27.奥様はお留守番中です(1)
アリーセが《奈落》のゴルヴァーナ城砦に嫁入りしてから早一カ月半、ヒルヴィス王国は夏を迎えようとしていた。
とはいえこの死地の空は相変わらずどんよりと曇っている。
日差しが遮られているおかげで王都ほど暑くならないのはいいが、どうにも気分まで曇ってしまいそうになっていけない。夏らしいさわやかさを作り出さなければ、とアリーセは考えた。
「というわけで、今日はレモンケーキにいたしました」
午後のティータイム。第二城砦二階のテラスのテーブルには、アリーセの手製のレモンケーキが振る舞われている。
侍女のミアが人数分のティーカップに紅茶を注ぎ終えると、アリーセの隣の椅子に腰を下ろした。ヴェルマー公爵邸で暮らしていた頃から、ミアとはつつましいティータイムを共有してきた。それはここでも変わらない。
本日のゲスト、医務官のハイネが目を輝かせながら、切り分けられたレモンケーキにフォークを向けた。固そうに見える外観からは信じられないほど、生地にすっとフォークが通る。焼き加減は大成功だったようだ。
ぱくりと一口食べたハイネが、「んんんんっ」と歓喜の声をあげて頬を押さえた。
「やだ、すっごく美味しい! これ、本当にアリーが焼いたの?」
「もちろん。実は得意料理の一つなんです」
アリーセは笑って、自分のレモンケーキを一口大に崩して口へ運ぶ。
舌の上に載せたとたんに生地がふわりとほどけ、口の中いっぱいに優しい甘酸っぱさが広がった。味付けも大成功だ。
メイドではないとバレた後も、ハイネとは良好な関係が続いている。言葉遣いも、私的な空間でのみ以前のままでいくことにしていた。
「そういえば、ハイネさんってここ長いんですよね? 殿下の好きなものとかご存じじゃありませんか?」
「うーん。そう言われても、個人的なつき合いがあるわけじゃないし。肉がお好きで肉ばかり食べていると聞いたことがあるけれど」
「肉は、確かにお好きですわね」
食事のたびに肉料理ばかり何皿もたいらげていたイグナーツを思い出し、自然と口元が緩む。
とはいえ、最近は食事を一緒にできていない。
魔湧き現象が再開されたためだ。
よってイグナーツは五日ほど前から第一城砦にて魔物の討伐にかかりきりだ。ひっきりなしに魔物が湧きつづけるせいで、ここ第二城砦に戻る余裕もないらしい。
(どうかご無事で)
聞いた話によると、イグナーツは傷を負っても大抵は聖剣の力で治ってしまうのだという。ただ瞬時に治るわけではないらしく、傷口が完全に塞がる前にいじると傷痕が残ることがあるらしい。左眼の下の傷痕は掻き癖のせいのようだ。
「あとは……カイザー・シュマーレンかしら」
「えっ?」
地方で生まれたパンケーキであるシュマーレンを、宮廷風にうんと甘くしたものだ。アリーセも子どもの頃から大好物だったが、年頃になってからは体型が気になるのであまり食べていない。砂糖をたっぷり使うのもあって少々太りやすいのだ。
「そうなのですか? こちらに来てから一度もデザートに出たことはないですけれど」
「赴任されたばかりの頃は第一城砦でも作らせていたそうよ。ただ、それを見かけた囚人兵に『お姫様』呼ばわりされてから食べなくなったんですって」
ハイネが苦笑して肩をすくめてみせる。
「まあっ、意地悪な兵士がいらっしゃったんですね」
「ちなみに言ったのはゲルトともう一人だって噂」
「ゲルトさんったら……今度怪我をなさって送られてきたら、特別に消毒を徹底して差し上げようかしら。ねえミア?」
「はい。ものすごく効くかわりにものすごくしみる消毒薬を手配いたします」
ミアがケーキを頬張りながら真顔で答えると、ハイネは大口を開けて笑った。飾らない笑い方が小気味よい。唇にレモンの皮がくっついているのはご愛敬だ。
ちなみにここ一カ月で、療養所における医療器具や薬品の在庫は潤沢になっている。
アリーセの提案で、ミアの生家であるクランツ商会と直接取引を開始したためだ。ヒルヴィスでも指折りの大商会の流通網が使えるようになったのもあり、医療関係以外でも不足しがちだったものが優先的に入荷されるようになった。レモンケーキに使ったレモンも大量の砂糖もクランツ商会経由で入手している。
「笑っといてなんだけど、もう手伝いは大丈夫よ」
ハイネが目元を指先で拭ってから言った。
「えっ?」
「いつまでも大事な奥様にそんなことさせたら、殿下に睨まれちゃうしね。それに人手もだいぶ足りてきているから」
エルケンス辺境伯領から「慰謝料」の第二陣がやってきたのはつい先日のことだ。近々、最後になる第三陣も到着予定だ。
「それとも、手伝いたかった?」
「ええ、実は。療養所のお手伝いをしていると、ヴェルマー領での生活を思い出せて落ち着くんです」
半分本当で、もう半分は少し違う。
結婚式を終えてから使用人の管理を任されるようになったが、それだけでは時間が余るのだ。時間が余れば、つい余計なことを考えてしまう。
(殿下がお戻りにならなかったらどうしよう、なんて……)
イグナーツが人柱になるのは約一年後だというが、その前に魔物との戦闘で命を落としてしまう可能性もある。聖剣による治癒力があるといっても不死ではないのだ。
ゴーン、と鐘の音が鳴り響く。
《奈落》から轟く自然音の方ではなく、時刻を告げる本物の鐘の音だ。日中のみ二時間おきに撞かれている。
ハイネが席から立ち上がった。いつの間にかレモンケーキも紅茶もきれいに平らげられている。
「ごちそうさま。本当に美味しかったわ。おかげで仕事も頑張れそう」
「またお誘いしますから、ぜひいらしてくださいね」
「もちろん。でもあんまり頻繁には呼ばないでね。舌が肥えちゃうと困るから」
そう言って、ぱちりと魅惑的な目配せ。こういう所作が似合う女性だ。
「そうそう。殿下だけれど、二、三日中にはこっちに戻ってきそうよ。昼前に送られてきた兵士の話によれば、今朝魔物の長を倒したそうだから」
「本当ですか?」
アリーセは翡翠の双眸を輝かせた。ひさしぶりにイグナーツに会える。
しかし二、三日中というのが気にかかった。前回は群れの長を倒した当日の夜には第二城砦に帰還していたはずだ。
「でもすぐには戻ってこられないということは、今回は騎士団の被害が大きかったのでしょうか」
「違う違う。前回、ハグレを出しちゃったから、魔物が残っていないかしっかり調べてから帰ることにしたんですって。だから、そんなに不安そうな顔をしないの」
ふに、とハイネに頬をつつかれる。アリーセは慌てて頬を手で押さえた。
「わ、私、顔に出てました?」
「出てましたー。こんなに可愛い新妻を心配させるなんて、殿下も罪な男ね。帰ってきたらいっぱい甘えさせてもらいなさい」
ハイネはアリーセがイグナーツに愛されていないことを知らない。
だからアリーセは作り笑顔で「ええ」と答えるだけにとどめた。