10、実に愛い!
「さて、話の続きだよ、旦那様。さしあたって私に願うことはあるか?」
何があろうと絶対にこの男を手放す気はない。レティシアは最後の一押しと言わんばかりにジルベールの顎をくすぐるように優しく撫でる。
「なんでも良い。君が欲しいもの、してほしい事、包み隠さず私に伝えてほしい。私はそのすべてに応えよう」
「す、べて……」
うっとりと熱に浮かされた表情。
羞恥に拒む理性などとっくに溶けて消えてしまっていた。人の目があることすら、今のジルベールは忘れてしまっているかもしれない。それほどまでにただレティシアだけを映す紅色の瞳。
彼は「……て、ほしい」とか細い声で呟いた。
「うん?」
「あ、たま、を、撫でてほしい……んだ」
レティシアの手を取り頬に寄せた。
「ずっと、褒めて、欲しかったんだ。一度でいいから、良い子だって……頭を、撫でて……、ここにいて良いと、生きていて良いと、言ってほしかった……」
ぞくり、と背筋が震える気がした。
(ああ、たまらないのはこちらの方だ)
「……実にいじらしくて、可愛らしいお願いだな」
愛らしいベル・プペー、可憐な君を守ってあげたい、そんな口説き文句を投げかけてきた男共なら何人もいた。彼女の返事は決まって微笑んでのスルーだったが。
何重にも猫を被り続けた虚像まみれの人形姫。
本当は可愛らしさの欠片もなければ、守ってほしいなどと思った事もない。むしろ守ってやりたいほど愛らしい男の方が好みである。
しかし、ベル・プペーの名前が独り歩きしている中、すべてを剥ぎ取った中身ごと好意を向けてくれる旦那様に出会えるとは到底思えなかった。ならば誰であろうと一緒。少しずつ溶かして墜としてやろうと考えていたが、まさかこんな逸材と巡り合えるとは。
甘えるのではなく、むしろ縋るようなジルベールの表情に、庇護欲が天井を突き抜けて空の果てまで達しそうである。
(何だこの感覚は。これがトキメキと言うのならば、ああ、そうだ、私はたまらなく彼が愛おしい!)
レティシアはジルベールの頭を掻き抱くと、彼の望むがままに頭を撫でた。
「良い子だよ、君は。とっても良い子だ。今までよく頑張ってきた。これからその辛さも、苦しさも、ちゃんと私に分けてくれ。それが夫婦というものだろう?」
「レティ、シア……」
「だからもう、婚約破棄などと軽々しく口にしないでくれよ。私はもう、生涯あなたを守り通すと決めたのだからね」
「……し、ない。絶対に、しない、から……俺を、ずっと、キミの傍に置いてくれ」
「愛らしいな、旦那様。これからは蕩けるほど私の愛に溺れてくれ」
耳元で囁けば、ささやかに後ろへ回されていた手が抱きしめ返すようにぎゅっと力強くなる。そのように縋りついてこなくとも、離れていく気など毛頭ないのだが。よしよしと旦那様を愛でながらレティシアは無頼漢の一人に微笑みかけた。
ヒィ、と短い悲鳴があちらこちらから聞こえたが、気にする彼女ではない。
「というわけだ。私はこれより旦那様を可愛がってやるという使命がある。無駄なことに時間を浪費するわけにはいかないのでね、ちゃっちゃと終わらせよう」
「ま、待ってくれ! 俺たちはもう抵抗できん! これ以上何をするつもりだ!?」
「案ずるな。オルレシアン家に送るだけだ。今回の件については父の追及があるだろうが、素直に吐く事をオススメするよ。父は私よりは寛大だ。もちろん、良い子に限るがね」
このまま帝国の警備隊に連れ去られ、上からの圧力でうやむやにされてはかなわない。ならば父に任せるのが一番であろう。黒幕に辿り着けるとは思えないが、数滴の情報くらいは搾り取れるはずだ。
火のない所に煙は立たない。オルレシアン家が国を裏から牛耳っているという噂は根拠あってのもの。
最近水面下できな臭い動きを感じる、どう情報を仕入れるか、と言っていた父だ。よろこんで食いついてくるだろう。
ジルベールと引き合わせてくれた恩人に、感謝くらいは返そう――レティシアはパチン、と指を鳴らした。すると人数分の氷竜が地面から生えてきた。それらは男たちの前まで首を伸ばすと、飲み込まんばかりに大きな口を開く。
「ああ、あの、レティシア様、我々をどのようにお送りいただく、のでしょう……?」
「ははは! 分かりきった質問だな! 正に愚問!」
氷の竜がもう一匹。レティシアの背後に姿を現した。彼には連絡係になってもらうとしよう。記録を魔力に変換して氷竜に書き込む、とでも言えばいいのだろうか。対象者が氷竜に触れると術が発動し、伝聞内容が直接脳へと流れる仕組みになっている。
さて、準備は整った。
レティシアはまるで天使のような微笑みを携えて、彼らに告げる。
「直接、だよ」
氷竜たちは男たちにかぶりつき、彼らを咥えたまま順序良く外へ飛び出していく。遠ざかっていく悲鳴。店内にはレティシアの高笑いが響き渡った。
「さて、行こうか。旦那様」
魔力で筋力をアップさせたレティシアは、悠々とジルベールを横抱きにする。
目的地は店の奥にある部屋だ。
店の利用者同士でも使用して良いかとアリーシャに尋ねたところ、無言でこくりと頷かれたので許可は得たと思っている。
別に取って食おうとしているわけではない。
キャパシティオーバーの愛情に腰が抜けてしまったジルベールを休ませてやりたいだけだ。だけだというのに、何を勘違いしているのか、ジルベール本人は発熱しているのではと疑うほど顔を赤くして照れに照れている。
「そう怯えなくていい」
「お、怯えているわけではない! ただ、その……俺は確かにこの店に入り浸ってはいるが、け、経験は、なくて、だな。……優しくしてもらえると、嬉しい……というか、その……」
ふい、と顔を逸らされる。
可愛い。可愛すぎるぞ。余りの愛おしさに感情のバロメーターが一瞬で振り切れそうになる。しかし感情が高ぶるとつい真顔になってしまうのがレティシア・オルレシアン。はた目からは冷静沈着に微笑みかけている風にしか見えない。
実は頭の中では理性と欲望が壮絶な殴り合いをしているのだが、誰一人として気付いた者はいないだろう。
当然ジルベールも含めて、である。
「レ、レティシア……?」
「そんな顔をするな。初日からがっつきはせんよ。今日はただ、君をたんまり甘やかせたいだけだ。それには個室の方が都合がいいだろう? なぁ、旦那様?」
「……何もしない、のか?」
「ああ。甘やかすだけだよ。期待に満ちた顔をしてもらえるのは嬉しいがね」
「――ッ! い、いや、これは!」
「実に愛いな。ではすまないが少し部屋を借りるよ」
僅差で理性に軍配が上がったらしい。
お人形のような可憐な佇まいで、大の男を軽々と抱えて歩き出すベル・プペー。その表情は慈愛に満ち溢れていた。
* * * * * * *
「ジルベール様の婚約者があのベル・プペー様だと知って最初は本当に驚きましたが、まったくもって問題なさそうですね。羨ましいわ。……ジルベール様が」
「アリ姉に完全同意なんだけど」
奥の部屋に消えていった二人を、アリーシャとラウラはただ茫然と見守った。





