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55.大事なことは早めに伝えましょう(2)

 五年前。十五歳の初夏。

 ボーグ湖でイグナーツがアリーセによって救助されたあの日。

 イグナーツは父王の指示で婚約者のクラーラと顔合わせをするためにヴェルマー公爵領を訪れていた。

 当時、イグナーツには複数の縁談が申し込まれていた。

 その中でヴェルマー公爵令嬢であるクラーラを選んだのは、父公爵が貴族派の中心人物だったからに他ならない。

 母ヘルガの実家は辺境伯で、政治的影響力はそれほどではない。大公爵家の援護がある異母兄オスヴァルトのように、婚約者を個人的な好みで選ぶ余裕はなかった。

 母を守るために、できるだけ大貴族を味方につけておきたい。

 自分が《奈落》で散る前に。


 ――このとき、イグナーツが聖剣を継承してから一年が経っていた。

 一年、隠し通した。

 聖剣を継承したと知れれば、すぐにでも《奈落》へ送り込まれる。

 魔物と死ぬまで戦わされると思えば、少しでも先延ばしにしたいと思うのはしかたのないことだろう。まだ十代の半ばだったのだ。

 幼い頃からどちらの王子が聖剣を継いでも問題がないよう、帝王学とともにあらゆる剣術と武術を叩き込まれてきたとはいえ、実戦経験は皆無だ。

 見たこともない魔物と急に戦えと言われても恐怖しかなかった。

 しかし、いつしか恐怖心よりも違和感の方が強くなっていった。


「兄上はまだ王笏(おうしゃく)を継承していないのか?」


 異母兄の性格なら、すぐにひけらかしてきそうなものなのに。

 もしかして、王笏を継承する資格がないのではないか。

 父の血を引いていないのではないか――

 違和感は疑念へと変わり、そして確信になった。

 オスヴァルトが公の場に偽物の王笏を持ちだしたからだ。


『もう十五を過ぎたというのに聖剣も王笏も継承なさらないとは。お二人は本当に陛下の御子なのか?』


 そんな噂が流れ出したせいで、やむを得なかったのだろう。

 大変なことになった、とイグナーツは察した。

 ますます聖剣を継承したことを言い出せなくなった。

《奈落》へ送り込まれたら、王笏を偽物だと指摘できる者がいなくなる。

 しかし聖剣を継承したことを早く公言せねば、母が不貞を疑われる。

 イグナーツは母方の祖父にだけ事情を打ち明けた。

 そのときに、自分には双子の弟がいたこと、妹として育てられたが三歳で亡くなっていたことを知った。

 祖父は第一王妃マグダレーナの不貞の証拠を見つけ出そうとした。

 しかし、すべての証拠は既に隠滅された後だった。動くのが遅すぎたのだ。

 しばらくして祖父がある文献を見つけてきた。過去の歴史学者が残したものだ。

 それによると、数百年前に聖剣の王子が事故で亡くなった事例があったという。聖剣の自己修復機能が追いつかないくらいの即死だったらしい。

 その事例では後に三人目の王子が産まれ、彼が聖剣を宿したと記されている。

 しかし、イグナーツには亡きフロレンツィア以外の弟はいない。

 父王はマグダレーナの寝室を頻繁に訪れているから、懐妊してもよさそうなのに。

 その理由を、祖父はこう推測した。


「昔から、双子の魂は繋がっていると言われています。一つの魂を二人で分け合っている、とも。おそらくですが、殿下が生きているためにフロレンツィア様の魂もこの世にあると見なされているのでしょう」


 イグナーツが絶望したのは言うまでもない。

 自分が生きているかぎり、王笏の王子は産まれないということなのだから。

 ならば、どうしたらいいのか。

 その答えにたどり着くのに、さほど時間はかからなかった。


(俺が死ねばいいんだ)


 そうすれば王笏の王子も、新しい聖剣の王子も産まれてくるだろう。

 正直、死ぬのは怖かった。

 だがどうせ数年後には死ぬのだ。それが数年早まるだけだとも言える。

《奈落》で戦わずにすむなら幸運だと、そう自分に言い聞かせた。

 だから、護衛による監視が減る旅行中に行動を起こそうと計画を立てた。

 ヴェルマー公爵領には三つの小さな湖が繋がるようなかたちのボーグ湖という景勝地がある。

 そこで、水難事故の見せかけて自死するのだ。

 自殺だと知れれば護衛の者や、祖父、母に責任が問われるかもしれない。そうなることをさけるためだった。


 そうして数少ない機会を狙って護衛をまき、作戦を決行した。

 湖の岸で亀裂の入った小舟を発見したときには神のおぼしめしかと思った。

 これを使えば水難事故に見せかけられる。

 そう思って小舟を水辺まで押していき、打ち上げられた廃材の板を櫂代わりにして湖の中央付近まで漕いだ。

 そして、身を投げた。

 イグナーツはたいして泳げない。足もつかないほど深さのあるところなら間違いなく助からないだろう。

 大量の水を口からも鼻からも吸い込み、苦しみに激しくもがきながら、これで母や祖父は守れると安堵した。

 だというのに――アリーセによって阻止されてしまった。



 気がついたときには、イグナーツは岸に寝かされていた。

 息がかかるほど近くに、ザクロ色の髪をした少女の顔があった。

 片方の目を閉じた奇妙な表情は、目にゴミでも入ってとれないのだろうか。湖に飛び込んだとしか思えないずぶ濡れの姿で、乗馬服のような格好をしている。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 混乱の中、猛烈な不快感がこみ上げてきてイグナーツは体をひねってそれを吐き出した。

 大量の水を吐き出し、呼吸困難になってゴホゴホと激しくむせている間、華奢な手が背中をずっと撫でてくれた。

 それがことのほか心地よくて、イグナーツは黙って受け入れた。

 だが呼吸が落ち着いてくると、この手の持ち主こそが自分の計画を失敗させた人物だということに気がついた。


「……おまえ、なんだ?」

「はい?」

 背中をさする手が止まったのとほぼ同時に、イグナーツはその手を振り払った。


「余計なことを……!」


 手を叩かれたというのに、彼女は不快な顔一つせずきょとんとする。

「もしかして……自殺だったのですか?」


 身なりや言葉遣いは貴族のようだが、ずいぶんとはっきりと物を言う娘だ。

 イグナーツはそうだと言うのもみっともない気がして唇を引き結ぶ。

 それを、少女は肯定と判断したようだ。


「そうですか……余計なことをしてすみませんでした。もうお止めしませんので、やり直したいのでしたらご自由にどうぞ。できれば別の場所でしていただけるとありがたいのですが」

「ふざけるな!」


 あらためてもう一度自死に挑戦なんてできるわけがない。

 自分の手足が恐怖に震えていることに、少し前から気づいていた。恐怖を感じてしまったら、二度目は無理だ。

 それを、少女は見抜いたようだった。

 あきれた顔をして、頬に張り付く赤い髪を除けてみせる。どこかおとなびた態度が癇にさわった。


「あなたがどうしてご自分の人生を終わらせようとなさったのかはわかりません。自殺すると天の国へ行けないとか、世の中には生きたいのに生きられない人もいるとか、そんなつまらないお説教を言うつもりもありません」

「……だったら黙れよ」

「あなたが王様で、そう命じられたのなら口を閉じて差し上げますわ」


 ひどい皮肉だった。

 イグナーツは王になる資格をもらえなかった王子だというのに。


「では続けますが……ご自分の死を知らしめたいのなら、こんな田舎の一目につかぬところで命を絶とうとなさらなくてもよいでしょうに。やっていることがちぐはぐです」

「なんだと?」

「はっきり見えたわけではないですが、貴族の方でしょう?」


 少女は物がよく見えていない様子だった。片方の目が閉じている影響かもしれない。ゴミが入っていない方の目は視力が低いのかもしれない。

 貴族ではなく王族だったが、イグナーツはあえて否定はしなかった。


「その上等な上着を脱がずに自殺なさろうとしたということは、ご遺体が発見されたときに身元がすぐに判明してほしいのですよね? それならばもっと目につくところで華々しく散るのが良いでしょう。もっとも、そういう場所で事故に見せかけて自死なさるのは難しいかもしれませんが」

「さっきから勝手なことばかり……」

「勝手はあなたでしょう。誰の許可を得てここで自死なさるおつもりだったんです? あなたがここで亡くなると私が迷惑することをご存じですか?」


 恨みがましく睨まれて、イグナーツは理解した。

 赤い髪を見たときに気づくべきだった。彼女はヴェルマー公爵令嬢だろう。


(この女がクラーラ嬢……ではないな。彼女はいま、足を怪我して療養中のはずだ。ということは、異母姉のアリーセ嬢か)


 ヴェルマー公爵の先妻の娘、アリーセ・ヴェルマー。

 クラーラの一つ上で、既に辺境伯の子息と婚約していると聞いている。


「というわけですので、私にはあなたに勝手なことを言う権利はあると思いますが、いかがかしら?」

「……勝手にしろ」


 イグナーツは立ち上がった。

 溺れたばかりなので全身がだるく、少し歩くのも億劫だった。

 だがこれ以上一瞬たりとも、アリーセの話を聞いていたくなかった。

 彼女に背を向け、湖から離れる方向へ歩き出す。何歩か歩いたときだった。


「お母様は戦いましたわ。あなたと違って」


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