54.大事なことは早めに伝えましょう(1)
助けに来てくれたイグナーツに少し遅れて、武装した男たちが廃屋に到着した。
イグナーツが副官エトガルの姉を通して手配していたようだ。
マグダレーナたちはとうに撤収した後だったが、それも想定済みらしい。アリーセの身の安全を最優先して、あえて逃がしたのだと思うと心が痛んだ。
怪我をした御者は彼らに任せ、アリーセはイグナーツの馬に乗せてもらって王宮へ戻った。
正直なところ、今回の件の黒幕であるマグダレーナやオスヴァルトのいる場所に帰るのは気が進まなかった。
イグナーツも王都内にある貴族向けの宿泊施設を勧めてくれた。
だが、第二王子の妃として立太子式前に波風を立てるわけにはいかないと固辞した。せめてもの意地だった。
《蒼の宮》へ戻り、ルットマン伯爵と顔を合わせたときには止まったはずの涙がまた溢れ出してしまった。
いつものように身ぎれいに取り繕ってはいたが、服の上からでも満身創痍であることはあきらかで痛ましかった。
その彼は、アリーセの手を両手で握ると涙をこぼして謝罪した。
「すべて私の軽率さが招いた結果です。なんとお詫びしたらいいのかわからない」
「お気になさらないで。私が望んだことですから。お互いに無事でよかったですわ」
アリーセはすっかり消沈した様子のルットマン伯爵を慰め、抱きしめた。その様子をイグナーツが複雑そうな面持ちで見守っていた。
王族との晩餐を欠席させてもらえたのは助かった。あんなことがあった直後にマグダレーナの顔を見て食事などしたくはない。
夕食は部屋でイグナーツと二人きりでとった。とはいえ、食欲などあるはずもない。
「お好きなようでしたので、料理人に言ってレモン風味のものを作らせました」
イグナーツは笑顔でレモンソースのかかった鹿肉のソテーをもりもりと食べてみせる。使用人の目を意識してか、あるいはアリーセの感覚を日常に連れ戻すためか、何事もなかったかのように振る舞ってくれる。
(本当に優しい人)
以前なら、彼の気遣いが純粋に嬉しかった。
いまは彼にどれだけ苦行をしいているのかと思うと、胸が苦しくて素直に喜べない。
それでも美味しそうに食べる彼を見ていたら少し食べてみたくなり、アリーセも一切れ口に運んでみた。
濃厚なソースの中に漂うレモンの酸味がさわやかで、強張った頬が自然と緩むのを感じる。体は正直だ。とても疲れていたのだといまごろ気づかされる。
「……美味しいです」
「よかった。食後にはレモンのシャーベットも用意させました。楽しみですね」
とっくに鹿肉のソテーを平らげた彼は、既に鶏肉の香草焼きに取りかかりながら満面の笑みを浮かべる。
弟の遺骨を失ったばかりだというのに、その無念さをおくびにも出さない。
(さすが、《奈落》で死ぬ運命を受け入れた人だわ)
強靱な精神力をもって、今日のことも耐えているのだろう。
でもアリーセは無理だった。
(……耐えられないわ。これ以上は)
彼のことが好きだ。
はじめは一目惚れだったが、その後彼の穏やかな性格や性根の優しさ、ちょっぴり隙のあるところなどにもどんどん惹かれていった。いまはときおり意地悪になるところも含めて愛している。
だからこそ、自分が彼を苦しめる存在ならば、そばにいるべきではないと強く思う。
(お伝えするなら……王都に滞在しているうちがいいわよね。できれば今夜中に)
そんな決意を胸に、アリーセは食事を義務的に口へ運んですませた。
そうして部屋に用意してもらった湯船につかって疲れた体を癒やし、ミアにすみずみまで清めてもらってナイトドレスに着替える。
身支度を整えてから隣室へ繋がる扉をノックした。隣の先はイグナーツの寝室だ。
「どうぞ」
「失礼いたします」
「どうしたんですか、そんなかしこまって」
長椅子でくつろいでいたイグナーツが苦笑する。
燭台の灯りがぼんやりと照らす中、湿り気を帯びた銀髪が鈍く輝いている。彼も湯浴みを終わらせたばかりのようだ。
「大事なお話があってまいりましたの」
アリーセがそう告げると、イグナーツは慎重そうに表情を引き締めた。
何らかの予感めいたものを感じ取ったようだ。
長椅子の隣に座るよう、長い指先で空いたスペースをとんとんと叩いてみせる。アリーセは黙って従った。
「先に言っておきますが、謝罪の言葉ならもうたっぷりいただきましたから結構です」
まずは謝罪からはじめようとしていたので、いきなり出鼻をくじかれる。
とはいえ、それが目的だったわけではない。
「……申し上げたかったのは、それだけではありませんわ」
「わかりました。では、もう一つのお話を聞きましょう」
イグナーツが座る角度を変え、アリーセに顔を向ける。
まっすぐ見つめてくるなんてやはり意地悪だ。ただでさえ緊張しているというのに、なおさら言い出しにくくなる。
それでもアリーセは深く呼吸をして、なんとか切り出した。
「二人目の妃を娶ってください」
切れ長の蒼い眼差しがゆっくりと見開かれる。
「……何を言っているんです?」
「私が殿下の妃としてふさわしくないことを、今日はっきりと思い知りました。ですからもっとふさわしく、かつ殿下が愛せる方を娶ってください。私との婚姻関係につきましてはどう処分してくださっても――」
「待っ……待って、待ってください!」
イグナーツは慌てた様子でアリーセの言葉をさえぎってきた。
「いきなりどうしたんですか? 今日のことならあなたに非はないと言ったでしょう。そんなことであなたに妃の資格がないとは思いません。それとも、誰かに何か言われたんですか?」
「いいえ。自分でふさわしくないと感じたから申し上げているだけですわ。今日の失態のことも理由の半分でしかありません」
「ならどうして急に? あなたと結婚している期間をもっとも幸せだったと言わせたいとか、確かそんなようなことを言っていませんでしたか?」
「ええ、申しましたわ。いま思えばとんだ恥知らずでしたわ。私に殿下を幸せにすることなんて絶対に不可能ですのに」
「だからなぜそういう話に――」
若干の苛立たしさをはらんだ彼の言葉を、今度はアリーセがさえぎる。
「だって、殿下は私を憎んでいらっしゃるでしょう?」
恐怖で声が震え、裏返りそうになった。
口に出したら、それが事実だと認めたことになりそうで。
実際はそんなことはない。口に出そうと胸に秘めようと、事実は事実だ。
アリーセはぐっと唇を噛みしめる。
気がつけば自然とうつむいていて、視界にはイグナーツの腹のあたりしか見えなかった。彼がいまどんな顔をしているのか知りたくなくて、顔を上げられない。
シャツのボタンをじっと見つめながら、しぼり出すように続ける。
「き……今日、はじめて知ったのです。私が過去に、殿下の自死を妨げていたこと」
「――ああ」
そのことかとでも言いたげな、冷めた声が漏れた。
声の温度が急激に下がったように感じられて、そこへいつ怒りや憎しみの色が交じってくるか、少し考えただけでおそろしくなる。
気まずげに髪を掻く音が聞こえてきた。
「知ってしまったんですね。まあ、以前に会っていたことをあなたがおぼえていなかったことの方が不思議でしたが」
「……あのときは目にゴミが入っていて。もう一方の目は弱視なのでお顔がよく見えていなかったんです。髪の色も以前とお変わりになられたような」
「確かに、あの頃はまだ金髪でしたね。ですが、それがどうしたっていうんですか? なぜ俺があなたを憎んでいると?」
「だって――」
「アリーセ。顔を上げてください」
ふと両肩を掴まれた。
その手のひらの温かさに、自分が恐怖と緊張でかちこちに固まっていたことに気づかされる。
「あなたらしくない。ちゃんと俺の目を見て話してください」
「は、はい」
アリーセはおそるおそる顔を上げる。
思っていたよりも近いところに第二王子の整った顔があった。神妙だが穏やかな眼差しを向けてくる。
「あらためて訊きます。なぜ、俺があなたを憎んでいると?」
「……私のせいで、殿下は望まぬ戦いに身を投じなければならなくなったではありませんか。殿下は楽になろうとなさっていたのに、私が余計なことをしたせいで……」
するとイグナーツはどこかあきれた顔になった。
ふう、と短く息を抜く。
「まず、前提から間違っています」
「……は」
「確かに、俺はあのときボーグ湖で死のうとしました。ですが、それは魔物と戦うのが嫌だったからでも、近い将来《奈落》へ身を投げるのが怖かったからでもありません。まあ、聖剣を宿したことに気づいて恐怖心を抱いたことは否定しませんが……この国の未来のために自死しようとしたのです」
意味がわからなかった。
この国の未来のためならば、聖剣の王子は運命の瞬間まで生きていなければならないはずだ。
「それは、どういう意味でしょうか」
「あなたももうご存じのはずです。この国に本物の王笏の王子はいません。そしてここからははじめて話しますが……当時の俺は既に聖剣を継承していて、オスヴァルトの王笏が偽物だと気づいていました」
「……あ」
アリーセの中に、少しずつ理解が落ちてくる。
当時の彼は誰にも言えない大きな秘密を抱えて、追い詰められていたのだ。
イグナーツが大きく息をつく。
「あなたに情けない姿はあまり見せたくなかったのですが……誤解をそのままにしてはおけません。あのとき俺の身に起きていたことについて、すべてお話しします。聞いてくださいますか?」
アリーセはこくんとうなずいた。