48.王子様は覚悟を決めました(2)
母ヘルガの住まう《白の宮》を訪れると、応対した侍女は副官エトガルによく似た容貌に不満そうな色をにじませた。
(姉だけあって容赦がないな)
幽閉同然の扱いを受けている母妃をろくに訪ねもしない、親不孝者だと思われているのだろう。《奈落》で一年中魔物が発生しているわけではないと、彼女は弟から聞かされて知っている。
「母に会わせてほしい。いますぐに」
不作法を指摘される前に要求を述べる。
侍女は「少々お待ちください」と言って奥へ引っ込んだ。
しばらく待たされてから招き入れられ、小さな植物園のような一室に通される。
温室ではなく、私的な部屋に暑い夏でも涼しく植物を楽しめるように鉢植えなどを大量に持ち込んでいるようだ。
花の甘い香りに交じって草葉の青臭さも感じられたが、風通しもいいのであまり気にならなかった。
ヘルガは部屋の中央に置かれたテーブルセットにいた。
膝に例の人形を乗せながら、優雅に紅茶を楽しんでいる。
侍女に従って部屋に入ると、夕日を背景に真昼のような笑顔を向けてきた。
「あらイグナーツ、いらっしゃい。あなたが滞在中に二度も会ってくれるなんて珍しいわね。アリーセからいい影響を受けているのかしら?」
「そのアリーセがさらわれました」
ヘルガの表情が凍りついた。
驚きと不安、それから不満へと顔色が変化し、唇からふうとため息が漏れた。
「……私に会いにきてくれたわけではないのね。お兄様は相変わらずのようよ、フロレンツィア?」
膝の人形に語りかけはじめた母の姿に、イグナーツの苛立ちは頂点に達した。
「ふざけている場合ですか! アリーセの身に危険が迫っているんです……その奇妙な人形遊びもやめてください、もううんざりです!」
「ふざけてもいないし遊んでもいないわ。これは私が生きるために必要なこと」
底冷えするような声が返ってくる。
ヘルガの表情から笑みが消え、長い間感情を殺してきた母親の顔になっている。
「生まれた双子の性別も知らない哀れな妃でいなければ、私はマグダレーナに消されていたわ。これは自衛のための演技。あなただって、それを知っていたから口裏を合わせてくれたのでしょう?」
「……そうですね。ですが、ここは安全です」
「この王宮に安全なところなど一つもないわ。〝この子〟が何度腹を裂かれ、腕をもがれたと思っているの?」
そう言って人形を大切そうに抱え上げ、金髪を優しく撫でてみせる。
「やられたのは、フロレンツィアの墓が暴かれたのと同じ時期ですか?」
「ええ。何か探し物があるようね。私には知りようもないけれど――」
「連中は骨を探しているようです。アリーセを返してほしければフロレンツィアの骨をもってこいと要求されました」
「…………!」
ヘルガははっと目を見開いた。
何か思い当たることがあったようだ。それから露骨に眉をひそめ、不快そうに顔をしかめる。
「……そういうことだったの」
「何かご存じなんですね?」
「フロレンツィアの墓が暴かれる少し前のことよ。歴史学者を名乗る男から幼児の左腕の骨が届いたの。確か、マリアンとか言ったかしら。マリアン・ブロッホ。囚人兵としてゴルヴァーナにいたこともあるそうよ」
「その幼児の骨がフロレンツィアの腕……?」
「マリアンの手紙にはそう書かれていたわ。彼は墓が荒らされることを予期して先回りしたようね。自分の身を守るための切り札として……そして確実に骨を死守してくれそうな者を頼った。つまり私を」
亡き我が子の遺骨ともなれば、ヘルガは全力で守り抜かねばならない。
「でも、それだけ。マグダレーナやオスヴァルトから守るよう書かれていたけれど、なぜ彼女たちがフロレンツィアの骨を求めているのかは見当もつかないわ」
「そうですか? 俺は薄々察していますが」
息子の言葉に、母は訝しげな眼差しを向けてくる。
「どういうこと?」
「フロレンツィアの墓が荒らされて遺体が盗まれ、同じ時期にオスヴァルトが王笏を継承した。ならば答えは簡単です。王笏を手に入れるには、本物の王笏継承者の骨が必要なのでしょう」
オスヴァルトが王笏を継承していないことを、イグナーツは早い段階から察していた。
妹とされているフロレンツィアが男児だったと知っていたからというのもある。
だが決定的だったのは、異母兄が一度だけ見せてくれた王笏は魔光石で精巧に作られた偽物だったからだ。
本物の王笏を見たことのない者たちはあっさり騙された。
だが、当時既に聖剣を継承していたイグナーツは一目で偽物と見抜いた。
見抜いていながら、無言を貫いた。
指摘すればイグナーツが聖剣を継承したことを明かさねばならなかったからだ。
それはすなわち、既に王笏は失われていると宣言することと同義だ。
王笏はヒルヴィスの竜を従えると伝えられている。
竜とはガリウ大河に住まう、あるいは大河そのものとされている存在だ。竜を従えられなければ、ヒルヴィスはありとあらゆる水害に襲われ、やがて滅びる。
国を維持するためには、聖剣と王笏の両方が必要なのだ。
その片方が失われたと知れれば、いったいどれほどの混乱が巻き起こるか。
当時十四歳のイグナーツには想像もつかなかった。
(あの件がなければ、俺がアリーセと出会うこともなかった……皮肉だな)
思わず追憶に引きずり込まれそうになり、気を引き締める。
「そしていまもなお彼らが骨を求めているということは、王笏を維持するために骨を消費しつづけねばならないのでしょう。おそらくですが、オスヴァルトは定期的に骨を摂取していると思われます」
「なん……っ!」
ヘルガが勢いよく立ち上がった。椅子がガタンと鳴り、膝から人形が床に落ちる。
あれだけ大切にしていた人形だというのに、もはや見向きもしない。
「信じられない! 言葉どおり、私の子を食い物にしていたというの!?」
「落ち着いてください、母上。気持ちはわかりますが……この国を維持するために、フロレンツィアの骨が必要なのは事実です」
「アリーセを救い出すためにもね」
ハッ、とヘルガは嘲笑うように鼻を鳴らした。
怒りと憎しみで目は血走り、唇は鋭い半月を描いている。
これだけの悪感情を剥き出しにした母の顔を、イグナーツは見たことがなかった。
「落ち着けですって? 私は我が子を二人も失うというのに? 一人目はフロレンツィア、二人目はあなた。なのに、一人目の遺骨すら手放せと言うの?」
「どうかお気持ちを鎮めてください。フロレンツィアは死にました。でもまだ救える命があります……アリーセだけでなく、この国の民全員の命が懸かっています」
「どうでもいいわ、そんなもの! みんなまとめて滅べばいいのよ!」
「母上!」
金髪をかきむしろうとする母の手首を、イグナーツは慌てて掴んで制止した。
こちらを見上げてくる両眼は感情の揺らぎに合わせて震え、目尻に大粒の涙をたたえている。
「……髪、白くなったわね。昔はきれいな金髪だったのに」
「いまの髪も気に入っています。ミステリアスな男に見えるので」
息子の珍しい冗談に、ヘルガはふふっと笑った。目尻から涙がこぼれ落ちる。
掴んだ手首から力が抜けるのを感じ、イグナーツは拘束を解いた。するりとすべり落ちていった手が背中に回り、優しく抱きしめてくる。
イグナーツもまた母の背に腕を回した。昔よりも細く小さくなったように感じるのは、自分が成長したからだろうか。
「……条件があるわ」
「なんでも言ってください。俺にできることなら」
「できるわ。あなたは優しい子だもの」
ヘルガはイグナーツの胸に額を押しつけるようにして、ふふっとかすれた声で笑った。それから、ささやくように条件を口にした。