51.愛される資格がありません(2)
思考が一瞬にして時空を遡り、五年前のボーグ湖にいざなわれる。
避暑のシーズンに入る前の、だがとても暑い日だった。
十三歳のアリーセは、乗馬服によく似た水着姿でボーグ湖のほとりを歩いていた。
水着は、友人のマヌエラからの誕生日の贈り物だ。
これをはじめて着てみせたとき、父は奇妙なものを見たとばかりに顔をしかめ、クラーラに至ってはあきらかに蔑みの目を向けてきた。
どうせ理解はされないだろうと思ってはいたが、友人まで侮辱されたようで悲しかったのをおぼえている。
(前は、お父様がお針子に注文して作ってくださったのに)
もっとも父が発注した水着はほとんど「濡れてもいいドレス」のようなもので、アリーセにとっては泳ぎにくいことこの上ないものではあったが。
当時のアリーセは屋敷で働きはじめたばかりのミアを信用しておらず、いつも侍女たちを適当にまいてから、一人でふらっとボーグ湖を訪れていた。
いまでこそ地元の住民を支援して水難事故防止および救助活動を行っているが、当時はまだそれらをはじめる前だった。
だから社交界デビュー前のアリーセを知る者はほとんどいなかった。
その日もミアをはじめとする侍女たちの目を盗んで、ふらりとボーグ湖を訪れた。
夏が近づいていることもあってとても暑かったが、なんといってもシーズン前なので避暑に訪れた者は見当たらない。
(ちょうどよかったわ。水着の着心地も試したかったし)
水着というものは実際に水に浸かってみなければ本当の着心地はわからないようにできている。マヌエラの話では研究に研究を重ねさせたので期待してとのことだった。
いちおう貴族の令嬢がおおっぴらに泳いでいてはよくないと思い、念のため目立たない第三湖の方へ向かう。そこで異変に気がついた。
湖の岸に放置されていたはずの朽ちた小舟が、湖の中央あたりにゆらゆらと揺れながら浮かんでいたのだ。
(誰が、どうやってあんなところに?)
風は吹いていない。小舟を押したところで中央まではたどり着かないだろう。
さらに言えば湖の中央には波紋が広がり、ぶくぶくと泡まで浮かんでいる。
嫌な予感がした。
誰かが何も知らずに小舟に乗り、中央付近で落水したのかもしれない。
アリーセは迷わず湖に入っていった。
水を蹴るように掻き分けるように進み、腰のあたりの深さになったところからざぷんと潜る。
自分の思い過ごしであったのなら構わない。
どうせ泳ぎに来たのだ。潜ってみたけれど落水した人なんていなかった、ということなら、そのまま泳ぎを楽しめばいい。
しかし、泡の上がっているあたりに近づいたところで、水中で白いものが漂っているのを見つけてしまった。
間違いない、人だ。
四肢を投げ出すようにして、暗い水中を漂っている。
アリーセは驚いて水を飲みそうになってしまった。慌てて水を蹴って上昇し、湖面に顔を出す。そして気持ちを落ち着けてから、息を吸って再び潜った。
(もうっ、迷惑な!)
避暑のシーズンが訪れて人が増えると、アリーセは人目を気にして泳げなくなる。
だからいまが一番泳ぎやすい時期なのだ。
だというのに水難事故で死亡者など出ようものなら、監視がおかれてしばらく遊泳が禁止されてしまうではないか。
マヌエラが贈ってくれた水着は従来のものと比べて水の抵抗が少なく、アリーセは思ってたよりも早く件の溺水者のもとへ戻ることができた。
暗い水中なのでよくは見えないが、溺れているのは少年だった。
品の良い身なりからして貴族か富裕層だろう。成長期前なのか男性にしては小柄だったが、年齢はアリーセより少し上に見えた。
幸い、少年は既に意識を手放しているようだった。
溺水者の救助が難しいのは、激しくもがかれたりしがみつかれたりして救助者が道連れになる危険性がある点だ。アリーセのようにまだ子どもといっていい年齢ならなおさら、しがみつかれたら一緒に沈みかねない。
だから意識を失ってからの方が救助しやすいのだ。
アリーセは水を強く蹴り、沈みゆく少年を追いかけた。急に意識を戻して暴れられたら危険なので、念のため背後に回り込んで抱きしめる。
このとき、右目に何かが入り込んでしまった。痛みで思わず息が口から漏れ、泡がぶくぶくと上がった。
(こんなときに……!)
ここで自分が混乱したら二人とも助からない。
アリーセは右目の痛みを我慢し、両足の力だけで水を掻いて明るい方を目指した。湖面が近づく。
「ぷはっ! あなた、大丈夫ですか!?」
水面から体を出してやってから声をかける。
アリーセの左目は弱視なのでほとんど見えないが、これだけ間近に顔があれば彼が意識を失って目を閉じていることくらいはわかる。
少年はそれほど体格のいい方ではないものの、着衣が水を吸っているのみならずぐったりと脱力しているせいでとても重く感じられた。ここが塩分濃度の高い湖でなかったらアリーセには救助できなかったかもしれない。
なんとか少年を抱えたまま湖岸に泳ぎ着き、腕を掴んで引きずり上げる。
それから、ぺちぺちと頬を叩いて呼びかける。
「起きてください! 私の声が聞こえてたら返事をしてください!」
反応がない。
唇に手をかざした感じでは呼吸も止まっている。
続いて首筋に手を当てると、脈は感じられた。まだ助けられる。
(しかたがないわね)
アリーセは少年の顎を上げて気道を確保し、ツンととがった鼻をしっかりとつまんだ。
そして覚悟を決めると、自分の唇を彼のそれに密着させ、息を吹き込んだ。
人工呼吸は、されたこともしたこともある。
したのは、マヌエラに対して。
されたのは幼い頃なので記憶がない。
アリーセにも幼い頃にボーグ湖で溺れた経験があるのだ。だからこそ父はアリーセが泳ぎをおぼえることを許可したといういきさつがある。
人工呼吸の必要性も理解していた。ただ、自分から男性にするのはこれがはじめてで、なんとも変な気分だった。
何度目かの呼気を吹き込んだとき、少年の体がびくんと痙攣するように跳ねた。
げほっと激しくむせて体をよじり、水を吐き出す。
(よかった……助けられて)
身を起こして苦しげにむせる少年の背を、アリーセは何度もさすってやった。
少年は呼吸を整えるのに必死で余裕がないらしく、無反応にそれを受け入れている。だがやがて呼吸が落ち着いてくると、少年はあらためてこちらを振り向いた。
「……おまえ、なんだ?」
「はい?」
アリーセが背中をさする手を止めたのと、その手を振り払われたのはほぼ同時だった。
「余計なことを……!」
まだ喉に水が詰まったような、かすれた非難の声。
弱視の左目しか開けられないアリーセに少年の顔立ちは見えない。
それでも、怒りの眼差しを向けられていることは見えなくともわかった。
ああそういうことだったの、と状況を理解した。
自殺を阻止された彼は、アリーセに救助されたことを感謝するどころか、いたく立腹しているのだということを。
***
(あれは、イグナーツ殿下だったのね……)
貴婦人の前でへたり込みながら、アリーセは唇を噛みしめる。
あのとき、少年はアリーセに多くを語らなかった。
むしろ、自殺を邪魔したばつの悪さから、アリーセの方がベラベラと余計なことを語ってしまったものだ。
なぜあのとき、自殺未遂の理由を訊かなかったのだろう。
一瞬だけそう考えてから、そう気楽に訊けるような話題ではなかったとも思う。
(やっとわかった……殿下は魔物と戦って死ぬ運命に逆らおうとしたのね)
ある日突然聖剣を押しつけられ、見たこともないおそろしい魔物と戦え、その後は魔物を封じるために若くして死ねと言われたようなものだ。
彼がどれほど絶望したか、アリーセには計り知れない。
いや、他の誰であっても彼の苦しみを理解することはできないだろう。
恐怖と向き合いつづけるよりも、自死を選んで楽になりたいと望む気持ちもわからないではない。
なぜあの日あの場にイグナーツがいたのかは謎だったが、避暑がてら婚約者のクラーラに会いにでも来たのかもしれない。
王宮で監視された生活を送っている彼に、自殺を図れるような隙はほとんどなかっただろう。
それを、アリーセが邪魔をした。
いまでこそイグナーツは堂々と《奈落》での任務に向き合い、騎士団を指揮して魔物の群れと戦い続けている。
しかしできるようになったからといって、過去が許されるわけではないだろう。
(恨まれていてもおかしくない。愛されないに決まっているわ……)
それでもイグナーツはアリーセを大切に扱ってくれた。
仲睦まじい夫婦を演じるために。つまり、やむを得ずだ。
内心でははらわたが煮えくり返っていたかもしれない。
そこまでいかなくとも、こんな女を娶らなければならないのかと諦念とともに受け入れ、ただ夫としての最低限の役割を演じていたのかもしれない。
(なのに「幸せにしたい」だなんて、よくもぬけぬけと言えたものね……)
イグナーツを不幸にしたのは自分だというのに、恥知らずにほどがある。
自分が恥ずかしくて、いたたまれなくて、いますぐこの世から消えてしまいたい。
せめて彼の代わりに人柱の役目を担えたらよかったのに。
ボーグ湖の人魚のように、《奈落》のうたかたになってしまいたかった。
六章までお読みいただきありがとうございました。
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