65.別れの時が近づいているようです(2)
イグナーツが第一城砦から帰ってきたのは五日後だった。
《奈落》側の門の前で馬番に愛馬を託す夫の姿が窓から見えて、アリーセはいてもたってもいられなくなった。
ドレスの横を掴んで廊下を駆け、階段を駆け下りたところで、ちょうどエントランスホールに足を踏み入れた様子のイグナーツがこちらに気づいた。
「アリーセ」
せ、まで言い終わらないうちに、アリーセは彼の胸に飛び込んだ。
広い背中に腕を回してぎゅっと抱きついてから告げる。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
噛みしめるように言って抱きしめ返してきたイグナーツは、はっとした様子で身を離した。
「っと、ドレスが汚れますよ」
「別に構いませんのに……」
アリーセは苦笑する。
たぶんイグナーツが気にしているのはドレスを汚すことではなく、どちらかというと汚れた姿を見られることや体臭だとわかったからだ。
無事な姿で帰ってきてくれればそれでいいのにと思うのだが、彼は変なところで細かいことを気にする。案外、格好つけたがるタイプなのかもしれない。
「そ、そういうわけにはいきませんので」
「お怪我はなさいませんでしたか? 痛いところはないのですよね?」
「もちろんです。あの、先に湯を浴びてきても……」
「ええ、どうぞ。湯殿の準備はできているそうですわ」
これ以上引き留めては意地悪になってしまうので、アリーセは笑いながら夫を解放した。
彼はそそくさと逃げるように離れていく――かと思いきや、数歩で戻ってきて耳打ちしてきた。
「一緒に入りますか?」
「え……」
一瞬、彼の裸身を想像してしまい、かあっと頬が熱くなる。
「け、結構です!」
今度はイグナーツがくすくす笑いながら去っていく。
一瞬でやり返されてしまったが、嫌な気はしなかった。
ちょうど夕食時になったので、次に顔を合わせたのは食事の間の前だった。
風呂上がりらしい湿った銀髪をうなじに垂らし、シャツと胴着と脚衣という見慣れた軽装姿になった彼が腕を差し出してくる。アリーセは笑ってエスコートを受けた。
食事の間へ入り、向かい合わせの席で豪勢な食事を囲む。
こうして二人きりでゆっくりと食事をするのは王都から帰還した日以来だ。
いつものようにイグナーツは肉類を中心にもりもりと平らげていく。彼だけメインの肉料理が三皿は用意され、アリーセが一皿食べるよりも早く胃袋に消えていく。
「いつも思うのですけど、殿下のお腹はどうなってらっしゃるのかしら」
するとイグナーツがカトラリーを止めて、襟に手をかけた。
「どうなっているか見たいですか?」
「い、いまはいけませんわ!」
まさか食事の場で脱ぎ出すようなことはないと思いたいが、エントランスでのやりとりを思い出してつい声を張りあげてしまった。
「『いまは』ですか。では、また二人きりのときに」
「……っ!」
絶句するアリーセを見て、イグナーツが笑いながら食事を再開する。
(今日の殿下はいつもより意地悪というか、浮かれていらっしゃるみたい)
魔物との戦闘から解放されたばかりだからか、それともひさしぶりに愛する妻の顔を見られたからか。
そんなふうに考えてしまうのは自惚れが過ぎるだろうか。
食後にはカイザー・シュマーレンが出された。
甘党をゲルトたちにからかわれてから料理長には作らせていなかったはずなのに、今日はみずから注文したのだろうか。構わずバクバク食べている。
「今日お帰りになると知っていたら私がお作りしましたのに」
前回は魔物の長を倒して魔湧きが落ち着いた後、すぐに帰ってはこなかった。
《奈落》に逃げそこねた魔物が周囲に隠れていないか、一日から二日ほどかけて確認するためだった。なのに今回は長を倒したその足で帰ってきたようだ。
「それは惜しいことをしました。あなたにも鷹を飛ばしておけばよかったです」
「こんなに急いで帰られるなんて、何か残したお仕事でも?」
「いえ。ただ、一刻も早く愛する妻の顔を見たかっただけです」
臆面もなく、蒼色の双眸をまぶしげにすがめて見つめながら言ってくる。
まっすぐな愛情表現は嬉しいが、王都へ行く前はなかったことなので使用人たちの目が気になって照れてしまう。
(早く帰ってきてくれて、私も嬉しいですわ。とても……)
そう口に出すのが恥ずかしくて、見つめ返す眼差しに気持ちを込める。
するとイグナーツがにこりと微笑んだ。伝わったのだと悟ってアリーセは安堵する。
――口に出して言えばよかったと、後悔することになるとは知らずに。
夜。
イグナーツの腕に抱かれてウトウトしながら、アリーセはふと思い出した。
「そうでしたわ。殿下にお願いがありましたの」
「お願い?」
「お目覚めになったら、一緒にお祭りに行きませんか?」
イグナーツは聖剣の力のおかげで魔物と不眠不休で何日も戦うことができるが、その後は長い時間の眠りが必要になる。聖剣から体力の前借りのようなことをしているので、そのぶん三日程度休まなければならないのだ。
今夜眠ったら、きっと彼が目を覚ますのはまた三日後くらいになるだろうとアリーセは予測していた。
「お祭りなんてやっているんですか? 少々時季が早い気がしますが……」
「小さな村独自のお祭りだそうです。先々代の聖剣の王子に随行していた吟遊詩人がはじめた村祭りで、毎年夏の終わりに聖剣の王子と王笏の王子を讃える歌を披露しあうとか。ちょうど明後日からはじまるそうです。本物の聖剣の王子でいらっしゃる殿下が参加されたら、きっとみんな喜びますわ」
「……逆に気まずくなりませんか?」
おそらく気まずいのはイグナーツの方だろう。
王都で民衆から歓声を浴びせられたときの反応を見たかぎりでは、彼は英雄のように讃えられるのが苦手なのだろう。
「気まずいことなんてありませんわ。張り合いが出て盛り上がること間違いなしです。ねえ、いいでしょう?」
アリーセは夫の裸の胸に抱きついてせいいっぱい甘えた。
わがままを言ったり、おねだりをしたりするのは正直慣れていないのだが、だからといってためらってはいられなかった。
また魔湧き現象が起きたら、イグナーツは任務優先で出歩けなくなってしまう。
次の祭りといえば秋の収穫祭だが、同じタイミングで魔湧き現象が起きる可能性もある。その後は長い冬に入るので、しばらく祭りらしい祭りは春までないのだ。
(少しでも幸せな思い出を作らなきゃ)
残された時間は十カ月はあるはずだが、ここ数日、療養所の惨状を見てきたこともあって妙な焦りを感じてしまう。
「もちろん他に先約があるのでしたら諦めますけれど……」
イグナーツが乗り気ではなさそうなのを察して、アリーセは彼の体に巻きつけていた腕を緩めた。と、逆にぐっと力強く肩を抱き寄せられた。
「……おぼえていたら」
え? とアリーセはイグナーツの顔を見上げた。
暗闇の中でうっすらとしかうかがえないが、蒼の双眸が優しく見つめ返してくる。
「目覚めたときにおぼえていたら、行きましょう」
「なら、決まりですわね。万が一忘れてらっしゃったら、また思い出していただけばいいんですもの」
アリーセはイグナーツの首に腕を回し、少し伸びをして彼の頬に口づけた。