37.嘘つきたちが迷走しています(1)
少し化粧が崩れたかもしれない。
そう悟ったのは、アリーセがイグナーツと二度目のダンスを踊りおえ、順番待ちのようなことをしていた貴公子から誘われたときだった。
「ごめんなさい。新しい靴が合わないみたいですの。少し外させていただきますわ」
「残念です、妃殿下」
そんな会話を交わして、会場を後にする。
ちなみにイグナーツは踊りおえた途端、あっという間に淑女たちに囲まれて身動きが取れなくなっていた。
アリーセが席を外したことにも気づいて視線を向けてきていたが、これまた大丈夫ですわと視線を送り返しておいた。
王子妃であるアリーセには専用の控え室が用意されている。
そこに侍女のミアが化粧直し用の各種道具やついでにいつもの薬箱を用意し、万全の体制で待機してくれている。
(問題は、この宮殿が広すぎるってことよね)
宮廷舞踏会が開かれるのはヒルヴィス王宮の中央正殿で、とても壮麗で壮大だ。
部屋数はすさまじいほど多く、そして同じ扉や柱が続くせいで見分けがつきにくい。
(このあたりのはずなのだけど、迷ったかしら……)
いつの間にか暗い通路に出てしまった。
引き返すべきか逡巡していると、背後からパタパタと足音が近づいてきた。
音が軽いから女性のようだが、ひとけがないとはいえ王宮内を走る淑女は存在しない。侍女やメイドだってはばかられるだろう。が。
「お姉様っ!」
ここにいるはずのない声に、アリーセはぎょっとして振り向いた。
異母妹のクラーラだった。
癖のない赤髪をなびかせ、フリルの多いドレスの横をしっかり掴んで駆け寄ってくる。
「あ、あなた……よく殿下がいらっしゃるときに顔を出す気になったわね」
普通は、たとえ出入り禁止処分を下されなかったとしても自粛するものだろう。
クラーラが舞踏会好きなのは知っていたが、ここまで常識がないとは思わなかった。面の皮が厚いというか、心臓が頑強すぎる。
かなり遠くから走ってきたようで、クラーラははあはあと息を整えてから言った。
「お父様にも来るなと言われていましたわ。でも最近、どういうわけか夜会のお誘いが全然来ませんの」
「……そうなの」
なんとも言えず、アリーセは相づちを打つだけにとどめた。
王子と婚約していながら姉の婚約者と浮気した令嬢を、誰が好き好んで招待するというのだろう。家名を盾にするにも限度というものがある。
もとからあまりよくなかった評判がこれでガタ落ちしたのだが、本人は自覚していないようだ。
(さっきのお父様の態度は、クラーラを遠ざけるためだったのね。効果はなかったけれど)
会場での父のわざとらしい態度を思い出す。
父もクラーラをイグナーツに会わせるわけにはいかないと察したのだろう。つくづく手のかかる異母妹だ。
「会場に入れないってわかっているのにどうして来たのよ……」
「もちろん、お姉様にお話があったに決まっていますわ。ファビアン様はどちらにいらっしゃいますの?」
「どちらって……ゴルヴァーナだけれど」
アリーセは首をかしげた。
何を当たり前のことを訊くのだろう。
彼が「慰謝料」としてゴルヴァーナ城砦へ送られたことくらい知っているだろうに。
しかし、クラーラは「どうして!」と悲鳴じみた声をあげた。
「どうしてですの!? ファビアン様は殿下の侍従になられたはずでしょう!」
「え?……あー」
アリーセは察した。
さすがにファビアンも愛する恋人に城砦の掃除担当になったとは言えなかったのだろう。本人も侍従になるつもりで派遣されてきていたから、嘘をついたか、予定が変わったことを告げなかったに違いない。
その後、アリーセの権限で司書に配属を変えたが、彼はこの仕事がかなり気に入った様子だった。没頭しすぎて連絡をしわすれていたのかもしれない。
「ファビアン様ならゴルヴァーナで司書を任されているわ。大事な仕事だから今回の旅には同行させられなかったの」
元婚約者への情けで、アリーセは彼の嘘がバレない程度に事実を伝える。
そもそも司書を旅に同行させる理由はまったくないのだが。
「そんな……困りますわ!」
クラーラは口元で可愛く拳を作ってうろたえた声を漏らす。しぐさは演技くさいが、本気で困っているようではあった。
「お願いです、いまからでも呼び寄せてくださいませ!」
「どうして?」
「ど、どうしてもですわ! ファビアン様にお話したいことがありますの」
「それなら手紙でいいじゃない。三速の伝書鷹を使えばすぐに……」
「直接会ってお話しなければならないことですの!」
頑として譲らなかった。
強固な態度に違和感を通り越して怪しく思えてくる。
(まさか、とは思うけれど……)
さすがにそこまではしないだろう、という考えがアリーセの脳内に生まれる。
しかしクラーラに限ってはそのまさかはあり得る気がした。
「そういえば、体調は大丈夫なの?」
「体調?」
「さっき走っていたじゃない。妊婦なのだから気をつけないと。つわりはないの?」
妊娠を打ち明けられた時期から考えて、現在はつわりの真っ最中のはずだ。無論個人差はあるだろうし、つわりが軽度の人もいるだろうが。
「えっ!? きょ、今日は落ち着いていますわ!」
クラーラの目が泳ぎ出す。声も裏返っていた。
アリーセの中で、疑惑は確信へ変わりつつあった。
(どうしても《奈落》へ行きたくなくて、妊娠をでっち上げたわね)
とりあえず行為に及んで嘘の妊娠を報告すれば、アリーセとファビアンの婚約を阻止することはできる。
妊娠自体は後からでも問題ないと思っていたのだろう。
だがそこへ婚約破棄の慰謝料問題が発生し、ファビアンがゴルヴァーナ城砦へ送られてしまった。
言い方は悪いが子種の提供者に会えなくなってしまい、このままでは妊娠が嘘だとバレそうになっているのだろう。
(ファビアンも気の毒ね。いえ、手を出したのは事実なのだから自業自得かしら)
どちらにせよクラーラとファビアン、ヴェルマー家とエルケンス家の問題だ。
アリーセにはどうでもいい話であり、首を突っ込みたくはなかった。
「とにかく、ファビアン様を呼び寄せることはできないわ。諦めなさい」
「そんな、意地悪なさるなんてひどいですわ!」
「意地悪って……あのねえ」
頭が痛くなってきた。
「ファビアン様が到着する頃には私たちは帰ることになるから、呼び寄せる意味がないと言っているのよ。そもそも彼は殿下の婚約者を奪った男として睨まれているの。あなた、彼の妻になるんでしょう? 彼の立場をこれ以上失わせたいの?」
「そ、そういうわけでは……」
「そんなに会いたかったらゴルヴァーナに来ればいいでしょう。あなたが思っているほど危険なところではないわよ。まあ、たまに魔物にも出くわすけれど」
「出るんじゃありませんの!」
わめくように突っ込まれてしまった。
いまのは余計な一言だったかもしれない。
「とにかく、そういうわけだから」
アリーセは踵を返した。これ以上はつきあいきれない。
「お姉さ――」
背後から響いた呼び声が、なぜか息を呑んだように途切れる。
違和感をおぼえて振り向くと、クラーラが前屈みから身を起こしたところだった。
何をしていたのだろう。
通路が暗いせいで少し距離があるとよく見えない。アリーセの右目が弱視気味であるせいでもある。
「どうかした?」
「な、なんでもありませんわ!」
クラーラは妙に明るい声で応じた。右手が背中の後ろに回っているのが少し気になったが、見られたくないものならば追及するのは不躾というものだ。
それに、これ以上ファビアンのことで食い下がられても困る。
「そう……」
不審に思いながらも、アリーセはその場を後にした。