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28.奥様はお留守番中です(2)

「わざわざ料理本をお探しにならなくても、厨房でレシピをお聞きになればよろしいじゃありませんか」

「ダメよ。私に教えたのが殿下に知られたら、彼らに迷惑がかかるかもしれないでしょう」


 そんなわけで、アリーセはカイザー・シュマーレンのレシピを調べるため、ミアとともに第二城砦の図書室を訪れていた。

 ここに立ち入るのは初めてだ。四方を書架に埋め尽くされた部屋は小ぶりの採光窓から差し込む陽光で薄明るく、ほんのりと古い紙と埃の匂いが漂っている。


 見たところあまり掃除が行き届いておらず、書物をぎっしりと敷き詰めた書棚の隙間に埃が白く見えるほど積もっている。人手が足りなかった頃に清掃を省略されたきり、人員が配置されていないのかもしれない。

 ミアが近くの本を手に取って、ふわりと舞った埃に咳き込んだ。


「けほっ、お掃除係が必要ですね」

「それと司書もね」


 同じ書架に系統の違う本が雑然と差し込まれているせいで、どこになんの本があるのかさっぱりわからない。

 後でここを任せられそうな人物が使用人の中にいないか検討しようと考えつつ、まずは目当ての本――料理本を探すことにする。

 部屋の換気はミアに任せ、アリーセは書架の間を見て回った。


(さて、料理本はどこかしら。お菓子のレシピも載っているとよいのだけれど)


 試しに近くの本棚に目を向ければ、兵法と植物図鑑と紋章学の本がごちゃごちゃに突っ込まれていた。これはひどい。

 さらに隣の本棚には童話集と魔物図鑑、ヒルヴィス王国史が並んでいた。魔物図鑑とヒルヴィス王国史はともかく、童話集が必要な者がここにいたのだろうか。


 アリーセはその童話集が気になって手を伸ばした。これだけ何度も本を抜き差ししたらしく、背表紙の手前に埃が積もっていなかった。

 赤い革張りの装丁は、ヴェルマー家にもあったものだ。


(なつかしいわ。お母様にねだって、何度も読みきかせていただいたのよね)


 亡き母との思い出を振り返りながらページをめくり、あら、と目を見開く。

 中身が違う。書籍ですらない、手書きの手記だ。

 童話集の装丁だけを再利用して付け替えていたようだ。

 ざっと眺めたところ、筆者は《奈落》について研究していたらしい。

 いにしえの時代に魔法使いたちが禁忌を犯して神の怒りに触れたため、人々の暮らしを豊かにしてくれて魔法は魔法使いとともに地上から消え去ってしまった。

 代わりに神から与えられたのが魔物の湧き出る大穴《奈落》と、魔湧きを治める聖剣、そして国を治める王笏だった――アリーセが知っているのは、その程度の抽象的な内容のみだ。当時の文献は失われているからだ。

 しかし、この手記はさらにその先へ踏み込んだ内容だった。


『禁忌とは神々の領域、人が触れてはならぬもの。魔法使いは何を犯したのか』

『魔法のある世界。選民思想、より魔力の強い者が権力を握る社会構造』

『聖剣は《奈落》を封じる。王笏は国を封じる?』


 他人に読ませることを想定していない悪筆と悪文がやけに目に止まる。

(何かしら、これ……)

 得体の知れない不気味さをおぼえる。インクのにじんだ悪筆がそう思わせるのだろうか。背筋に薄ら寒いものを感じていると、不意に肩を叩かれた。


「うきゃあっ!?」

 思わず肩を跳ね上げて叫んでしまう。

 振り向くと、ミアが不思議そうな顔をしていた。アリーセは肩と同じくらい跳ねた心臓を押さえつけるように胸元へ手を当てた。


「もう、びっくりさせないで」

「すみません、そんなに驚かれるとは思わなくて……いいレシピ見つかりました?」


 と言ってこちらの手元をのぞき込み、目当ての本とは違うものを読んでいたことを知って半眼になる。


「カイザー・シュマーレンで殿下を落とすんじゃなかったんですか?」

「……もとからそういう作戦ではなかったはずだけれど」


 ミアの中ではイグナーツの胃袋を掴んで惚れさせる作戦ということになっていたらしい。アリーセは単純に彼が喜んでくれそうなものを差し入れたいだけなのだが。


「――こちらにいらっしゃいましたか」


 落ち着いた声に振り向けば、換気のために開け放した扉から執事長のヤコブが入ってきたところだった。手に銀盆を抱えており、封蝋のついた手紙が置かれている。


「奥様宛にお手紙が届きましたのでお持ちしました」


 奥様、という単語にアリーセの背筋が自然と伸びる。

 いまだに奥様と呼ばれるたびに、イグナーツの妻になったことを実感して嬉しくなってしまうのだ。

 アリーセは手紙を受け取ると、手記を元の棚に戻してから図書室の奥にあるテーブルへ移動した。読書用の簡易なもので、しばらく使われていないのか埃が積もっている。

 ミアがハンカチでささっと椅子の埃を払ってくれたので、アリーセはそこへ腰を下ろし、本をテーブルに置いてから、あらためて手紙の封蝋を見下ろした。

 手紙は二通あり、どちらの封蝋にも薔薇と剣の紋章が刻まれている。バルトル公爵家の紋章だ。

 一通目はバルトル公爵から、二通目はその妻のバルトル公爵夫人からだった。


「例の件でお返事でしょうか」

「たぶんね」


 バルトル公爵には畜肉の取引について相談を持ちかけてあった。

 数年前に領地が大凶作に見舞われて以来、バルトル公爵領は領主主導で畜産業に力を注いでいる。中でも特別な飼料を与えて育てた豚や鶏の肉はやわらかな肉質と風味の良さが大好評で、高値で取引されている。

 その特別な飼料となるのはある種の小麦で、ヴェルマー公爵領の穀倉地帯、つまりイグナーツが慰謝料代わりに取り上げた領地でも広く栽培されている。


(クランツ商会のおかげで流通の問題はクリアしているわ。上手く取引を成立させられれば、ここでも良質なお肉を召し上がっていただけるようになるはず)


 王都や領地でぬくぬくと過ごしている有閑貴族たちではなく、国のため命を賭して戦っているイグナーツにこそ上等な食事をとってほしかった。

 アリーセはバルトル公爵家からのもう一通の手紙に目を向ける。


「それはそうと、マヌエラの方はどうしたのかしら?」


 バルトル公爵夫人のマヌエラはアリーセの友人だ。

 数年前にボーグ湖で水難事故から救い出したのがきっかけで知り合った。歳が近かったのもあって仲良くなるのは早かったと思う。

 アリーセを「人魚のお友達」だと吹聴するのは困ったものだったが、以来、彼女は何かと力を貸してくれるようになった。アリーセがイグナーツから追い出されたときの逃げ込み先として名乗り出てくれた一人でもある。

 まずは気になる友人からの手紙から先に開封する。


『親愛なるアリーセ、または敬愛すべきアリーセ妃殿下』の出だしで苦笑する。

 妃殿下なんて呼ばれたのははじめてだ。

 時候の挨拶にご機嫌うかがい、そこへ夫への愚痴がスパイスとなったユーモアたっぷりの文章を楽しく読んでいくと、便箋の二枚目からようやく本題に入った。


 いま、社交界はイグナーツの結婚話でもちきりだという。

 マヌエラの話によると、多くの貴族が第二王子の結婚を祝福している一方で、第一王子オスヴァルトの妃たちとその家門の人々は危機感をおぼえているらしい。

 第一妃も第二妃も当然ながらオスヴァルトの御子を産んで、未来の王母になることを望んでいる。そのための政略結婚だ。

 なのにオスヴァルトとの間に子をもうけられず、それどころか国王はイグナーツに子を成すよう要請している。

 イグナーツとその妃の子が未来の王となると明言しているようなものだ。

 オスヴァルトの妃たちとしては面白くないだろう。


(『特に第二妃殿下はオスヴァルト殿下と離婚してイグナーツ殿下の第二妃の座に収まろうと画策』……なんですって!?)

 思わず握りしめた便箋がグシャリとよれる。冗談ではない。


「どうかなさいましたか?」

 ミアが心配そうにのぞき込んできたので、手紙の内容をかいつまんで説明する。


「あっさり鞍替えなさろうとするなんて、第二妃殿下もはしたない方ですね!」

「結論を急ぎすぎよ。まだ妃殿下のご意志と決まったわけでもないんだから」


 彼女の父や祖父、家門が望んでいるだけで、彼女は離婚を望んでいないかもしれない。それ以前に、第一王子が離婚に応じるかどうかも不明だ。


「でも、そんなこと言っている場合じゃないことも理解できるのよね。オスヴァルト殿下が不妊でいらっしゃるのなら、イグナーツ殿下に複数の妃を迎えていただいて、できるだけたくさんの子を残してもらうしかないもの」


 王家直系の血筋の断絶は、聖剣と王笏(おうしゃく)の喪失に繋がる。

 そうなれば《奈落》の脅威から民を守るすべがなくなり、ヒルヴィス王国そのものが滅亡に瀕してしまう。

 理屈ではわかっている。だから侍女の前でも冷静に説明できた。

 ただ、気持ちとしてはとても受け入れられなかった。


 アリーセはイグナーツに愛されていない。それでも構わないといままで言い切れたのは、彼がとても優しく、いつも気遣ってくれるからだ。

 愛されなくても大切にはされていたから、じゅうぶん幸せを感じられた。

 だがもしも、イグナーツが二人目の妃を迎えることに同意し、さらには新しい妃を愛するようになったとしたら、どうだろう。

 子を望んでいないはずの彼が新しい妃と出会って意志を変えたら。彼女が大きくなったお腹を撫でるところを目の当たりにしたら。

 アリーセはたまらす唇を噛みしめた。

 無理だ。想像しただけで涙がせり上がってきてしまう。

 そんな自分に嫌悪感をつのってきた。

 イグナーツを幸せにしたいと、本人の前で宣言したというのに。


(馬鹿ね。殿下の幸せに繋がるのなら、どんなことだって受け入れようって思っていたのに)


 アリーセは泣き出しそうな気持ちをほぐすように、グシャグシャにしてしまった便箋の皺を丁寧に伸ばしていく。

 手紙の最後は、結婚報告などで王都へ参上する際には絶対にバルトル邸へ寄っていくように、と指示同然の強めの文章で締めくくられていた。

 友人の高飛車な言葉遣いを思い起こされて、少しだけ笑みがこぼれた。

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