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59.人魚姫は眠り姫を知り尽くしています(1)

 朝餐(ちょうさん)後、アリーセたちは許可を取ってヴェルマー公爵家のタウンハウスへ向かった。

 ずっと領地の主邸で暮らしてきたので王都の屋敷に滞在した経験はそれほどなく、元から他人の家のような居心地の悪さを感じていた。

 だが今日は特に重苦しい空気が立ちこめているように感じた。

 屋敷の誰もが、既に死神に見張られていると思っているのかもしれない。


(クラーラはそれだけ危険な状態ということね)


 馬車で玄関アプローチに乗り入れ、タラップから降りたところで出迎えてくれた人々を見て驚く。

 執事や使用人たちだけでなく父の姿もあった。


「ようこそお越しくださいました、イグナーツ殿下、アリーセ……」


 そう言って父は恭しく一礼する。

 もちろんイグナーツに対する礼儀だろうが、嫁入り前なら父の出迎えなどありえなかった。


(お父様、だいぶやつれたみたい)

 先日夜会で見かけたときよりも数歳老いたようにすら見えた。


「まさか殿下までお越しくださるとは……」


 父の青ざめた顔に苦いものが交じる。

 クラーラがイグナーツと婚約破棄した件を思えば当然だろう。


「こちらにも事情がある。いまは妻と片時も離れたくないんだ」


 イグナーツがさらりと言うものだから、アリーセはうっと声を漏らしそうになった。

 誘拐されたばかりだから心配だという意味だろうが、その件は伏せられているのでただ溺愛されているようにしか聞こえないだろう。

 使用人たちの耳も意識してしまい、そんな場合ではないのに頬が熱くなる。


「お父様、クラーラは大丈夫なのですか?」


 大丈夫ではないから呼ばれたのはわかっていながら、つい動揺して焦ったように声をかけてしまった。

 ああ、と父は渋い顔で曖昧にうなずいた。どちらの意味だろうか。


「お継母(かあ)様はご健勝でしょうか」

「健康状態に問題はない。が、ショックで寝込んでいてな……殿下にご挨拶をしたがっていましたが、私の方で止めました。無礼をお詫びします」


 父は話の途中でイグナーツに顔を向け、謝罪した。もちろんイグナーツはそんなこことで不作法ととがめるような人ではない。


「構わない。それより案内してもらえるか? あまり時間がないんだ」

「……失礼しました。明日は立太子式でしたな……こちらへ」


 父が先導するように屋敷の中へ入っていく。

 気を抜けばよろけてしまいそうな足取りを見るに、とても明日の立太子式に参加できそうに思えない。


(あれだけ溺愛していたのだもの。無理はないわね……)


 そう思うと当時に胸の奥が痛んだ。

 この期に及んで、クラーラがうらやましいと思う気持ちがまだ残っている。

 ひさしぶりに訪れたクラーラの部屋は、また壁紙が変わっていた。

 桃色の生地に小花柄の壁紙は少女趣味すぎやしないかと思うものの、新調したらしき白色の家具調度品とは調和が取れている。

 メイドが天蓋付き寝台のカーテンを開けと、そこにクラーラは眠っていた。

 高熱であえいでこそいないものの、顔色は悪く、まるで生気がうかがえない。


「熱は下がったのだが、一向に目を覚まさんのだ。あの池で溺れておいて命が助かっただけでも幸運だったが……」

 運もそこまでだったかもしれない、とは思っても口に出したくないようだ。


「いったいなぜ池に?」

 アリーセの問いに、父は弱々しくかぶりを振る。


「わからん。クラーラを救助した衛兵も水音を聞いて駆けつけただけで、池に落ちるところを目撃した者はおらんかった」

「そう……」


 何かに気を取られて足を踏み外したのだろうか。

 なんとなく池をのぞいたときにたまたまヒールで小石を踏んでよろめき、そのまま池にドボンと落ちてしまう、そんな可能性もないわけではないだろう。


「アリーセ」


 肩に触れてきたイグナーツに、アリーセは振り向いてうなずいた。

 クラーラの見舞いという名目で王宮を出たが、その後はこっそりゴルヴァーナへ帰る予定だ。馬車には必要最低限の荷物も積み込んである。

 立太子式の説明を受ける時間までには王都を抜け出さなければならない。


「お父様。念のためにうかがいますけれど、クラーラに声をかければよろしいんですね? どんなことでも?」

「ああ……いや、クラーラが目を覚ましそうなことを語りかけてやってほしい」

「承知いたしました。やってみますわ」


 アリーセは寝台の側に置かれた丸椅子に腰を下ろした。

 クラーラの寝顔をしっかり見るのははじめてかもしれない。

 いざ顔を見たら、用意してきた当たり障りのない言葉になんの意味もない気がしてきた。

 自分と同じ髪色、違う髪質をした美しい娘。

 いつも甘ったるく、かつ蔑んだ目を向けてきていた異母妹。

 アリーセにたくさんの理不尽を与えてきた彼女とは、いつも会話が成り立たなかった。


(「早く元気になってね」なんて言ったところで響くわけがないわ。しらじらしいと思われて聞き流されるのがオチよ)


 彼女を心から愛している父や継母たちが声を掛けても反応しないのだ。だから自分が呼ばれた。

 ならば、自分にしか言えないことを語りかけるべきだろう。


「クラーラ」

 と呼びかけてから、アリーセはすうっと息を吸った。


「私、あなたが嫌いだったわ。こっちが仲良くなろうと必死に努力しているのに、まったく意に介さないどころか嫌がらせばかりしてくるんだもの。当然よね」

「こら、アリーセ!」


 父がぎょっとした声でたしなめてくる。

 だがこの反応は想定内だ。アリーセは振り向かずに落ち着いて応える。


「お父様は黙っていらして。私はクラーラに話しかけていますの」

「しかし……」


 アリーセの肩を掴もうとした父の手を、横から伸びてきた別の手が制止する。

 イグナーツが首を横に振ってみせた。


「彼女に任せましょう」

「…………わかりました」


 数秒ほどして逡巡する気配が消え、息を抜く音が聞こえてきた。

 アリーセは続ける。


「でも、あなたの言い分もわかるわ。お母様が離婚に応じなかったから、あなたとお継母様はなかなか公爵家に入れず、世間からは愛人とその娘だと非難されていたのでしょう。だから恨みに思う気持ちも理解できるわ。でもね、悪けれどあなたは恨む相手を間違えていたわ。恨むべきは私でもお母様でもない……わかっているでしょう?」


 それが誰とまでは言わない。

 聞いている当人は自分のことだと理解しているだろう。


「でも、あなたはその人を恨んだり嫌ったりするわけにはいかなかった。絶対に好かれなければ、愛されなければならなかった。だから代わりに私を嫌い、憎み、恨むことにしたのだと。その人の愛情を私から奪わなければならないのだと――ああ、同情はしないわよ。同情してあげるには、あなたが私にしたことはちょっと可愛げがなさすぎたもの。クマさんにしてくれた仕打ちは絶対に忘れないから」


 人魚は執念深いのだ。受けた仕打ちは倍にして返すのが彼女たちのやり方だ。

 その点、自分はまだまだ甘い。人魚としては半人前だ。

 そんなことを考えながら、「でも」とアリーセは不敵に続ける。


「それでも、ね。あなたには一つだけ感謝していることがあるの。あなたがイグナーツ殿下との婚約を破棄してくれたおかげで、私はいまとても幸せなの。クラーラ、あなたは殿下にお目通りしたことなかったでしょう? 殿下は社交界の誰よりも見目麗しくて、優しくて誠実で、お強くて、そして愛情深い御方なの。あとちょっと抜けているところがお茶目で可愛らしくて――」

「あ、アリーセ、何を……」


 今度はイグナーツが動揺の声を漏らしたが、それを父が制止する。

「アリーセに任せるのではなかったのですか?」

「それはそうだが……」


 さきほどと立場が逆転しているのがおかしくて、アリーセは笑いそうになるのをぐっとこらえる。


「何よりね、こんな私を心から愛してくださるの。あなたにも紹介したかったわ……ああごめんなさい、勝手にあなたがもう目覚めないみたいなことを言ってしまったわね? 悪気はなかったのよ。ごめんなさい。許してね?」


 アリーセは言いながら、そっとクラーラの手を握った。

(これでどう? ここまで言われて黙っていられるあなたではないでしょう?)


 クラーラが一番嫌いな、他人しかもアリーセの自慢話。

 そこからの煽るような物言いは、ふだんアリーセがクラーラにされていたものだ。

 人間というものは単純にできていて、他人を侮辱するときは自分が言われると嫌な言葉を選ぶものだ。

 だからそれをそのまま返すのが、もっとも刺さるはずだ。


「早く元気になって、可愛い顔を見せてちょうだい」


 元気でなくてもいいから、生きて、小憎らしい顔でまた私の前に現れなさい。

 本心はこちらだ。どんなに嫌いでも、死んでほしいとまでは思わない。死んだら打ち負かせることができなくなる。

 十八歳の誕生日、はじめてクラーラにやり返せて自分なりに満足したつもりでいた。

 いま思えば、あの程度で満足するなど人魚と呼ばれる者としてあり得ない。

 彼女に心から「負けた」と思わせるまで、クマさんの仇討ちは終わらないのだ。

 そのとき、握った手がぴくりと反応した。


「……と、を……」


 血の気のない唇からかすれた声が漏れた。

 その瞬間、室内にいる誰もがどんな小さな物音も聞き逃すまいと息を止める。


「心にも、ないことを……反吐(へど)が出ますわ……」

 クラーラがうっすらと瞼を開けた。


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