26.誤解は解けたはずです、多分(2)
緊張で鼓動が速まるのを感じながら、アリーセはイグナーツへ一歩踏み出した。
そうして理想的な線を描く頬へそっと手を伸ばす。頬に触れられた彼が不思議そうに目線をこちらへ引き戻した。
「アリー――」
名を呼ばれるよりも早く、アリーセは背伸びをして一気に顔を寄せた。
唇を重ねる。
互いのやわらかいところを接触させるだけの口づけ。全身の勇気を振り絞っても、アリーセができるのはここまでだ。
怒られたり、嫌がられたりする前に身を離そう。そう思っていたのに、アリーセが離れようとした瞬間、腰にするりと腕が回されてきた。
しっかりと腰を支えられたかと思いきや、力強く抱き寄せられる。ドレスの胸が胴着に包まれた胸板に押しつけられた。
「んっ」
重ねた唇もまた、より深く密着してくる。かと思えば離れ、また角度を変えて吸われた。そのたびに頭の奥がじんと痺れ、何も考えられなくなる。
深く愛されていると錯覚してしまいそうなほどの情熱的な口づけに翻弄されながら、アリーセは推測が確信に変わったのを感じていた。
「はぁっ……」
やがて、執拗だった唇が離れていった。
アリーセが熱に浮かされたような気分で目を開けると、目の前にイグナーツの美しい顔があった。
「あ、いや……いまのは……」
最初に仕掛けたのはアリーセの方だというのに、言い訳じみた言葉が漏れる。
蒼の双眸は熱を帯びながらも、自分の行いが信じられないとばかりに見開かれている。
(やっぱり、そうなのね)
誓いのキスを交わしたときから、薄々察していた。
アリーセは口づけの甘い余韻を押し殺し、呼吸をこっそり整えてから訊ねる。
「殿下。私の勘違いでしたらとても恥ずかしいのですが……おうかがいしたいことがありますの」
「……なんですか」
何かがバレるのをおそれるような、慎重な声が返ってきた。
イグナーツはいったい何を隠しているのだろう。アリーセはそれを暴くために口を開く。
「殿下はもしかして……キス魔でいらっしゃいますか?」
「はあ!?」
すっとんきょうな声があがった。
(あら? 違ったのかしら。絶対そうだと思ったのに)
好きでもない自分とあんなキスができるということは、きっとキスそのものが好きなのだろうと思っていたのだが。
それとも言い方が俗物的すぎて拒絶反応が出たのだろうか。表現をあらためる。
「キスがお好きなのではないですか? だから愛してもいない私と、こんな……」
その先は恥ずかしくて口にできず、上目遣いの視線でうかがう。
「ち、違います……」
と否定しつつも、イグナーツが激しく動揺しているのは丸わかりだった。
「そういうわけではなく、あれは、その……なんというか」
説明しにくいのか、それとも説明できないのか、しどろもどろだ。
それからなぜか虚空を睨みつけ、首を横に振り、耳元で叫ばれたかのように顔をしかめる。アリーセは彼が結論を出すのを辛抱強く見守った。
ややあって、
「その……………………もしかしたら、そういうところがあるかもしれません……」
苦渋の判断で認めたと言わんばかりの、不本意そうな声がしぼり出される。
「ではやはりキス魔……」
「そっちではなく! その、好きかもしれないということです……キスが」
もごもごとはっきりしないところを見るに、口ではしぶしぶ認めつつも完全には納得していないというか、まだ何か隠しているところがありそうだ。
だが、ひとまずはこれでいい。
やっとイグナーツの抱える事情が一つわかって、アリーセは晴れやかな気分だった。
「そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいのに。キスがお好きな方なんて世間にはいくらでもいらっしゃいますわ。たぶんですけれど」
「……う」
イグナーツがものすごく不本意そうに押し黙る。
なぜそんなに隠したがるのだろう。
そう考えて、もしかしたらとアリーセは思い至った。
彼ほどの美形がキス好きだと知られたら、たくさんの女性に唇を狙われかねないのではないかと。そういう事情なら隠したがるのも理解できる。
「で、す、が!」
とアリーセは語気を強めた。
事情は察せられたが、妻の立場というものもある。これだけははっきりと釘を刺しておかねばならない。
「どんなにお好きでも、誰に対してしてもいいわけではありません。殿下はもう既婚者なのですから、したいときは妻である私にだけしてくださいませ」
「……まるで俺が誰彼構わずキスしていたかのように言わないでくれますか……」
「? していらっしゃらなかったのですか?」
アリーセは首を傾げた。キスという行為自体が好きならば、多くの人と唇を交わしていて当然だと思うのだが。
イグナーツが気まずそうに唇を引き結んで視線を逃がす。返答拒否の構えだ。
ではいままではどなたとキスを?
と訊いてみたくなったが、思いとどまる。
イグナーツはいままで言い寄ってきた女性たちをことごとく突っぱねてきたと聞いている。ということは。
(まさか、男性と……?)
行為自体が好きならば、相手の性別は関係ないのかもしれない。
それに彼ほどの容姿ならば、男女関係なく惹かれる者は多いだろう。
特にゴルヴァーナに赴任したときは十六歳とまだ若く、おそらく体も現在のようにできあがっていなかったはずだ。美少女に見間違うほどの美少年だった可能性も。
(だ、ダメよ! それ以上考えては……なんだか申し訳ないし……)
アリーセは脳内でぶんぶんと頭を振る。
夫の過去の交遊関係をほじくり返すのは品のない行為だ。夫婦円満の秘訣は詮索しないことだと誰かが言っていたし、自重すべきだろう。
「とにかく、早めに殿下の性癖を知れてよかったですわ」
「言い方……」
「さきほども申し上げましたが、キスをしたいときは遠慮なくお声がけくださいませ。この唇でよろしければいつでもお貸しいたしますので」
「うう……」
イグナーツはなぜか追い詰められた顔をしていた。
***
その数分後。
イグナーツは私室の長椅子に突っ伏して打ちひしがれていた。
いったいいくつ対応を間違えたのかわからない。
誰にも顔を合わせたくないし口も聞きたくない気分だった。なのに、頭上から容赦なくイヤミの雨あられが降ってくる。
「あのさあ、君って馬鹿なの?」
「…………」
「なんでキス魔ってことにしちゃったの? 好きなのはキスじゃなくてアリーセ嬢とだってなんで言えないの? ああ、そういや彼女のことは好きなわけじゃなくて敬意とか恩義とかがあるだけなんだっけ? はあー、やっぱり馬鹿だよね?」
「………………」
自称聖剣の精霊にしつこく罵られても、イグナーツは言い返せない。ただただ、両腕に顔面を押しつけて突っ伏すのみだ。
そこへノックの音が響いた。
イグナーツがモゴモゴと返事らしきものを発すると、扉の向こう側の人物は聞こえたのか察したのか、扉を開けて入ってきた。
「……何をやってらっしゃるんです?」
てっきり執事長がやってきたのかと思いきや、声が若い。
イグナーツが顔を上げると、眼鏡越しに冷ややかな視線が向けられた。
副官のエトガルだ。
彼には第一城砦の管理を任せており、昨日第二城砦で行った結婚式の後にもすぐに職場へ戻っている。彼が私室を訪れることはめったにない。
つまり緊急性の高い事態が起きたと察し、イグナーツは起き上がる。
「別に。どうした?」
「姉から連絡が。フロレンツィア様の墓が何者かにあばかれたそうです」
「……っ!」
レンが息を呑む。
小さな手で口元を押さえるその姿は、もちろんエトガルには見えていない。
「フロレンツィア……」
わずか三歳でこの世を去った、イグナーツの双子の片割れ。
「先方はよほど追い詰められているようだな」
エトガルが目線のみで同意する中、イグナーツは遠い王都に思いを馳せた。
第三章までお読みいただきありがとうございました。
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