を見つけたから破棄する』とおっしゃいました。それが有責の事由です」


 ガレスの口が開いて、閉じた。


「支度金は金貨二千枚です。三倍で六千枚。これに弁済額を足して、後日、書面でお送りします。履行期限は三十日。公証人の写しも同封します」


「ろ、六千……! そんな馬鹿げた契約があるか!」


「あなたが署名しました」


 私は一礼した。


「ご自由に、新しい愛をお選びください。それを選んだ代金は、お支払いいただきますけれど」


 背を向けて歩き出すと、道が自然に開いた。誰も何も言わなかった。足が震えているのは、私しか知らなかった。


  *


 家に戻ると、父が帳場で待っていた。夜会の噂はもう届いていたらしい。


「リディア。……泣いたか」


「泣きません。お父様、領収書の控えを全部出していただけますか。支度金の送金記録も」


「ああ、そう言うと思った。ほら」


 父が机に積み上げた綴じ紐の束を見て、私は少し笑った。泣く前に、やることがあるのが私たち商家の人間だ。


 二年前のことを思い出していた。ガレスは最初、優しかった。不作の話を打ち明けるとき、彼は泣きそうな顔で頭を下げた。「必ず返す」と言った。あの言葉が嘘だったとは思わない。ただ、返すのを忘れる人だったのだ。借りたものも、署名したものも、約束も。


 私は三日かけて書類を揃えた。


 送金記録、領収書、婚約期間中に私が負担した式場の予約金、衣装の仕立て代。公証人の写し。そしてユリウスの手帳の控え。夜会での宣言は、時刻と証人名つきで二枚の書面になっていた。


 届けに来たユリウスは、玄関先で書類を渡しながら言った。


「カーヴェル嬢の契約書は、いつ見ても整っています。条文が読み手を守る形をしている。僕は何百通も見てきましたが、あんなに公平に書かれた婚約契約書は珍しい」


「公平に書いたつもりはありません。書いてあることを守ってくれる人を、信じたかっただけです」


「それが公平ということだと思いますよ」


 ユリウスは、少し笑った。


  *


 十日後、ハルフォード子爵が商会の応接間に乗り込んできた。


 背の低い、疲れた顔の人だ。後ろにガレスがいた。むくれて、目をそらしている。


「カーヴェル殿。倅が失礼をした。謝る。この通りだ」


 子爵は頭を下げた。そこまでは、立派だった。


「だが、あの請求は取り下げてもらえんか。六千枚など、我が家には払えん。倅の若気の至りだ。大人の度量で、水に流してほしい」


 父が何か言いかけたが、私が先に口を開いた。


「子爵様。お顔を上げてください。私は、水に流す立場にありません」


「しかし――」


「婚約契約書は、貴家と当家が、公証人の前で交わしたものです。私情で破棄された側が私情で免除する、というのは、条文の外の話になります。免除したいなら、条文を改める手続きが要ります」


 ガレスが吐き捨てるように言った。


「君は冷たい女だな。昔は優しかったのに」


「優しくしたら、水に流してくださるの?」


「それは……」


「ガレス様。私は二年間、あなたに優しくしましたよ。優しくして、お金を貸して、その結果が夜会の広間です」


 彼は何も言い返せなかった。


 子爵が震える声で聞いた。


「では、第七条の次の条は。……払えぬ場合は、どうなる」


「第十一条です。お読みになっていないのですね」


 私は契約書の写しを開いて、子爵の前に置いた。


「『履行期限までに弁済のないときは、担保として、ハルフォード家の北牧地および同地の水利権を、カーヴェル家に譲渡する』」


「北牧地……!」


 子爵が顔を上げた。ガレスも青ざめた。


「あそこは、領地で唯一、川に接した土地だぞ。あれを取られたら、羊を飼えん。畑にも水が引けん」


「二年前、署名のときに申し上げました。『担保は北牧地でよろしいですね』と。子爵様は、『商人の娘さんは慎重だ』と笑っておいででした」


「あのときは、まさか本当に使うとは――」


「使わせたのは、ご子息です」


 応接間が、静かになった。


 子爵は、ゆっくりとガレスを見た。長い、長い目だった。


「……お前は、署名したとき、これを読んだのか」


「だって、リディアに任せておけばいいと思って……。婚約破棄したって、まさか本当に――」


「まさか、か」


 子爵は目を閉じた。


「私も、読まなかった。息子を叱れんな」


  *


 期限の三十日目、ハルフォード家から金貨は一枚も届かなかった。


 代わりに、子爵本人が公証役場に出向き、北牧地の譲渡証書に署名した。ユリウスが立ち会った。署名を終えた子爵は、帰り際に私へ一言だけ告げたそうだ。「契約書をまともに作ってくれたこと、感謝する」と。


 恨み言ではなかった。皮肉でもなかった。たぶん本心だ。それが少しだけ、胸に残った。


 ガレスとミレーヌがどうなったかは、人づてに聞いた。


 ミレーヌは、領地が傾いていると知って、結婚の話から静かに身を引いたそうだ。「愛はあっても、羊のいない牧場には嫁げません」と、彼女は言ったらしい。真実の愛にも、水利権は含まれなかった。


 ガレスは今、父に連れられて、毎朝、領地の帳簿を読まされている。読んでいるのは字面だけで、意味はまだ分かっていないらしい。それでも、署名の前に条文を全部読む癖だけは、ようやくついたと聞いた。


  *


 北牧地は、私のものになった。


 父は「牧場なんぞ持て余すぞ」と言ったが、実際に現地を見に行くと、川沿いの緑が思ったよりずっと豊かだった。羊を預けたい近隣の村があること、水利権を使って小さな水車を回せることを、私は一晩で計算した。貸し出し契約書は、もう三通書いた。


 現地の測量には、ユリウスが同行した。


 川べりの草の上に、二人で座って昼のパンを食べた。風が吹くと、草が波打った。


「カーヴェル嬢」


「はい」


「実は、僕の手帳には、あの夜の宣言の記録のほかに、もう一つ書いてあるんです」


「何でしょう」


「二年前の署名の日の記録です。『婚約者の令嬢は、一条ずつ指で追いながら、署名前の全員に読み上げていた。読まないのは、新郎だけだった』と」


 ユリウスは手帳を閉じて、懐から一枚の紙を出した。


「あの契約書の条文が、僕はずっと好きでした。でも、いつかその条文が、あなた自身を守ることになる日が来ると、少し怖くもあった。使われないで済むのが、一番いいと思っていたので」


「……公証人様らしいご感想です」


「だから、今日は別のものを持ってきました。読んでいただけますか」


 渡された紙は、短かった。


 条文は一つしかなかった。


『第一条 私は、リディア・カーヴェルを、生涯大切にする。』


 その下に署名欄があり、すでにユリウス・オルセンの名が、几帳面な字で入っていた。


 私は、読み終えて、顔を上げた。


「……違約金の定めがありません」


「ええ。定めたくないので」


「契約書として、不完全です」


「ええ。完全にしたくないので。破るつもりがない約束には、罰則は要らないと思うんです」


 私は吹き出した。それから、目の奥が熱くなって、慌てて川のほうを見た。


 商人の娘は、損な契約には署名しない。けれど、これは、損か得かで読むものではない。


 私はペンを受け取って、条文を一度、声に出して読んだ。


 それから、自分の名前を、ゆっくりと書き入れた。


「第二条を、私から足してもよろしいですか」


「どうぞ」


「『同条の約束は、双方が守るものとする』」


 ユリウスは少し目を丸くして、それから、見たことのない顔で笑った。


 草の波の向こうで、水車がゆっくり回りはじめていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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