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23.王子様は内心複雑です(1)

 カァン、と弾かれる音がゴルヴァーナの曇天に響き、灰色の雲模様を背景に木剣がくるくると舞う。

 無手となった右手を押さえて木剣の軌道を目で追っていた兵士の首筋に、別の木剣の切っ先が突きつけられた。


「そこまで!」

 審判役の兵士の声で、イグナーツは木剣を引っ込めた。敗れた兵士がありがとうございましたと一礼し、下がっていく。


「よろしくお願いします!」

 入れ替わりにまた別の兵士が進み出て、木剣を構える。イグナーツもまた彼と向かい合って木剣を構え直した。


 第二城砦の西棟には練兵場が併設されており、負傷明けの兵士の回復訓練が行えるようになっている。

 そこでイグナーツは怪我が治ったばかりの兵士や最近エルケンス領より派遣されてきた実戦経験のない兵士の稽古につきあっていた。

 これはふだんから行っていることで、《奈落》の魔湧き現象が落ち着いている期間の日課のようなものだった。

 身も蓋もないことを言ってしまえば、人間同士の剣術稽古は《奈落》ではそこまで効果はない。

 魔物は聖剣がなければ倒せないため、基本的にイグナーツが先頭を切って魔物の群れに飛び込み、他の兵士たちは射出機で石や網を飛ばして魔物の足止めをしたり、翼の生えた魔物を弓やいしゆみで打ち落とす役割を担う。

 それでも、眼前に敵が迫ったときの冷静な判断、戦闘行為への慣れを身につけるためにはやらないよりはやった方がマシだろう。


 はじめの合図で、イグナーツは兵士と木剣を交える。

 一合、二合。

 今度の兵士は未熟で、やろうと思えば一瞬で決着をつけることはできた。

 だがそれでは彼らのためにならない。

 特に、剣を交差するだけで目をつぶってしまうような初心者には、ガンガン攻めて何度も打ち込み、慣れさせてやる必要があった。


「手を緩めるな! 目をつぶるな! 相手の動きをもっと見ろ!」

「はいっ!」


 兵士は両手で必死に木剣を握りしめ、イグナーツの攻撃に耐えている。

 攻撃したい箇所に目を向けるなとか、視線によるフェイントの話をできる段階にすら到達していない。数合わせに派遣された人員なのだろう。

 彼を情けないとは思わなかった。

 自分がここへ赴任してきたときを思い出せば、とてもそんなことは言えない。

 当時のイグナーツは剣をきれいに扱えるだけの、実戦経験のない臆病な騎士未満だった。どう見ても歴戦の騎士なのに司祭として派遣されてきたヘンドリックに出会い、鍛えてもらえたおかげでいまの自分がある。


「――そこまで」

 打ち合いに耐え続けた結果、手の握力を失った兵士が木剣を取り落としたところで、審判役は勝負がついたとみなしたようだった。

 イグナーツはそれから数人の兵士に稽古をつけてやり、少し息が上がってきたところで切り上げた。タオルで軽く汗を拭いながら練兵場を後にする。

 第二城砦の廊下を足早に歩いていると、レンが浮遊しながら追いかけてきた。


「何をそんなに苛々しているのさ?」

「別に苛々などしていないが」


 邪魔になったタオルを通りすがりの使用人に洗濯へ回すように言って押しつける。

 使用人はかしこまりましたと一礼し、虚空に浮かぶレンの下半身をすり抜けるようにして去っていった。


「嘘だね。いつもの君だったら、あの程度の稽古で息が上がるわけがないし。ぼくの目はごまかされないんだからね?」

「……今日は曇っているからな。調子が出ないだけだ」

「ここの天気がよかったことなんてめったにないしかないじゃないか。朝食だっていつもほど食べてなかったし」

「あれは……妙に見つめられて食べにくかっただけだ」


 今日の朝食でのことを思い浮かべると、胃の奥がずんと重くなった。

 アリーセの寝室を出たイグナーツが自室で身支度を整え、朝食の時間に食堂広間へ行くと、そこにはいつもとなんら変わりのない新妻の姿があった。

 むしろ初めて一緒に朝食をとったときよりもずっとくつろいだ様子で、ほがらかな表情でときおり他愛のない話題を振ったり、声をあげて笑ったりしてみせた。

 イグナーツはひどい気まずさを感じていたというのに。

 レンが横を併走するように飛びながら半眼を向けてくる。


「彼女をふったこと後悔してるんでしょ。それで自分にイラついているんだ」

「……そんなことはない。必要なことだった」


 本音だった。微塵も後悔などしていない。

 イグナーツは一年後に《奈落》へ沈み、人柱とならねばならない。

 つまり、いずれアリーセは夫が命を落とすのを見送らねばならないのだ。

 彼女のようなうら若い令嬢にとって――いや若くも令嬢でなくとも同じだろう。伴侶との永遠の別れに彼女が悲しまないよう、無力感をおぼえることのないよう、そして引きずることのないように。そのためにイグナーツができることは何か。

 考えた結果、自分への恋心を失わせることだと結論づけた。

 だから早めにその気持ちを捨てられるよう、愛せないと突き放した。

 きっと傷つけただろう。泣かせたかもしれない。

 そう思っていただけに、朝食での彼女の態度には大いに困惑させられた。


(女性は気持ちを切り換えるのが早いと聞いたことはあるが、それにしても早かったな……いや、決してさびしくなどはないが)


 そもそもこの短期間で彼女に好意を寄せられたこと自体が想定外だ。

 少なくとも出会いは最悪だったはずだ。イグナーツはともかくとして、アリーセにとっては。


(いつ好かれたんだ? まあ、そこは重要ではないか……)


「何をニヤけているのさ?」

 からかうような指摘に、イグナーツはぐっと渋面になる。


「ニヤけてなどいない」

「告白されて嬉しかったくせに。なのになーんでふっちゃうかなあ。せっかく両思いになれたのに」

「両思い? おまえは何を言っているんだ?」


 イグナーツは本気で何を言われているのかわからなかった。

 レンが戸惑う。


「え? だって、彼女は君の初恋の相手じゃ……」

「違うが?」

「……君のことだからそういう面倒くさいことを言いそうな気はしてたけどさ。それじゃ聞くけど、恋じゃないっていうならこの五年間抱えてきた激重げきおも感情は何だったわけ?」


 そうだな、とイグナーツは前方の何もない虚空を眺めて思考をまとめる。


「恩人への感謝と敬意だな。それとほんの少し、共犯意識もあるか」

「うわ面倒くさ」


 レンに一蹴されても、イグナーツは気にしなかった。


(それに彼女はあのとき、振り向かせたい人がいると言っていた)


 当時彼女は既にエルケンス辺境伯の息子と婚約していると風の噂で聞いていたから、その相手はたぶんファビアンだったのだろう。そして婚約者のいる女性に横恋慕するなど、イグナーツにとってはあり得ないことだった。

 だからあのとき抱いた感情は恋ではない。はずだ。


 とはいえ、すべては過ぎたこと。

 アリーセは今朝二人の間で起きたことなどおくびにも出さず、平然と、快活に振る舞ってくれている。彼女の侍女以外は勘づきもしなかっただろう。

 できた女性だ。彼女ならば城砦の女主人を立派につとめてくれるだろう。


 そんなことを考えながら歩いていたイグナーツは、前方からあらわれた人々に目を留め、足を止めた。

 医務官のハイネを先頭に、他の医務官と助手、そして怪我の治っていない兵士たちが集団をなしている。みな一様に、何かを決意したかのような、それでいてわずかな怒りをはらんだ空気を漂わせている。異様な光景だった。

 ハイネがイグナーツの前で足を止めて一礼すると、他の者もそれに倣った。


「何事だ?」

「僭越ながら、殿下におうかがいしたいことがございます」


 ここがよくある城ならば、医務官が城主に問いかけるのは憚られただろう。

 だがイグナーツは城砦をより機能的に運営するために、知識や経験のある者たちの意見を積極的に取り入れてきており、進言も助言も諫言も許している。

 だからイグナーツは眉をひそめはしつつも受け入れた。


「なんだ?」

「ヴェルマー公爵令嬢と密かに結婚式を挙げられたというのは本当でしょうか?」


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