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53.人生に選択はつきものです(2)

 マグダレーナの指示を受けた仮面の侍女が部屋を出ていこうとしたところで、イグナーツはすかさず制止をかけた。


「御者もです。怪我をした御者も捕らえられているはずです」


 名も顔も知らない御者まで必ずしも助けたいわけではない。

 だがマグダレーナの想定している以上に、こちらが情報を握っていると示すことは必要だろう。

 何より御者が命を落としたら責任感の強いアリーセはきっと悲しむ。


「……そこまで知っていたの。ふん、ルットマン伯爵から聞いたようね」

 実際はレンからの情報だったが、教える義理はないので沈黙で答えた。


「二人とも連れてきなさい」

「かしこまりました」


 再度の指示に仮面の侍女がこうべを垂れて退室していく。しばらくして戻ってきたときには私兵の一団を従えていた。

 そのうちの数人が腕を掴んで連れてきたのがアリーセだった。

 戸惑いながら入ってきた彼女はイグナーツの姿を認めて息を呑んだ。


「殿下……」


 怪我はしていないようだが、半日離れていただけでひどく憔悴したように見える。

 翡翠の双眸は赤く腫れており、監禁中に泣くほど嫌な思いをさせられたのは傍目にもあきらかだ。

 はらわたが煮えくり返る。

 いますぐ私兵もマグダレーナも侍女も殺してやりたいくらいだったが、イグナーツは必死に衝動を押し殺した。


「アリーセ!」

「――まだよ。例の物が先」


 数人の私兵がイグナーツとアリーセの間に割って入り、腰の剣に手をかける。

 鼻で笑いたくなるほど陳腐な脅しだ。

 日頃は魔物の群れを相手にしているのだ。私兵の十人やそこらは敵ではない。

 だが、その程度のヤツらにアリーセに傷一つでもつけさせたくはなかった。

 イグナーツは舌打ちし、懐から小袋を取り出してマグダレーナに投げつけた。

 マグダレーナは小袋の紐を解いて中身を確認し、嫌そうに顔をしかめる。

 いかに息子に王笏を授けるために必要なとはいえ、人骨、それも幼児の骨はあまり気分のよいものではないのだろう。


「もうここに用はないわ。撤収を」


 扇越しにそう告げると、マグダレーナは侍女と私兵たちに守られながら部屋を出ていこうとする。


「待て、まだ――」


 イグナーツがそこまで言いかけたとき、廊下で待機していたらしき男が「ほらよ」と言って御者らしき男を部屋へ投げ込んだ。

 その体が足にぶつかり、イグナーツは思わずよろめく。

 投げ込んだ張本人はニヤリと野卑な笑みを見せて去っていった。最後に軽い嫌がらせをしていくあたり、お里が知れるというものだ。

 室内にはイグナーツとアリーセ、そして意識のない御者だけが残される。

 念のため御者の容態を確かめると、手際よく応急処置がほどこされていた。

 マグダレーナたちが伯爵家の使用人にそこまで手をかけるとは思えないから、手当てをしたのはアリーセだろう。


(さすがだな。ボーグ湖での経験もあるだろうが、ハイネからよく学んだようだ)


 思わず感心しつつ、ひとまず御者を抱え上げて長椅子に横たわらせる。

 イグナーツが城門を出てから一刻後に、ここへ向けて人を送ってもらえるようエトガルの姉を通して手配をしてある。

 そろそろ頃合いだから、安静にしておけば助かるだろう。


「殿下……」


 振り向くと、アリーセがたよりない足取りで近づいてきていた。

 泳ぎの得意な彼女は同年代の貴族令嬢よりも引き締まった体をしていて、上背もある。だがいまの彼女はいつもより一回りくらい華奢で儚い存在に見える。

 彼女が次の言葉を言う前に、イグナーツは両腕で引き寄せるように抱きしめた。


「もう大丈夫ですから、安心してください……すみません、俺のせいでまた怖い思いをさせてしまった」

 腕の中でアリーセが身じろぎする。首を横に振ろうとしたのだとわかった。


「違います、違うんです。全部、私が悪いんです……!」

「前にも言いましたが、悪いのはオスヴァルトであり、マグダレーナです。あなたじゃない」


 アリーセは駄々っ子のように受け入れず、懸命にかぶりを振ろうとする。

「私のせいで、大切な弟君の遺骨が……!」


 マグダレーナかルットマン伯爵か、あるいはオスヴァルトが通っていたという魔女からかは不明だが、余計なことを知ってしまったようだ。


「誰のせいだとしても、生きている人の命を優先するのは当然です……弟は王笏おうしゃくの王子です。必ず許してくれます」

「……う」


 嗚咽をこらえそこねたような、かぼそい声が漏れる。

 イグナーツはこちらを見下ろしてうんうんとうなずく自称精霊を一瞥した。


「それに、俺が昨夜オスヴァルトにやり返しすぎなければこんなことにはならなかった。一日中ずっとあなたと一緒にいられたし、守ることができたのに……どれだけ罵ってくれても構いませんから、許してください。どうか」


 アリーセがそうじゃないと言いたげに、いままでで一番強く頭を振る。反論したくても嗚咽がこみ上げてきて言葉にできないようだ。

 その口元からすすり泣きが漏れているのが聞こえ、イグナーツは彼女を抱きしめる力を慎重に、少しだけ強めた。

 許されている、守られていると感じられるように。

 あるいは――彼女を守るために最期まで生きるのだと、あらためておのれを奮い立たせる意味もあったかもしれない。


(これからどんな事態が起きたとしても、俺が選択した人生だ。後悔はしない)


 国のため、王家のために戦う気は毛頭ない。

 だから王都民に英雄のように歓迎されるのは居心地が悪くてたまらなかった。

 イグナーツが戦うのはあくまで個人的に大切な人のため。

 それは母でありレンであり、エトガルやヘンドリック、そしてゴルヴァーナ城砦で働くすべての人々だ。

 そしてもう一人が、いま腕の中で泣いている妻。自分の人生を変えた女性だ。

 彼女に対する気持ちはとても複雑で、感謝や敬意、共犯意識といった言葉だけではとても語り尽くせない。

 それはもっとも大きな感情から目を背けてきたせいでもある。

 枝葉にばかり目を向けていたら、その奥にある幹や地中に張り巡らされた根など見えるはずもないように。


(もう目をそらすのはやめよう。俺は、彼女が――)


 続く言葉を噛みしめて、イグナーツはアリーセが泣き止むまで抱きしめつづけた。

 最後まで彼女が抱きしめ返してこなかったのが、少し気がかりだった。


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