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69.再会は突然やってくるものです(2)

 頬を濡らしたまま、アリーセは怒りに打ち震えた。


「神は愛する夫を奪っただけでは飽き足らず、子どもまで奪おうというの!?」

「落ち着いて、アリーセ。《奈落》の封印は正常に行われてる。本物の王笏(おうしゃく)の王子まで奪われることはないはずだよ」


 レンがどうどうと言って頭を撫でてくる。小さな手の感触がくすぐったくて、腹立たしさが少しだけまぎれた。


「……問題は鎮竜の儀の方ですのね」

「うん。ただ《奈落》にも問題が発生しているようなんだ。詳しくは聞いてないけど、いまエトガルたちが対策会議中」

「封印は正常に行われたのですよね? なら《奈落》にいったいどんな問題が?」

「冥水がどうとかって言ってたけど、詳しくは聞いてないんだ。でも、エトガルたちは君に王笏の王子が宿ったことを知らないはずだから、教えてあげた方がいいかも」


 このタイミングで王笏の王子を授かったことには意味があるはずだ。何か状況を打破する一手になり得るかもしれない。

 しかしイグナーツと本当の意味での夫婦になってからまだ日が浅いのに、彼の子を妊娠したと主張したところで信じてもらえるだろうか。

 さらに、そのことをフロレンツィアの幽霊から知らされたと言われたら、イグナーツを失ったショックで気がおかしくなったと思わるかもしれない。

 そうアリーセが相談すると、レンは考えがあると笑った。


「大丈夫。君は僕と彼らの話を取り次いでくれたらいいから」

「……わかりましたわ」


 ここは彼の言葉を信じるしかないだろう。

 すぐさま会議室へ向かうと、入り口の兵士に呼び止められた。会議中のため奥様といえど入室できないと言われたが、緊急だと言って扉を開け放つ。

 室内で会議中の面々が一斉にこちらを向いた。

 大きな会議卓の議長席にはエトガルが立ち、隣には後から参加したらしきヘンドリックの姿がある。他は見覚えのある騎士数名が会議卓を囲むように座っているが、その中に第三守備隊長ゲルトを見つけてアリーセは目を見開いた。

 彼はファビアンの護衛で城砦を留守にしていたはずだ。いつの間にか帰ってきていたらしい。

 そのわりには護衛対象であるはずのファビアンがいないのはなぜだろう、と思ったとき、彼の隣に座る初老の男に気がついた。

 灰色の長い髪を首の後ろで一つにくくり、生地は質素ながら身なりを整えている。よく見れば知った顔だった。


「あなた……もしかしてマリアン?」


 女装して魔女を名乗っていた歴史学者マリアン・ブロッホだ。

 彼は驚いたようにアリーセを見た。左頬の痣が痛々しい。以前会ったときにはなかったものだから最近できたのだろう。

 マリアンは何も言わず、深々と頭を下げた。ただの敬意のあらわれとも、過去の振る舞いに対する謝罪とも受け取れる。

 アリーセはひとまず廊下の兵士に扉を閉めるよう指示を出した。突然の闖入者にエトガルが眼鏡のリムを押し上げながら嘆息する。


「妃殿下、このような行いをされては困ります」

「ごめんなさい。緊急でお伝えしなければならないことがあったの。でもその前に……どうしてマリアンがここに?」

「ゲルトが見つけてきたのですよ」


 えっと思って見ると、ゲルトが腕組みしてふんぞり返ってみせた。

 彼の話によると、マグダレーナの手の者からファビアンを守るため、ここしばらくは包帯で顔を隠して海辺の療養所にかくまってもらっていたらしい。

 そこは蟻斑病といって、穢れた海の水を摂取した者がなる不治の病に冒された者たちが最後の生活を送る場所だった。

 蟻斑病は決して伝染する病気ではないが、多くの者はうつるのを恐れて近づかないので、身を隠すにはちょうどいいと考えたのだ。

 そうして数日ほど暮らした頃、マリアンが蟻斑病の薬ができたといってやってきたという。

 囚人兵仲間だったゲルトは一目でマリアンだと気づいたらしい。

 加えて、エトガルからマリアンとアリーセの間で起きたことを伝書鷹(でんしょだか)経由で聞かされていたそうだ。それでマリアンを一発ぶん殴った上で縛り上げ、彼を連れて第一城砦へ戻ってきたという。

 なんともゲルトらしいとは思うが、少々荒っぽすぎる。


「薬は完成したの?」

「はい、妃殿下。定期的な投与が必要ではございますし、完治まで至るかはまだわからぬところがございますが」


 マリアンは腕の良い魔女として一部で知られていた。嘘は言っていないだろう。


「私の血が無駄にならなくてよかったわ」

 彼との会話はそこで打ち切り、続いてアリーセはエトガルに顔を向けた。


「いま《奈落》はどのような状況なの?」

「《奈落》の封印は間違いなく完了しました。浮上した核はイグナーツ殿下を取り込み、《奈落》の底へ沈んでいったのが確認されています。しかし《奈落》を満たす冥水の水位が一向に下がらないのです」

「まだ儀式が終わっておらぬのでしょう」


 マリアンがぽつりとこぼすと、またゲルトが怒りをあらわにした。

「これ以上なんの儀式をしろってんだよ! 鎮竜の儀か? 王笏の王子はもういないってのに!」

 彼の言葉を聞いて、アリーセは打ち明けるならいまだと思った。


「王笏の王子ならいますわ。私のおなかに」


 水を打ったような静寂がその場に訪れた。

 息を呑んでこちらを見つめる男たちに、フロレンツィアのことも含めて打ち明ける。


「フロレンツィア様が……?」

「まさかそんな」

「え、何? 誰?」


 平民出身のゲルトだけがわかっていないようだったが、みなアリーセの話を受け入れるのが精いっぱいで、誰も彼に説明しようとはしなかった。

 ややあって、エトガルが重たい息を吐いた。


「申し訳ありませんが、急にフロレンツィア様の霊が見えるとおっしゃられても、とても信じられません」

「だが、殿下がときどき虚空を見て話をしていたのは確かだ。おまえさんも気づいていただろう」


 真っ先に受け入れたらしきヘンドリックが援護してくれた。

 彼もエトガルもイグナーツがときどき見えない何かと話していることには気づいていて、見ないふりをしていたのだろう。


「フロレンツィア様でもなんでもいいですが、実在していると証明することはできないもんですかね?」

「そうね……レン様、どうしましょう?」


 アリーセは虚空に浮かぶレンを見上げた。

 こんなにはっきりと見えるのに、この場では自分しか見えないのが不思議だ。その自分も、少し前までは彼を認識できなかったのだ。


「これを言えばたぶん信じてもらえると思う。あのね……」


 レンがアリーセの耳元に両手を添え、とある秘密を囁いた。

 その内容に面食らう。


「本当ですの!?」

「うん、びっくりでしょ?」

「びっくりですけれど、それはみんなの前で言っていいことかしら……」


 思わずヘンドリックを見ると、彼はにやりと笑って自分を指差した。


「何、俺のこと?」

「ええ。レン様……フロレンツィア様のことですけれど、レン様がイグナーツ殿下すら知らなかったヘンドリック卿の秘密を知っていると」

「へえ? いいですよ、言ってみてくださいよ」


 ヘンドリックはなんでもこいとばかりに泰然と腕組みする。

 大丈夫かしら、と思いつつ、アリーセは廊下にまでは聞こえないよう声の調子を落として口にした。


「レン様がおっしゃるには、二年前、三ヶ月間だけヘンドリック卿と……ハイネさんがおつきあいされていたと」

「はああああ!?」


 と叫んだのはゲルトだった。他の面々も声こそ出さないものの驚いた様子で目を剥いており、エトガルまで肩をこけさせていた。

 ヘンドリックの頬が盛大に引きつっているのを見て、アリーセは平謝りする。


「ご、ごめんなさい! みなさんの前でこんな個人的なことを……」

「……いや、言っていいって言ったのは俺なんで、お気になさらず……」


 そうは言うが無理をしているのは丸わかりだ。困ったように頭を掻いている。


「誰にも知られないように気をつけてたんだがなあ。まいった」

「エトガルの旦那も知らなかったのかよ?」

「旦那ではなく副団長、もしくは卿と呼びなさい……ええ、知りませんでしたよ」

「となると、あの鈍い殿下だけが気づいてアリーに話したとは考えられねえな」


 一瞬でその場の全員が納得したのが気配でわかった。


「鈍かったもんな」

「ニブニブでしたね」

「本当に……」


 アリーセもレンも同感だったので、思わずうんうんとうなずいてしまう。


「で? 王笏の王子がいるってことは、今度こそ鎮竜の儀を完了できるんだよな?」

「奥様、腹の息子の代わりに王笏を出せますか?」

「え、それはさすがに……どうなのかしら?」


 なんとなくマリアンに目を向けると、彼は視線を合わせて神妙にうなずいた。


「妃殿下はあくまで母体にしかすぎませぬ。胎内に命を宿しているとはいえ本人ではありません。王笏を扱うことはかなわないでしょう。王笏の王子がみずからの魂で操らねば。そしてやつがれが思うに、妃殿下がご懐妊なさってからまだ日が浅いのなら、命に魂は宿っておられぬでしょう」


 乗馬服の腹がまったく膨らんでいないことから懐妊時期を推測したのだろう。なんとなく恥ずかしさをおぼえて気まずくなる。


「何か方法はないのかよ!?」

「やつがれに言われましても……」


 ゲルトがマリアンの胸ぐらを掴み、それをヘンドリックがまあまあと制止しているのを眺めていると、


「あの……」


 とレンが囁いてきた。

 もとから彼の声はアリーセにしか聞こえないのに、小声で話してくる。


「たぶんね、方法はあると思うんだ。たった一つだけ」

「それはなんですの?」


 アリーセは焦る気持ちを抑えて、極力優しく訊ねた。

 レンがなぜだかとても言いにくそうにもじもじしているからだ。その彼は、しばらく躊躇した様子だったが、やがて慎重そうな口ぶりで語りだした。


「……僕は、言うなれば魂だけの存在なんだ。アリーセに見えているこの姿は、僕の魂を包む皮膜のようなもの。だから……」


 いったん言葉を切ったのは、その先がよほど言いにくいからだろう。

 不安そうな彼の眼差しをアリーセは受け止め、大丈夫ですからと視線で訴えた。

 レンはこくんとうなずいて、なぜか泣き出しそうな顔になって続ける。


「だから……魂だけの僕がアリーセの……お腹の子に宿れば、新しい命と僕という魂が同化するまでの間くらいは、王笏を扱えると思う。僕、ちゃんと成長していれば王笏を継承するはずだったし。でもそれをやったら、僕がいずれアリーセの子として生まれ変わることになるわけで……」


 アリーセは両腕を伸ばしてレンを抱きしめた。


「レン様、それは素晴らしい考えですわ! フロレンツィア様が私たちの子として生まれ直せるなんて……」

「……いいの? 嫌じゃない?」

「嫌なわけありませんわ! きっとイグナーツ殿下も喜びます」

「絶対嫌そうな顔をすると思うけど」

「嫌がったふりをしつつ喜びますわ。そういう方ですもの」

「……うん。そうだね」


 レンも小さな腕で抱きしめ返してきた。

 彼の体はとても小さく、強く抱きしめたら壊れてしまいそうだ。それが一足早く授かった我が子のように思えて、愛しさで胸が苦しくなる。


「……なんとなくですが、お二人がどんな話をなさったのかは伝わりました」


 冷静な声音に振り向けば、エトガルたちが穏やかな顔でアリーセを見つめていた。

 見えない幼児を抱きしめるという奇行を見ても、誰も嫌な顔をしていない。

 そこに切り札があるのだと誰もが確信しているようで、決意の炎を燃やしているのが伝わってきた。


「フロレンツィア様ならば、王笏を扱えるのですね?」

「そのようですわ」

「ならば決まりです。鎮竜の儀を終わらせましょう」


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