56.大事なことは早めに伝えましょう(3)
その言葉に、イグナーツは思わず足を止めてしまった。
反射的な行動だった。すぐに失策を悟ったが手遅れだ。
アリーセはイグナーツの反応を聞く姿勢に入ったと判断したらしく、続けてくる。
「お母様は不治の病に冒されていました。この病気にかかった者は治療をせず、静かに過ごして死をお迎えになるのがよいとされているものです。ですが、お母様はあえて副作用のある新しい薬を服用する治療法を選択されました……死にたくなかったからではなく、お父様の再婚を遅らせたかったからだと後になって知りました」
出会ったばかりの人間に、ずいぶんと赤裸々な話をすると思った。
父親に妻が二人いるという共通点もあって、興味を惹かれたのは確かだ。
だがそれを態度に出すのはなんだか負けた気がする。
「……その話が俺になんの関係が?」
「関係はないでしょうね」
と、アリーセはあっさりと認めた。
イグナーツは面食らって思わず振り返る。
「でも、あなたは自殺を図るような方に見えなかったので。まあ、実際に私にはあまりよく見えてはいないのですけれど」
アリーセは右目を手で覆うようにして自嘲の笑みを浮かべている。目に入ったゴミがまだ取れないようだ。
「だからお母様のように、理不尽と戦っていらっしゃるのかと思ったのです。勘ですけれど。お母様のようにつらい病気を抱えてらっしゃるとか、あるいは人質を取られていてあなたが亡くならないとご兄弟が助からない、とか」
イグナーツはぐっと奥歯を噛みしめた。
当たってはいないが、いいところを突いている。ただし、人質にとられているのはヒルヴィス王国民全員だ。
「思うのですけれど、私たちは賢く生きる必要はないのではないでしょうか。もっとわがままに生きてもいいと思うのです。お母様が抵抗したように」
そう語るアリーセは、内容に反して慎重で知的な女性に見えた。
「お母様の選択はあまり賢いと言えるものではありませんでした。身を引いていれば没落した生家を救うことができたはずです。お父様は離婚の慰謝料として財産をいくらでも譲るとおっしゃっていたのに……でも、意地を通したのですわ。たとえ無駄になったとしても、理不尽に対して最後まで抗ったと思って天に召されたかったのでしょう。実際、余命半年と言われていたのに一年は生きられましたし……私は、それでいいと思うのです。人生の最期に後悔なんてしたくありませんもの」
余命と言われて、イグナーツは思わず自分に残された時間を考えた。
おそらくあと五年から七、八年は生きられるはずだ。
それほど長い時間ではない。
だがつい先ほど人生を終わらせようとしたイグナーツにとっては、それはとても長く、くるおしいほど魅力的に思えた。
(残りの人生を、好き勝手に生きられたら)
不可能であることはわかっている。
それでも、聖剣の王子としてのつとめ以外の部分で、自分のやりたいように、後悔のないように生きられたらどれだけ素晴らしいだろう。
そう考えて、いつの間にか命を絶つ気が完全に失せている自分に気づく。
アリーセはまだ何か話していたが、イグナーツはほとんど聞いていなかった。自分の決意が固まった頃、またアリーセの声が耳に入ってくる。
「……なので、私もお母様のように戦おうと思います。全力で抵抗するつもりです」
「抵抗?」
話を聞いていなかったことを知られたくなくて、適当に相づちを打つ。
「わ、私の場合はそんなたいしたことではないのですが……」
アリーセは頬を赤らめてもじもじと左右の指を絡ませる。
彼女が何を恥ずかしがっているのか、聞き流していたイグナーツにはわからない。
「振り向かせたい人がいるんです。難しいのはわかっていて、もしかしたらまったくの無駄に終わるかもしれないけれど……後悔したくないんです。やれるだけやったって、胸を張って生きていきたくて。それでもダメだったら……相手の方を後悔させてやるつもりです。私を愛せばよかったって、ぐぬぬってしているところを笑い飛ばして差し上げるわ!」
からった晴れた夏空のような笑顔だった。
発言の内容からして恋の悩みだろうか、彼女も母親のようになんらかの理不尽と戦っているようだ。婚約者と上手くいっていないのかもしれない。
(恋の悩みなんかと一緒にされたって……)
そう思いつつも、鼻先で笑い飛ばす気にはなれなかった。
彼女が戦っている理不尽は、人によって作り出されたものだ。
聖剣や王笏という神の手による理不尽を背負わされているイグナーツとは根本的に違う。
だが、もとはといえば大昔の人々が神の怒りを買ったのが原因なのだから、人の手による理不尽と言えないこともない。
「くだらないな。おまえの事情と一緒にするな」
と言いつつ、イグナーツは彼女の宣言めいた言葉に惹かれつつあった。
(後悔させてやる、か……)
イグナーツがいま自死することによって、もしかしたら再び聖剣と王笏の王子が産まれるようになり、国は滅びから救われるかもしれない。
その代わり、祖父は「王子の祖父」ではなくなり、宮廷での影響力を失うだろう。
同様に、母は王宮から追放されるに違いない。
二人とも「聖剣を継承しながらも魔物への恐怖で自死をした情けない王子」の身内として、後ろ指を指されるのだ。管理不足を糾弾されるかもしれない。
国のために自死を選んでも、大切な人たちだけは救えないのだ。
(……ああ、理不尽だな)
湖に身を投げた行為がひどく馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。
そもそもオスヴァルトが生まれたのも、フロレンツィアが殺されたのも、もとはといえば父王が第一王妃を管理しきれなかったのが原因ではないか。
自分に非はないのに、国のために命を落とす必要がどこにあるのだろう。
(どうせ国のために死ぬのなら、英雄として死んだ方がマシじゃないか?)
その方が、少なくとも母や祖父の名誉は守れる。
それに国が滅ぶとしても、どうせイグナーツが《奈落》に消えた後の話だ。祖父も母も、そのくらいの歳まで生きながらえられれば悪くない。
何より、あと数年あればマグダレーナの不貞やオスヴァルトの出生の秘密をあきらかにする機会は訪れるかもしれない。
仮にそんな機会はなかったとしても、オスヴァルトが偽物の王笏で恥をかくところをこの目で見てやりたくなった。
(せっかく穏便に解決してやろうと思ったのに)
近い将来、《奈落》に呑み込まれる自分は天の国へは行けないだろう。
だから父たちが「ぐぬぬ」となっているところを笑い飛ばすなら、それは冥府の底からになる。
それが少し楽しみになってきた。
「おまえはまるで傾国の姫だな。いや――傾国の人魚姫か」
「はい?」
アリーセがきょとんとする。
自分の話のどこに傾国の要素があったのか理解できない様子だ。実際、彼女の話の中にはないのだが、それをイグナーツは説明してやる気はなかった。
「もしも、おまえの何気ない発言が巡り巡って国が滅ぶことになったら、どうする?」
片方だけの翡翠色の瞳を丸くした後、彼女はとびきりの笑顔をひらめかせた。
「どうもしませんわ。発言しただけですもの。でも、本当だったらとっても光栄ですわね!」
イグナーツの唇が意地悪く歪む。腹は決まった。
自死は、やめた。王笏の王子が産まれなくても構わない。
たった一人の人間が残された時間を当たり前に生きるだけで滅びるような国なら、滅びてしまえばいいのだ。
アリーセも近い将来死ぬことになるだろうが、大きな災害に襲われたとて国が即座に消滅するわけではない。何年かは持ちこたえるだろう。
だから自分があと数年長く生きたところで、彼女の恋の邪魔にはならないはずだ。
いったいどんな男と結ばれようとしているのかは知らないが、ろくでもない男でないことを願うばかりだ。
もしも彼女が傍目にも不幸に見える人生を送るようなことになったら、耐えられる気がしない。
彼女は命の恩人であり、大切な共犯者なのだから。
胸の奥に生まれた小さな痛みを、イグナーツはいびつな笑みで噛みつぶした。
再び踵を返したとき、「あの、ちょっと!」と背中に声をかけられる。
「さっきの質問は、どういう意味でしたの?」
「別に。謎かけのようなものだから気にするな」
そっけなく告げてイグナーツは今度こそ立ち去ろうとした。
そこでなんとなく思いついたもう一言を付け加える。
「さようなら、ボーグ湖の人魚姫」
自分を捜し回っていた護衛たちの元へ帰り、ずぶ濡れ姿の言い訳を適当にすませて一人になると、その日のうちに王都へ手紙を送った。
聖剣を授かったため、婚約者に会わずに帰宮すると。
あらためて公爵邸を訪問したら、アリーセにイグナーツが第二王子だとばれる。
自死の理由にも最後の質問の意味にも気づくかもしれない。
特に前者がいけなかった。
万が一にもオスヴァルトの出生の秘密に勘づこうものなら、彼女の身に危険が及びかねない。それだけは避けねばならなかった。
だからイグナーツはいままで聖剣の存在を隠していたにも関わらず、大急ぎで逃げるようにゴルヴァーナ城砦へ移住した。
これから社交界デビューを迎えるアリーセと、二度と顔を合わせることがないように。