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25.誤解は解けたはずです、多分(1)

「アリーセ、さっきのは……」


 ハイネたち医務官・兵士連合軍が解散していった後、イグナーツが遠慮がちに、だが不本意そうな素振りを隠さずに言ってきた。

 もちろんアリーセは夫が不満を訴えてくるであろうことは想定済みだ。

(意趣返しですもの)

 するりとイグナーツの腕を解放してから、にっこりと返す。


「これに懲りましたら、あんなところで脱がすような真似はおやめくださいませ」

「あ、あれはっ……あなたがやせ我慢するからしかたなく……!」

 思わずといった様子で声を荒らげてから、彼はハッとして口元を押さえた。


「……お怒りだったんですね」

「怒りと言うほどではありませんが、仕返しはして差し上げたくなりましたわ」

「……なるほど」


 イグナーツはなぜ自分がこのような思いをすることになったのか理解したらしい。困った顔つきで左眼の下の傷痕を掻いてから、それも受け入れたように苦笑する。


「人魚の恨みはおそろしい、というわけだ」


 彼の口から「人魚」の言葉が出たのは二回目だ。

 一回目は湯殿で出会ったときで、しかも「人魚姫」と呼ばれた気がする。もっともあのときのアリーセはのぼせて記憶も曖昧なので、おぼえ違いの可能性もあるが。


「殿下は、私が人魚とあだ名されていることをご存じなのですね」


 イグナーツは年に一、二度、数日間だけ病気の母妃を見舞うため王宮に戻ることもある。アリーセの噂話を聞く機会くらいあったかもしれない。


「……ええ、まあ。あなたは有名でしたから」

「変わり者として、でしょう?」

「否定はしません。ですが」


 イグナーツはアリーセを見つめて、どこかまぶしそうに目をすがめる。


「少なくとも、あなたに救われた人々がアリーセ・ヴェルマー公爵令嬢を語るときに出す『人魚』の呼び名は、敬意と深い愛情に満ちていましたよ」

「……殿下がお聞きになったというお話、語っていらっしゃったのはバルトル公爵夫人ではありませんでしたか? 彼女とはお友達なのですけれど、私のことを大げさに褒めすぎるところがありますの」


 イグナーツはそれには答えず、はははと声をあげて笑った。

 はぐらかされた気がするが、そのあたりはお互い様だろう。


「とりあえず、意趣返しは甘んじて受け入れましょう。ただし、今後は怪我をしたときはどんなささやかなものであっても治療は受けてください」

「承知しておりますわ」


 あのときアリーセが治療を断ろうとしたのは、貴重な薬を無駄にしたくなかったからだった。だがその点は近々解決する見込みなので、今後は遠慮する必要はなくなる。


「それと」

 とイグナーツはどこか気まずそうに咳払いをする。


「彼らをたしなめてくださったことに、お礼を。城主としてはお恥ずかしい話ですが……少々手綱をさばききれなくなっているところがありましたので」

「いいえ。私こそ差し出がましいことをいたしました。みなさんとても仲が良さそうでしたのに、水を差すことになっていなければよいのですが……」

「とんでもない。最近はちょっと遠慮がなくなりすぎていたので……俺に対してだけならば流しますが、これからはあなたも関わってきますから。今後はもう少しわきまえさせることにします。まあ、もうしばらくは冷やかされそうですが……」


 肩を落としてぼやく。誤解を解く機会を失わされたのがよほど不服のようだ。

 夫の拗ねたような素振りにアリーセは思わず笑ってしまう。


「ふふ、あのくらいよろしいじゃありませんか。それに昨夜も申し上げましたが、夫人としましては夫婦仲が悪いと思われる方が困りますわ」

「それはわかっていますが……」

「でしたら、もっと仲睦まじい夫婦のふりをしていただけませんか? ……私を愛せないのなら、それで構いませんから」


 すました顔を取りつくろいつつも、胸の奥がずきりと痛んだ。

『愛されたい……くせに……』

 第一城砦で遭遇した、幻覚を見せる魔物の声が脳裏に蘇る。嫌なことを思い出してしまった。なぜいま、こんなときに。


(……平気よ。愛する人から愛されないことには、慣れているもの)


 きゅっと唇を噛みしめ、胸の奥のモヤモヤを感情ごと押し殺す。

 見れば、イグナーツもまた眉をひそめて唇を引き結び、複雑そうな顔をしている。

 彼はアリーセを愛せないと言った。

 アリーセはそれでも構わないと伝えた。

 その上で仲睦まじい夫婦のように振る舞うだけならば、何も不都合はないはずだ。


(仲が良さそうに見えると、陛下に子を期待されかねないから、かしら?)


 国王は不妊の第一王子の代わりに、イグナーツが子孫を残すことを望んでいる。それをイグナーツは頑なに拒否しているのだ。

 彼の話を聞くかぎりでは異母兄とその妃たちに遠慮しているというよりは、自身の余命の短さもあって子を残して逝かねばならないことが嫌なのだろう。

 アリーセとしては、イグナーツの意志を尊重したいと思っている。彼がアリーセに指一本触れたくないというのなら、それに従うつもりだ。だが。


「殿下」

 とつとめて優しい声を作って、呼びかける。


「殿下。私が今朝申し上げたことは本音です。殿下には、私と結婚していたときが人生でもっとも幸せだったと、そう思っていただきたいのです。ですからどうか……私の将来を気にして、意に反することをなさるのだけはおやめください」


 ぴくり、と彼の広い肩が気まずげに揺れる。

「……意に反することなど、していませんが」

「そうでしょうか? 私には殿下が、何かを必死にこらえているように見えるときがあります」

「…………」

「殿下。私はあなたの妻です。どうか私にだけは本当のことを話してくださいませんか。私は殿下の望みをなんでも叶えて差し上げたいのです」


 言葉に心を込めるように、胸に手を当てて訴える。

 そんなアリーセを見て、イグナーツがなぜか悲しげに表情を曇らせた。


「なぜですか。俺はあなたになんの見返りも与えられないのに」

「あら、殿下。ご存じありませんの? 愛とは見返りを求めぬものですわ」

「……っ」


 にこりと笑いかけると、とたんに蒼の双眸は逃げるように逸らされてしまった。ほれぼれするような美貌が苦しげに歪む。


(どうしてそんな顔をなさるの? そんなに私に愛されるのが嫌?)


 ともすれば彼の言動、表情、そのすべてに心が傷つけられてしまいそうだ。

 だがそうして傷つきそうになるたびに、アリーセは結婚式の口づけを思い出すのだ。

 少なくとも嫌っている相手とあんな情熱的なキスはできないはずだ、と。


(そう思うのだけれど……でも)


 もしかしたら、自分は大きな思い違いをしているのかもしれない。

 それを確かめるためには、大いなる勇気を奮い起こさねばならなかった。


「殿下――」

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