63.大事なことほど遅れるものです(2)
「長居をしてすまない」
「構いませんよ。ご事情がおありなのでしょう?」
談話室の椅子でバルトル公爵はパイプをくゆらせながらうなずいた。
事情を話したわけではないし、何か訊ねられたわけでもない。それでもイグナーツの顔色から何事か察してくれているようだ。
十歳以上年上の盟友の落ち着きぶりがうらやましく思えた。少なくともイグナーツに十年後など存在しない。
そんな彼が窓の外を見やって太陽の傾きに気づくと、「いかん」とつぶやいて立ち上がった。
「もうこんな時間か。失礼、実はやり残した仕事がありまして」
「お構いなく。忙しいのに稽古につきあわせてしまってすまなかった」
「とんでもない。むしろ、私程度の腕前でどれほど殿下のお役に立てたかどうか……」
「謙遜しなくていい。あなたの剣筋は実に紳士的で新鮮だったよ」
「つまり、剣筋が見え見えで《奈落》の騎士団にもいない素人の腕前と?」
「俺はそこまで口が悪いつもりはない」
イグナーツがぶすっとしてみせると、バルトル公爵は「これは失敬」と笑った。
彼とのやりとりはときおりゴルヴァーナ城砦の人々を思い起こさせる。
エトガルにハイネ、ヘンドリックたちにもう何年も会っていないかのような錯覚をおぼえた。
早く彼らに会いたい。
そう思う一方で、まだ帰りたくないとも考えてしまう。
「ああ、伝書鷹をお使いになるようでしたら遠慮なくお申し付けください」
「……ありがとう」
バルトル公爵はいえいえと言って去っていった。
イグナーツはひとり談話室に残される。
脳裏には四日前、イグナーツは再びバルトル公爵邸に立ち寄った際に受け取った、ゴルヴァーナ城砦からの手紙の存在が浮かんでいた。
もとより復路でも公爵邸に一泊する予定で、エトガルたちには何かあればバルトル公爵宛に伝書鷹を飛ばすように伝えてあったのだ。
『予定よりも早く冥水の水位が上がっているようです』
その手紙の一文がエトガルの声で何度も頭の中に繰り返し流れている。
冥水とは《奈落》を満たしている謎の液体だ。
数年かけて徐々に上昇していき、一定の水位に達すると魔物たちの源とされる核が現れるのだ。
聖剣の王子はそこへ聖剣を突き立て、みずからの命を持って百年間だけ《奈落》を封印する。
冥水の水位が上がっているということは、運命の日が近づいているのだ。
(早すぎる。十カ月は先じゃなかったのか)
第一城砦に常駐している専門家たちの予測が完全に外れた。
神の怒りに触れた数百年前から《奈落》の観測は続いており、前回も前々回も予測どおりだったという。
今回に限って専門家たちが外したとは考えられない。何らかの外的要因で急激に水位が上昇したと考えるべきだろう。
(エトガルが三速の伝書鷹で知らせてきたことから逆算すると、水位が急激に上昇した日はオスヴァルトが鎮竜の儀で失敗した日と同じくらいか……)
無関係ではないだろう。
水害は治まったようだが、危機が去ったわけではないのだ。
「大丈夫?」
はっとして思考を打ち切る。
虚空を見上げると、翼を生やした金髪の幼児が心配そうに見下ろしている。
自称聖剣の精霊のレンだ。本当に自称でしかなかった彼は、眉をひそめてあきれたような眼差しを向けてくる。
「また手紙のこと考えてるでしょ?」
「まあ、な。だが、大丈夫だ」
イグナーツは無理やりに苦笑する。
レンは双子の弟、フロレンツィアの幽霊のような存在だ。
イグナーツはオスヴァルトがフロレンツィアの骨をすべて摂取したら、王笏と引き換えにレンは消滅するのではないかと思っていた。
だがそうはならなかった。聖剣や王笏と違って魂は骨とは関係ないようだ。
そのレンがむっとした顔で腕組みをし、偉そうに見下ろしてくる。
「あのさ、僕を見るたびに泣きそうな顔でほっとするのやめてくれる? これで何度目だよ?」
「……泣きそうになってなどいない」
「よく言うよ。まったく、これじゃどっちが兄だかわからないよ」
とぼやいて、有翼の幼児の姿がふいっと壁を透過して消えていく。
「……双子なんだから、兄も弟もないだろう」
あくまで取り上げられた順であり、生まれたのは同日なのだ。
そのとき扉がノックされた。
「私ですわ」
アリーセの声を聞いて納得する。
レンが立ち去ったのは気を利かせてのことらしい。確かに、最近の夫婦仲を思えば双子の弟に見せたくない会話になる可能性はじゅうぶん高い。
「いまよろしいですか?」
「何かあったのですか?」
質問に質問で返すと、アリーセは苦笑して肩をすくめた。
「何かというほどではないのですけれど。実は、マヌエラがお昼寝してしまいましたの」
どうやら暇を持て余してやってきたようだ。
彼女には冥水のことも、バルトル公爵邸に長居をしている理由も話していない。
「それで、執事の方が馬を使わせてくださるって。近くに見晴らしの良い高台があるそうなので出かけませんか?」
「馬なら俺のがありますが」
「別々の馬で行きたいんです」
翡翠色の双眸が期待に輝いている。
(顔色もよくなったな。一時はどうなることかと思ったが……)
もともと故郷のボーグ湖で水泳を楽しむような活発な女性だ。
誘拐事件のせいでしおらしくなっていたが、ここ数日、親友と過ごすことで体を動かしたいと思うくらいには元気を取り戻したようだ。
まったく、バルトル公爵夫妻には頭が上がらない。生きているうちに恩を返しておかねばとこっそり心に誓う。
「俺と一緒には乗りたくないと?」
「そ、そういう意味ではありませんわ!」
頬を染めて全力で否定するところが可愛らしい。
「そうではなくて……以前情けないところをお見せしてしまいましたから。名誉挽回したいのです」
はじめて第一城砦へ連れて行ったときのことを言っているらしい。
あのときのアリーセは実家に帰されると思っていたせいか、イグナーツに対してあきらかに緊張していた。
一緒に馬に乗ったときもガチガチに固まっていたのをおぼえている。
「いいですね。ぜひ、見せてもらいましょう」
イグナーツはアリーセの背に腕を回しながら部屋を出た。
ここへは目立つのを避けるために愛馬を降り、馬車で訪れている。愛馬もそろそろ暇を持て余しているだろうし、アリーセとのんびり遠乗りをして一人と一頭の気分転換につきあうのもいいだろう。
などという考えは、甘かったと言わざるを得ない。
いざ馬を走らせてみれば、アリーセは速かった。
借り物の乗馬服を着こなして颯爽と鞍にまたがった彼女は、邪魔にならないよう三つ編みにした赤髪をなびかせながら丘陵を駆け上がっていく。
とても「のんびり」という雰囲気ではない。
イグナーツは手綱を握りながら思わず苦笑した。
(なるほど、これが本来の彼女か)
名誉挽回したくなるのもうなずける。借りてきた猫のようだったあのときとは大違いだ。
だが、いまの彼女の方が何倍も魅力的だと認めざるを得ない。そもそもイグナーツが惹かれたのは、湖で自分を救助し、ずぶ濡れで笑う彼女だったのだから。
アリーセの馬は丘陵を上りおえて少し進んだところで停まった。
イグナーツも愛馬をその横へ寄せた。
彼女の横顔が丘の麓をじっと眺めているようだったので目を向けると、左側に森が、右側には隣村の赤い煉瓦屋根の連なりが見下ろせた。その奥には川も流れている。
「いい眺めですわね」
「そうですね」
生返事にならないように答えつつも、イグナーツは眼下の光景にあまり興味を抱けなかった。目新しいものはなく、どこにでもある田舎の一風景としか思えない。
しかしアリーセの方は違ったようだ。
「やっと、新婚旅行らしいことができましたわ」
その一言にはっとさせられる。
と同時に、自分の至らなさに気づいて頭を抱えたくなった。
(俺は自分のことばかりで、そんな大事なことも忘れていたのか……!)
アリーセがくすくすと声を立てて笑う。
「すっかり忘れていたというお顔ですわね」
「……その通りです。すみません」
「構いませんわ。今回はあくまで立太子式と鎮竜の儀への参加が目的でしたもの。どちらもサボってしまいましたけど。でも……」
言いながら、彼女は再び麓の光景を眺めて翡翠の双眸を細めた。
「鎮竜の儀が……犠牲はあったようですけれど、成功してよかったですわ」
村の奥を流れているのはガリウ大河の派川だ。
多くの流域で水害が起きていたと聞いていたが、少なくともこのあたりでは被害が少なかったようだ。目に映る範囲だけでも無事だったとわかってほっとする。
「本当に」
短く答えながら、イグナーツは察した。
(新婚旅行らしいこと、というのは嘘だな)
バルトル夫妻の前でイグナーツの意志を尊重したいと語っていた妻は、公爵邸での滞在を延ばす夫に対してなんの不満も口にしなかった。
きっと何かしら思うところはあったはずだ。
それでも夫が自由に、穏やかに過ごせる時間を優先してくれた。
もしかしたらアリーセは、イグナーツが《奈落》に帰らなければならないのに気が進まなくなっていることに薄々気づいており、その原因が鎮竜の儀に関係していると察しているのかもしれない。
だから、水害の被害を受けなかった村を見せたかったのだろう。
少しでも、イグナーツの憂いが取り除かれるように。
「まいりました」
「え? いまなんと?」
「なんでもありません。風が出てきましたね。そろそろ帰りましょう」
イグナーツはそう促しながら、馬首を巡らせた。
妻の馬がついてくる気配を感じながら、明朝には公爵邸を辞そうと考えていた。
今度こそゴルヴァーナ城砦に帰ろう。魔物との戦いの日々に戻るのだ。
あるいは、最後の戦いに。