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32.盗み聞きはやめましょう

 バルトル公爵夫妻との晩餐後、湯浴みをして部屋へ戻ったアリーセは思わず頬を引きつらせた。


「嫌な予感はしていたけれど、マヌエラの秘策ってこれ?」


 夫婦で宿泊する客人用の一室だ。

 広い部屋の中央には品の良いテーブルと猫脚の長椅子、右手奥には寝室に繋がる扉がある。という部屋なのは認識していたのだが。

 まさか留守にしていた半刻ほどで、内装が変わっているとは。


 いつの間にか部屋のあちこちに真っ赤な薔薇を生けた花瓶が出現している。

 どこもかしこも薔薇、薔薇、薔薇。

 庭園で見かけたのとは花弁が違うから、花屋から取り寄せたのかもしれない。

 部屋中に甘美でかつ優雅な香りが満ちており、さらには要所に配置された燭台(しょくだい)の灯りがゆらめいて妖しい雰囲気を醸し出していた。

 念のため寝室の方ものぞいてみると、同じような状態だった。天蓋付き寝台のシーツの上にまで薔薇の花びらが散らしてあるのを見て、軽い頭痛をおぼえる。


「……こういうの、流行っているのかしら」

「いいじゃないですかあ、ロマンチックで!」


 ミアは嬉しそうに両手を組み合わせてうっとりしてみせるが、ここにイグナーツがいない時点でとても成功しているとは思えない。

 居心地が悪くて別室で過ごしているに違いなかった。


「こういうのはロマンチックじゃなくて露骨と言うのよ。マヌエラには悪いけれど、片付けなきゃならないわね」

「ええー。せっかく用意してくださったのに?」

「そうはいっても、このままでは殿下が帰ってこられないわ。常識の範囲内くらいの量を残して、あとは片付けてもらえる? 私は殿下を探してくるわ」

「かしこまりました。あの、でも寝台の花びらは残」

「それが一番ダメなの。片付けて」

「はいぃ……」


 しょんぼりと肩を落とす侍女に任せて、アリーセは部屋を出た。

 まだ髪が半乾きのままだが、夏なので放っておいても乾くだろう。

 イグナーツを探して廊下をさまよう途中でマヌエラに出くわし、苦情を申し立てると大笑いされた。

 うぶだのなんだのと散々からかわれて撤退を余儀なくされ、また廊下をさまよう。城並みに広い屋敷で迷子になりそうだ。


 そうしているうちに、中庭に面した渡り廊下へ出た。

 四方を廊下と建物に囲まれた空間はしっかりと手入れされており、数本のマロニエの樹と低木の生け垣がある程度で見通しがいい。

 そこに白っぽい人影を見つけてぎょっとする。

 夜間なのもあって一瞬、人ならざる者のように見えたのだ。

 すぐにそれがイグナーツだと気づいてほっとする。

 銀髪が月光を受けていつも以上に神秘的なきらめきを放っており、さらに上着を脱いでいたせいで全体的に白っぽく、闇に浮かび上がって見えたのだ。


(お持ちになっているものが、あれだしね)


 イグナーツは剣を構えていた。

 内側からにじみ出るように青く発光している。以前第一城砦で見かけた聖剣だろう。

 どうやらここで素振りか何かをしていたらしい。

 剣の鍛錬はもう終わったらしく、彼は息をつくと剣先を地面に突き刺し、近くの木製ベンチに腰を下ろした。

 いまならば話しかけても大丈夫だろうか。

 アリーセは彼に向かって足を踏み出しかけ、


「――うるさいな」


 ……ようとして乱暴な物言いにぎょっとして、動きが止まる。

 自分のことかと思ったが、いまのところアリーセは何も声を発していない。ならば何がうるさいのか。まさか心の声が聞こえているわけはないと思いたい。

 だが、イグナーツはこちらを見ていなかった。目の前の虚空、それも自分の頭よりもやや高い位置を睨みつけていた。


「俺だっておかしいとは思ったさ。だが公爵は実物を見ているんだ。その上で、それと見比べて同じ性質のものだと言うんだから、しかたがないだろう」


 それ、と言ったときだけ、地面に突き刺した聖剣に視線を向け、また視線を虚空へ戻す。

 まるでそこに、見えない誰かがいるかのように。


(どういうこと……?)


 鼓動が速まるのをおぼえて、アリーセはナイトドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。

 イグナーツが何をしているのかわからない。理解できない。

 だが一方で、前々から気づいていたことでもあった。

 イグナーツがときおり虚空を見上げて沈黙することがあると。

 てっきり考え事をするときの癖なのかと思っていた。しかしいま思えば、虚空にいる何かに声をかけられて、聞き取っているしぐさとも受け取れた。

 彼は以前から、目に見えない誰かと話していた?


「ああ、以前のものは魔光石の細工である可能性が高い。だがどういうわけか、今回は本物を授かったようだ。だとしたら、俺たちは兄上に余計な嫌疑をかけていたことになる……早まらなくてよかったな」


 安堵とも疲労ともとれる息をついて、イグナーツが腕組みをする。目を伏せても、相変わらず彼の意識は虚空に向けられているようだった。

 いったい誰と話しているのかはわからない。

 幽霊かもしれないし、天の御使いかもしれない。

 あるいは、幼い頃にのみ見えるという透明なお友だちかもしれない。だが。


(なんだっていいわ。それで殿下が変わるわけでもないし。それに不思議ちゃんな殿下もそれはそれで可愛いかも……)


 アリーセの恋心はその程度では揺らがなかった。

 それに何が見えるのかよりも、独り言――いや、見えない相手との会話の内容の方が気にかかる。

 なんとなく聞いてはいけないものを聞いている気がして、渡り廊下の太い柱の影に身をひそめつつ、聞き耳を立てる。


「おまえが不満に思う気持ちはわかるよ。だが王笏(おうしゃく)はあるに越したことはないさ。この国のためには……」


 アリーセは眉をひそめた。

(王笏の話をしているの?)


 魔物を倒し《奈落》を封じる聖剣に対して、竜を従えるとされる王笏。

 第二王子のイグナーツが聖剣を、第一王子のオスヴァルトが王笏を継承している。


「どうかな」

 とイグナーツがまたどこか投げやりに言い放つ。


「王笏を継承したのなら、子を成すこともできるようになるんじゃないか? 神が王家にかけた呪いを考えれば、王笏の王子が偶然不妊体質になるとは思えない。呪いによって逆に血筋だけは守られるはずだろう」


 彼が何を語っているのか、理解が追いつくまで少し時間がかかった。


(オスヴァルト殿下は最近になって王笏を継承したということ?)


 そんなはずはない。

 オスヴァルトはイグナーツが聖剣を継承した四年前よりも一年早く、王笏を継承したことを発表している。

 さらにイグナーツは異母兄が不妊であることに違和感をおぼえているようだ。

 それもそのはずで、現在の王家の血筋は王笏の王子から続いているのだ。今回だけ王笏の王子が不妊で、聖剣の王子の血筋に変わるというのもおかしな話ではある。

 さきほどまでとは別の理由でアリーセの拍動が苦しくなった。

 童話集に偽装された手記の存在が頭の中をちらつく。


『神々の呪いが本当に〝呪い〟なのだとしたら、解く方法が必ずあるはずである』

『なのに数百年にわたって呪いが継続されているのは、どこかに呪いを解きたくない者が存在しているからかもしれない』


 あの手記を書いたのはいったい誰なのだろう。いまもゴルヴァーナ城砦のどこかにいるのだろうか。そして呪いを解く方法をひとり研究しているのだろうか。

 会ってみたい、と切実に思った。


(ファビアンに手紙を送る必要があるみたいね)


 自分に何ができるかわからない。何もできないかもしれない。

 だが、ただじっとイグナーツが《奈落》に身を投じる日を待つつもりはなかった。


(殿下を《奈落》の泡沫(うたかた)にはしたくない)


 アリーセはきゅっと唇を噛みしめると、静かにその場を後にした。

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