41.対抗意識を燃やしていませんか?
「――外出、ですか?」
翌日。
《蒼の宮》で二日ぶりの夫婦水入らずの食事の場で、イグナーツがカトラリーを動かす手を止めて眉をひそめた。
アリーセもベーコンと芋のスープを一口すすってからうなずく。
「ええ。ルットマン伯爵からお呼ばれしておりますの。お嬢さんのコリンナが会いたがっていると言われたら断れませんわ」
「ルットマン伯爵……昨夜、あなたが楽しそうに踊っていた相手ですね」
アリーセが彼の状況をいちいち確認していたように、彼もまたアリーセの状況を気に掛けてくれていたらしい。
「ご覧になってらしたんですね。彼とはお友だちなんです。以前からよくダンスに誘ってくださるから踊りやすいくて。呼吸が合うというか」
「……確かに、息がぴったりでしたね」
と、なぜかイグナーツはそこが重要だと言わんばかりに繰り返した。
それからフォークですぶっと刺した鹿肉の煮込みを口元へ運び、噛み殺すような勢いで咀嚼する。
気品こそ失っていないものの、いつもより食べ方が荒々しいというか、苛立っているように見えるのは気のせいだろうか。
「殿下。もしかして……悔しいのですか?」
ぎくり、とイグナーツの肩が震え、フォークの先から肉が落ちる。
「あ、いや。そういうわけでは」
と言いつつ目が泳いでいる。図星だったようだ。
夫の可愛らしいところをまた一つ見つけて、アリーセは嬉しくなった。
「やっぱり。ルットマン伯爵ほどお上手に踊れないから悔しいのですね」
「……え」
「お気になさることではありませんわ。彼はとりわけダンスがお上手なんです。しかも人間観察を趣味とされている方だから、ダンス中の会話で相手を楽しませたり、その気にさせたりして、どんな相手とも呼吸を合わせられて……」
あの気取った立ち居振る舞いもダンスの相手としては優秀なのだ。
社交界に出たばかりの少女であろうと足腰の弱った老女であろうと、彼の手にかかればたちまちに立派なお姫様になってしまう。
とにかく相手を立てるのが上手いのだ。
だから多くの淑女が彼と踊りたがり、そのせいで夫人がやきもちを焼くこともあるそうだ。本人は愛妻家で娘溺愛主義者なのだが。
「殿下はそういうことは不得手でいらっしゃるでしょう。ですが、王宮に滞在している間は私がパートナーですから、ご安心を。私がリードもフォローもいたしますから、必ずや上達させて差し上げますわ」
「……そうですね。あっいや、がんばります……」
イグナーツはどこか拍子抜けしたような反応を示した。
残念そうな、それでいてほっとしているような、曖昧な笑みを浮かべて食事を再開する。
「外出の件は承知いたしました。が、あなたひとりで出かけるのはあまり好ましくありません。なので、俺も同行します」
「え?」
「いけませんか?」
食事の合間に、どこか不満そうな眼差しを向けてくる。
「いえ、そんなことはありませんが。よろしいのですか? ヘルガ妃殿下ももっとお顔を見せるようおっしゃってましたし……」
「母は関係ありません。といいますか、同じ王宮にいるのですから滞在中はいつでも会えます」
会いに行かないから文句をつけられているのに、自覚はないようだ。
「俺たちは結婚したばかりなんですから、夫婦同伴で外出するのは普通でしょう」
「おっしゃるとおりですが……」
「そんなに俺と出かけるのが嫌なんですか? それとも俺をルットマン伯爵に紹介したくないんですか?」
「まさか!」
首を振って否定しつつ、アリーセは違和感をおぼえていた。
ふだんは穏やかなイグナーツが妙に食ってかかってきているような気がするのは、自分の思い過ごしだろうか、と。
「一緒にお出かけできるのは嬉しいですわ。お友達を紹介する機会をいただけるのも。ですが先方の都合もありますので、先に伝書鷹を飛ばしてもよろしいですか? ルットマン伯爵は豪胆な方ですが、奥様は少々気が弱い方なので……」
「わかりました。あのルットマン伯爵の奥方が気弱というのは、ちょっと信じられませんが……」
イグナーツはルットマン伯爵は知っていても、夫人のことはよく知らないようだ。
夫人は体が弱くて引きこもり気味なので、同じく社交界を苦手とする者同士ともなれば顔を知らなくても無理はないだろう。
「一目惚れだそうですわ。押して押して押しまくって、根負けさせて結婚にこぎつけたとうかがっております」
「……なるほど」
イグナーツは納得しつつも、なんて迷惑な、と言いたげな顔でつぶやいた。
(私も押して押して押しまくればよかったかしら。結婚はしていただけたけれど……)
少々押しに弱いところのある夫を眺めながら、そんなことを考えてしまうアリーセだった。
それからルットマン伯爵邸へ伝書鷹を飛ばし、夫婦での来訪を歓迎するという返事をもらってから準備に取りかかる。
外出許可を取り、いざ馬車に乗り込もうとしたところで待ったがかかった。
「イグナーツ殿下。国王陛下がお呼びです」
そう呼び止めて告げてきたのは、近衛騎士の一団だった。
アリーセに手を差し伸べようとしていたイグナーツは、彼らを見やって眉をひそめた。
彼が露骨に気分を害されたと表情に出すのも無理はない。
ただ呼びに来ただけにしては大人数で、妙な威圧を感じるのだ。
(まるで、抵抗されたら力尽くで抑えつけようとしているかのよう)
考えすぎかもしれない。
だが王宮に来てからあまりいい歓迎のされ方をしていないので、どうしてもうがった見方をしたくなる。
「見てわからないか? 出かけようとしているのだが」
「承知しております」
「帰ってきてからではダメか?」
「陛下は火急の用件とおっしゃっております」
先頭の近衛騎士は直立不動の姿勢で答える。
事実だけを告げるとすぐに唇を引き結ぶので、その表情から何かを読み取ることは難しい。
「……わかった」
逡巡している様子だったイグナーツが、諦めたように嘆息した。
「アリーセ。残念ですが、伯爵邸へは侍女と行ってください」
「よろしいのですか?」
「しかたがありません。伯爵には無理を言った直後に行けなくなって申し訳ないと伝えてもらえますか?」
「わかりましたわ」
うなずきつつ、アリーセはルットマン伯爵はともかく娘のコリンナががっかりしそうだと思った。
返信には娘が王子様に会えると楽しみにしていると書かれていたのだ。
「それと、一つ約束してください――ルットマン伯爵と二人きりにはならないと」
「? ええ、約束いたします」
「絶対ですよ」
イグナーツは仲睦まじい夫婦であることを見せつけるようにアリーセの額に口づけ、馬車へ送り出してくれた。
妻がはからずも約束を破ることになるとは思いもせずに。