71.神の呪いは終わらせましょう(2)
水の中を走りたくなるのをこらえ、泳いで砂浜を目指す。
浅瀬にまでたどり着いてから必死に駆けた。
柔らかい砂に足をとられ、何度も転びそうになりながら、アリーセは浜辺に横たわる男のもとへ駆け寄った。
膝をつき、顔をのぞき込む。
両目は固く閉ざされているが、その秀麗に整った顔は間違いなくイグナーツだった。
あまりのなつかしさと愛おしさに熱い涙がこみ上げてくる。
「殿下……殿下!」
引き締まった頬にそっと手を添えたときに気がついた。
息をしていない。
慌てて胸板に耳を押し当てると、微弱ながら心音らしきものが聞き取れた。
「アリーセ、イグナーツは……」
「大丈夫ですわ」
消え去りそうな声を漏らすレンに、アリーセは力強く答える。
自分に言い聞かせるように、不安に包まれそうな心を鼓舞するように。
なんといったって、溺れたイグナーツを救助するのは二度目だ。それに。
「人魚は王子様を救うものだと決まっていますのよ」
期待と不安と緊張で高鳴る拍動を落ち着けるべく深呼吸をしてから、あらためてすうっと大きく息を吸い込む。
それから、アリーセはイグナーツに覆い被さって彼の唇にじぶんのそれを重ねた。
冷え切った肺に温かい空気が吹き込まれた瞬間、イグナーツは目を覚ました。
反射的にごぼっと息を吐き出すと、目の前が気泡に包まれる。
(ここは――!?)
口や鼻から水が入り込み、あまりの苦痛に混乱が弾けた。
何が起きているのかわからなかった。
どうやら自分は深い水の底で溺れているようだが、何がどうしてこうなったのかまったくわからない。それでも溺死するわけにはいかないと両手両足で必死に水を掻くと、薄れた気泡の先にゆらりと人影が見えた。
真っ赤な髪をたゆたわせながらこちらへ手を伸ばしているのは、アリーセだった。
バルトル公爵夫人から贈られた乗馬服風の水着をまとった彼女は、厳しい表情でイグナーツへ近づこうとしている。
(なぜ彼女が……いや、何が起きている?)
状況が把握できないながらも、彼女が伸ばしてきた手を振り払う。
いくら〝人魚〟でも、大の男にしがみつかれたら溺れてしまう。
「イグナーツ、落ち着いて! ここはただの水じゃない、呼吸できるから!」
レンの声が聞こえて、少しだけ冷静さを取り戻す。
さきほどから気泡が口から漏れ、水が鼻や喉に入り込んできてはいるが、不思議と呼吸はできているようだった。
(どういうことだ?)
「解呪に成功したんだよ! とにかく上がって」
上がるって、どこへ。
と思った矢先に、背後から抱きすくめられた。柔らかな肌の感触でアリーセだとわかる。溺れた者を救助するときは、しがみつかれないように背後から近づくのがいいのだと、少し前に彼女から寝物語に聞いていた。
アリーセが水を蹴って明るい方へと導いてくれる。イグナーツも羽交い締めにされながら、懸命に足を交互に動かした。
ややあって水面に到達し、二人そろって顔を出した。
ぷはっと新鮮な空気を吸ってから、ひとまず近くの岸壁のもとまで泳いで移動した。ごつごつした岩場にほぼ二人同時にたどり着くと、イグナーツが先に岸に上がってアリーセを引っ張り上げた。
それから、あらためて周囲を見回した。
見覚えのある曇った空に、嗅ぎ慣れた湿った空気。
岸壁の上までぐるりと見渡せば、岩肌の大穴を取り巻くように数々の兵器類が配置され、複雑に入り組んだ足場が見える。
「ここは……《奈落》?」
イグナーツにはいまだ混乱の中にあった。
《奈落》へ身を投げ、核に取り込まれたところで記憶は途切れている。
「俺は死んだはずでは……」
「――この、馬鹿夫っ!」
いきなり胸板を激しく叩かれて、イグナーツは咳き込んだ。
「ケホ、アリーセ……?」
思わず妻を見やって、言葉を失う。
彼女はずぶ濡れでもあきらかなほど目元に涙を溜めて、こちらを睨みつけている。
「嘘つき、人でなし! お別れの挨拶もなしに逝こうとなさるなんて、最低ですわ!この、馬鹿、馬鹿っ!」
バシバシと何度も胸板やら肩やらを叩いてくる。
日々魔物の猛攻に耐えてきた身としては、この程度の痛みなどじゃれ合いみたいなものだ。なのに、泣きながら繰り出される一撃一撃はイグナーツの良心を深くえぐってくる。
「す、すみませんでした! 許してください!」
「絶対に許しませんわ!」
そう言いながらも、イグナーツを叩く力はどんどん弱まっていった。やがてぽすんと拳が胸を叩いた後、彼女は声をあげて泣き出した。
濡れたシャツにしがみつくように爪を立て、幼子のように泣きじゃくる彼女を抱きすくめて頭を何度も撫でる。
「ごめんなさい、アリーセ。許してください。なんでも言うことを聞きますから」
本心だった。
離れがたくなるから。決心が鈍るから。
そんな個人的な理由から、最後の別れも告げずに旅立とうとした自分が確実に悪い。
一人残される彼女が深く傷つくとわかっていながら、自分の都合を優先した。
もう二度と会えないと思っていたからできたことだ。
その結果、いまイグナーツはアリーセを怒らせすぎて泣かれている。
目を覚ましたときに《奈落》の水底にいたことを考えれば、彼女がイグナーツのためにどれほど無茶をしたのか想像できる。むしろ、想定しうる最悪の状況以上のことをした可能性すらあった。
(もう置いていきませんから。決して一人にはしません――もう二度と)
泣き声が落ち着いてかぼそい嗚咽になった頃、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「妃殿下――と、イグナーツ殿下!?」
エトガルと数人の騎士たちだった。
みな、まるで死人が蘇るところを見たかのように目を見開いて、あっけにとられたように見下ろしてくる。
「いったい、何が起きたんです?」
「俺が知りたいよ……」
「言い方を変えます。なんで生きてるんです?」
「……言い方を変えた後の方が無礼になることなんて普通あるか?」
相変わらず遠慮のない物言いに苦笑する。と同時に、ありきたりな日常に戻ってきた安堵感で一気に力が抜けそうになる。
「妃殿下、あなたもどうしてこちらに? オルダナへ鎮竜の儀に向かったはずではなかったのですか?」
エトガルはイグナーツに聞いても無駄だと察したようで、身を屈めてアリーセに向き直った。
彼女はすんと鼻を鳴らしてから顔を上げた。
「……鎮竜の儀は終わらせましたわ。通常とはちょっと違った方法で、ですけれど……それで、気がついたらここにたどり着いていましたの」
「鎮竜の儀? 王笏の王子もなしにどうやって?」
イグナーツの質問に、アリーセもエトガルも困った顔になった。
どこから説明するべきか悩んでいるのがありありとわかる。妻はともかく副官の方はたぶん面倒くさいからだろう。
「詳しい説明は後でいいんじゃない?」
レンの面倒くさそうな声が聞こえてきた。
イグナーツはすぐさま周囲に視線を巡らせたが、なぜか姿が見あたらない。いつもならば虚空を漂っている幼児が目につくはずなのに。
「レン、近くにいるのか? 姿が見えないが」
「ああ、うん。いまはアリーセの中」
「はあ?」
「いろいろとややこしい事情がありますの」
アリーセがレンの言葉を引き取って続けてきた。どういうわけか彼女にもレンの声が聞こえているようだ。
「いったい何がどうなって……」
そのときだった。
空気がビリビリと震えるほどの大きな咆哮が辺り一帯に響き渡った。
水面が激しく揺れ、岸壁から小石がぱらぱらと落ちる。
イグナーツは慌ててアリーセを抱きすくめ、肩越しに《奈落》の水面に目を向けた。
《奈落》から巨大な水柱が上がり、巨大な水の竜が姿をあらわした。
「水竜……ガリウの竜か? なぜここに?」
「あれが呪いを守る番人だからですわ。いえ、竜だから番竜でしょうか」
アリーセが目元を拭いながら言った。
彼女はもう泣いてはいなかった。
濡れた横顔は凜として美しく、翡翠色の眼差しはまっすぐに竜を射貫いている。
「殿下、なんでも言うことを聞いてくださるのですよね?」
「……ええ。俺にできることなら」
どんな無理難題を言われても命懸けで叶える覚悟だ。
だがイグナーツはなんとなく、彼女が何を要求してくるのかわかっていた。
「では、呪いを終わらせてくださいませ――あの竜を倒して」
イグナーツは右手の拳を握りこんだ。
この手の中に、まだ聖剣が存在しているのを感じる。自然と、口角が上がった。
「人魚姫のおおせのままに」