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58.関係を変えるときが来たようです(2)

 妙な寝苦しさをおぼえてアリーセは目を覚ました。

 昨夜寝泊まりした《蒼の宮》の一室ではなかった。

 しかし窓から見える景色は角度が少し違うだけで《蒼の宮》前にある庭園に違いなかった。ということは、どういうことだろう。


(そうだわ。私、昨夜は……)


 夢の中へ戻りたがっていた意識が一瞬で覚醒する。

 ついでに寝苦しさの正体は、さきほどからアリーセが枕代わりにしているたくましい腕にあることにも。

 顔を横に向けると、穏やかな美貌に見つめられていた。

 びっくりしすぎて息が止まった。深い蒼の瞳に驚いた顔の自分が映り込む。


「おはようございます」

 美貌の主が落ち着いた声音で言う。寝ぼけた様子は微塵もない。


「お、はようございます……」


 アリーセの方は消え去りそうな声になった。

 窓の外の風景が似ているはずだ。ここはアリーセの部屋の隣室、つまりイグナーツの寝室なのだから。

 昨夜この部屋で起きたことを思い出して、かあっと顔が熱くなる。


「じょ、女性の寝顔を見つめるのは作法に反しますわ」


 照れていることを気取られたくなくて、つい強気な態度を取ってしまう。

 とはいえすました口ぶりも、彼の腕の中にすっぽりと収まっている状態ではまったく格好がつかない。


(夢でも見ていたみたいだわ)


 アリーセもイグナーツも、何事もなかったかのように夜着を身につけている。表面的には行為の名残らしきものは見当たらない。

 だが決して夢ではないのだと、下腹部の芯に残る痛みが訴えてきている。


「愛しい妻の寝顔でもいけませんか?」


 イグナーツが横たわったまま器用に小首をかしげてみせる。

 よくもまあいけしゃあしゃあと言えたものだ。

 愛せないと言ったことは嘘だと打ち明けてからというもの、イグナーツは完全に開き直っている。

 夜通し愛をささやき、体中に口づけ、アリーセをかき乱した。

 彼とあんな情熱的な夜を過ごす日が訪れるとは思ってもいなかった。生まれて初めて全力で愛される喜びを知り、満ち足りた夜を過ごした。

 しかし、彼が嘘さえつかなければもっと早く両思いになれていたのだと思うと、悔しさもこみ上げてくる。騙されていたという怒りもだ。

 それら三つの感情が混ざり合うと、とても一言では表現できない。


(本当に、勝手なんだから)

 アリーセはむうと口を引き結び、そんな口元を夏用の上掛けを持ち上げて隠した。


「おはようのキスもさせないつもりですか?」

「…………」


 結婚初夜におやすみのキスもさせなかったくせに。

 そう文句を言う代わりに、じろりとにらみつけてやった。


「昨夜、さんざんなさったではありませんか」

「足りませんね」

「そうですか、キス魔の方は大変ですね」


 アリーセはあえて素っ気なく言って、彼の腕枕から起き上がろうとした。

 が、腰に絡みついてきた腕によって身じろぎをするのが限界だ。


「……訂正し忘れていたことがもう一つ」

 横暴な振る舞いに反して、声はどこか慎重だ。


「まだ嘘をつかれていたのですか?」


 この人はいったいいくつ嘘を重ねていたのだろう。それでよくいままでよく隠し通せたものだとあきれてしまう。


「嘘ではなく、あなたが勝手に誤解していたんです。俺はキス魔ではありません。キスが好きなのではなく、あなたとのキスが好きなんです」

「また……!」


 アリーセは横にどけられていた枕を掴んで、イグナーツの顔面に叩きつけた。

 横になったままなのでたいした勢いはなかったはずだが、隙を突かれたイグナーツは枕をまともに食らった。いい気味だ。


「暴力は反対です」

「これは正当な抗議というものですわ」


 もう一撃お見舞いしようとしたら、枕を掴んだままの手を大きな手に掴まれ、シーツに縫い付けられた。イグナーツに覆い被さってきて、真上から唇を塞がれる。

 ちゅっと柔らかいところを軽く吸うだけのキスだった。


「許してください、アリーセ」


 のしかかられて見下ろされているのに、なぜか上目遣いに見上げられているような眼差しで懇願される。

 ああもう、とアリーセは観念する。

 どうしてもこの人には弱い。こんなくだらないじゃれ合いが嬉しくて涙がこぼれそうで、そんな自分を知られたくなくて顔を背けたくなる。


「……許しますわ」

 しぶしぶそう告げると、ほっとしたような吐息が漏れた。


「ありがとう」


 それから降りてきた唇が髪やこめかみ、頬、首筋にと何度も落とされる。

 くすぐったさにアリーセはたまらず身をよじった。相変わらず手を掴まれたままなのでたいした抵抗ができない。


「ま、待ってください、殿下っ」

「何か?」


 イグナーツはアリーセの首筋に顔をうずめたまま、くぐもった声で言う。


「『何か?』じゃありません。あまり時間がないんです。今日は湯浴みをしてから朝餐に向かわなければならないので」


 あなたのせいで朝の身支度にいつもより時間がかかるのだと告げる。それでも手はまだ離したくないとばかりにアリーセを掴んだままだ。

 逡巡するような気配の後、ようやく彼は顔を上げた。


「……今日の予定ですが、どこまでご存じですか?」

「明日の立太子式の段取りについて説明を受ける予定でしたわよね。殿下も儀式では大事なつとめを果たされる予定だとうかがって……」

「サボッっちゃいましょうか」

「え?」


 アリーセは耳を疑った。だが聞き間違いではなかったようだ。


「段取りだけではなく。立太子式自体をボイコットしてしまいましょう」

「よろしいのですか? 陛下がお怒りになるのでは」


 アリーセは構わないが、イグナーツの立場が悪くならないか心配になる。

 彼はオスヴァルトの頬に聖剣で傷をつけたことで謹慎処分を受けたばかりだ。

 アリーセが行方不明になったことで処分を解除してもらったと聞いているが、それは特別処置であって怒りが収まったからではない。

 しかしイグナーツはにやりと意地悪く笑った。


「間違いなく怒るでしょうね。ですが、欠席するのは俺たちだけではありません。ルットマン伯爵やバルトル公爵夫妻も既に欠席の意志を示しています」

「……そうなのですか? ルットマン伯爵はわからなくもないですが、公爵まで?」


 ルットマン伯爵は第一王妃の手の者に襲われたと確信しているから、王家に目をつけられる覚悟で欠席を選んだとしても理解できる。

 しかしバルトル公爵は意外だった。

 確かに、立太子式前のこの時期にアリーセたちを領地で出迎えてくれたのは不思議ではあった。身重の妻が心配でぎりぎりまで領地に滞在していたいのだろう、くらいに思っていたのに、まさか欠席するつもりだったとは。


(そういえば、殿下が見えないお友達とお話ししていたとき、バルトル公爵から聞いた話について語っていらしたわね)


 オスヴァルトの王笏についての話だったと思う。

 ということはバルトル公爵もルットマン伯爵同様、オスヴァルトの王笏継承について以前から疑念を抱いていたということか。


「お二人とも、そのようなことをして大丈夫なのでしょうか」


「何かしら正当な理由を用意するでしょうから、問題ないかと。できればもう一人くらい大物をこちら側に引きずり込みたいところですが……あ」


 そこでイグナーツはがばっと身を起こした。

 のしかかられていた体の重みが消えてほっとするアリーセを余所に、彼はまたも気まずそうな顔になって頬の傷痕を掻いた。


「伝え忘れていたことがありました」

「またですか」


 思わずにらんでしまったようで、彼は釈明するように両の手のひらを見せた。


「俺に関することじゃないですよ。伝言を頼まれていたのですが、直後にあなたが誘拐した者から手紙が届きまして、それどころではなくなってしまったんです」

「……う」


 誘拐の件を持ち出されるとアリーセとしては何も言えない。

 軽率な行動をしたことを恥じているし、何度謝罪しても足りないくらいなのだ。


「とはいえ、忘れていたのは事実です。すみません、大事なことなのに……間に合うとよいのですが」

「間に合う、とは?」


 イグナーツの表情が曇った。


「クラーラ嬢の容態がかんばしくないそうです」

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