2、呪われた皇子
(金魚のフンではなく鴨の親子ときたか。余りに可愛らしい図が頭をよぎったので笑ってしまったよ。危ない危ない。しかし――)
痛いくらいに突き刺さってくる視線の針。
ジルベールの声が思いのほか通ってしまい、会場中の視線が一手に引き寄せられたのだ。実に鬱陶しい。ただ美しさを称えているだけならば許そうが、罵詈雑言が付随されては不愉快以外の何物でもない。たとえそれが己以外へ向けられたものだとしてもだ。
いや、己以外だからこそ余計に不快だと言えよう。
ベル様可哀想。なぜあのような粗暴なものが第二皇子なのだ。いくら皇帝一族と婚姻関係を結べると言ってもあれでは。オルレシアン家は恐ろしい。――耳障りな忍声が嫌でも聞こえてくる。
他人の事情など放っておけばいいものを。
レティシアは早々に会場を脱したい気持ちに駆られた。しかし当のジルベールは素知らぬ顔でくるくるとワイングラスを傾けている。
(他人の評価に興味がないのか。慣れているのか。慣れているとするならば、捻くれた性格になるのも仕方あるまい。そういえば、彼は――)
「呪われた皇子め」
誰かが言った。その瞬間、ジルベールの顔が怒りに歪む。彼は手に持っていたグラスを乱暴にテーブルへ置くと無言で出口に向かって行った。
真っ白なクロスの上に赤黒い染みが広がる。
「ジルベール様」
「気分を害した。俺はもう行く。キミは好きに楽しんでいればいい」
「どこへ?」
「女性には決して楽しめぬところだよ。俺の評判を聞いていれば自ずと推測は出来るはずだ。それでももし連れて行けと言うのなら、連れて行ってやらないことも――」
レティシアは迷いなく彼の腕を掴んだ。
「おい、まさかと思うが……」
渡りに船とはまさにこの事。
娼館通いという噂の真偽も気になっていたところだ。くだらないパーティーから抜け出せて、なおかつ疑問も解消できる。これに乗らない手はない。
顔を引きつらせるジルベールとは反対に、レティシアは瞳を輝かせて更に強く彼の腕を握った。逃がさんぞ、と言わんばかりに。
* * * * * * *
女性には決して楽しめない場所だと念を押されていたので、どんなものかと身構えていたレティシアだったが――。
(なんだここは! 天国じゃないか!)
彼女は今、とても興奮していた。
薄暗いが落ち着いた店内、ふかふかのソファ、美味しい果物、更には両脇に座った美しい女性たちが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるというオプション付き。
これを天国と言わずして何と言おう。ハレルヤ。これは入り浸っても仕方がない。わかる。わかるぞ。抗いがたし――と、レティシアは口元に寄せられた葡萄にかぶりついた。
瑞々しいすっきりとした甘さが口の中に広がる。
にこにこと笑って金髪碧眼の美女――アリーシャを見ると、周囲から黄色い悲鳴が上がった。可愛い、次は私、ベル様、愛らしい、沸き起こる賛美の数々に悪い気はしない。
愛おしそうに頭や頬を撫でられながら、柔らかい胸に包まれて、でろでろに甘やかされる。実に甘美なる経験だ。
ジルベールの妻になれば大手を振ってこの場へ付いていける。最高じゃないか。もはや娼館通いは美点の一つかもしれない。
「……なんなんだキミは」
アリーシャを挟んで向こう側に、不機嫌そうに足を組んだジルベールが座っている。
彼は傍に侍る妖艶な美女たちには指一本触れようとはせず、退屈そうに店内の様子を確認しているようだった。
顔が見えないよう、壁と植物で遮られたスペース。
遠くの方では談笑する声が聞こえてくるので客はいるらしい。時折、手を取り合った男女が店の奥へ消えていくので、そういう店として機能はしているのだろう。
ただ多くの客は会話と食事を楽しむだけに留めているようだった。
店内は掃除も行き届いており非常に綺麗。全体的にアダルティな雰囲気はあるものの爛れた不健全さはない。色々乱れた場所だと予想していたが、良い意味で裏切られた。客層も悪くない。
「しかし、どうしてベル・プペー様のような方がこのような場所へ?」
「俺の婚約者だとさ。今日紹介された」
「ベル様がジルベール様の婚約者!?」
大袈裟なくらい驚いて、アリーシャはレティシアとジルベールを交互に見やった。周りの女性たちも皆、驚愕と不安が混ざりあった表情をしている。
察するに、夫となる人物が他の女に現を抜かしていないか心配でついてきた健気な婚約者、という風に映っているのだろう。
実際はジルベール以上にこの店を楽しみつくしているのだが、人形のように儚げな容姿のおかげで勝手に良い方向へ解釈してくれる。
さすがはベル・プペー。何とも便利である。
「ベル様、ご安心くださいましね? ジルベール様はこの店の子に手を出したことは一度も――」
「おい、余計な事を言うな。どうせすぐこんな婚約など破棄だ。オルレシアンの人形姫がわざわざ俺などに嫁ぐ理由がない。それとも、どこかと結託して俺を始末して来いとでも言われたか?」
ジルベールは立ち上がるとレティシアの顎を掴んでじいと瞳を覗いた。その奥にある思惑を探ろうとするように、疑念に満ちた紅の瞳がゆらりと揺れる。
吸い込まれてしまいそうだ。
わずかな光源だけが支配する薄暗い室内であっても、その目だけは高貴なほどに煌々と輝いている。
(ああ、本当に美しい瞳だ)
レティシアはうっとりと目を細めた。





