67.人魚を怒らせてはいけません
アリーセは嵐のように荒れくるった。
はじめは真実を告げずに旅立っていったイグナーツへの怒りで叫び、罵り、寝台の枕や長椅子のクッションに八つ当たりをした。
それから部屋を散らかしたことを侍女のミアに謝罪し、彼女の胸で幼子のように泣きじゃくった。
そして泣き疲れて眠った後は、もう寝台から起き上がる気力もなくなってしまった。
一日中寝台で横になったままぼうっと天蓋を眺めては、ときおりイグナーツを思い浮かべて涙を流し、泣き疲れて眠る。ただただそれを繰り返すばかり。
三日、何も食べなかった。
四日目の朝、イグナーツの夢を見た。
透明な日差しが差し込む食事の間で、彼は相変わらず朝から肉料理をもりもりと平らげていく。
「相変わらず美味しそうに召し上がりますね」
アリーセが苦笑しながら言うと、彼はごくりと呑み込んだ後、
「一口食べますか?」
と鶏の香草焼きを一切れフォークに刺し、身を乗り出して突き出してくる。
あーんと口を開けて食べるよう催促されて、アリーセは戸惑った。
「そ、そんなはしたないことできませんわっ」
「いいじゃないですか。ほら、遠慮せずに」
彼は使用人の目など気にした様子もなく、楽しそうに笑っている。
アリーセは使用人というよりミアの視線が気になった。だがせっかく彼が甘やかしてくれているのに断るのももったいない気がして、そうっと椅子から腰を浮かせた。
「あ――」
そこで目が覚めた。
目の前に彼の笑顔もフォークもなく、あるのは寝台の天蓋だけ。
ぽろり、と目の端から涙がこぼれ落ちた。
(どうせなら、食べるところまで見せてくれればいいのに)
意地悪な夢だ。いや、きっと脳がそこまで思いつかなかったのだろう。
みずからの想像力の欠如にあきれ果てていると、急に腹のあたりからぐうと音が鳴った。ひさしぶりの感覚だった。
腕を伸ばしてサイドテーブルの呼び鈴を掴み、無理な体勢のまま鳴らす。
まもなくして隣の控え室からミアがやってきた。
「いかがなさいましたか、奥様」
彼女はアリーセの心を乱さないように、いつもと同じ笑顔を向けてくれる。
「……りの」
アリーセは舌がからからに乾いていることに気づいた。
すぐにミアが水差しをグラスに注いで差し出してくれる。
それを受け取って、グラスの縁に口をつけた。最初は少しずつ水をすすり、落ち着いてからはごくり、ごくりと飲んだ。舌がなめらかさを取り戻していく。
「……鶏の香草焼きが食べたいわ。あと葡萄も」
なんとなく、イグナーツとはじめて食事をしたときに彼が食べていた葡萄を思い出したので付け加える。
あの頃はまだ初夏だったから早生品種だった。いまは初秋だから同じ品種のものは食べられないだろうが、似たようなものなら構わない。
ぱあっとミアが表情を輝かせる。
「すぐにご用意いたしますね! あ、ちょっとお時間はいただくと思いますが!」
相反することを嬉しそうに言って部屋の隅から垂れた紐を引っ張り、駆けつけた執事に献立の注文を伝える。
そんな二人の姿をアリーセはぼんやりと眺める。
目に映る世界がまだ動いていることが、妙に不思議な気がした。
イグナーツが去ったと知って絶望した。
人生がそこで終わってしまったかのように思えた。
すべてはアリーセがそう感じたという話で、もちろん実際には終わっていない。アリーセがみずから終わらせようとしないかぎりは。
(もちろん、そんなことはしないわ)
イグナーツは愛する人々を守るために犠牲になった。
ここでアリーセが人生を終わりにしたり、あるいは終わったかのような人生を送ったりしたら、彼の命が無駄になってしまう。そんな愚かな真似はできない。
いつもの食事の間でも、一緒に食べる相手がいないと妙に部屋が広くなったかのように感じて味気なかった。それでもイグナーツの好物を中心とした食事をとると、体が少しずつ活力を取り戻していく気がした。
(私が食べるのを忘れていたから、心配して夢に現れてくださったのかしら)
いまも彼に支えられているのを感じる。
誰もいないところでこっそり涙を拭うと、アリーセはさっそく行動を開始した。
これで終わりにはしない。
彼の命を無駄になんて絶対にしない。
執事長に頼んで、ファビアンの部屋へ出入りさせてもらった。
ファビアンからは「部屋に残したものは自由に見て構わない」という言づてを受け取っている。
書き物机の引き出しには手紙の下書きと、手記についてまとめた資料が整理されて残されていた。それをじっくりと読み込む。
できれば直接話を聞きたかったが、彼は聖剣と王笏について調べていたためにマグダレーナの手の者に暗殺されかけ、身を隠している。
オスヴァルトを失ったマグダレーナがいまさら何かしてくるとは思えない。そろそろ帰ってきそうなものだが、ただ待っているだけの時間が惜しかった。
一日中ファビアンの部屋にこもって書類を読むアリーセに、ミアがおずおずと銀盆を抱えて声を掛けてきた。
「ヴェルマー公爵からお手紙が届いておりますが……」
「後で読むわ」
父からの手紙はおそらく王位継承権争いに関するものだろう。
王子が二人とも不在となったため、誰が次の王になるかわからなくなった。父も順位は低いながらも王位継承権を有しているので、その関係だと思われる。
だが、アリーセはそんなものに関わるつもりはなかった。
「なぜ『神の呪い』って言われているのかしらね」
「へっ?」
急に振られたミアが変な声を漏らす。
「《奈落》と聖剣や王笏は禁忌を犯した人間への呪いだというけれど、呪いには解く方法があるものよ。呪いの源を絶つとか、呪いをかけられた者にはとても困難なことをするとか、少なくともおとぎ話での呪いはそういうふうに描かれてきたわ」
「そ、そうですね……」
ミアは言葉を濁す。
それはおとぎ話、作り話だからではないかと言いたいのだろう。
アリーセも、昔はそう思っていた。作り話だから理不尽な仕打ちを打ち消す方法が用意されているのだと。だがいまは違う。
(おとぎ話が作られたのは大昔……神に呪われるよりも前だったから)
魔法使いと呼ばれる、魔法を扱える人間がいたころだ。
その時代には、呪いという魔法の一種のようなものは条件がそろえば解けるものだと考えられていた。
だから、おとぎ話では呪いは必ず解けるように描かれていたのではないか。
「あの、奥様。どうして急にそのようなことを?」
「もしこれがただの呪いで解除することができるのなら……誰かが終わらせなければいけないわ」
きっとこれまでアリーセの想像もつかないほどたくさんの人々がこの呪いに挑んできただろう。
それでも解くことが叶わなかったのだとしたら、それは実現が非常に難しいか、あるいは不可能なのかもしれない。
そんなことにたった数ヶ月間、聖剣の王子の妃でいただけの小娘が挑んでどうにかなるとは思えない。
それでも、アリーセに挑戦しないという選択肢はなかった。
(愛する人を理不尽に奪われた人魚が……黙っているわけにはいかないのよ)
ボーグ湖の人魚は執念深いのだ。
夫を奪った者を許すなんてあり得ない。たとえ相手が神様であろうとも。