箱庭の庭の子
ピー……カシャッ
「ただいま、母さん」
「あらお帰り、早かったのね」
「まぁね。あ、食べるものなんかある?」
「ごめんね、いま残り物しかなくて……」
「あ、じゃあそれでいいよ。一応外で食べてきたんだけど足りんくて」
カシャッ
「ウマい」
「そう?ありがと」
「うん。ダシ?がいいのかなぁ? 母さんの作る料理、めちゃくちゃウマいのばっかりよね」
「ふふ」
カシャッ
「すごい、タケノコ尽くしだ」
「今週もう4個もタケノコ貰っちゃって……。悪いんだけど、ちょっと消費するの手伝ってね」
「うん。母さんの料理なら何個でもいける。任せて」
「そう?しんどかったら言って頂戴ね」
「おっけー」
カシャッ
「お母さん、仕事の打ち合わせ行ってくるから。食べたら水付けておいてね」
「んー。いってら~。頑張ってねー」
カシャッ
「お、洗っといてくれたんだ。お茶も沸かしてある! ありがとう、助かる~」
「ほっほっほ」
カシャッ
「あら? 今日なんか元気ない?」
「ん?そんなことないけど……」
「そう? 悩みがあったら相談しなさいね。お母さんいつでも味方だから」
「ん。ありがとう」
カシャッ
「それでね、才能の差とか感じるというかさ……」
「なるほどねぇ。自信なくしちゃったわけだ」
「そう……。なんだろ、努力が足りないのかな……」
「うーん、頑張ってると思うけどなぁ」
「んー……。じゃあやっぱり才能?」
「才能……う~ん。飲み込み早いし、才能が無いようには思わないけどねぇ……」
「うえぇ~、じゃあ何が違うんだよ……」
「なんだと思う?」
「……わかんない。暫く考えてみる」
カシャッ
ピー……ガガガ……
『本日の計測が終了しました。皆さん、お持ちの端末で獲得ポイントを確認してください。本日のスクラップは一件。E23地区に住む……』
毎日の告知放送が流れた。
よし。
今日も一日うまくこなせた。
自室のベッドで端末を確認しながら一息つく。
これであの女とも良好な関係を構築してるように見えるだろう。
俺たちはこの狭い世界の中で、「理想」の人間を演じて生きなければならない。
偽りの人生を送っている。
家族ごっこ、友達ごっこ、社員ごっこ。
相手の言葉が本心か、演技か。それを考えることすら馬鹿馬鹿しい。
皆が生き残るためだけに、他人に都合のいい人格を演じている。
手を抜くことはできない。
理想の人間から大きく外れた日には、残酷に、残虐に、ズタズタに、殺される。
管理者の手下たちがやってきて処分場でズタズタにされる。
かつて処分場の「音」だけを管理者に聞かされた。
思い出したくもない、聞くに堪えないものだった。
骨、肉、皮、そして声帯が震えて響く。カノンのようにゆっくりと混じり合い分からなくなって、しまいには静かになる……。
恐ろしい音。
他者とのコミュニケーションはすべて監視され、モニターの向こう側にいる監視者たちが採点を行う。
手を抜くことは、出来ない。
コンコン
控え目なノックの音が響いた。
あの女とは、告知放送以降は互いに接触しないことにしているが……。何かあったのだろうか。
「どうしたの、母さん」
「えっと……。久しぶり」
ドアを開けると、そこに立っていたのは母役の女ではなく、昔恋人だった女だった。
「美咲……」
カシャ
「どうしてここに……」
「その、おばさんに聞いたら部屋にいるって……」
「いや、そうじゃなくて……」
今更どうしたのだろう。
まずい。元カノがいきなり部屋に来たときの正解が分からん。
恋人ってのは理想を演じる難易度が高いわりにリターンが無い。会うたびに心臓を握られているようだったから別れたというのに……。
「ちょっと……嫌なことがあってね。頼れそうなのがあなただけで……。ご、ごめん。急に来られたら嫌だよね! やっぱ帰るね!」
かっ、考える時間をくれないのか!?
「いや、せっかく来てくれたんだ。話くらい聞くよ」
咄嗟に腕を掴んで引き留めた。
いや、引き留めてしまった。
大丈夫だろうか。理想の元カレは話を聞くものだろうか。
もし話を聞いてこの人を傷つけてしまったら、明日死ぬのは自分かもしれない。逆に明日死ぬのは美咲かもしれない。
ここのシステムは心まで読まれる訳じゃ無い。嘘はつける。喧嘩もしていい。むしろ上手く喧嘩した方がいいとも聞く。が、分からない。いい喧嘩ってなんだ!?
どうすれば切り抜けられる?
いや、むしろこれは美咲の策略の可能性もある。振られた腹いせに俺に復讐をしに来たのか。難しいシチュエーションに持ち込めば、こちらが勝手に自爆する可能性もある。手を汚さずに人を殺せる。
そして、死から逃れるために残された選択肢は一つしかない。
美咲の欲求を満たすことだ。
と、いうことはだ。
引き留めてしまった時点で美咲の手のひらの上。
言葉か、体か、それとも別の何かか!?
金を求めてくることは間違いなくない。それは理想的とは言えない。リスクが高すぎる。
理想的なシチュエーションを演出しながら、真に欲しいものを手に入れようとしている……?
いや、考えすぎだろうか。
「とりあえずお茶入れてくるから。散らかってるけど適当に座っといて」
「うん……。ありがと……」
部屋を出て真っ先に母のもとへと向かう。
カシャッ
都合のいいときだけ頼るようで心苦しいが、背に腹は代えられない。泣きはらした顔で家に来た女にはどう接するべきか。自分より長く理想の女性を演じてきたあの人なら、何かヒントをくれるかもしれない。
「か、母さん……」
「あら、顔色が悪いわね? お話、うまくいってないの?」
「いや……。その、どう話したらいいか分かんなくて」
「そうねぇ……」
母は顎に手をあてて唸る。その間にコップを二つ用意して麦茶を注ぐ。
「2人に昔なにがあったかお母さんは分からないけど……、んん~、やっぱり話を聞いてあげるのが一番じゃないかしら?」
「なるほど……」
「いい?陽介は優しいから何か言ってあげたくなるだろうけど、ぐっと我慢して今日は聞き役に徹する。これが大事よ!」
「うん……。わかった。ありがとう」
カシャッ
方針が決まった。
麦茶ののったお盆をもって、部屋へと戻る。
人間は、お腹が空いてると怒りやすいとも聞く。
パンを幾つか一緒に持ってきた。
「ついでにパン持ってきたけど、食う?」
「大丈夫だよ」
「そうか。せっかく持ってきたんだけど……」
ここで変に癇癪を起されると胃が持たない。出来ることなら小腹を満たして落ち着かせてから話をしたいが……。
まぁ、いいか。
カシャッ
「ふふ。陽くんは変わらないね」
「そうか? 結構成長したと思うんだけど……」
「うん。そういうとこも、昔のまんま……」
そういうとこ……。わからん。
「あれから陽君、彼女はできた?」
作るわけがない。生き残るためには、恋人をつくるのは危険すぎる。
けど、正直に答えすぎるのもダメだよな……。どう嘘をつくのがいいか……。
なんて答えてほしいんだ。なんでそんなこと聞くんだ……。
あ、そのまま聞くのがいいのか?
「なんでそんなことを聞くんだ?」
聞いた瞬間、しまったと思った。
空気が凍る感覚がした。美咲は一瞬顎を引いて言葉を飲み込み、顔を伏せた。
長く感じる数秒の沈黙の中で、美咲の長いまつげが揺れる。肩までの黒い髪が顔に影を作る。白いうなじが見える。Tシャツの襟の隙間に下着の肩ひもが見える。
儚げな横顔は美しい毒だ。これ以上視界に入れるのはまずい。こちらの思考を乱して何も考えられなくする。
何を話すべきか、何をするべきか。何が正しいのか何が悪いのか。
思考するという、人間の武器を捨てた者が次々と殺されていく世界で。
この毒は善悪の区別すら俺から奪ってしまう。
目を奪われるのをグッとこらえて、自分の足元に視線を落とす。
「その、別れたのは1年以上も前なんだ。今更うちに来るなんて、何かあったのかと思って……」
「何かないと来ちゃダメなの?」
「……」
ダメだ。心臓に悪い。締め付けられる。生唾が止まらない。言葉に出来ない欲求が沸き上がってくる。
なんで今更。
生きるためには必要ないだろう……。
再び、数秒の沈黙に包み込まれた。
「ごめん、意地悪な言い方だったよね」
「いや、俺の方こそ」
「……」
もう一度、沈黙……。
気まずい……。何をどう話せばいいのか分からん。
「あはは、なんでこんなに気まずいんだろうね! 別に喧嘩別れしたわけじゃないのにね!」
「……」
う~ん。
どうしてこう、答えにくいことばっかり聞くんだろうか。
覚悟を決めるときが来たんだろうか。それとも、自分のことばかりで、本気で向き合ってなかったつけが回ってきたのか。「死んでも美咲を愛そう」だなんて、美談めいたことを言えなかった俺に罰が下ろうと言うのか。
どちらにせよ……。
この現状を「理想的」な展開で切り抜けなければ、明日死ぬのは俺かもしれない。
それだけだ。
美咲は質問を返してきた。ということはだ。
何かを知りたがっている。何かをきっかけに抱いた悩みを、解決したいと思っている。ように見える。
つまり俺がすべきことは、出来る限りの本音を、真摯に伝えること……なのかもしれない。
グッと息をのんで、腹をくくって話す。
「……あのとき美咲に別れようって言ったのは、別に嫌いになったからじゃない。むしろ逆だ。この世界で、自分を殺して偽ってばかりだった俺にとって、美咲はとても輝いて見えていた。この人と生きていたい。この人を支えたい。幸せにしたい。幸せになりたい。そう思っていた。でも、君は綺麗すぎた。辛いとき、悩んでるときにかけてくれる言葉が。楽しいときに縦に跳ねながら歩いてるところが。物憂げな横顔が。笑顔が。それと、言いにくいんだけど……。スタイルがいいのに、やけに無防備なところとか……。強烈に、俺を虜にした。そうして、君のために尽くして、自分が自分じゃなくなって、何も考えられなくなってくうちに、俺はこの世界の恐怖を思い出した。君に都合のいいだけの存在が、理想の恋人ではないと思った。それは依存に近い。だから距離を取った。俺は……。俺は、死んでも美咲を愛すると、言い切ることが出来なかった。……ごめん」
……どうだろうか?
横を見ると、美咲は驚いた顔をしてこっちを見ていた。
話過ぎたか?たしかに母さんに話を聞いてやれって言われてたけど……。
失敗だっただろうか……。
分からない。
ただ、こっちを見つめてくる瞳に吸い込まれそうになる。綺麗な目をしている。
「そんなふうに思ってたんだ……」
そんなふうにってどんな風にだっけ?
あれ、俺なに話したっけ……。
「わたしもね、同じこと考えてたよ。わたし、あんまり頭よくないから、ここの上手な生き方とか分かんなくて……。陽くんは頭もいいし、みんなを褒めたり、まとめるのも上手で……。話してて元気になるっていうか、この人と一緒なら、ここでも幸せになれるかもって思って……。こんな世界じゃさ、誰か本気で話せて、好きになれる人がいないとやってられないし……。あ、でも、利用しようとかそういうんじゃなくって……。あれ、なんていうんだろ?分かんなくなってきちゃった。ただ、陽くんにとって理想の恋人にならなきゃって思いすぎだったのかな。別れるときも、引き留めるのは理想じゃないと思っちゃって、何も言えなかったし……。えっと、だからね。好き同士の演技じゃなくて、本当に……。そう……」
そこまで言って、美咲は俯いた。
部屋を包んでいた空気が和らいでいくのを感じる。
あぁ、でもやっぱ胸が見えそうで思考が……。
えーっと、何てかえせば……。
何か、何かいい言葉はないか?
ここでロマンチックな言葉を返せば、きっといいムードになる。
でも、それは違う。
いや、違うのか?傷ついたことがあって、慰めてほしくて来たのなら?さみしさを埋めるのは本当に間違いか?
いや、これは自分にとって都合がいい妄想にすぎない。
相手の弱みに漬け込んだよくない流れの気がする。
思考が乱される。視界に入ってくる柔肌が、柔らかくて丸みのあるラインが、しっとりと儚げで、陰のある、整った顔が。
だめだ。やっぱりこの世界でこの人と一緒にいることは無理だ。
限界だ。
自分の中で押さえてきた、欲求が。
でもダメだ。美咲は傷ついてここに来ている。
必要としているのはきっと肉体じゃない。
と、思う。
何があったのかまだ聞けていない。聞いたほうがいいのか? それとも、すべてを忘れて……。
いや、やはり多少わだかまりを残したとしても、話を聞いたら今日はおとなしく帰ってもらうのがいいだろう。
美咲の方に体を向け、ちゃんと目を見てコミュニケーションを取る。
「美咲……」
美咲も、真摯な気持ちが通じたのか改まった雰囲気でこちらを見つめる。
「陽くん……」
目をうっすらと閉じ始めた美咲……。
神秘的な何かが宿っている。
いや、そうじゃないんだ、美咲。
いいムードにしたかったわけじゃなくて!
あぁ、でもダメだこれは。
抗えない。
頭の中がぐるぐるしている。
ガ、ガガガ、ガガガガ……
「え、なに?」
突然、監視の音とは違う、ノイズの混じった音が鳴り響いた。
ムードは台無し。
だが、助かった……のか?
分からない。
ガー、ガガガ、ガシュッ
『なっ!? セキュリティは……ガガガ……』
放送の向こう側が聞こえてくる。
今までこんなことは無かった。
なんだ。何が起こっている?!
次に、ドオンと大きな音が、いくつも外から聞こえた。
「なに!? なに!?」
美咲は布団をかぶって混乱している。
まずは現状の把握だ。
窓を開けて外を見た。
箱庭が壊れている。
空を映していた天井が崩壊している。
いつも使っていた商店街の上に、ダクダクと瓦礫が降り注いでいる。
「逃げるぞ!」
美咲の腕をつかんで外へ。
「逃げるって、どこに!?」
「わからん!とにかく外だ!このままここにいたら潰されるぞ!?」
「潰れるってなに!? なにが起こってるの!?」
「わからん! とにかく俺がお前を守る! 来い!」
部屋の外に飛び出すと母役の女がいた。
助けるか一瞬逡巡する。
が、悩むくらいなら助ける!
「逃げるぞ! 母さん!」
「に、逃げるってどこに!?」
「とりあえず外だ! 箱庭の天井が崩壊してる! ここにいたら潰される!」
「待って!」
母がグッと俺の腕をつかんで立ち止まる。
「冷静になりなさい。外に出ても、箱庭の中に天井が無い場所なんてない。つまり、どこへ逃げても壁にあたる。最後には潰されるわ」
「なっ、じゃ、じゃあどうする!」
「だから落ち着くの。大丈夫よ。箱庭に建てられた家には地下があるでしょう。そこに食料と水も貯めてある。天井の崩壊も管理者は予期していたのよ。そこに逃げましょう。美咲ちゃんもいいわね」
美咲はコクコクと頷いた。
俺も異論はない。冷静なつもりだったが、かなり興奮していたらしい。
3人で地下室へ向かいながら、俺は少しずつ冷静さを取り戻す。
大丈夫。崩壊はまだここまで来ていない。
なんてことは無かった。
天井が嫌な音を立てる。
落ちてきた空と一緒に瓦礫が降り注ぐ。
俺たち三人を押しつぶそうと迫りくる。
咄嗟に反応できたのは母さんだけだった。
「陽介!」
「母さん!」
思い切り背中を押された。
体を捻って、母さんの手を取ろうとした。
一瞬だけ目が合う。
「母さん!?」
空気を手繰り寄せる。限界まで指を伸ばして、そして。
俺の手は届かなかった。
「母さん! 母さん!」
「走って!陽介!」
思い切り腕を引かれる。
「まだだ! まだ母さんが!」
「いいから走れ!」
「離せ! まだ助けられるかもしれないだろ!」
「無理よ! 周りを見て!」
思い切り頬を叩かれた。
少しだけ頭が現実に引き戻された。
周りを見回す。
破片、瓦礫、砂埃、砂利、
家を構成していたいくつもの物質が、完全に今来た道を塞いでいる。
地面は揺れ続けている。
遠くで轟音が響く。
2人がいる場所は奇跡的にまだ倒壊していないだけ。
地下室への道は……。
私は、いい母親になれただろうか……。
理想の母親を、演じきれただろうか……。
昔は、もっとよそよそしかった。
形だけの家族ごっこに悲しみを抱き、死と隣り合わせの環境に絶望を抱き、愛に飢え、それでも表面を取り繕いながら暮らしていた。
私の役割は母親。
ある日家に届けられた子供の世話を、理想的な形で実行する。
初めての子育てを完璧にこなせる親はいない、
こちらの理想を押し付けてもいけない。自由を与えすぎてもいけない。道を示し導き、ときには突き放し自立を促す。
口で言うのは簡単で、実行するのは……。
難しいどころではない。
そんなものは不可能に近い。
人間の数だけ正解と、人間の数より途方もなく多い数の不正解があった。
その場では不正解でも、時が経ち、子供が成長することで正解に成ることもある。
その逆もしかり。その場では正解でも、子が大きくなったときそれが間違いだったと気づくこともある。
同時に生活を成り立たせる必要もあった。
栄養バランスには気を使い、好き嫌いなく食べてくれるよう工夫を凝らし、他人に自慢したくなるような理想的な料理。
いちいち作業が繰り返しで、面白みがなく、面倒な、掃除と洗濯。
情報を集め、手と足をこれでもかと動かして買い出しに。
理想を追わなければならない環境下では、神経質にならざるを得なかった。
その苛立ちは子育てに影響を及ぼす。
私の人生は、常に戦いだった。自分との闘い。世界との闘い。
辛く、苦しい日々だった。
本当に、本当に……。
私の子は、私の産んだ子ではなかった。
はじめて陽介を胸に抱いたとき、震えが止まらなかった。
私が失敗すれば、この子は死ぬ。
私もろとも。
この子の本当の母親の知らないところで。
赤ん坊の可愛さに絆されるなんてことは無かった。
ただ、死ぬ未来を避けるため。
そして。
ピーマン、嫌いなのに頑張って食べてた。
とっても音痴だったのに、こっそり練習してた。
選ぶ服のセンスが微妙だった。
好きな子に意地悪しちゃって、後悔してた。
そんな、あなたの悪いところをみるとなぜかしら。
とても愛おしく思えた。
本当なら嫌いになってしまうはずの、欠点を。
それに抗って、より良い自分であろうとするあなたの強さにも。
完璧ではない。
理想とはまだほど遠い。
そんなあなたを、私は……。
届けなくては。
死ぬのが怖いはずだったのに。
子を恨んでいたはずだったのに。
あの土壇場で、押し迫る天井に、潰されそうなわが子を見て。
背中を押してしまった。
わが子が、死ぬのが嫌だった。
聞いて。届いて。
私の、最後の……。
「あな……た、は……」
瓦礫の下敷きになったせいで、声に力が入らない。
奇跡的に体が原型をとどめている。下半身は潰れている、と思う。感覚がない。
両腕もちっとも動かない。あと少しで、きっと死ぬ。分かる。
口が動かない。
それでも、ぼそぼそとでも。
形にしなければ。
脳から引きずり出して、世界に取り出さなくては、想いは伝わらない。
聞こえてないかもしれない。
だけど。言わせて。
「あなたは……自分の、悪いところを……、なお、そう、と、戦ってた……。他人を……傷つけまいと……距離、を、とっては、じぶ、んが、傷ついた……。どんな欠点があろうと……理想じゃ、なくっても……、あなたは、私の誇りよ……、おかあ、さん、あなたを、救い、だせなかっ、た……。ごめんね」
そして、そしてあなたを
「あ………て…」
箱庭は崩壊した。
倫理に反する実験だとして、秘密裏に行われていたものが摘発され、解体された。
中に住んでいた人のほとんどが、政府によって保護され、最低限の保証を受けて外で生活することになった。
研究者たちは捕まるか、抵抗したものはその場で処刑された。
母は死んだ。
瓦礫の山の中から助け出されたのは俺と美咲だけだった。
あの後、なんとか地下室までたどり着き2日待ち続け、その後救助された。
そのあとも休む暇なく動かされた。
そもそも戸籍が全くない人間が大量に溢れ出したのだ。
まともに生活できる環境になるまで1年かかった。
不幸中の幸いというべきか、箱庭で育った人たちは若干世間の常識と齟齬があるものの能力の高い者ばかりだったので、就職には困らなかった。
今は皆、それぞれの居場所で、それぞれの役割を果たしている。
そうそう、美咲とは一緒に暮らすことにした。
結婚するかはまだ分からないが、もう死に怯えなくてもいいのだ。
何も考えず、ただ好きってだけ。一緒にいるにはそれだけで充分な気がする。
美咲も同じだと言ってくれた。
心残りは、母のことだ。
遺体を、自分で埋葬することが出来なかった。
政府も、当事者である俺たちも、新しい生活のことで手が回らず瓦礫の撤去が遅れた。
そのため下敷きとなった遺体の損傷は激しく、ひとまとめにされた後に集団墓地に埋葬された。
箱庭の中で家族ごっこだなんだと言っていたが、結局は俺も母さんも家族だったのだと思う。
遺言を聞くことは叶わなかったが、最後に背中を押してくれた感触は覚えている。言葉などなくても、あの一瞬に、母さんが何を想ってくれたのか想像がつく。
これからは、肩ひじ張らずに、誰かを愛しながら生きていこうとおもう。
2か月前に書いたものの、字数制限で応募できなかった作品です。人生で4作目にあたります(たぶん)
SNSの発達による相互監視がテーマです。
他人の評価など気にせず自分らしく生きたいものですが、イイネの数をついつい気にしてしまいます。
監視者の皆さま、よかったら評価、感想ください。励みになります。