38.嘘つきたちが迷走しています(2)
ようやく到着した控え室で、ミアに化粧を直してもらっているときだった。
ふとファビアンからの手紙のことを思い出して、アリーセは鏡台前に腰掛けたままドレスの隠しポケットに手を突っ込み、そこで気がついた。
手紙がない。
ルットマン伯爵は確かにこのポケットへ差し込んでくれたのに。
念のためもう一つの隠しポケットも探してみたが、何も入っていなかった。
「嘘、なくした……!?」
「どうかなさいましたか?」
侍女のミアに事情をざっくりと説明する。
「ミアが探してまいりますので、どこを通ってきたか教えてくださいますか? 奥様は会場へお戻りになってください。もしかしたら給仕が拾って保管しているかもしれませんし」
「そうね……ごめんなさい、こんなときまで手間をかけて」
「そのための侍女でございますから。さあ、主役がいつまでも抜けていてはいけませんよ!」
侍女に背中を押されるようにして控え室を出ると、別の方向へ歩き出す。
ミアの話によると、こちらの廊下を通った方が会場の大広間には近いらしい。知らない間にひどい遠回りをしていたようだ。
自分の方向感覚のなさに情けなくなり、思わずため息が漏れる。
(いったいどこに落としたのかしら。他人に見られて困るような内容ではないけれど、差出人が問題なのよね)
元婚約者から王子妃への手紙というのが問題なのだ。
表向きはファビアンがイグナーツから婚約者のクラーラを奪ったとみなされている。実際はクラーラがアリーセからファビアンを奪ったのだが、世間はそう思わない。
復縁を迫る手紙か、はたまた二股か。そう勘ぐられるのは必至だろう。
(お互いそういう感情はまったくないのだけど……ん?)
アリーセはふと、前方から近づいてくる人影に気がついた。
闇に溶け込むような漆黒の髪に、すらりとした痩身の貴公子だ。秀でた額をさらすように髪を整え、前髪を一筋だけこめかみへ垂らしている。
目元の涼やかな美男子だが、感情の読みにくい灰色の双眸と常に皮肉そうに歪んだ唇のせいか印象はよろしくない。
アリーセはいつも彼に会うと見下されているようで落ち着かなくなるのだった。
とはいえ礼儀は尽くさなければならない相手だった。
ドレスの横をつまんで軽くお辞儀をする。
「ごきげんよう、オスヴァルト殿下。今宵お目にかかれるとは――」
「イグナーツから預かっているものはないか?」
オスヴァルトは挨拶を無視して訊ねてきた。
高圧的で詰問するような口調だったが、当然ながらアリーセは意味がわからない。
「預かっているもの、とは……」
「なんでもいい。最近やつから渡されたもの、贈られたもの、何かないか?」
イグナーツを「やつ」呼ばわりだ。
むっとしたものの、余計な口答えをするほどアリーセは愚かではない。
「……殿下からいただいたものでございますか。最近でしたら、いま身にまとっているドレスと宝飾品くらいですが」
そこまで言い終えるより早く、アリーセはオスヴァルトに手首を掴まれて強引に引き寄せられた。
思いやりのない乱暴な手つきのせいで腕に痛みが走る。
「いたっ……何を!」
抗議も無視して、オスヴァルトはアリーセの耳飾りをむしり取った。
薄暗がりの中、懸命に目をこらして何かを確かめると、すぐにその場で放り捨てる。
続いて首飾りに手をかけると、留め具を外そうともせずためらいなく引きちぎられた。首の後ろに痛みを感じたから、いまのは間違いなく傷になっただろう。
「殿下!」
「これも違う!」
オスヴァルトは苛立たしげに首飾りを捨てると、今度はドレスに手を伸ばしてきた。
アリーセは必死に逃げようとしたが、夜会ドレスとヒールの高い靴では限度がある。
あっという間にオスヴァルトの腕に捕らわれ、全身、特にフリルや造花などドレスに飾りのついているあたりをまさぐられた。
いったい何を探しているのかは不明だが、アリーセにも我慢の限界はある。
「いいかげんにしてください! いくら殿下といえど、無礼ではありませんか!」
「うるさい! 黙って俺に従え――」
オスヴァルトが胸元の飾りを鷲づかみにしたときだった。
アリーセたちの間に割り込むように、一筋の輝きが出現したのは。
青白く内側から発光する剣が、二人の間に突き出されている。まるでこれ以上の二人の接触を許さないと言わんばかりだ。
図らずとも、二人同時に剣の主に顔を向ける。
アリーセの予想通り、聖剣を利き腕で握っていたのはイグナーツだった。
いつもより鋭さを増した蒼の双眸が、壁の燭台の灯りを反射して炎のように揺らめいて見える。そうでなくとも彼が激怒していることは明白だった。
「イグナーツ……!」
オスヴァルトが憎々しげに異母弟の名を呼んだ。
「いますぐ妻から離れてください、兄上」
感情を押し殺した声でイグナーツが忠告する。
そうしている間にも、オスヴァルトの左手はアリーセの腰を掴み、右手は胸元の飾りに伸びたままだ。
性的な接触を受けていると誤解されてもおかしくない。
とはいえ、無礼な真似をされていることには変わりはないのだが。
オスヴァルトに非があるとしか見えない状況にも関わらず、彼は引く気はないようだった。異母弟を小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「はっ、いつから俺に指示できる立場になったと思って――」
「離れろと言っているんだ、下衆」
「…………!」
オスヴァルトが息を呑んだ。
イグナーツが異母兄に対してこのような態度を取ることはめったにないのだろう。
「下衆だと!? 誰に向かってそんな口を叩いている!」
「ここには俺と妻とあなたしかいないのだから、あなたに決まっているだろう。三つ数える間に彼女から離れなければ、兄上といえど容赦しない」
オスヴァルトは、それとただの脅しを受け取ったようだ。
「……は。どう容赦しないというんだ」
「一、」
数えはじめた瞬間、剣が閃いた。
輝く刃の腹がオスヴァルトの喉元へ吸い込まれるように動き、皮膚に触れるか触れないかのところでピタリと静止する。
アリーセだったら飛び退きたくなるところだが、オスヴァルトはわずかに頭を引いただけで踏みとどまった。過大な自尊心がそうさせたのかもしれない。
「俺は王笏の王子だぞ! 三日後には立太子式も控えている! 俺がいなければ国がどうなると思って――」