31.新婚旅行どころではありません(2)
バルトル公爵邸の薔薇園は見事だった。
マヌエラの話によれば早咲きのものから遅咲きのものまで、百種類以上の品種を揃えているという。おかげで薔薇の季節を長い間楽しめるらしい。
いまはピンク系の薔薇が見頃で、濃色から淡色まで微妙に色の違う花弁が庭園のあちこちで咲き誇っている。
そんな薔薇たちに囲まれる空間にある四阿で、アリーセはもてなされていた。
まるいテーブルにはおなじみのスコーンとイチゴジャム、レモンのムース、そして透明なグラスに注がれた冷たい紅茶が用意されている。冷たい紅茶には輪切りにしたレモンとミントの葉が添えられており、見た目も涼やかだ。
「珍しい飲み方ですね」
「中流階級で流行っている飲み方よ。貴族の中には邪道だって眉をひそめる人もいるそうなのだけど」
「紅茶は熱くなければダメだというわけですか」
いかにも頭の硬い貴族が言い出しそうなことだ。
「あなたも気にするタイプ?」
「まさか。冷たくてとても美味しいです。それに見た目も美しいですし」
「やっぱりあなたはわかっているわね!」
マヌエラが機嫌よさそうに笑ってグラスをシャンパンのようにあおった。
アリーセも同じようにグラスを傾けた後、ムースを一口すくって口へ運ぶ。酸味のあるさわやかな甘みが舌の上でほどけ、何とも言えない幸福が口の中に広がった。
「そうそう、あなたに贈り物があるの」
マヌエラが侍女に指示する。侍女は一礼して四阿を出ていき、しばらくして大きな箱を抱えて戻ってきた。アリーセは苦笑する。
「もしかしなくても、いつものですか?」
「いつもの、とは言い切れなくてよ。開けてみて」
アリーセは遠慮なく箱を開けた。
中には上下が繋がった衣類が入っている。
乗馬服のような意匠で、袖も脚衣部分も妙に細くできていた。
手に取ってみると生地は厚みとなめらかさがあり、さらに伸縮性が抜群だった。着たら生地が肌の凹凸に合わせて伸び、隙間を作らなそうだ。
「新しい水着ですね」
「人魚の必需品でしょう?」
マヌエラが魅惑的な目配せを送ってくる。
彼女はボーグ湖で水難事故から救われて以来、アリーセの救助活動に何かと協力したがるようになった。
そのうちの一つがより泳ぎやすい水着の開発だ。
夫のツテを使って国中からいろいろな生地を集めたり、新しい生地まで開発したりと、ほとんどパトロンだ。
「前回からさらに改良を重ねたわ。ちょっと意匠がさびしいけれど、水中での抵抗を少なくしたらこういう形状になったのですって」
「お気持ちは嬉しいですけど、私はもう泳ぐことはないと思いますわ」
アリーセがボーグ湖のあるヴェルマー領に帰ることはおそらくないだろう。
いずれ父は穀倉地帯の領地を取り戻すためにアリーセを迎えようとするかもしれないが、アリーセにはもう戻るつもりはなかった。
「何を言っているの。ボーグ湖以外でも泳ぐことはできてよ」
「そうですけれど……」
ヒルヴィス王国に遊泳に適した場所は少ない。
おまけに国の四方を取り囲む海は穢れていて、生命が存在できる場所ではないどころか、腐食性の水質のせいで船を浮かべることすらままならないときたものだ。
海の外の世界がどうなっているのか、ヒルヴィス国民の誰も知らないのだ。
ふうん、とマヌエラが何かを察したらしく、頬杖をついて眺めてくる。
「泳ぐ理由がなくなった?」
「……かも、しれません」
《奈落》へ輿入れしてからというもの、アリーセの生活は充実している。
もう不満を抱えて湖中へ逃げ込む必要がないのだ。
「ごめんなさい、善意で作っていただいたのに」
「構わなくてよ。わたくしが勝手に押しつけていただけなのだもの。それに、もしかしたらまたどこかで泳ぐ機会があるかもしれないでしょう?」
マヌエラは水着を箱に戻し、侍女にアリーセが泊まる部屋へ運ぶよう言いつけた。侍女が箱を抱えて退室するのを見送ってから、また切り出してくる。
「ここからが本題よ――オスヴァルト殿下の妃たちの動向、知りたいでしょう?」
第一王子の第二妃が次の王子を産みたいがために、イグナーツに鞍替えしようとしているという情報をくれたのはマヌエラだ。
アリーセは思わず前のめりになる。
「もちろんです!……って、妃『たち』……?」
「第一妃も同じようなことを企んでそうな動きがあるのよ」
「ぐっ……!」
アリーセは思わずグラスを握りしめてうめいた。マヌエラが苦笑する。
「その様子だと、イグナーツ殿下に本気で入れあげているようね。あの見目ならば当然かしら」
「……見目だけが好きなわけではありませんわ」
一目惚れだったのは事実だけれど、と内心でのみ付け加える。
「殿下はとてもお優しくて、いつも私のことを気遣ってくださいます。母が亡くなってから、こんなに大切にされたことはありませんでした」
愛せないと言いつつも、アリーセの恋心が傷つくようなことはしないし、妻としての立場を損なわせないように仲睦まじい夫婦のふりをしてくれる。
実は愛されているのではないかと錯覚してしまいそうなほどに。
(殿下に無理をさせていなければよいのだけれど……)
イグナーツに幸せにすると宣言しておきながら、アリーセの方が幸せにされている気がしてならない。
「王家として後継者を残さなければならないのは承知しています。妃をたくさん娶っていただくのが効率がいいことも……でも、私は」
視線をどこへ向ければ落ち着くのかわからず、なんとなく手元のグラスを眺めていると、冷えた手にそっとたおやかな手が下りてきた。
マヌエラがいたわるように手を握ってくる。顔を上げると、彼女と目が合った。その眼差しには同じ女性としての同情と、いつくしみが交じっている。
「大丈夫よ、アリーセ。わたくしに秘策があるの」
「……秘策?」
アリーセは嫌な予感がした。
侍女のミアが薬箱を取り出しながらおかしな提案をしてくるときと同じような感覚をおぼえるのは、気のせいだろうか。