72.神の呪いは終わらせましょう(3)
聖剣の王子の戦いぶりを、アリーセははじめて目にした。
巨大な穴に張り巡らされた足場を次から次へと飛び回り、水竜の体を斬りつけてはまた離れ、間合いを取る。
聖剣は実際の刀身よりも長い範囲を攻撃できるようで、水に覆われた巨躯を何度も輪切りにし、そのたびに悲鳴のような咆哮があがった。
ゴオオォォ――ゴォォォォン――
冥響と咆哮が重なり、水竜がかぎ爪のついた大きな腕を振り上げる。
反撃が振り下ろされようとした瞬間、イグナーツもまた腕を上げて手首を返す。
彼の手信号に応じて、《奈落》の淵に設置された射出機から何かが発射された。
荒縄のついた巨大な銛だ。
何十本もの銛が一斉に水竜に突き刺さり、その動きを封じる。
水竜の体は水で覆われているだけで奥に本体があるようだ。煩わしげに身じろぎし、拘束を振り払おうと巨大な全身をうねらせた。
そこへ、足場を利用して跳躍したイグナーツが斬りつける。
その姿はとても現実離れしていて、アリーセは神話の世界に迷い込んだかのような錯覚をおぼえた。
(きれいだわ。とても……)
正直、見とれた。二度目の一目惚れかもしれない。
夫から目が離せなかった。胸が高鳴る。高揚する気持ちが抑えられない。
腹の中でレンが息を呑み、祈るように見守っているのも感じられた。ついでに、少し焦っているような感情や悔しさも。
(いままでは、レン様も一緒に戦ってらしたんですものね)
レンはいつもイグナーツに寄り添っていた。
魔物と戦っているときは剣こそ振るえなくても、双子の兄の目となって助力していたに違いない。
だから、兵士たちから「安全な場所へ避難してください」と懇願されたとき、アリーセは頑として突っぱねた。
「ここに王笏の王子がいるの。援護はかなわなくとも、一緒に戦わせて」
腹を撫でながら伝えると、兵士たちはとても難しい顔をしつつも、諦めたように撤退していった。
「ありがとう」
レンにこっそりと礼を言われ、アリーセは笑顔になる。
「方便ですわ。私も見届けたかったんです」
とはいえ唯一、引き下がらなかった者もいた。
伝書鷹による知らせを受けてオルダナ村から急ぎ帰還したミアだった。
「せめてお着替えになって、お体を温めてください! お腹に大切な御子がいらっしゃるんでしょう!」
とずぶ濡れのアリーセを母、いや姉のように叱りつけると、湯殿まで力尽くで引っぱっていき、しっかりと体が温まるまで湯浴みをさせた。
それでも着替えたアリーセがまた《奈落》が見える場所まで戻っていくものだから、最終的にはミアも折れて、一緒に見届けることを選んだようだった。
「結局、どうやって呪いを解いたんです?」
ミアが温かい飲み物を二人ぶん用意して手渡しながら訊ねてきた。
城砦で暮らす誰もが疑問に思っていることだろう。
アリーセだってずっと不思議に思っていた。
鎮竜の儀で《奈落》を選べば、儀式を終えられる。
そして、もしかしたら《奈落》に行ける――イグナーツに会えるかもしれない。
そう思ったから実行しただけで、呪いが解けるとまでは思っていなかった。
ただいまは、自分なりの考えがある。
「神に呪われた当時、二人の王子は王位を争って激しく対立していたそうよ。相手を蹴落とすために、互いに禁忌を犯して神の逆鱗に触れるほどに……」
文献は残されていない。
実際に当時の魔法使いがどのような禁忌を犯したのかは知りようもないが、神から呪われるほどのことを個人が行えるとは考えにくい。国ないしは王家が絡む大規模で非人道的な儀式が行われたのではとアリーセは考えている。
「そんな二人に王笏と聖剣を与えて『一人以上が人柱になれば国が救われる』などと囁けば、相手を犠牲にさせるべく争いを続けるに決まっているわ。それこそが、神の与えた呪い、いえ試練だったのよ」
おとぎ話では、呪いは実行困難なことによって解けるものだ。
醜い獣に変えられた男が、美しい乙女の愛によって呪いが解けるように。
「憎しみあう王子二人が手を取り合い、ともに《奈落》へ身を投じる。それは当時の王子たちにとってとても難しい選択だったわけだけれど――たぶん、それがヒルヴィスにかけられた呪いを解く鍵だったのよ。あくまで私の推論だけれどね」
一人が死に、一人が王位につく。
あるいは、二人ともが死ぬ。
そんな選択を強いられて、後者を選べる者はそういないだろう。仮に選んだとしても、王族ともなれば周囲の者が必ず制止するはずだ。
「神様は行き過ぎた兄弟げんかの始末をつけさせたかったんですかねえ」
ずずっとミアが紅茶をすすりながらつぶやく。
「それと、くだらない理由で禁忌を犯したことの反省をうながしたかったのかもね」
そのために払った犠牲は大きかった。
過去、何人の聖剣の王子とその配下の兵士たちがその命を捧げてきたことか。
必要な犠牲だったとはとても思えない。やはり神様は理不尽だ。
そのとき、水竜がひときわ大きな咆哮をあげた。
既に体を覆う水は流れ落ち、漆黒の巨躯をあらわにしていたそれは、夕焼けを背景に全身を大きく仰け反らせた格好から徐々に崩壊していく。
忌まわしい存在だったが、最期の姿だけはやけに美しく神々しいものとしてアリーセの目に映った。